第4話 僕だけが知っていること
その朝の光は、やけに透き通っていた。
窓から差し込む陽射しが、教室の床を斜めに染めている。春と夏の狭間にある、どこか頼りなく揺れる光。カーテンが風に揺れるたび、光と影の境界が曖昧になる。
片瀬とすれ違ったのは、そんな午前のことだった。
職員室へと続く長い廊下。向こうから歩いてくる彼女を見つけた瞬間、僕の心臓はひどくゆっくりと動いた。
息を吸う。
片瀬美緒——
誰もが、彼女をただの教師だと思っている。
でも、僕だけは知っていた。
僕だけが知っている片瀬のことを、一つずつ思い出す。
——グレーのロングスカートに、白いシャツ。
——美術館の展示の前で、ふと足を止めた横顔。
——「パスタが美味しいのよ」と、メニューを指先でなぞるしぐさ。
教師がそんなふうに振る舞っていいのか、と誰かに問われたら、僕はなんと答えるだろう。
いや、教師とか生徒とか、そんな役割の前に、僕はただ、彼女の仕草を美しいと思う。
片瀬が僕に気づいた。
廊下の真ん中で、互いの距離が縮まる。僕の目は、片瀬の瞳をとらえた。
彼女も、ほんの一瞬だけ僕を見た。
その一秒にも満たない時間のなかで、僕の意識はすべて彼女に向けられる。
なのに、僕の隣を歩いていた杉山は、何の気配も感じなかったらしい。
「おい、高梨、片瀬ってやっぱ怖いよな」
彼の声で、僕はようやく我に返った。
「……そうか?」
「だってさ、あの目。怒られたら終わる感じじゃん」
杉山が言う「片瀬美緒」は、職員室で赤ペンを握りしめ、淡々と課題を添削する教師だった。
生徒に気を許さず、感情を表に出さない女。
他の生徒が抱くイメージも、きっとそうだろう。
でも、それは違う。
僕だけが知っている。
僕だけが、彼女の目がどんなふうに笑うのかを知っている。
僕だけが、彼女の爪がうっすらとピンク色に染められていることを知っている。
僕だけが、彼女がパスタを食べながら指先をそっと顎に添える癖を知っている。
僕だけが、知っている——
その事実が、微かな優越感となって、胸の奥でふくらんでいく。
僕は歩きながら、自分の唇がほのかに笑っていることに気づいた。
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