第36話 訪問者
インターホンが鳴ったのは、夕焼けが死にきる、ほんの少し前だった。
オレンジでも藍でもない、どちらともつかない色が、窓のガラスにうっすらと貼りついていて、
世界が次の頁へとめくられる合図みたいに、静かに光をひそめていた。
僕はリビングで、スマホを手に握ったまま、ソファに体を預けていた。
画面は黒いまま。通知も既読も、沈黙も、変わらない。
その何もなさが、妙に心地よくて、少しだけ残酷だった。
「……ちょっと。玄関、来てるみたいよ?」
キッチンの奥から、母の声。
濡れた洗濯物の香りと一緒に、現実が僕の耳を撫でた。
ゆっくりと、立ち上がる。
胸の内側で、嫌な予感と、小さな希望が、同じ毛布の下で眠っていた。
そして、ドアを開けると──
そこに、美穂がいた。
「……こんばんは」
その声は、壊れかけたブランコの鎖みたいに、わずかに軋んでいた。
制服じゃなかった。白いパーカー、擦れたデニム。
髪は耳にかけられ、ノーメイクのまなざしだけが、いつもより澄んで見えた。
「ごめんね、急に。……ちょっとだけ、話せる?」
僕は、言葉の代わりに頷いた。
たぶん、喉の奥のなにかが震えて、声にならなかっただけだ。
母は、僕たちの動きを一瞥しただけで、何も言わずに身を引いた。
まるで、昔からこの光景を知っていたかのように。
気配の消し方に、母親という生き物の哀しさと優しさが滲んでいた。
美穂は、僕の部屋の椅子にちょこんと腰かけた。
僕はベッドの端に沈む。
そこには、ほんの少しの距離と、あまりにも多くの沈黙が横たわっていた。
「……あのとき」
ぽつりと、美穂の声が零れる。
「本当に、ありがとう」
その言葉は、包帯みたいだった。
まだ血の滲む場所に、やさしく巻かれていく感触。
「私、何もできなかった。あんなに我慢してたのに。ずっと……怖くて」
声が震えていた。
指先は膝の上で、まるで自分の心臓を押さえつけるように、ぎゅっと握られていた。
「でも、あんたが……怒ってくれたから。拳を振ってくれたから。
……私、ちょっとだけ、助かった気がしたんだよ」
言葉が喉の奥でつまる。
言ったら壊れそうなものばかりだった。
「怒ってる……? 連絡、返せなくて」
僕は、首を横に振った。
それだけで、今の僕の全部だった。
「返したら、崩れそうだったんだ。私の中のなにかが」
「……でも、来てくれて嬉しかった」
ようやく出てきたその一言が、
自分でも驚くくらい、正直だった。
美穂は、少しだけ笑った。
泣く直前の笑顔って、どうしてこんなに美しいんだろう。
彼女は立ち上がると、ゆっくりと僕の隣に腰を下ろした。
肩と肩が、少しだけ触れた。
その熱が、僕の鼓動と呼応する。
「……ねえ」
「うん」
「触れても、いい?」
それは、許しを求める声でも、欲を吐く声でもなかった。
ただ、誰かと世界を分け合いたいだけの、小さな確認だった。
僕は、頷いた。
そして、彼女の唇が、そっと、僕の唇に重なった。
甘くない。
でも、涙が出そうなほど、優しいキスだった。
数秒。
でも、時間の粒が止まったみたいだった。
唇が離れても、何も言わなかった。
言葉はただ、空気を乱すだけだった。
僕たちは、肩を寄せ合ったまま、夜に包まれていた。
窓の外の空は、もう完全に闇に沈んでいた。
でも、その夜だけは、僕の中でずっと灯っている気がする。
——たとえ、この先、何が起きようと。
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