鈍色の街

上田 由紀

鈍色の街

彼が住んでいた街を通り過ぎる。

ハンドルを握る手が強ばる。

もう、二度と来ることはないと思っていた。

来たくもなかった。だが、どうしても外せない用事があったため、仕方なかった。


スッキリとした秋晴れだ。

それなのに車窓から見える街は、どこかボヤけて久美の目に映る。湖に沈んだ街、とでも表現したらいいのか。それは恐らく、もうここに彼、和也がいないから以前とは違って見えるのかもしれない。

街が色彩を失い、行き交う車さえもモノクロに見える。和也がいないだけで、街全体が灰色のベールを被せたみたいに霞んで見えた。

どんどん気持ちが沈んでいく。



もう少しで和也に会えると、胸を震わせながら車を走らせていたあの感情が蘇る。

吹雪の日の悪路で、フロントガラスに降りしきる雪で前方が見えにくくても、道路が凍結した日でも、必死になって運転した。

それなのに、もう和也はいない。

付き合い始めてから2年後に、和也は関東方面に転勤になった。その後、音信不通になった。

理由は分からない。だから、生死さえ分からない。

そんな状態から、もう3年経過した。

久美の中で中途半端なあやふやな感情が、ずっと渦巻いている。



和也がかつて住んでいた、2階建てのアパートが見えてきた。

懐かしさが一挙に込み上げてくる。

思わず、アパートの前で車を停めた。

以前と変わらぬ佇まいだ。1階の右から3番目の部屋から、今にも和也がドアを開けて出てくるのではないかと思えた。

思い出が瞬く間に溢れ出す。

何回、ここに来ただろう。

取り戻したくても、もう取り戻せない時間。


初めて和也の部屋に招かれた日のことは、よく覚えている。少し緊張し、ドキドキしながら部屋に入った。

和也は壊れ物でも扱うみたいに優しく久美に接し、2人は抱き合った。

その後、しばし横になり余韻に浸っていた。

再び和也が唇を重ねてくると、ギュッと久美を抱き締めてきた。


「愛してる。こんなに愛した人は、今までいなかった。久美が初めてだよ。愛してる、愛してる……」


和也の言葉は、久美の心を激しく揺さぶった。

声音には真実味が溢れていた。

これほど情熱的に告白されたことは、今までなかった。

きっと、和也は宿命の人。そう信じることができた。

宿命の人にやっと巡り会えた。今まで生きてきて良かったと、久美はしみじみそう思った。

その日は、生涯忘れ得ぬ日となった。


和也のために何かしたいと思った久美は、週に何度か夕食を準備するようになった。元々、料理は苦手だったが、和也のためなら頑張ることができた。

どの料理も美味しそうに食べる和也を見ているだけで、久美は幸せだった。


転勤になっても、毎月最低でも1回は会いに来ると約束してくれた。

だけど、その約束が守られることはなかった……。


私達は、心底愛し合っていたはず。

愛し合うことは、なんて素晴らしいんだろうと思っていた。それなのに、何て、儚いんだろう。

恋愛の幸せは継続しないもの、壊れやすいものだということに改めて気づかされた。


(イヤ、もしかしたら、私達が愛し合っていたのは、フィクション? または幻だったのだろうか?  愛だと思っていたものは、和也のその場限りの演技だったのかしら?)


いずれにしろ、それでも久美は今でも和也を愛している。

もう会えなくても、ただ元気でいてくれたら、ただ生きていてくれたら、それだけでいいとさえ思う。

和也への愛は自分が生きてるいる限り、胸の奥に有り続けるだろう。


だが、そろそろ恋を葬る時期に来ているのかもしれない。

そろそろ、和也への執着を解き放たなければ、前に進めない。


(和也を忘れるわけじゃない。いつまでも囚われていると、自分が苦しくなるだけだから)


久美はハンドルに顔を伏せたまま、ひとしきり泣いた。一旦ハンカチで涙を拭っても、止めどなく溢れてくる。


(さようなら、和也。ずっと愛してる。もう会えなくても、私がこの世を去るまで愛してる。だから、どうか元気でいて、お願い……)


和也の笑顔が目蓋に浮かんだ。

久美の名を呼ぶ彼の声が、耳元に蘇る。


「愛してる、愛してるわ……」


和也の幻影が、いつまでも久美を捕らえて離れなかった。


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