第25話 噂の熱度

月曜日の朝。

教室の扉を開けた瞬間、何かが違うと感じた。


ほんの一瞬、時間が止まるみたいに空気が固まる。

それは、数秒も経たないうちに、何事もなかったように流れていったけれど——

そのわずかな沈黙が、やけに引っかかった。


「おはよ」


何気なく声をかける。


奈々が、ほんの少しだけ言葉を選ぶように目を伏せた。


「……美穂、さっき聞いたんだけどさ」


探るような、けれど、確信めいた響きを帯びた声だった。


「なに?」


「……坂口先輩と、付き合ってるって噂になってるよ」


——は?


言葉の意味を理解するまで、数秒かかった。


「何それ?」


冗談だと思った。

でも、奈々の顔は真剣だった。


しかも、それが誰かの軽い思いつきとか、単なる憶測とか、そんなものじゃないことも分かった。


「朝、教室に来たら、もうその話で持ちきりで……」


奈々は言いにくそうに視線を落とす。


「しかもさ……坂口先輩、否定しなかったって」


——何?


「誰かが、『坂口先輩、美穂と付き合ってるって本当ですか?』って聞いたんだって」


「……で?」


「そしたら、『別に、否定する必要もないでしょ』って笑ってたらしいよ」


一瞬、息が詰まった。


(——冗談でしょ?)


全く知らないところで、勝手に名前を出され、勝手に関係を作られ、勝手に「事実」にされる。


——ふざけてる。


「……なんで?」


思わず声が低くなる。


「さあ……でも、なんかみんな信じちゃってるよ」


奈々の言葉が遠くで響く。


私の知らないところで、坂口拓実が、私の名前を許可なく使った。


それが、どうしようもなく不愉快だった。

寒気にも似た、ざらつくような違和感が、背中を這い上がる。


でも、それと同時に。


完全には否定しきれない自分がいることに、私は気づいてしまった。


——坂口拓実って、どんな人なんだろう?


そんなこと、今まで考えたこともなかったのに。


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水曜日の放課後


スマホの画面を見つめながら、指を滑らせる。


——「今どこ?」


送信して数秒後、既読がついた。


「校門で待ってる」


(よかった。早く帰ろう。)


軽く息をついて、バッグの肩紐を掴む。


席を立とうとした瞬間——


「橘」


背後から、名前を呼ばれる。

その声の主を、振り向くまでもなく知っていた。


一瞬、時間が止まる。


——今、ここで?


「……何?」


声の温度を落とす。

興味なんてない、という色を滲ませるように。


坂口拓実。

教室の入り口に立っている。


長身。黒髪。

整いすぎた顔。

無造作に見せかけた、計算された気だるげな目元。


「話があるんだけど」


「今、急いでるの」


「すぐに終わるよ」


私は、一瞬だけ迷う。


——坂口が、私と話したい?


それが、どんな内容であれ。

聞いてしまえば、もう後戻りはできない。


(——知るべき?)


「……でも、帰らなきゃいけないから」


足を向ける。

教室を出る。


後ろから何か言われるかと思ったけれど、坂口は何も言わなかった。


校門に着くと、智也がスマホをいじっていた。


「お待たせ」


「……ん? どうした?」


足が止まる。

答えなきゃ、と思う。

でも、うまく言葉にならない。


私は、そのまま歩き出した。


智也が、それ以上何も聞かなかったのが、妙に心地よかった。

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