第3話 備品倉庫の天野さん
備品置き場の倉庫のなかで、地道に消耗品を入力して行く。
以前は紙に数を書き取ってから、パソコンで入力して集計をしていたのだが、天野さんが品物のバーコードと集計表を連動させてくれたので、作業は格段に楽になり、かつ早く正確になった。
倉庫のなかで天野さんと二人きり、ただただバーコードを読み取る「ピッ」という電子音だけが響いている。
なのに希美の心臓は、さっきからせわし無く脈打っていて、どうも作業に集中できない。
いくら電子化できて正確になったとはいえ、数えるのを間違えては元も子もなくなってしまうのに。
だって、こうして二人っきりで作業したら、また今夜、あの夢を見てしまう。
天野さんと夫婦になっている夢。
少しずつ場面が変わるその夢は、とうとう寝起きの場面に至ってしまった。
と、いうことは・・・
もしももしも・・・
夫婦としての・・・
夜の夢なんか見てしまったら・・・
「高田さん」
「きゃあああああああっ!」
突然背後から呼ばれて、希美は悲鳴を上げてしまう。
「あ、あ、天野さん」
体中の血がのぼって、変な汗が吹き出してくる。
「ど、どうしました高田さん。顔、真っ赤ですよ? 大丈夫ですか?」
「い、い、いいえ、だ、大丈夫です・・・」
舌を噛みそうになりながら、希美はやっと答えた。
「この棚は終わりました。高田さんの方はどこまでできてますか?」
「あ・・・えっと、ここまでです」
見れば、始めた時からほとんど進んでいない。
妄想ばかりしていて、作業がおろそかになってしまった。
あまりの気まずさに、希美は顔を俯ける。これはいくら天野さんでも、文句のひとつも言われてしまうかも・・・。
「ああ、そうですか。でしたら、棚の端からこっちに向かって済ませて行きますから、私とかち合ったら終了でいいですね」
と、天野さんは希美が進む先の方を指さして微笑んだ。
作業で暑くなったのか、天野さんはワイシャツの第一ボタンを外して、ネクタイを緩めている。
ちらりと見える鎖骨に向かっての首のラインが、ちょっと・・・いや、かなり艶っぽい。
袖がまくられた腕の引き締まり具合と、ダイバーズウオッチ風の腕時計が巻かれた手首がまた、何げに力強そうで、それもたまらない。
希美は今年、30歳になる。
職場に大きな不満は無いが、このまま庶務課に居続けても、課長職には就けないと思う。
桃子のように、資格を持って経理課で働いているのならば、この先の出世もあるかもしれないし、もっと良い条件の会社への転職や、さらに上級の資格を求めることもできるだろう。
希美自身、出世願望があるわけでは無く、今の仕事を続けながら、適当な年齢で結婚できればいいかな・・・ぐらいにしか考えていない。
それだって、積極的に婚活している訳でも無いし、マッチングアプリなどを試したことも無い。
のめり込むような趣味も無く、今は桃子と遊ぶのが楽しいから、それで良いと思っている。
言ってみれば、仕事も恋愛も趣味も、熱を入れて打ち込んだことが無いのだ。
そんな人生でいいのか、とふと思う。
このまま何の盛り上がりも無い人生を送っていいのかと、思う。
若気の至りと許されるのは、どう考えても20代までではなかろうか。
たとえそれが過ちであったとしても、美しい思い出となって残るのならば、悔いが無いんじゃないだろうか。
今、まさに、人生の盛り上がりの入口に立っている!
今、勇気を出して山を登らなければ、きっと後悔する!
そこに山があるから登るのだ、と、誰かが言った・・・気がする。
希美は、勇気を振り絞った。
「・・・天野さん」
天野さんが振り返る。
「今夜、付き合ってくれませんか?」
もう、引き返せない。
そう希美は、思った。
続く
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