第2話――「熊野寮にて」

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『あの日、僕はこじまこ推しになった』改訂版第2話(登場人物及び人物相関図)

https://kakuyomu.jp/users/happy-isl/news/16818792438370695299

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 春の午後、東大路通りから路地を曲がると、熊野寮の古びた外壁が現れた。雨に晒されて色を落としたベージュのモルタル、その隙間に入り込んだ苔が、時間を積み重ねた建物の呼吸のように見える。近くの自転車置き場では、錆びたチェーンが風に揺れ、かすかな金属音を鳴らしていた。


 玄関をくぐった瞬間、鼻をくすぐったのは油と木の匂いだった。何十年も使われてきた廊下の板は、人の足跡で艶を帯び、ところどころに沈み込む。壁には学生が描いた落書きや政治集会のポスターが重なり、インクの色が薄れながらも、奇妙に鮮やかだった。


 案内役の先輩が階段を上るたび、段板がきしむ。その音に混じって、遠くの部屋からギターの和音や笑い声、鍋をかき混ぜる金属音が流れてくる。ここは大学の寮でありながら、ひとつの小さな街のようだと思った。


 4人部屋の扉を開けると、こもった空気がゆっくり押し出され、鼻腔にほのかな洗剤と古い布団の匂いが混じった。奥の壁際に2段ベッドが2つ、上下の寝台が向かい合うように配置され、その間には幅の狭い机と、互い違いに置かれた椅子。窓際には段ボールが山積みになり、ひとつは開きっぱなしで、衣類と漫画本が溢れていた。


 「おー、新入生か。よろしく」

 ベッドの上段から顔を出したのは、髪を後ろで束ねた二十歳そこそこの先輩。笑顔と一緒に差し出された手は、少し油と紙の匂いがして、厚い掌が妙に頼もしかった。


 荷物を置き、割り当てられた下段のベッドに腰を下ろすと、スプリングが軋む。薄いマット越しに木枠の硬さが伝わってきて、これから始まる寮生活の現実感を増した。


 


 ◇ ◇ ◇


 


 荷解きを半分ほど終えた頃、部屋の外から賑やかな声が聞こえてきた。廊下の向こうで誰かが笑い、ビールの栓を抜く乾いた音が響く。熊野寮特有の解放感——規律よりも人間の匂いが濃く漂う空気に、胸が少し高鳴った。


 「ちょっと見てこよう」

 誰にともなく呟き、ドアを開けた瞬間、温度が変わった。廊下は外気のひんやりとした流れをわずかに含み、その奥の一室からは、別の種類の熱が滲み出ていた。


 扉が半開きになったままの部屋。隙間から漏れる蛍光灯の光は、古びた床に淡く広がっている。何気なく視線を送ったその瞬間、時間がきしむように遅くなった。


 部屋の片隅——背の高い若い男が、35歳くらいの美しい女性と抱き合っていた。彼の手は彼女の背に深く回り、指先が布越しに肩甲骨をなぞる。二人の顔は近く、唇と唇が触れたかと思うと、柔らかく押しつけられた。


 女の髪からは、微かに甘く熟れた果実のような香りが漂ってくる気がした。光沢のあるブラウスの背中がわずかに動き、その度に布が擦れる乾いた音が、異様に鮮明に耳に届く。


 こちらが立ち尽くしていることに気づいたのは、彼女のほうが先だった。唇が離れ、わずかに息を整えるように口元が開く。その瞬間、彼女の視線が僕を射抜いた。動揺の色と、かすかな笑みが混じっている。


 足音を殺して部屋から離れたが、胸の奥では心拍が早鐘を打っていた。あれは彼の叔母か伯母だろう——そんな理屈を付けたところで、見てしまった事実は消えない。


 


 ◇ ◇ ◇


 


 夕方6時。廊下はしんと静まり返り、食堂のほうからは遠くで皿の触れ合う音と笑い声が微かに漏れてくるだけだった。僕は机に向かい、教科書を開いたまま、文字が頭に入らないでいた。


 コンコン、と短くノック。

 「入ってもいい?」


 ドアを開けたのは、昼間、あの光景の中にいた女性だった。栗色の髪を後ろでゆるくまとめ、薄いベージュのコートの前を軽く合わせている。視線が合った瞬間、昼間の記憶が鮮やかに蘇る。


 「さっきのこと……誰にも言わないでくれる?」

 そう言って一歩、部屋に入ってきた。香水と洗い立ての布の匂いが、空気をやわらかく変える。


 彼女——名は三枝 梨絵。落ち着きのある声は、年齢の余裕をそのまま響かせていた。ベッドの端に腰を下ろし、足を組み替えるたびにタイツの生地が擦れる音が、やけに近くで聞こえる。


 「お礼を、しなくちゃね」

 低く笑った瞬間、彼女の指先が僕の手の甲に触れた。体温がゆっくりと広がり、全身の神経がその一点に引き寄せられる。視線を逸らそうとしても、柔らかく絡む目の奥の光に捕まる。


 外の夕焼けが窓ガラスに反射し、部屋は金色に沈んでいく。梨絵のコートの下からのぞくシルクのブラウスが、光を受けて淡く輝き、呼吸のたびに微細な皺が動く。その動きに合わせて漂う香りは、熟れた果実と冷えた空気が溶けたようだった。


 そのあとの記憶は、断片的だ。シーツの感触、耳元で落ちる低い声、指先に触れた髪のなめらかさ——すべてが初めてで、同時に抗えなかった。


 気づけば、外の光は完全に消えていた。遠くで食堂のざわめきが再び聞こえ始め、僕はベッドの端で息を整えていた。梨絵はコートの襟を直し、何もなかったように笑った。


 「約束、忘れないでね」


 彼女が去ったあとも、シーツに残る香りと温度が消えなかった。たった一度のことなのに、胸の奥のどこかが、もう彼女なしでは落ち着かないと囁いていた。


 


 ◇ ◇ ◇


 


 翌日、廊下で昨日の青年とすれ違った。背は僕よりかなり低い。無造作に跳ねた黒髪の奥に、どこか緊張の抜けない目をしている。

 「昨日は……びっくりさせて、ごめん」

 短く頭を下げた彼は、自分を片桐 陽翔と名乗った。教育学部の一年生で、母の妹——つまり三枝 梨絵——がわざわざ引っ越しの手伝いに来てくれていたのだという。


 その昼、陽翔と食堂で並んで昼食をとることになった。トレーを運びながら、彼は照れ隠しのように笑った。

 「俺、まだ京都に友達ほとんどいないんだ。あんたは?」

 「僕もだよ。こっち来たばかりだから」

 会話はぎこちなかったが、互いに新入り同士、妙な安心感があった。


 数日後、陽翔が僕を工学部のキャンパスに連れて行った。

 「面白い先輩がいるんだ。機械いじりが好きなら、絶対気が合うと思う」


 案内された研究室のドアを開けると、油と金属の匂いが鼻を打った。奥では白衣姿の男が半田ごてを握り、煙を立ちのぼらせながら基板に顔を近づけている。壁には色褪せた配線図がびっしり貼られ、床にはコードと工具が入り混じって転がっていた。

 「お、新顔か。俺は中西 海斗(なかにし かいと)、修士二年。なんでも壊すし、直す」

 頬に油汚れをつけたまま、彼はにやりと笑った。


 机の上には分解されたドローン、奇妙な形のレンズ、正体不明のパイプ状の金属部品が積まれている。半田ごての先が赤く光り、「チリ」と小さく弾ける音が響く。

 「これ、試作中の加速度センサー。理論上は時間の計測にも応用できる……まあ、夢物語だがな」

 言葉は軽いが、その目は妙に鋭く、僕は胸の奥で小さなざわめきを感じた。


 中西は突然話題を変え、「医学生って手先器用なんだろ?解剖と基板修理、どっちが難しい?」と真顔で聞いてくる。陽翔が笑ってごまかすと、「いや、本気で比較してみたいんだ」とノートを開き、何やら数式を書き始めた。

 「時間ってのは、光よりもずっと扱いが厄介だ。医者が命を延ばすのと、俺が時間をいじるのは同じ根っこにある」

 そんなことを平然と言いながら、机の隅に置いた古いトースターの分解に取りかかる——理由は「発熱効率が参考になるから」だそうだ。


 陽翔を交えて三人で話すうち、窓の外のキャンパスはオレンジ色に染まっていた。中西は僕の肩を軽く叩き、

 「医学部だろ?もし興味があるなら、うちのラボに遊びに来いよ。分野は違っても、面白いことは一緒にできる」

 と、にやけながらも妙に真剣な口調で言った。


 熊野寮に戻る道すがら、陽翔が言った。

 「中西先輩、ちょっと変わってるけど、面倒見いいんだ。仲良くしとくといい」


 その夜、机に向かいながら、中西の口にした「時間の計測」という言葉が頭から離れなかった。まだこのときは、自分がそれに深く関わることになるとは思ってもいなかったが——

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