ヒストリの降臨【KAC20254】

ほのなえ

マルクス=アウ……アウ……。

 あの夢を見たのは、これで9回目だった。

 すっかり定番化したその夢のことを、俺は「トリの降臨」と名付けている。


 朝、夢から目覚めた俺はため息をつき、気が進まないながらも布団から出る。時計を見ると、いつもの起床時間だ……良かった。すっかり夢の中に入り込んでいたものの、寝過ごしたわけではないようだ。


 ハンガーにかかった制服一式を手に取り、もっと寝ていたい気持ちを抑えながらのろのろと着替えつつ、俺はその夢を見るようになった原因を思い起こしてみる――――。



 時はさかのぼり、数か月前―――俺が高校一年生になった頃。新たに、世界史という科目が、授業に追加された。

 小学生の頃から習っていてどうにも退屈に思えていた日本史よりも、世界史の方が話が世界規模で面白いのかもしれない。それに、漢字は覚えるのが面倒だから、中国史を除けばカタカナの多い世界史の方が、楽だったりして――――その頃の俺はそんな風に、楽観的に考えていた。


 だが――――それは大きな間違いだった。自分自身でも知らなかったのだが、俺は長いカタカナ用語を覚えるのがすこぶる苦手なようなのだ。


 世界史も、序盤の四大文明あたりまでは楽しく学んでいた。しかし次に、紀元前のセム語族だとかインドヨーロッパ語族だとかの、数多くのナントカじんってカタカナの民族名を覚ねばならないところでまず「うへえ」と思い、次に古代ギリシアの人物名の、「ペリクレス」だとか「ペイシストラトス」だとか末尾に「ス」ばかりつく名前に辟易へきえきし…………。

 とはいえ、カタカナに苦手意識はあれど、本来そこまで物覚えの悪くはない俺は、必死に勉強することで、数多くのカタカナ用語の壁を何とか乗り越えてきた。


 しかし、教科書で、ローマ帝国時代のとある皇帝の名前を見た時――――俺は教科書を投げ捨てたくなった。

 その名前は―――「マルクス=アウレリウス=アントニヌス」だ。


 なんだよこれ。長すぎなんだけど……三人分の名前じゃねーのかよ? これだけ長いのを覚えても、解答たった一つ分かよ?

 そう考えると、効率が悪いように思えて正直、覚える気がしない。


 とはいえ根が真面目な俺は、こりゃなかなか覚えられなさそうだからと、そいつの名前を自作の世界史の単語帳の一番前に持ってきて――――「ストア派の哲学者で『自省録』を著した、ローマ帝国の五賢帝のうち一番最後の皇帝の名前は?」と書いた裏に、そいつの長ったらしい名前を、教科書を見ながら慎重に書いた(周りのやつらはスマホの単語帳アプリなんて便利なものを使っているようだが、俺は自分の手で書いてめくって覚える、アナログ派だったのだ)。


 しかし、単語帳の一番前で、一番目にする機会が多いにも関わらず――――なぜだか俺はそいつの名前を、一向に覚えられなかったのだ。


 さらには困ったことに――――単語帳でその名前を思い出せなかった日には毎夜、奇妙な夢を見るようになってしまったのだ。

 それがさっき言った「トリの降臨」――正確に言えば、「ヒストリの降臨」だ。


 その夢ではまず、俺がなぜだか暗闇にいるところから始まり、そして突然空から神々しいような雰囲気の、白く眩しい光がパアッと射し込み――――。

 そこに、頭と胴体がわし――か何かの猛禽類もうきんるいのような雰囲気の鳥で、手足が人間。格好は、ギリシャ神話の神様が着ていそうな、片方の肩が出ていて一枚の布でできた白い服を身にまとっている。そして背中には立派な翼が生えているという――――なんともおかしなやつが現れる。


 そいつは、自分は「ヒストリ」という名で、なんでも「歴史の神」であるだとかふざけたことを言い出し――――その次には決まって、なぜいつまでたってもマルクス=アウレ……なんとかが覚えられないのかと、俺をしつこく問い詰めてくるのだ。


「マルクス=アウレリウス=アントニヌス……どうしても覚えられぬのか? そんなに覚えにくいかのう、マルクス=アウレリウス=アントニヌスは……。ほれ、口に出してみれば、たいした長さではないではないか」


 ヒストリとかいう歴史の神もどきは、その名を覚えられない俺にドヤ顔を見せながら、何度もその名を唱える。流れるように唱えるヒストリに、俺は毎回悔しい思いをさせられる。


「み、見てろよ。次こそは、言えるから……」

「ほほう? では、今ここで言うてみよ」

「え、今? えと、マルクス=アウ……アウ……」

「ほれ見よ。まだ言えぬではないか」


 勝ち誇ったようにそう言うヒストリのその憎たらしい顔を見て、俺は思わずぎりぎりと歯ぎしりをする。

「そ、そんな突然言われても……っ」

「突然言えぬようではどうする。テストはあらかじめ出る問題を知っておる訳でもなし、突然出題されるものじゃろう?」

 その言い分には、ぐうの音も出ず――――ついに俺は押し黙ってしまうのだった。


「なぜじゃろうな。おぬしも、決して物覚えが悪いわけではない。なにしろ、五十人近くもいる女の子アイドルたちのフルネームを全員分、スラスラと唱えられるほどなのじゃから……」

 俺は思わず赤面する。

「なっ……そ、それは、中学ん頃の話だろ………っ。今は、別に…………」

「おんや? では、まだ若いというに、すでに脳が衰えてしもうたとでも言うのか?」

 ヒストリはいかにも神様の持っていそうな木の杖で、こんこん、と俺の頭を軽く小突く。馬鹿にされて俺はむかむかしながらも、恥ずかしさやら情けなさやらで顔を上げられずにいる。


 俺はなんとか顔を上げ、ヒストリを睨みつけると、言い返す。

「……言っとくけどな、次の機会はねぇから。次単語帳開いた時は、てめえなんかが夢に出てこられないほど、完璧にスラスラ唱えてやる」

「ほほう、本当か? では、今、ここで唱えてみせよ」

「そ、それは……い、今じゃねーって。その、ほら、単語帳が手元にねぇし?」

「ふぉふぉふぉっ……そうじゃったな。では青年よ、次に会える時を楽しみにしておるぞい」


 ヒストリは高らかに笑いながらそう言うと、空から射す白く眩しい光に紛れて、その場からスッ……と姿を消していった。



 これが、今までに何度も見た、いつもと変わらぬ夢の内容だったのだが――――次の日の夢では、これまでとは違った展開を見せることになる。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る