第22話 ずっとこっち見てたね

 日が落ちるのが早くなった。

教室の窓に映る夕焼けは、鈍く朱を帯び、ゆっくりと群青に溶け込んでいく。

黒板には、かすれたチョークの文字が薄く残り、消し切れなかった授業の名残が、空気の奥に滲んでいた。


僕と、片瀬しかいない教室。


「まだいたの?」


片瀬の声が、静寂をゆるやかに押し広げる。

僕はノートを閉じ、机に肘をつきながら、何気ないふりで視線を上げた。


「ちょっと、復習してました」


「真面目ね」


教卓の上で教材を整えながら、片瀬は何気なく髪をかき上げる。

その仕草が、目に焼きつく。


指の間をすり抜ける髪、なめらかに揺れる光の反射。

たったそれだけの動作なのに、妙に息が詰まる。


ふと、視線をそらした。


くすっと、小さな笑い声が落ちる。


「ずっと、こっち見てたね」


冗談めいた口調なのに、その一言が思いのほか鋭くて、逃げ道を塞がれたような気がした。

僕は、適当な言い訳を探す。

でも、どんな言葉も無意味に思えて、喉の奥でつかえる。


片瀬が、ほんのわずかに身を乗り出す。

距離が、曖昧になる。


メガネ越しの瞳が、僕を覗き込む。

光の加減でレンズがわずかに反射し、彼女の表情が微かに揺れる。


「授業中も、ずっと」


——息を飲んだ。


「……すみません」


どうにか声を絞り出す。

それが、自分でも驚くほどぎこちなく響いた。


片瀬は、小さく微笑んだ。


「ふふ」


その笑みが、思っていたよりずっと柔らかい。

境界線が、一瞬だけ緩む。


この人は、本当はどんな顔をするんだろう。


僕の知らない場所で。

僕の知らない時間の中で。


片瀬は、黒板を振り返る。


「授業、難しかった?」


「いえ……先生の話が面白かったので」


誤魔化すように言った。

けれど、その言葉の端に、微かな本音が滲んでいた。


「そう?」


片瀬の目元が、ほんのわずかに緩む。


「じゃあ、次の授業も楽しみにしててね」


声の温度が、少しだけ優しすぎる気がした。

言葉の選び方が、僕のどこかをそっと撫でていく。


僕は、何も返せずに、その横顔を見つめた。


片瀬は、荷物を手に持ち、立ち上がる。


「そろそろ帰らないとね」


僕も、ようやく腰を上げた。


「じゃあ、また」


片瀬が軽く手を振る。


教室の扉が開く。

夕焼けが、彼女のシルエットをくっきりと縁取った。

光の向こうへ、ゆっくりと消えていく。


僕は、その背中を目で追ったまま、動けなかった。


教室には、僕ひとりが取り残される。


静寂が、妙に深く感じる。

鼓動が、いつもよりも強く響いている。


何だったんだ、今のは。

僕は、何を期待していた?


教師と生徒。

それ以上の意味なんて、あるはずがない。


——なのに。


「ずっとこっち見てたね」


 片瀬の声が、耳の奥に残っていた。

やけに生々しく、こびりついていた。

なぜか、消えてくれなかった。


この感覚は、何なんだ?


僕は、ノートを開くふりをして、乱れた思考をなだめようとする。


けれど、鉛筆を握る指先が、わずかに震えていた。

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