第2話 庶務課の天野さん
「天野君、営業部へ行ってくれ。コピー機の具合が悪いそうだ」
午後の仕事が始まるとすぐに、課長が天野さんに指示を出す。
天野さんは「はい」と返事をすると、工具箱片手に出て行った。
入社して庶務課に配属された時、希美は具体的な業務を想像できなかった。
だけど、就業一週間で悟ったのだ。要するに「雑用係」なんだ、と。
うちの社では、備品や設備の不具合は、まず庶務課に連絡が来ることになっている。
コピー機、シュレッダーはもちろん、棚や机の什器や、トイレのつまりに至るまで、全部庶務課が対応しなければならない。
不具合の程度を確認してから、メーカーなり業者なりに連絡するのが本来の役目なのだが、「とりあえず庶務課呼べ」みたいな感じで、コピーの紙詰まりやシュレッダーのゴミの片付けくらいでも、呼び出されることも多い。
天野さんは、これらの雑用も、文句ひとつ言わずに対応してくれる。
それどころか、ほとんどの不具合を解決してしまうのだ。
メーカーや業者を呼ぶレベルの故障も、天野さんが修理してしまう。
リースなんだからそこまですることは無いと思うが、業者を呼ぶ手間が省けるのと、現場も作業をすぐに再開できるのとで、とても喜ばれている。
この前なんて、社内LANの不具合があって、本来なら1日近く業務が滞る可能性があるほどのトラブルを、1時間たらずで解決してしまった。
最近は「天野さんをお願いします」と、ご指名で呼び出されるほどだ。
天野さんは、どんな修理も、笑顔で引き受けてくれるし、物言いも柔らかくて決して偉ぶらないし、怒らない。
そんなところが、社内で人気を集めているのは知っている。
これらの作業を、今まで業務の手を止めて対応させられていた、各部署の女子事務職からは、特に。
それほどイケメンというわけでは無いし、すごくオシャレなわけでも、トークが面白いわけでも無い。
けれど、アイロンの効いた清潔なシャツに、地味なネクタイにタイピンをきちんとつけていて、作業するために袖をまくると、意外に引き締まった細マッチョな腕が現れるのを、女子たちは見逃さない。
天野さんが独身であったのなら、今ごろ壮絶な争奪戦が繰り広げられているかもしれない。
これだけ人気がありながら、浮いた噂ひとつ立たないのは、家族思いの良きパパであるのがにじみ出ているからだ。
スマホの待ち受け画面が、家族の写真で設定してある男を籠絡するには、相当の覚悟と手練手管が必要だろうし・・・。
そこまで思って、希美はため息をついた。
桃子の言う通り「勘違い」かもしれない。
手練手管を語れるほど、希美は恋愛経験が豊富なわけではないからだ。
学生時代に彼氏はいたけれど、あれはきっと「彼氏くらい作っておかないと」という心理だけだったと思う。そして相手も同じだったのだ。
だから、いわゆる恋愛の一通りを済ませてしまったら、あっさり別れてしまった。
あれはただタスクをこなしただけのもので、経験と呼べるほどのものでは無いのだろうと、希美は思う。
こんな自分が、社内で人気のある既婚者相手に不倫を挑もうというのだから、レベルも経験値も武器もまったく足りて無いのに、ラスボスに立ち向かおうとするようなものだ。
ゲームならリセットすればやり直せるが、現実社会はそうはいかない。
分かってる。
充分に分かってる。
・・・なのに・・・
「戻りました。大丈夫、直りましたよ」
突然天野さんの声がして、希美は必要以上にビクッと驚いてしまった。
「あ、天野さん。お疲れ様です」
「今日は消耗品の在庫確認の日でしたね。高田さん、これからすぐで大丈夫ですか?」
「いえ、わたし一人で行きますから・・・」
「二人の方が早く終わりますよ。手を洗ってきますから、高田さんは準備をしておいてくれますか?」
工具箱をしまった天野さんは、そう言って出て行った。
ふと机を見ると、天野さんのスマホが置かれていた。
使ったばかりだったのか、待受画面が見える。
息子さんと娘さんと・・・奥さん。
息子さんは天野さん似かな。中学生くらいだろうか。
娘さんは奥さん似だ。まだあどけなさが残る顔が、可愛らしい。
奥さん・・・。
いくつぐらいだろうか? 若く見えるけど・・・。中学生の息子さんが居るとは思えない。
それに何より、すごく綺麗。芸能人みたい。スタイルも良さそうだし、モデルでもしていたのかも・・・。
でも・・・美人すぎて、ちょっと冷たい感じ?
こんなに綺麗な人なのに、旦那さんのお昼にカップ麺持たせるんだ・・・。
もしかして、自分の美容にお金と時間をかけて、家事をおろそかにするタイプなのかも?
もしかしてもしかして、天野さんが家事も引き受けているのかも?
だから天野さん、何だってできるのかも?
え・・・
そうなの・・・かな。
そうだったら・・・
天野さんがかわいそう。
希美が気付いた時にはもう、スマホの画面は暗くなっていた。
続く
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