誤ッ汰弐 - Οι ηλίθιοι δεν το διαβάζουν αυτό. -

薄幸柄

愛されるという話

 私は、目を覚ました。

 瞼を開けた視界に入り込むのは、眩い光。薄暗い部屋の中に入り込むのは、太陽の光。

 白色の光は雑多な物で埋め尽くされた部屋を照らしている。

 無数のガラス容器。無数の鉱石。無数の蔵書。それらに光が当たる事により、この部屋の中が乱雑としているのが嫌でも分かるようになる。

 整理整頓が出来ていない光景。掃除もあまりなされていない光景。

 五年前の私が何時ものように作り出していたような景色が、広がっている。

「……ずっと、にやらせていたからな」

 視線を木張りの天井に向けながら、呟く。

「整理整頓を自分でやるなんて、もう何年も考えてもいない」

 振り子が揺れている壁掛け時計を確認する。

 時刻は午前七時半頃を示している。一日は始まったばかりだ。

 無言のまま立ち上がり、雑多な物を掻き分けて部屋の扉へと向かう。恐らくあいつはまだ生きているだろう。死んだら飼い主である私に知らせる〝魔法〟をかけているからだ。空が明るくなるまで惰眠を貪れた事を考えると、生きている事は間違いない。

 だがそれも、そろそろ仕舞いかも知れない。

 いや、かも知れないではない。終わりは近いのだ。

「……困るな。掃除する奴が居なくなると、困る」

 十数秒程の時間をかけて扉にたどり着き、廊下に出ていた。


 廊下。深紅の絨毯が敷かれ、無数の彫像が設置されている廊下を移動する際に、大きな窓から射し込む太陽の光に少しうんざりする。

 この強い光はあまり好きではない。眩しいのは苦手なのだ。

 悪天候時以外には自動的に開閉するよう魔法を施している筈なのにどうして開いているのか――と数秒考えて、私が開閉を維持する魔法をかけ忘れていた事を思い出す。ここ最近はあいつの面倒を見るばかりで魔法の事に意識を向けていられなかった。

 全く迷惑だ。

 あいつのせいで私は迷惑を被っている。

 愚痴の一つでもぶつけてやろうか――そう思いながら入り込む光に眉間に皺を寄せて進む事数十秒。目的の部屋の前に着き、ノックを行う事も声をかける事もなく、開いていた。

 十数平方メートル程度の部屋の中にあるのは、幾つかのクローゼットと、机と、椅子と、それに古びたベッドぐらい。そしてそのベッドに――。

 あいつ、が。

 一人の少女が横になっていた。

「身体の調子はどうだ? ……まぁ良くないのは分かるが」

 私はベッド側にある椅子に座り、足を組みながら少女の様子を確認する。

 肩まで掛かる黒髪。顔に幾つかの傷が走っている少女。名前もない子供がそこには居る。

「……そこまで、悪くは、ないです」

 少女は息も絶え絶えで、辛うじて発する。

 笑顔も辛うじて浮かべているが、言葉とは裏腹に顔面は蒼白であり隈も酷い。これで本当に言葉通り悪くないとしたら驚きだが、そんな事はないだろう。

 そんな事がないのは私も、分かっている。

「悪くはない、か……」

 私は僅かに視線を下に向けていた。

「そうか。それなら……良かったな。まぁ悪くないんだとしたら、もう数日寝たら仕事に戻って貰う事にするぞ。何時までも寝っ転がって貰っても困るからな」

 そう言いつつ、私は目を瞑り、過去を思い出していた。


 この少女と出会う――もとい、拾ったのは五年前の事だ。

 当時、私は何処かに安住する事はなく、世界中を旅していた。そこに大きな目的があった訳ではない。魔法を使う者であると周囲の人間に認知されると、往々にして面倒な事に巻き込まれる――邪な術を使う者だと恐れられたり、排斥して来たり、その力を権力の為に使わないと危害を加えると脅して来たり――ので、一年も経つ頃には今居る場所から移動し、その周囲の環境を完全に消去して、新たな地で暮らす繰り返しを行っていたのだ。

 そうして十数カ国をふらふらと巡っていた私は、一つの戦禍と出くわす事となる。

 人間同士の争いがあり数多の人間が殺され、犯され、奪われ、残されたのは荒廃の果ての空間――。言ってしまうなら、何処にでもあるような場所に偶然、訪れる事となったのだ。

 正直なところ、その周囲の状況はどうでも良かった。

 見ず知らずの人間が生み出した荒廃など、何度見たかも覚えていないのだ。いちいち感傷に浸る程の豊かな感受性はとっくの昔に切らしている。だから私は、つまらない国だな、とか思いながら移動していたのだが、

 その移動している最中に、あいつを。

 一人の少女の姿を見付ける事となった。

 戦禍の色が濃く残る廃村を何も思わず通っていた時、道端にて転がっている少女を発見していた。

 飼い犬のように黒い首輪を付けられており、顔には無数の傷が走っていた。また乾いていたが口元や股に体液がこびり付いているのも確認出来た。地面に転がっているそのさまはゴミ同然だった。

 まぁ、これも。

 ありふれた景色の一部に過ぎない。

 人間が自然に生み出せる光景だ。

 普段の私であればすぐに興味を失い立ち去るところだが、その時の私はちょうど良さそうなを探していたので、その少女に興味を僅かに抱き、声をかけていた。

「おい、お前。聞こえているか?」

 ゴミのように転がっている少女であり、一見して死んでいるようにも見える物ではあるが、声に身体はピクリと反応し、視線を私に向けていた。

 青い瞳。そこには辛うじて光がある。

「生きているようだな。お前、帰る場所はあるか?」

「…………」

 言葉としては発せられなかったが、ない、と乾いた口元が動いたのは確認出来た。

「そうか。お前にとってどうかは知らないが、私にとっては都合が良いな」

 少女の身体面の傷は目立つところでは顔であり、他にあるとすれば股ぐらいだろうか。精神面でもそれなりの傷を負っている事は間違いないだろうが、この国の中では相当にマシな部類と言えた。これ以下の人間などそこら辺に転がっているのだ。

 よし、ひとまずこいつに訊いて見るとしよう。

「お前。私の元で働け」

 虚ろな少女の表情に、困惑が浮かぶのが分かった。

「言葉通りの意味だ。私はちょうど良い道具――人間を探していたんだ。身の回りの雑務を押し付けられる道具としての人間をな。帰る場所もないんだろう? ならお前、私の道具になれ。お前達人間で言うところの――そうだな、飼い犬扱いぐらいにはしてやるつもりだ。飯を与えたり寝る場所を与えたり、それぐらいはしてやる」

 断るのならそれはそれで良い。

 その場合は別の誰かに同様に訊くぐらいだ。

 少女は私の言葉を聞いても数秒反応を示さなかったが、やがて小さく頷き、

「……お、お願い、します」

 消え入りそうな、しかしハッキリとした意思を込めて、そう言っていた。


「何時しかそれも、五年前か」

 私は息を漏らしつつ、少女に視線をやる。

 五年前にこの少女を拾った当初はあまり能力には期待していなかった。ただの人間に出来る事など高が知れていると思っていたのだが――私の予想に反して、見る見る間に物事を覚えていった。

 錬金術を研究する際に用いるガラス容器、鉱石類の種類や保管場所や注意事項、蔵書を何処にどのように片付けるのか、屋敷を清掃する際の注意事項、何を片付けて何をあえて片付けないのか――等々。

 あらゆる物事を覚え行動し、私が期待していた以上の働きを見せ、立派な道具へと成っていた。

 良い物を拾ったと、今では思う。

 人間を拾ったのは今に至るまでこれ一回だけなのだが、偶々良い物を拾えただけの可能性は高い。だからこいつが居なくなるとまた探さなければいけない。良い物を拾う為に国を巡る必要があるかも知れない。

 それは実に、面倒だ。

 面倒な事はなるべくしたくない。

「あ、あの……。今、良いですか?」

 私が考え込んでいた時、少女はおずおずと言った調子で口を開いていた。

「一々伺いを立てるな。言いたい事があるのなら言え。何時ものように」

「す、すみません」

 少女は幾らかの咳を行う。喉の奥底から放たれる咳に含まれるモノに対して――私は、あえて意識を外す。一々見なくても分かるのだから。

 身体が落ち着きを取り戻したところで、少女は再び口を開く。

「……そ、その。これを言うのは、多分。怒られるかも知れませんけど、でも多分、言わないと、いけないかも知れませんから……」

「回りくどい言い方は嫌いだ。その事は五年前にも教えたし、今に至るまで何度も教えている筈だが」

 すみません、と少女は頭を下げ、数秒程目を閉じて意を決した表情を浮かべると、

 私に向けて、ハッキリと言った。


「私は多分、もう。数時間ぐらいしか生きられないと、思います」


 …………。

 ……それが。

 それが、どうしたと言うのだ。

「知っている」

 私は組んでいた足を崩し、少女に視線を真っ直ぐと向け返す。

「お前の先が長くない事は知っている。知らない筈がないだろう。お前の身体の内臓が酷い状態なのも、それが生まれ付いての病である事も、私の魔法ですら対処不可能である事も、様々な薬を調合し試しても意味がなかった事も、私が確かめたのだから。

 だが、数時間という具体的な期限を聞いたのは初めてかも知れんな。それはお前の感覚か? 直感的な感覚か?」

「多分、そうです。私の身体は……」

 少女は自身の掌に視線を落とす。

 痩せこけ、骨と筋が浮いた、その掌。

「……死ぬんだ、って言っている気がするんです。もう長くはないと、そう言っているような、気が。他の誰よりも、私の身体がそう言っているんですから、多分本当なんだと思います」

 少女の視線。

 掌に落とす視線には、色がなかった。

 死者の眼をしている。生気が失われ、虚無へと成る一歩手前のその眼。

 五年前に見る事となった、数多の死者達の眼と、殆ど同一の物。

「……そうか」

 私はその眼から視線を外しつつ、立ち上がっていた。

「お前の命があと数時間なのは、分かった。なら折角だ。お前の願い事を教えろ。数時間しかないんだったら、多少無茶な願いでも叶えてやらないでもないぞ」

「それは嬉しい、です、けど……」

 少女は笑顔を浮かべようとする。表情の所々が崩落しかけているが、それでも何とか笑顔を浮かべようとしているのは、分かる。

「でも、願いはないんです」

「……ない?」

「願いらしい願いは、何もありません。それでも何か、と言うのなら。私はただ……お礼をしたいんです。感謝の言葉を伝えたいんです」

 そうして、少女は深くを頭を下げつつ、言った。

「私を……愛してくれて、ありがとうございます」

「……愛した? お前を、私が?」

 立ち上がった腰は自然と落ちる事となった。

 私はこいつを愛した事など一切ない。私がこいつに対して取っていた態度は完全に、道具扱いだからだ。愛などこの五年間に一度も抱いた事がない。

「お前を愛した事など一切ない。……そもそも、お前は自分が道具のように扱われていた事を自覚しているだろう。魔法に関わる雑務以外にも、掃除洗濯から始まる家事全般も投げ付け、殆ど一日中働かせていた事は身を以て実感している筈だ」

「そうです、けど。でもあなたは私に……寝具を与えてくれました。ご飯も与えてくれました。居て良い場所を与えてくれました。色々と、与えてくれたじゃないですか」

「つまりそれが、愛された事になる、と? 勘違いしているぞお前。それは言ってしまうなら、犬のように扱ったからに過ぎない。犬小屋を与えるように、器に餌を盛って与えるように、私はただ必要だから与えたに過ぎない。そこに愛など関係――」

 それは、と。

 少女は私の言葉に割り込んでいた。

「…………」

 確信めいた力強い声に、私は思わず無言になった。

 対して少女は、ハッキリとした声で言葉を紡いで行く。

「……五年前。私は人間達が居る場所に居ました。もう遠い昔のように思える事、ですけど。でも確かに、私はあの場所に……あの地獄に、居ました」

 少女はゆっくりと上体を起こし、視線は窓に向く。

 太陽に照らされた高原。何処までも続いているように見える、青い大地。

 私の過去を話すのは今が初めてですね、と。少女は窓に視線を向けながら言う。

「あの地獄にこそ、愛はありませんでした。あなたは〝ただ必要だから与えた〟と言いましたけど、でもあの地獄には、与えてくれる者なんて誰も居ませんでした。

 ……私は、何も与えられませんでした。

 日々を生きる為にはゴミを漁り食べられる物を見付けるしかなかった。寝る為には野犬に襲われないように木々の上で不安定な状態で横になるしかなかった。……未来への希望なんて一切、なかった。私には何もなかったんです。何もないままだったんです。

 それなのに――そんな私から更に奪う者は、居ました」

 少女はそこで無言になり、唇をかみ締めてから、続けた。

「……あの男達は。二度と思い出したくもない、あいつらは。私を組み伏せた。私の手足を拘束した。そして私を……使った。欲望を満たす為に、支配する為に、私を道具のように使い、人間としての尊厳を完全に奪い取った。……私に与えられた物なんて何一つありませんでした。出会って来た誰も彼も、私から何かを奪う事しか考えていない奴らばかりでした」

 少女は私の方を向く。

 目尻には涙を浮かべている。小さく丸い、涙の形。

 だがその表情は、笑顔だった。涙を浮かべながら少女は、笑っていた。

「あなただけは――違うんです」

 少女は私の手を取っていた。

 脆く崩れそうな手ではあるが、しっかりと私の両手を包み込んでいた。

「あなたは与えてくれた。例えそれが犬のように扱った結果だとしても、与えてくれた事には変わりないんです。ある種の……確かな、愛を。私に与えてくれたんです。生まれてから今に至るまで、愛を与えてくれたのは魔女である、あなただけだったん、です……」

 ごふ――。

 異音と共に少女は咳を発する。それは唾液と赤黒い血液を含ませた物であり、ベッドのシーツに斑点状に散らばった。

 その赤黒い模様は、

 少女の命が飛び散った模様でも、ある。

「……もう、分かった」

 私は少女の手を握ったまま、ゆっくりとその身体を支え、ベッドに横にさせる。

「落ち着け。数時間しかない命を、更に減らそうとしなくて良いんだ」

「ごめん、なさい……」

 少女の言葉は辛うじて聞こえる程度の声量だった。自身の思いを必死に伝えたからだろうか、その生気は更に失われているように見える。そこに居るのは最早、生者ではなく死者と表してもいいぐらいだ。死に最も近付いている段階だろう。

 間もなく、少女は死ぬ。

 死んでこの少女は、消える。

 この世界から、永遠に。

 それは仕方のない、事ではある。

 仕方のない事ではある、が。それならば、私は――。

「……目を瞑れ」

「え……?」

「良いから。早く目を瞑れ」

 言葉に戸惑う様子を見せながらも、少女は軽く目を閉じる。閉じられた様子を見ていると、本当にまだ生きているのか疑う程に弱々しい。きっと死ぬ時もこんな感じなのだろう。この子は文句の一つも、最期まで言うつもりはないのだろう。

 それがこの少女なのだろう。

 名前もなく、私が犬のように接して、愛されていると思った、少女。

 私はそんな少女の顔に――自身の顔を、そっと近付けていた。


「――えっ?」

 少女は驚きの表情を浮かべつつ、目を開ける。

 私は口元に付いた微量の唾液、そして多量の血液を舐め取る。濃い鉄の味は、少女の命を感じ取る事が出来る物。

 近い内に感じ取る事が出来なくなる、物。

「別れの挨拶は何にしようかと考えていたんだが、特に思い付かなくてな。それでも強いて何か、と考えた時に思い付いたのは、コレぐらいなんだ。思い返せばこんな事はお前に一度もしていない訳だが、どうだ? 驚いたか?」

「驚き、ました」

「それは良かった。ああ、ちなみに今のが私の初めてのモノになるんだ。男女通じて完全に初めて。嬉しいか?」

「嬉しい、ですよ」

「ほう。どれぐらい嬉しいんだ? お前のその人生の中での順位は?」

「そんなの……一番に、決まってます」

 にこっ、と少女は笑う。

 消えそうな命であるにも関わらず、見せたのは生命に溢れた物。

「本当に……私は、生まれて来て良かったです。あなたに逢えて、本当に、良かった」

 少女は静かに、ゆっくりと目を閉じる。

 目尻に涙を浮かべて、微笑む。

「愛を貰えて、良かった……」


      ◇   ◇   ◇


 柔らかな、風。

 あらゆる物を優しく浮かばせるような風が、私の周りで吹いていた。心地良い風だ。こうした風に何時までも包まれていたい。

 包まれていると幸せだから。

 全てを何処かに連れて行ってくれそう、だ。

「お前も――そう、思うだろう?」

 崖の上にある、十字の墓標。

 名もなき墓標は何も言う事もなく、只々その下に身体が眠っている事だけを示している。それに向けて――その下に眠る者に向けて、私は訊いた。

 帰って来る事のない言葉を求めて、訊いた。

 ゆっくりと屈み、墓標の元に幾つかの摘んだ花を置き、石で重しとする。こうすれば舞い上がって行く事はないだろう。ちゃんとあいつも受け取れる筈だ。

「…………」

 静かに立ち上がり、眠り続けている少女に向けて、言う。

「私には……分からない。お前の言う〝愛〟は数ヶ月以上経った今になっても、まだよく分からない。理屈では何となく分かったが、それでも心情としてはまだ、理解出来ているとは言えない。愛ではないと思うから。どうしても愛とは言えないと思うから。それはもしかしたら、人間ではない魔女である私だから、分からないのかも知れない。

 だが――」

 私は背を向け、その場から立ち去って行く。

 言葉だけを残して、思いだけは先に進めて。

「――もう少し、確かめてみる事にする。お前の境遇と似たような子供は幾らでも居るから。だから同じように拾ってみようと思う。お前の言う愛が理解出来るかも知れないから。だから私は……先に進む」

 さようなら、と私は告げる。

 何時かまたここに戻って来る。そしてその時はきっと、お前の言う愛を理解しているだろう。そして理解していたら、私は墓標に向けて、その下に居るお前に向けて言うだろう。


 愛している、と。



                                    (了)

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