34 フェリペ
……いや。今はそれどころではない。
「ご無事ですか、ご婦人」
倒れ込んだ妊婦に駆け寄り、手を貸して立たせてやる。彼女はかすり傷こそ負っていたものの、深刻な怪我はしていないようだった。「早く地下へ避難を。【黑妖】は僕がなんとかします」
「……まさか、あなた、聖騎士なの?」
ええ、と頷く。「――新人聖騎士の、リリオ・レックスといいます」
リーゼラには【黑妖】から民を守る聖騎士は来ない。
それでも聖騎士リリオ・レックスは、【黑妖】を狩り民を守る存在で在るのだ。
「さあ早く避難を、」
【――■■■■■■ ■■■■■!!】
刹那、ふたたびの咆哮。
空気だけでなく、大地までが鳴動する。
凄まじい気配の圧そのものを正面から受けた女性が、目を見開き膝から崩れ落ちそうになる。リリオはそれを、慌てて支えた。
(このすさまじい魔力。やっぱり、
女性を振り向くと、彼女は軽く頷いた。それが、行って、という意味であることを理解し、リリオは弾かれるように走り出す。
【■■■■■■!】
時折上がる咆哮を頼りに走る。瓦礫を飛び越え、破壊されていない建物の屋根の上を疾走する。近づいても姿が見えないということは、そこまでの巨体ではないのだろう。
だが、この気配の濃さ。災害級であることは間違いない。
(どこだ……、っ⁉)
辺りを見渡し、そこで息を飲む。
リリオが上った屋根の上から見下ろした、倒壊した建物によって狭まった道に――いたのだ。フェリペ医師と、そして手を引かれるシシィ。
刹那、リリオは叫んでいた。
「止まれッ! フェリペ!」
フェリペと、彼に手を引かれて走っていたシシィが、足を止める。こちらを見上げた二人が目を見張ったところで、リリオは彼らの目の前に飛び降りた。
弓矢は中長距離攻撃のための武器だ。この距離では使えない。リリオは普段使わない懐剣を懐から取り出すと、鞘に入れたままそれを構えた。魔法を使うための杖代わりだ。
「リリオ⁉ ちょっとあんた、この状況で何のつもりで、」
「……シシィをどこに連れて行くつもりですか? フェリペ医師」
肩を怒らせ前に出たシシィが、リリオの問いに肩透かしを食ったような表情になる。
目を丸くしたまま眉を顰め、どういうことだ、と視線で問うてきた。
「内通者があなたである、ということにはおよその見当がついています。あなたは彼女や、自警団の子どもたちから得たレジスタンスに関する情報を外に流していた」
「え……っ?」
「師父様のご意見です。……あなたも薄々わかっていたんでしょう? 彼がただの少年ではないということは」
さすがに彼の正体がかの伝説の医者であるとは、わかっていなかっただろうが。
「僕も改めて名乗りましょうか。――僕は聖騎士リリオ・レックス。以後お見知りおきを」
「ちょ、ちょっと待ってよリリオ! フェリペ先生が内通者ってどういうっ、」
しかし。シシィの言葉は、不自然に途切れてしまう。
……フェリペが彼女の口をその手で塞いだからだった。
「動くな」
彼はシシィの首に手術刀を当てていた。横に滑らせれば頸動脈を掻き切れる位置にだ――「動けばこの子は死ぬぞ」
しまった。……シシィを連れていたのは人質に取るためだったのか。
迂闊だったかと歯噛みする。……だが今ここで止めていなければ、きっと逃がしていた。
「やはりあなたが内通者だったんだな。今日を含めて二度の【黑妖】の襲来も、あなたがリークした情報によるものなんだな」
「だとしたら何だと言うんだね」
今にも激昂しそうなリリオに対し、フェリペはあくまで冷静だった。「僕は良心に従い、領主やその息子に逆心を抱く者を告発しただけだ」
「戯言を。何が良心だ、子どもを人質に取っておいて!」
「レジスタンスを匿うような危険な集団から逃げるためには、これもやむを得ないことだ」
やむを得ないこと、だと。
(白々しい……!)
口を塞がれているシシィの顔から、みるみる色が失われていく。青を通り越し白くなっていく顔色に、思わず眉根が寄る。
「そもそも君は僕に剣を向けていいのか?」
「どういう意味だ?」
「君は貴族で、聖騎士なんだろう。ならばどちらが『正しい』のか、わかるはずだ。このままこのリーゼラの人間を庇い続ければ、エルメンライヒ公に歯向かうことになるぞ!」
「……。そうかもしれない」
リリオが命じられたことは、あくまでエルメルの『調査』だ。聖騎士長も、これ以上のリリオの独断専行を認めないかもしれない。――だが。
「【黑妖】と手を組み、民が意に沿わなければ殺させる。そんなものを正しさと言うのであれば、僕はそんな『正義』はいらない!」
「……愚かな、」
フェリペが歪んだ笑みを浮かべた、その時。
「はな、しな、さいよ、」
腕に閉じ込められていたシシィが、不意に右足を前に振り上げる。そしてそのまま勢いをつけ、フェリペの顎を踵で蹴り上げた。
「この――裏切り者!」
「ガッ……!」
拘束した少女からの反撃など予想もしていなかったのだろう、真面に後ろ蹴りを喰らったフェリペはよろけ、たたらを踏む。リリオも唖然とシシィに視線を向ける。
少女は目を潤ませ、肩で息をしながらフェリペを睨めつけていた。
「よくも……よくもあたしたちを騙してくれたわね! あんたのせいで! みんなが!」
「貴様ッ、この、小娘ェッ!」
「きゃあっ⁉」
力任せに胸倉を掴まれたシシィが悲鳴を上げる。リリオがやめろと声を上げる前に、フェリペはその細腕のどこに力が隠されているのかと思うほどにあっさりと、胸倉を掴んだシシィを道の向こうへ投げ捨てた。
シシィは瓦礫だらけの石畳に叩きつけられ、道を転がっていき――、その刹那。
「は、?」
ごう、と風が吹いた。
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