第2話
まだ辿り着いたばかりの最上様は、そうそうに湯に浸かる事はないだろうが、それでもいつでも楽しめるように準備しておかなければ。
昨日までお泊りしていた別の神様は、湯の中に獣の毛を浮かべる方だったので、掃除が追い付かなかったのだ。
なんとか湯は入れ替えて、露天だけなら使えない事はないのだが、周りの洗い場はまだ手付かずのまま。
大きなブラシを抱えて私はゴシゴシと洗い場をこすり始める。
最上様は意外と派手な物ではなく、質の良い抑え目な物がお好きだ。
なので香りも常に香る白檀ではなく、ほのかに香る伽羅であるなど、薬湯も最上様のお好みを浮かべていた。
「いたっ」
ズテンと滑って尻もちを打ってしまった。
濡れた床に裸足で、仕事用の着物の裾を巻き上げて働いていたのだが、滑ったせいで体中が濡れてしまった。
自分のドジ加減に落ち込んでしまったが、ともかく作業を終わらせようとブラシを抱えてブンと後ろを振り返る。
そして、私は停止する。
「え?」
「ん?」
わいた湯気が見せた幻だろうか?
私の目の前で、優雅に突き出されたブラシに手をかけるその方は……え?
「……最上様?」
「働き者で感心だな、この子狐は」
「……ひぃっ!」
驚き過ぎた私は、その場で大きく飛び上がり、そして再びスッテンと床に転んだ。
そして、転んだ拍子に勢いよく頭を打って、目の前に星を散らしながら、私は意識を失った。
◇◇◇◇◇
ほこほこと温かさに包まれて、私は心地よさで目を覚ます。
チャプチャプと聞こえる水の音。
そして、何かに抱きしめられて私は……。
「きゃああああっ!」
「こら、落ち着け子狐」
私は裸で誰かに抱きしめられて湯の中に浸かっていた。
そう、私を抱きしめるその人が、とっさに暴れた私を軽々と抑え込む。
「ほら大人しくしていなさい。ケガは治してやったから、もう少しこのままで」
「ひぃぃっ! 最上様!」
「よしよし、お前は本当に昔から元気だね」
クスクスと私の頭の上で声がする。
濡れた服は、遥かかなたの洗い場にまとめられていた。
やはり、どう考えても今の私は裸体のまま、最上様に背後から抱きすくめられていた。
薬湯の色が濃く、湯の中までは見えなくても、互いの裸が触れあっている感触に顔が赤面する。
ましてや最上様は、私をギュッと抱きしめて離さない。
「あっ、あの離して下さいまし」
「おや、以前はよく姿を見せてくれたのに、最近は隠れてばかりで寂しかったのだが」
それは私が粗相ばかりするからと、姉様たちに裏方に回されていたから。
そんな事も知らず、私にまでお優しい最上様は耳元で甘く鈴の音の様に囁いてくる。
「昔はよく膝の上に乗ってくれたものだが」
「そっ、それは子狐の頃でございます」
「可愛いお前は、私に金平糖を分けてくれた」
「子供の戯れでございます……お許しを」
「許す? 私は嬉しかったんだよ? あれからここに来るのは、子狐の元気な姿を見る為なんだが」
せめて肌の密着を逃そうと、あがいて藻掻いて引き離そうとしても、ガッシリとした腕はビクリともしない。
「せっかく昔の様に抱っこしてあげているのに、どうしてこの子は暴れるのだろうね」
私はもう恥ずかしさの限界で、無礼を承知で叫びをあげた。
「もう年頃でございます! このようなご無体はおやめくださいまし!」
「あはははっ」
なんとか身を離して貰えたものの、素肌のままでは湯から出る事はかなわず。
緑の湯で肌を隠して距離をとる。けれど湯けむりに浮かぶ麗しき顔はこちらを見つめて逸らさない。
「赤くなって湯あたりでもしたか? どうれ私が抱いて運んでやろう」
伸びてくる手から逃げるように、ザブリと後ろに後ずさり必死で私は懇願した。
「後生でございます。どうか後ろを向いて下さるか、せめて目を瞑って下さいまし」
「おやおや、気にせずとも良いものを」
「私は気にします。どうかこのまま狐汁に茹で上がる前に、乙女としてここを去らせて頂きたいのです」
「ふふっ、わかったよ。私が虐め過ぎたようだ……さあ、お行き」
スッと長いまつ毛を伏せて目を閉じた最上様に手を合わせ、私は急いで洗い場にある服の元まで走り込む。
素早く服を手に取って、もう一度だけ振り返ると、最上様が湯の中から肩を出したまま、こちらを向いて目を瞑っている姿が見えた。
改めて私はペコリと頭を下げて、体を隠して外に飛び出した。
だから私は気づかなかった。
「あの子狐は本当に可愛いなぁ……。神である私が目を瞑ったとて見通す事は簡単なのに」
さも嬉し気に今度こそ肩までつかり、ホウッと寛ぐ最上様の言葉など耳に入る事もなく。
ともかく私は今起こった事をなかったかのように、必死で私室に飛び込み、早鐘を打つ心の音を止めようと深呼吸した。
幼き頃より私たちがお慕いしていた最上様。
今も変わらぬお姿は、幼子の目にも眩しくて。
童の私たちは子狐のままに、庭で姉様たちと遊び惚けては最上様に笑われた。
その笑顔が嬉しくて、私たちは最上様が来るたびに懐いたものだ。
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