揺れる海の向こう

浅野じゅんぺい

揺れる海の向こう

1. プーケットへのフライト


春休み、僕たちはプーケット行きのフライトに乗り込んだ。

飛行機が滑走路を離れ、重力から解き放たれる瞬間、無限に広がる雲海が僕らを包み込んだ。その景色に心を奪われながらも、隣のマミは無表情で窓の外を見つめていた。


「楽しみ?」

僕が尋ねると、彼女はわずかに笑みを浮かべたが、その目はどこか遠くを見ているようだった。


ジョージはスマホをいじりながら、気づかないふりをしている。僕とマミの間には、見えない壁があった。

その瞬間、胸の奥が痛む。


「この旅行、僕がいない方がよかったんじゃないか?」


その思いが胸を締め付け、心がざわついた。

けれど、心の中でつぶやく。

「この旅が、何かを変えてくれるかもしれない。」

祈るように、ただそう願った。


━━━


2. 波の中へ


プーケットに到着し、僕たちはボートに乗り込んだ。海は驚くほど青く、陽射しの強さにも関わらず、潮風が肌を優しく撫でる。


「すごい綺麗……」

マミが呟いたその声には、どこか儚げな響きがあった。僕は驚き、彼女を見つめた。


「でしょ?実は、この場所、僕が選んだんだ。」


その言葉に、マミは目を見開き、驚いたように僕を見た。


「アキが?」


「うん。だって、マミが海を好きだって言ってたから。」


一瞬、彼女の顔が曇ったように感じた。何かを言いたげだったが、結局、言葉にはしなかった。そして、目線を外し、遠くの海に向けた。


その時、横でジョージがスマホをポケットにしまい、マミをちらっと見た。その視線を、僕は見逃さなかった。


突然、ボートが激しく揺れた。


「なに!?」


スクリューが珊瑚に絡まり、ボートが傾いた。慌てた叫び声が飛び交う。


「危ない!掴まれ!」


ジョージの叫び声が響いたその瞬間──

マミの体がバランスを崩し、海へと投げ出された。


━━━


3. 冷たい海


「マミ!!」


無我夢中で海に飛び込んだ。冷たい海水が体を包み込み、目の前が歪む。必死に手を伸ばしても、波は僕たちを引き離そうとする。


「マミ!」


水面に顔を出した彼女は、恐怖に引きつった表情で必死に泳ごうとしていた。だが、その動きは乱れていて、溺れる寸前だった。


そのとき──


ズキッ!


足に鋭い痛みが走る。珊瑚の破片だ。血がじわじわと広がり、視界が赤く染まる。


それでも、僕は諦めなかった。


「大丈夫だから!」


必死で彼女の腕を掴み、ボートの方へと泳ぎ続けた。しかし、波は容赦なく僕を押し戻す。

次の瞬間、ジョージが海へ飛び込んできた。


「おい、こっちだ!」


彼の声が妙に遠く響いた。


──僕は、彼女を助けたかった。だけど、この気持ちは、僕だけじゃないのかもしれない。


━━━


4. 船上の静寂


「おい、しっかりしろ!」


ジョージの声が響き、ようやく僕たちは船上に引き上げられた。息を切らしながら、僕はマミの顔を見つめた。

彼女の瞳には、驚きと不安が入り混じり、そして──


「バカ……なんでそんな無茶するの……」


震える手で、僕の頬を触れながら、彼女はつぶやいた。


「……守りたかったから。」


その言葉に、僕の胸が痛んだ。マミの目が潤み、涙がこぼれそうになった。しかし、次の瞬間、彼女の視線はジョージに向けられた。


ジョージも、じっと彼女を見つめていた。


「なんでだよ……」


胸の奥で、切実な思いがこみ上げる。僕が命がけで助けたのに、どうして——。

その沈黙が、さらに胸を締め付けた。


━━━


5. 凍てつく瞬間


夜、プーケットのビーチ。波の音が静かに響き、心を凍らせるような冷たさが漂っている。


マミがふと口を開いた。


「ずっと、ジョージのことが心に引っかかってたの。」


ジョージは黙って目を伏せ、僕も言葉を失った。


「……一度だけの浮気だったの?」


マミの声が震えている。

ジョージは少し間をおいてから、無理に笑った。


「当たり前だろ。」


その言葉は、僕の耳に空虚に響いた。

マミは目を伏せ、指で砂をなぞりながら続けた。


「ジョージが私を好きじゃなくなったらどうしようって、ずっと不安だった。だから、ちょっと意地悪をしてみたのかもしれない。」


僕は命がけで彼女を助けた。だが、彼女が本当に求めていたのは──


「今日のアキは、すごくカッコよかった。でも……」


彼女が微かに笑い、ジョージを見つめる。


「本当に助けてほしかったのは、ジョージだったのかもしれない。」


僕の胸が、ぎゅっと締め付けられた。

──心が、凍りついた。

波の音が、痛いほど静かに響いていた。


━━━


6. 旅の終わり


翌朝、僕たちは帰国のフライトに乗り込んだ。滑走路を離れる瞬間、飛行機が少しだけ揺れ、僕は無意識にその揺れを感じ取った。まるで、地面から切り離されたように、僕たちはこれからどこに向かうのかもわからないまま、空の彼方へと浮かんでいく。


隣で眠るマミの顔が、穏やかに微笑んでいるのが見えた。その微笑みは、まるで遠い夢を見ているように、手の届かない場所に消えそうな儚さを感じさせた。


ジョージは相変わらず窓の外を見つめ、何も言わずに黙っている。その表情には、何かを背負い込んだような重さがあったけれど、僕にはその意味がわからない。ただ、彼の目が遠くを見つめていることが、僕の心を少しだけ痛ませた。


飛行機が空を舞い上がるにつれ、僕はその不安定さを感じていた。この旅が僕たちに何をもたらしたのか、それはまだわからない。それどころか、これから先、僕たちがどうしていくのかも見当がつかない。


マミがふと目を覚まし、僕に穏やかな視線を送った。その瞬間、彼女の目の中に微かな寂しさが宿っているように見えた。


「ありがとう、アキ。」


その言葉は、まるで過去の自分に向けられた別れのように響いた。僕はうなずいたが、その言葉に何も返せなかった。ありがとう、という言葉には、何かを終わらせる力があるように思えて、それが怖かった。


ジョージは、未だに何かを考えている様子で、ただ静かにその目を閉じていた。僕はその姿を見て、胸の中で何かが溶けていくような感覚を覚えた。けれど、それが何なのか、どうしてそんな気持ちになるのかは、わからなかった。


飛行機が安定した速度に達し、外の空がどこまでも広がっていった。昨日までいた場所が、ゆっくりと遠ざかっていく。それは確かに現実だったけれど、僕の心にはその現実がどこか実感できないまま漂っていた。


僕たちの旅は、もう終わってしまったのだろうか。いや、もっと言えば、最初から終わっていたのかもしれない。何もかもがすでに過ぎ去った後のような感覚に包まれていた。


外の空は、ただ青く広がっていた。その青さが、僕の心にどこか冷たく染み渡り、目を閉じたまま、ただその広がりに身を任せるしかなかった。


僕は、ただ静かに息を吐いた。


──どこかで、何かが変わったのかもしれない。けれど、その変化が何だったのかは、きっと永遠にわからないままだろう。


エンジンの音が、心の中でひとつひとつの感情を洗い流していく。僕たちの関係も、心の中で少しずつ形を変えながら、また別の何かに向かって進んでいくのだろうか。そんなことを考えているうちに、飛行機はさらに高く、遠くへと進んでいった。


外の空は、ただ青く広がっていた。



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揺れる海の向こう 浅野じゅんぺい @junpeynovel

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