千種区大封鎖
Tohno Wagin
全文
<登場人物>
佐藤晃司
50歳目前の独身、ビル清掃のアルバイト
高橋美緒(リ・ジウン)
北朝鮮の工作員
町田秀則
首相、与党 自由民権党総裁
鬼頭幸三郎
副首相、与党 自由民権党の大物議員
潮見崎
鬼頭幸三郎の秘書官、腹心
リーダー
北朝鮮工作員のリーダー
エージェントA、B、C、D
北朝鮮の工作員
美加
北朝鮮の工作員
杉本
愛知県警刑事
田代
愛知県警刑事、杉本の後輩
西城鯱(さいじょうしゃち)
名日新聞記者
徳川家宗(とくがわいえむね)
名日新聞記者、西城鯱の後輩、新人記者
<chapter 01>
「追われています。いきなりで申し訳ないのは重々承知の上でお願いしますが、今晩一晩泊めていただけないでしょうか?」
「はっ、いきなりひとの部屋に押し入ってきて、あんたはなにを言ってるんだ!」
「今、申し上げたとおり、一晩泊めていただきたいんです」
ボサボサ頭で無精髭を生やした冴えない中年男の佐藤晃司は、いつもの着古したチノパンとパーカーで、日付が変わってしばらくした頃にビル清掃のアルバイトを終え、通りから1本入った住宅街にいくつかマンションが立ち並ぶ中の一番古ぼけた自宅のマンションへと帰ってきた。
コンビニ袋に入った500ml缶のビール2本を左手にぶら下げている。夕食は帰りに牛丼屋で手早く済ました。
オートロックなど無く、2本並んだ天井の蛍光灯の片方がチカチカ点滅してしまっているエントランスを横切り、上矢印のボタンを押し、エレベーターで7階まで上がり、ポケットから鍵を取り出し703号室のドアを開けた途端に、背中に強い衝撃を受け玄関に転がり込むように倒れた。
驚いた晃司が後ろを振り向くと、息を切らした見知らぬ若い女が自分に覆いかぶさるようにしている。
訳がわからずにあっけにとられていると、女は立ち上がって靴のままズカズカとキッチンと六畳一間の狭い部屋を横切りベランダの窓の閉められたカーテンをすこし開け外の様子を窺っている。
その様子を見て我に返った晃司は、やっと声を発することができた。
「なにやってるんだ。いったい、なんの用なんだ!」
しばらく無言で外を見ていた女は、今度は玄関で座り込んだままの晃司にズカズカ近寄って来た。思わず後ずさりする晃司をよそに、女は玄関で履いていたパンプスを脱ぎ、きちんと揃えると晃司に向かって追われていると言い出した。
リクルート用のような濃紺のパンツスーツでロングの黒髪を後ろで束ねた見たこともない女に唐突に泊めて欲しいと言われ、晃司は状況がまったく飲み込めずにパニックになってしまった。
「なっ、なんで、俺があんたを泊めなくちゃいけないんだ。会ったこともない見知らぬ女を泊めなきゃいけない理由なんてない!」晃司は上ずった声で「さっさと出ていってくれ!」と玄関で尻餅をついたままの姿勢で吐き捨てた。
女はうつむき加減で、すこしの間なにも言わずに考えている様子だったが、意を決したように顔を上げ再び口を開いた。
「泊めていただけないのなら、仕方がありません。あなたを殺します」と静かな声で言い放った。
「はっ、さっきからあんあたは一体なにを言ってるんだ。こっ、殺すだと・・・警察を呼ぶぞ!」
そう言って、晃司はズボンのポケットからスマートフォンを取り出し緊急通報しようとした。
「やめてください」女が素早く、スマートフォンごと晃司の左手を両手で握りしめた。
女は覚悟を決めたように「わかりました。事情を包み隠さずご説明するので、聞いていただけませんか?」そう言って、奥の六畳間のリビングに歩いて行き、この部屋の唯一の家具と言ってもよいローテーブルの前に背筋を伸ばして正座した。
あっけにとられていた晃司も、女の落ち着いた態度にすこしだけ冷静さを取り戻し、つられるようにしてローテーブルの向かい側に横を向いてドカっと胡座をかいて座った。
やばい奴が入り込んできちゃったな、覚醒剤でもやっているのか。それにしては言動はしっかりしているな。酔っている感じでもないしな。単に頭のおかしな奴なのかな。晃司は判断できなかった。
「いったいどうゆうことなんだ。俺にわかるように説明してくれないか」
「大変失礼しました。私も身の危険を感じて冷静さを失ってしまいました」と頭を下げた女は、言葉遣いもしっかりとした真面目そうな若い女性のように思える。
「実は私は北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国の工作員で、今夜、町田首相を殺し新幹線の最終で名古屋の自宅に帰ってきたのですが、自宅マンションの前に怪しげな車が停まっていて、おそらく仲間の工作員が私を始末しに来たのだと思います。とっさにお隣のこのマンションのエントランスに身を隠しました。そこへコンビニの袋を下げたあなたが帰って来られたので、あなたがエレベーターに乗ったあと、エレベータの向かい側にある階段で急いで追いかけて部屋に入るところを後ろから体当りして転がり込んだんです」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・」女の話に、驚きと疑問が増しただけだった。
「え〜っと、いろいろ聞きたいことはあるけど、まず7階まで階段を駆け上がってきたのか? エレバーターと同じスピードで?」
「はい。私達工作員は、特殊部隊と同じような訓練を積むので、体力には自身があります」
「ああ、そうなの・・・」
晃司は質問をしている自分に対して、”最初に聞くのはそれだったのか?”と思いながら、次の質問をなんとか絞り出した。
「で、町田首相を殺したの?」
「はい、殺しました」と女ははっきりとした口調で告げた。
「そんなことをいきなり言われて信じられると思う?」
女は黙ってローテーブルの上にあったテレビのリモコンを手に取り、電源ボタンを押した。
するといきなり緊急特番と銘打たれた番組で、町田秀則首相が今夜赤坂の料亭で会食後意識不明で病院に搬送された後、搬送先の病院で死亡したと伝えていた。
どのチャンネルも緊急特番を流しており、死亡原因は未だ不明としているものの、首相の死亡は間違いない事実だった。
「これ、ほんとにあんたがやったの?」
「はい、青酸カリを酒に混ぜて飲ませました」
「あんたは、なんで首相にそんなことがことができたの?」
「与党自由民権党の大物議員、副首相の鬼頭幸三郎の口利きで、首相の町田が足繁く通う料亭の仲居として半年前から働きながら機会をうかがっていました。今夜、二人きりになる機会がやっと巡ってきたので実行しました」
「じゃあ、なんで首相を殺したの?」
「先程申し上げたとおり、私は北朝鮮の工作員です。暗殺は本国からの指示で、私には理由まではわかりませんが、町田がいなくなればおそらくは鬼頭が総裁になり首相になるでしょうから彼にはメリットがありますし、このところ支持率低迷にあえいでいる自由民権党にとっては、この夏に予定されている衆議院議員選挙に追い風が吹くでしょうから、それもプラスなのではないでしょうか」さらに女は続ける。「本国もなんらかの利益がなければ動きませんから、鬼頭は本国、北朝鮮と裏で強く繋がっているんだと思います。つまり鬼頭を通じ相当な額のジャパンマネーが本国に流れているということです」
自分の住む世界では、小説や映画でしかありえない絵空事なので、晃司は混乱を極め、すべてを信じることなど到底不可能だった。
「あんたは本当に北朝鮮の工作員なの?」
「はい、日本に潜入して5年になります。日本名は高橋美緒(みお)といっていますが、本名はリ・ジウンといいます」
「北朝鮮では、あんたみたいな若い女性が工作員になるの?」
「はい、若い女の工作員は潜入が比較的容易だし、なにかと好都合なことがあるので多くいますし、さらに私の場合はクローンなので、いつどうなっても悲しむ人がいないから工作員にはうってつけなのでしょう」
いよいよ別世界の絵空事になってきて、晃司は頭を左手で激しく頭を掻いた。
「あんたは、クローン人間なのか?」
「そうなんです。オリジナルがどこでなにをしていた人物なのかはまったく知りませんが、オリジナルから複製されたクローンは私の他にも数体いるはずです」
「北朝鮮といえば、餓死者がでるほど貧しい国だぞ。それが世界でも聞いたことのないクローン人間を作っているだと! そんなこと信じられるわけないじゃないか!」頭は混乱しているものの、首相が死亡した事実を目の当たりにして、すこし女の言うことを信じかけていた晃司だが、その女がクローンと聞いて、やっぱり頭のおかしなやっかいな女が転がり込んできたのだと思った。
「さっさと出ていってくれ! あんたをここに泊めることはできない。出ていかなければ警察に通報する!」
喚き散らす晃司に、女は冷静に語りかけた。
「貧しい国だからこそ、先端の技術を持っているのですよ。ご存知にように本国は核開発に余念がなく、すでにアメリカ本土まで到達可能な大陸間弾道弾も保有しています。ということは、南や日本などはとうの昔に核攻撃の範囲内です。貧しいからこそ、力が全てなんです。力がなければ大国に飲み込まれてしまうでしょう。それに将軍様がやるといえば、どんなに倫理に反することでも行われます。1996年にスコットランドのロスリン研究所で生まれたドリーというクローン羊のことを覚えてらっしゃいますか? それから30年近く時が経つのに人間のクローンを作る技術が生まれていないとでも思われますか? 実際にそのわずか5年後の25年前には、私が生まれています。世界は倫理観だけでクローン技術を発展させることにブレーキを掛けているんでしょうけれど、世界は倫理観を持ち合わせた国や人々だけの集まりではありませんよ。力を手に入れるためであれば、人民がどんなに苦しんでいても核開発やクローン技術におしみなく武器や麻薬、ハッキングで儲けた莫大な資金をつぎ込む独裁者もいるのです」
晃司は反論できなくなってしまった。
そう言われればそのとおりなのかもしれない。すくなくともこの女が冷静に語る様子から知性を感じるし、頭のおかしな人間ではないように思えてきた。
しかし、そうは言ってもあまりの衝撃の強さに、アルバイトでビル清掃員をして食いつないでいる晃司には、すべてを受け入れることもできなかった。
「ちょっと頭の中を整理させてくれないか、あんたの言ってることは俺が知っている世界とはかけ離れたことばかりだ。時間が欲しい。考えさせてくれ」
「当然ですよね。いきなり押しかけてきて、にわかに信じがたいことを言っているのは私にもよく理解できます。ここで待たせていただくのでじっくり考えてみていただけますか」
「ああ、そうさせてもらうよ」と言って晃司は買ってきた缶ビールをコンビニ袋から取り出して、ローテーブルの上でプルトップを開けた。
途端に泡が吹きだしてきて、ローテーブルの上にこぼれたビールが水面に墨汁を垂らしたときのように広がり、テーブルの端からカーペットも座布団も無いフローリングの床にこぼれていく。
玄関で女に突き飛ばされたときに、手に下げたていたコンビニ袋の中のビールが床に叩きつけられ、それを開ければどうなるか、当然の結果なのに今の晃司はそこまで頭が回っていなかった。
それを見て女が機敏に立ち上がり、思わず驚いてのけぞる晃司を尻目に、キッチンからタオルを持ってきた。丁寧にテーブルと床を拭く女を見ながら、今度は晃司が立ち上がり、キッチンからグラスを2つ持ってきた。
晃司は無言で缶に残ったビールを2つのグラスに注ぎ、そのひとつをテーブルの上をすべらせるようにして女に差し出した。
女の言ってることが本当なら、随分あわただしい一日だったんだろう。首相を殺してきた北朝鮮工作員のクローンの女と差し向かいでビールを飲むなんてこれからの人生では絶対にないことなので、これはこれで貴重な経験なのかな、と晃司は思い始めた。
20年前に5歳だった娘を目の前で失ってから、晃司は生きる気力を無くしていた。道路の反対側にいた妻の姿をみつけた娘は、晃司と繋いでいた手を振り切り、妻の名前を呼んで道路に飛び出し、走ってきた車にはねられ即死した。走ってきた車にはねられたというより、娘が目の前まで来ている車の前に飛び込んでしまったという表現のほうが正しい。
脳裏には、娘が目の前で跳ね飛ばされて、手足をおかしな方向に曲げながら宙を舞う姿がいまでも焼き付いている。
晃司は娘の手を離してしまったことを強く悔いた。この20年間自分を責め続け、大手銀行のエリートだった男が、職を捨て酒に溺れてその日暮らしの生活を送るようになった。当然夫婦仲もうまくいくわけがなく、妻とは離婚し現在まで音信不通で、今、どこでどのように暮らしているのかも知らない。
それでもここ10年ほどは、以前ほど酒に溺れることもなくなり、アルバイトながらビル清掃の仕事も真面目にこなし、無気力ながら淡々と日々過ごしてきた。
自分が苦しむことは当たり前なのだが、別れた妻や、娘をはねてしまった人にも大きな心の傷を負わしてしまったという気持ちが、じわじわと湧き上がってきたからだ。母親を見つけ、喜び勇んで駆け寄ろうとする娘が目の前で宙を舞う姿。地面に叩きつけられたあとの変わり果てた娘の姿。どう見ても助かるはずがない、息をしていない娘の姿。妻が目にした娘の姿は、自分も今でも忘れようがないが、妻はもっと苦しんでいるに違いない。そして晃司のことを今でも恨み責め続けていることだろう。
避けようもなく娘をはねてしまったひとも同じだ。一生忘れられない心の傷を負わしてしまった。娘が飛び出したのは見通しの良い片側1車線ずつの道路で、30mほど前方にある信号も青だったので、走ってきた車がスピードを緩める必要はなにもない状況だった。
目撃者の証言や現場の状況などから避けようがなかったのは明白で、晃司もそう証言したし、そのひとがどのような罪に問われたかは混乱状態だったので詳しくは知らないが、あのひとはあれからどんな人生を送っているのだろうか。考えれば考えるほど、苦しみが増してゆく。
両親も孫を失った悲しみからでもないだろうが、12年前に父親が癌で、翌年母親が心筋梗塞で後を追うようにして70代半ばで亡くなってしまった。
なかなか子どもに恵まれず、高齢出産でやっと一人息子の晃司を授かった両親は、ずいぶん大事に育ててくれたが、それを裏切るようなことをしてしまったことも深い心の傷だ。
親戚とはもともと疎遠だったので、両親を無くしてからの晃司は、天涯孤独の身になってしまった。
娘がもし生きていれば、ちょうど目の前のこの女くらいの年齢になっていたことだろう・・・。だからといって北朝鮮の工作員で首相を毒殺したと自ら言っているクローンを匿ってやる必要はなにもない・・・。無理に叩き出そうとすれば、晃司を殺すと女は言った。本当に工作員としての訓練を積んだ人間なら、50歳を目前にした自堕落な生活を送ってきたオヤジを殺すことなんて簡単なんだろう・・・。抵抗しても無駄だ。隙を見て警察に通報するか? なんと通報する? 首相を殺した北朝鮮工作員のクローン女が、今、部屋にいます・・・信じてもらえるはずがない。不審者に押し入られて命の危険を感じています。助けてください・・・。駆けつけた警察官が身なりのきちんとした若い女性と無精髭を生やしたしょぼくれたオヤジを見て、こちらを取り押さえようとするのは必定だ。それにパトカーのサイレン音に女が気づき、自分を殺すかもしれない・・・。
まあ、いいか。どうせダラダラと生きているだけだし、一晩くらい泊めてやっても。あとで警察沙汰になったときには、無理やり押し入られたと言えばいい、事実だし・・・。町田首相になにか思い入れがあるわけでもないし、首相が町田から鬼頭に変わったところで、アメリカの大統領が変わったような変化が起こるはずでもなく、自分の生活にはなにも変わらない・・・。
それに幸せな人生を送ってきたとはとても思えないこの女に、自分が不幸にしてしまった人達が重なり、多少なりとも同情心が芽生えてきたのも事実だ・・・。
2本目のビールを吹き出してもテーブルや床を汚さないように、シンクで慎重に開け、飲み終わった頃に晃司はやっと口を開いた。
女はコップ1杯のビールを時間をかけて飲んだだけで、あとは晃司がゆっくり残りのビールを無言のまま飲み干すのを正座をしたまま黙って見ていた。
工作員ともなれば、相当厳しい訓練を受けてきたのであろうから、床に正座するくらいはなんともないのだろうか? それにしても、さっきは自分を殺してでもここに居座ると言っていた女なのに、随分健気な態度だと晃司は思った。
「わかった。今晩一晩泊めてやるよ。そのかわり明日の朝になったら、さっさと出ていってくれ。面倒はごめんだから、あんたのことは警察には言わない。こっちも町田にはなんの思い入れも義理もないし、なにかを期待できる首相でもなかったしな。誰が首相になろうが北朝鮮のような独裁国家にはならないだろうから、俺には関係のないことだ」
女はすこしだけ表情を緩めコクリとうなずいて、その後丁寧に頭を下げると、後ろでひとつに束ねた髪が女の頬に垂れてきた。
「布団も枕も一組しか無い。座布団さえこの部屋には無いから。俺が普段使っている布団で悪いが、それを使ってくれ。風呂やシャワーを使いたいならキッチンの横にあるから適当に使ってくれ」
「私が床で寝ますから、大丈夫です。あなたはいつものように布団で寝てください。わたしも今日はちょっと疲れてしまったので、シャワーは使わせてもらいますが、じゃまにならないようにキッチンで寝ますから」
ゴールデンウィークに近いこの時期、日中は半袖で過ごしても肌寒さを感じない日もあるが、夜はさすがに冷えてくる。床で寝るだけでもつらいのに掛けるものも無いのはさらにきついし、疲れも取れないだろう。晃司は2枚だけしかないバスタオルとリビングの奥の押し入れにしまってあった毛布1枚を女に渡し、バスタオルの1枚はシャワーのあとに、あとはせめて掛けるなり床に敷くなりして寝てくれと言った。
「じゃあ、俺はもうこのまま寝るから、なにか困ったことがあれば起こしてくれ」と晃司はキッチンと6畳間のリビングの境にあるすりガラスがはまった格子のガラス戸を閉めた。
寝るとは言ったもののそれほど酔いも回っていないし、よく考えれば玄関はキッチンの横なので、出入り口は女に抑えられた形だ。7階のこの部屋のベランダから逃げ出すなんて、工作員でもなんでもない自分にはできるはずもなく、かと言って戦って勝てるとも思えないし、寝首を掻かれて殺されないようしなければ、と思った。
押入から薄っぺらな布団を出して床に敷いて横にはなってみたものの、余計なことを考え出してしまった頭は冴えたままだった。
女が晃司に語ったことをひとつひとつ反芻して、晃司なりによく考えてみた。が、結局よくわからなかった。北朝鮮の工作員でクローンの女が、首相を殺して、自分の部屋に逃げ込んできた。どんなに考えても現実離れしすぎていて受け入れようがない。
女がニュースを見て、作り話をしている可能性もあるが、だとすると嘘までついてこの何も金目のものがない部屋に転がり込んできた意味がわからない。
あの女は、どんな人生を歩んできたのだろうか? 仮に話が本当なら、クローンというからには、女性の体内で育ち出産されたわけではなく、試験管で細胞分裂を繰り返しながら、徐々に大きくなってきたのだろうか? いや、それなら試験管ベイビーか? 育ての親はいたのだろうか? それともクローンばかりの施設で、子供の頃から工作員としての英才教育を受けてきたのだろうか? だとしたら、女も言っていたように自分と同じオリジナルから生まれたクローンとも一緒に育ったのか? リアルおそ松くん状態か? いや、おそ松くんはクローンじゃないな。
とにかく、愛情というものを受けずに育ってきたんじゃなかろうか。それにしては礼儀正しいし、ひとを思いやる心を持ち合わせているように思う。オリジナルがそういう人格のひとだったのだろうか?
工作員としての訓練ってどんなものだったのだったのだろうか? CIAの工作員や特殊部隊の訓練は映画で観たことがあるが、あれが本当のことではないだろうし、ましてや人権なんてないも同然の北朝鮮のクローンなんだから、過酷を極める訓練だったのではないだろうか? 泥水を飲むとか、裸に近い状態で雪中に放り出されるとか、肉体的精神的苦痛に耐えられるように訓練されたんだろうな。格闘技全般を習得するのはもちろん、頭脳明晰でもある必要があるのだから、朝から晩までというか寝てる間も気の休まる時間のない生活を送ってきたのではないか・・・。
<chapter 02 晃司と美緒 2日目>
いつの間にか寝てしまった晃司は、キッチンからの物音で目を覚ました。すりガラス越しに女がキッチンで動いているのがわかる。
起き上がった晃司は、引き戸を開けキッチンへ向かい「おはよう」と声をかけた途端、驚いて腰を抜かしそうになった。
昨夜泊めてやったはずのリクルート用のような濃紺のパンツスーツを着てロングの黒髪をまとめていた女はそこにおらず、オーバーサイズのグレーのトレナーとデニムパンツを身に付けた茶髪でショートカットの女が振り向いて「おはようございます」と答えたからだ。
「どうしたの、その格好は?」
「朝早く、自宅に戻って着替えて来ました。それにその他必要なものもこのリュックに詰め込んできました」と言って女は傍らにおいた黒のバックパックを指差した。
「髪はどうしたの?」
「自分でカットして、染めたんです。ドンキでカラー剤買ってあったんで、似合ってますか?」と女がニッコリ笑った。初めて見る女の笑顔に、晃司はやっぱりこの娘も普通の若い女性なんだなと思った。
「まあ、そうだな。昨日の新入社員ぽい格好よりも、俺は親近感を抱くし、似合ってると思うよ」
「そうですか? 良かった。これですこしはごまかせるといいんですけどね、そのうち警察からも追われるでしょうから」
なるほど、晃司から見れば別人のようになった理由はそこにあったのか、そりゃそうだな。それにしても手際よく変身したものだと感心した。
「自宅に戻って大丈夫だったのか?」
「朝方には仲間の車も消えてました。きっと今頃必死になって私の行方を追っているでしょうから、逆に一番安全な場所だと思いました。かと言って長居はできませんけどね」と答える女の手元では、ベーコンと目玉焼きが美味しそうな匂いと音を立てていた。
ローテーブルに向かい合わせで座り、二人は朝食を食べた。ベーコンと目玉焼きのほかに、クロワッサン、カップヨーグルト、テイクアウトしたコーヒーが並んでいる。自宅に立ち寄ったついでに女がコンビニで揃えてきてくれたそうだ。
「こんな朝食は何十年ぶりだろう・・・」晃司は思わずつぶやいてしまった。
「大げさですね、大したものがあるわけでもないのに」と女が笑う。「奥さんとか彼女が作ってくれたことはないんですか?」女が自然に会話を続けてきた。
「妻はいたが、もう20年ほど前にある原因があって別れたきりだ。それ以来付き合いった女性はいない。俺にはそんな資格がないんだ」
「そうですか、なにか訳がありそうですね。ごめんなさい、変なことを気軽に聞いてしまって」
「いや、いいんだ。済んだことだし、本当はいつまでも苦しみ続けるより、前を向いて生きていかなければいけないことぐらいはわかってはいるんだけど・・・。できないんだよ、この20年の間」
晃司は縁もゆかりもない北朝鮮の工作員の女になにを言っているんだと思いながら、見知らぬ相手だからこそ、自分の中に溜まったすべてを吐き出してしまいたい、楽になりたいという思いがよぎった。
「誰にだって話したくないことぐらいありますよね。私なんかそんなことばかりです。親もいないし、本国にいたときは辛いことしかありませんでした。でも、この5年間を日本で過ごして、本国からの指令を待つ間、やっと人並みの暮らしというか、本国にいたときは想像もできない暮らしを送ることができて嬉しかった」
北朝鮮での出来事を思い出したのだろうか、女は遠くに目をやり小さなため息をついた。
やはりこの娘は、俺なんかが想像もできないくらいのつらい思いをしてきたんだろうな、と晃司は思った。七五三、新入学、誕生日、クリスマスそんな日本では当たり前のことをなにも経験せずに、両親の愛情を受けることなく、道具として国のために、いや一人の独裁者のために働くためだけに生かされてきたに違いない。
「実は、20年前に娘を目の前で亡くしてるんだ」晃司は思い切って過去の出来事を話し始めた。
「俺が繋いだ手を離してしまって、娘は道の反対にいる妻に駆け寄ろうとして車にはねられて死んだ。俺はそれ以来まともな暮らしが送れなくなってしまった。あんたの人生に比べれば、自業自得でなんの言い訳もできない。前を向いて生きる気力もないつまらんオヤジなんだよ」
「そうですか・・・。娘さんを亡くされてつらかったでしょうね。でも、私がこんなことを言えた立場ではないんでしょうが、あなたが自分を責め続けることで娘さんが浮かばれるとは思えません」そこまで言うと、女は頭をローテーブルにぶつけてしまう勢いで「ごめんなさい」と頭をさげた。「つい、生意気なことを言ってしまいました」
「いや、いいんだ。そのとおりなんだ。さっきも言ったが、自分でもわかっているんだ。わかっているができないんだよ」晃司は自嘲気味に笑って女を見た。
「おいくつだったんですか、娘さんは亡くなったとき?」
「5歳だよ」
「それから20年ということは、ちょうど私と同じ年齢ですね」
「そうか、あんたを見たときに娘が生きていればあんたぐらいになっているのかな、と思ったよ」
「だから泊めてくれたんですか・・・」なるほど納得したという表情で女はコクリコクリとうなずいた。
「いや、殺されるのが怖かったからだよ」と言って晃司は口角を上げようと努力したが、どうやら引きつっていたようだ。
「本当に申し訳ありません。あのときは私も冷静さを失っていて、薄々はそうかもしれないと心のどこかにはあったんですが、本当に仲間が私を始末しに来ているのを悟ったときは動揺しちゃいました」女は肩をすぼめている。「でも、もう冷静になれました。一晩泊めてもらえただけで十分です。本当にありがとうございました」
「と言いながら、このコーヒーに青酸カリがりが入ってたりして・・・」と、晃司はまた女を笑顔にさせようと引きつった笑いを浮かべてみせた。
が、女は怒りを顕にして「そんなことを言うと、本当に殺しますよ」とシャレにならないことを真顔で言ったので、晃司は俺の冗談はこの娘には通じないんだな、気をつけなければと思った。
「あと、”あんた”と呼ぶのをやめてもらっていいですか。私は最初にお話したように日本名を高橋美緒、本名はリ・ジウンというので、美緒でもジウンでもいいから名前でよんでもらえないでしょうか?」
「じゃあ、高橋さんで」
「美緒と呼んでいただけないでしょうか?」
「じゃあ、美緒さんで」
「頑固ですね。親子くらい年の離れた人間に対して、さん付けはおかしくないですか?」
「社会人になれば、年齢は関係はい。今、俺はビル清掃のバイトで食いつないでいるが、上司も社長も俺より年下だけれどちゃんとさんを付けて呼んでる」
「それとこれとは、話が違いますよね」
「いや、違わない。知り合って間もないひとに対する社会人としての常識だ」
「急にりっぱな社会人みたいなことをおっしゃるんですね。ついさっき前を向いて生きる気力もないつまらんオヤジって言ったのに・・・ごめんなさい、私が悪かったです。言い過ぎました」
「気にしなくていいよ。そのとおりだ」すこし間を開けて、今度は晃司が遠くに目をやり話しだした。「俺ね、これでもエリート銀行マンだったんだよ、娘を亡くす前までは。一流と言われる大学を出て、一流の銀行に就職して、将来を嘱望されるほどのエリートだった・・・。その頃の癖が抜けないのかもしれないな。もうすこしフランクにひとと接することができたら人生も変わっていたかもしれないと思うこともあるよ。でもさ、急には変われないし、変わる必要もないんじゃないかなって最近は思うんだよ」
銀行マン時代の晃司は、高度経済成長期のサラリーマンの如く、朝から晩まで寸暇を惜しんで働いた。幸せな家庭を築き愛する妻と子ども達に囲まれて、自分もそれなりの地位に登り詰め、それなりの家を建て、孫と日向ぼっこでもしながらなんの不安もない老後を送る。そんな人生設計を思い描いていたし、そのとおりになるはずだったのに、すべてはあの事故が変えてしまった。
美緒はひとにはそれぞれいろいろな人生があるんだなぁ、と思い、晃司の歩んできた道のりをすこし想像してみた。
「そうですか、じゃあ残念ですけど、美緒さんでお願いします。私、北朝鮮の工作員で殺人犯でクローンですけど、むやみに人を殺すサイコパスではないし、喜びも悲しみも感じることができるんです。ほかのひとと変わらない人間であることはわかってもらえると嬉しいです」
「わかるよ。特に今朝は、あん・・・じゃなくて美緒さんから圧は感じない。こうして朝食を作ってくれて二人で食べていると、こんな俺でも人並みの生活を送ってみたいなって気になるし。今はちょっと美緒さんに感謝してるよ」
晃司は自分でもなんでこんなことを口にしてしまったのかわからなかった。ただ作ってもらった朝食を一緒に食べるという行為が、自分の気持ちをこんなにも温かなもので包み込んでくれるものなんだと驚いた。
「あの〜、そちらのお名前をうかがってもいいでしょうか?」
「ああ、そうか。まだこっちの名前を言ってなかったね。佐藤晃司といいます。よろしくお願いします」と言った後、晃司は”よろしくお願いします”はおかしいよなと苦笑いした。
美緒は、はにかむように微笑んで朝食を食べている。
晃司は昨夜からのニュースをチェックしておこうと思い、ローテーブルの上にあったリモコンの電源ボタンを押してテレビをつけた。
特別番組がその日も朝から放送されており、首相の町田が死亡した経緯について昨夜より詳しく報道されていた。最後に町田と料亭の一室で一緒にいた仲居の行方がわからず、なんらかの事情を知っている可能性が高いと、現在警察がこの仲居の行方を追っているとのことだった。
美緒のことだと晃司は思った。美緒の話と相違点がない。やはり本当に美緒は町田を青酸カリを使って殺害したのだ。
ということは、北朝鮮の工作員でクローンというのもやはり本当のことなんだろうと晃司は思った。
疑っても仕方がないし、嘘であったところで、美緒は朝食が済めば出ていくのだから、自分には関係のないことだ。
『ここで、首相官邸から緊急会見がありますので、現場のカメラに切り替えたいと思います』アナウンサーがそう告げる。
会見に現れたのは、副首相で首相代行を務める鬼頭幸三郎だ。豊かな髪をオールバックに撫でつけ、政治家には珍しいピンストライプのダブルのスーツに身を包んだ鬼頭は”剛腕”と言われ、50代半ばの次世代のエースと称される衆目を集める政治家だ。度胸があり、はっきりとした物言いでテレビ出演も多く知名度も高いため、国民からも若きリーダーとして待望論があがっている。太い眉は意思が強そうだし、鼻筋が通って時代劇の主役を演じられそうな濃い顔立ちで、一度見たら印象を強く残すことができるのもこの世界ではプラスに働いている。
鬼頭はなんの前置きもなく、いきなり本題に入った。
『え〜、昨夜の町田首相が殺害された件で、政府としては一刻も早い犯人の確保を望む観点から、容疑者と思われる料亭の仲居で行方をくらました一条香(いちじょうかおり)、25歳の潜伏先と思われる愛知県名古屋市千種区を封鎖し、徹底的に捜索するものといたしました。この件につきましては警視庁と愛知県警が連携し、すでに本日未明には捜査本部を開設しており、本日只今から完全封鎖を実施いたします』
「えっ?」「はっ?」美緒と晃司は同時に声を発し、画面に釘付けになった。
会見場にいた記者席からは、『首相は殺害されたんですか?』『行方不明の仲居が犯人なんですか?』『なんで名古屋の千種区を封鎖するんですか?』『そんなことしていい訳ないだろ!』という質問とも怒号とも思える声が飛び交った。
『本件は現職首相の殺害という決してあってはならない事件ですので、私、副首相で首相代行を努めます鬼頭幸三郎みずから陣頭指揮をとり、早期解決に向け全身全霊で臨む覚悟であります』
鬼頭は、力のこもった目でテレビカメラを睨みながら一言ひとことを、はっきりとした言葉をつないでいる。
『町田首相が殺害されたのは間違いないんすか?』
『完全封鎖とは具体的にどのように行われているのでしょうか?』
『料亭の仲居は、犯人と見て間違いはないのでしょうか?』
『犯人と断定した根拠を教えてください!』
次々に緊急会見に集まっているマスコミから質問が浴びせられ、会場が騒然としてきた。
本来なら挙手した上で、指名された者が所属先と氏名を名のり質問を許されるのだが、前代未聞の出来事に悠長にルールを守る者などいなかった。
会見場は、速報を伝えようとするTV局各社のクルーとレポーター、その場で本社へ連絡する新聞記者、慌てて名古屋までの新幹線チケットを予約しようとするジャーナリスト達で、収集がつかないカオスな状態になった。
鬼頭が大きく腕を広げ、ぱんっと一本締めのように手を打った。
すると騒然としていた会場が一瞬静寂を取り戻した。
『これ以降の質疑応答については、このあと官房長官が応じますので、ご心配なく。私はすぐに首相官邸へ入り、捜査本部と連絡を取りながら捜査の指揮を取ってまいりますので、ここで失礼します』と告げ、鬼頭は颯爽と会見場から去っていった。
その後に行われた官房長官と記者達のやり取りでは、犯人については、一条香25歳とほぼ特定している。理由については、昨夜、町田首相が料亭で倒れたときに同室にいた唯一の人物であること、町田首相の検死解剖が行われ、死因が青酸カリによる中毒死であったこと、また徳利に残された酒から同種の青酸カリを検出したことから、町田首相が倒れた直後から行方をくらました料亭の仲居、一条香を町田首相殺害犯としてほぼ断定したこと。
また、東京駅と名古屋駅の監視カメラに写ったマスクをして黒縁の眼鏡をかけてうつむき加減で歩く一条香と見られる女の映像から、一条香が住み込みで料亭に勤務する以前に居住していた愛知県名古屋市に戻っている可能性が極めて高い。料亭に届け出ていた履歴書の旧住所も愛知県名古屋市千種区となっている。ただ、この旧住所は細部がデタラメで実存する住所ではなかった。現在名古屋駅からの移動ルートの確認を急いでいるが、タクシー会社から一条香の風貌に似た女を千種区内まで乗車させたという有力な情報が得られたため、今回の愛知県名古屋市千種区を封鎖することに踏み切ったことが発表された。
千種区の封鎖方法として、千種区内から出ていこうとする側の幹線道路および間道に至るまで検問の実施。バスについても千種区内から出ていく側の停留所での検問の実施、地下鉄については、千種区内にある11駅の改札口から入っていく側に検問を実施すること。容疑者と特定しているのは25歳女性なので、変装、その他疑わしい者には本人確認を行うが、疑いのないものは通常通り検問を通過させること。これに伴い通常よりも通勤通学に通常より時間がかかることが予想されるので、十分時間に余裕を持って出かけるようにとの注意事項も添えられた。
道路検問の方法については、幹線道路にはバリケードを設け、数人の警察隊が常駐し車内の目視による確認、超高性能サーモグラフィーカメラによってトランク内の温度検査。歩道は両側で歩行が可能なので、両側にそれぞれ警察官が立ち、歩道の幅が広い場所ではバリケードを設置して検問に当たる。間道は簡易ゲートを設け警察官が常駐する。
これらは、幹線道路の歩道以外は、すべて千種区内から出ていこうとする側に対して実施するので、コンビニ、スーパーなどへの生活物資の搬入は今までどおり滞りなく行われる。
また、千種区内の移動については今までどおり自由に行えるので、生活への影響は最小限で済むのではないか。
今後の捜査については、タクシーが女をおろした付近から重点的にローラー作戦を行なって各戸を訪問調査していく方針であること。また、今回の千種区封鎖、および訪問調査には、多数の人員が必要なため、愛知県警と警視庁だけではなく、現場に全国から東京オリンピック開催時を上回る数の警察官を、必要に応じて自衛隊員も動員し早期解決を目指すので、封鎖は短期間で終わる見込みだとのことだった。
犯人と思われる一条香の情報としては、名前は偽名の可能性がある。年齢は25歳で身長は165cm程度の痩せ型。行方をくらませた時点ではロングの黒髪で、普段は眼鏡はかけていない。色白で首の左側に小さな黒子があることが伝えられた。
美緒と晃司は唖然として、緊急記者会見と報道の様子を眺めていたが、特番が一区切りしたタイミングで晃司は我に返り、”こんなことが日本で本当に行われているのか?”と美緒と同じ疑問が心に浮かんだ。そして実行されているにしても、どう考えても動きが早すぎる。首相の検死、犯人の特定、発表、封鎖の実施。どれをとってもこれまでの日本ではありえないほどの速さをもって行われている。
「一条香って美緒さんのことだよね?」と晃司は一応聞いてみた。年齢、身長も合っているし、首に黒子もある。これで間違いなく美緒の言っていることは本当のことなんだと確信した。
「はい、そうです。鬼頭の口利きで料亭で働くときに、その名前で履歴書を出しました。住所はさきほど報道されていたとおり細部はごまかしましたが、千種区までは本当の住所を書きました・・・にしても、早いですよね。こんなに早く発表されるなんて・・・しかも千種区を封鎖するって、こんなこと今までなかったですよね」
「鬼頭は一刻も早く美緒さんを始末したいんだろうな。自分が首相殺害の黒幕だってことがバレてしまう前に、なんとしても捕まえるつもりなんだよ。それにしても千種区を完全封鎖って、今の日本で本当にそんなことが行われるなんて・・・」晃司は疑問というより強い懸念を持った。
「昨日帰ってくるときに、名古屋駅からタクシーに乗ったのは本当?」晃司は続けて聞いてみる。
「はい、本当です。降りたのは今池駅付近です。警戒はしていたので、自宅までは乗車せずそこからは徒歩で戻ってきました」
「今池からここらまでなら2kmくらいか、じゃあまずは今池あたりから捜査を広げるつもりなんだな」
「でも、料亭で働いているときは、決して写真を撮られないように気をつけていたし、お客にどうしてもとせがまれて一緒に写真に収まるときは、笑ったふりをして手で顔を隠してましたし、履歴書には写真は貼っていません。どうやってタクシー会社に私を確認させたんでしょう?」
「こうなったら鬼頭もなりふりかまっていられなかったんじゃないのかな。美緒さんのマンションの前に仲間の工作員が待ち伏せしてたんでしょ。なら本来の計画では工作員に美緒さんを拉致させて秘密裏に始末しちゃうつもりだったんじゃないかな。でも美緒さんが気づいてどこに行ったかわからなくなっちゃったから、急いで手を打ったんだよ。北朝鮮が協力してるなら、顔写真くらい簡単に入手できたんじゃないのかな。でもそれを報道しちゃうとその顔写真はどこから入手したんだって、あとから突っ込まれても面倒なことになるから、マスクと眼鏡かけた上に画質の粗い映像を公開したんだと思う」
「なるほど、本国と鬼頭は想像以上に太いパイプがありそうですね。ダイレクトに本国の上層部とやり取りしているとしか思えないですね」美緒の顔に不安の色が広がってゆく。
「美緒さん、しばらくここに居なよ」晃司は思い切って口にしてみた。拒絶されるかもしれないが、説得するつもりだった。今は他に方法がないのだから。
美緒は「いいんでしょうか?」と確認はしてきたものの、拒絶せずに受け入れた。どうやら千種区から無事に脱出する方法が見つからない今となっては、行く当てもないのでそうするのが一番だと悟っている様子だ。
ただ自分が留まることで、あとになって晃司に迷惑がかかることが心配だと言う。
「それは大丈夫。もしあとになって警察に調べられたら、無理やり押し入られて殺すと脅されたので、そうせざるを得なかったと言うよ。本当のことだし」
「私を悪者にするのはまったく構わないんですけれど、私が心配なのは日本の警察ではなくて本国です。私としばらく一緒に居たとしたら、どこまで情報が漏れているか確認したいと思うんですよね」
「まあ、それも大丈夫だって。だって北朝鮮の工作員で、クローンだなんて誰かに言ったところで信じてもらえないでしょ。俺がジャーナリストとかマスコミ関係の人間ならいざしらず、調査して発表する場も無いんだから、ちょっとイカれちゃったオヤジって言われるだけだよ。SNSも一切やってないし。俺だって、こうやって美緒さんの言ったことがテレビを通じて次々に事実だとわかるまでは、確信は得られなかったもん」どうせ娘が死んでしまってから、抜け殻みたいに生きてるだけだから、なにかあったところで困らないよ、と晃司は心のなかでつぶやいた。
朝食を済ませ、晃司はバイト先のビル清掃会社に電話を入れた。体調が思わしくなく発熱もあるので、しばらく仕事を休ませてほしいと社長に告げると、『佐藤さんはまじめで無断欠勤や遅刻もなく務めてくれているから、こっちとしても頼りにしているんだよ。早く体調を整えて、またお願いしますよ』と自分より随分年下の社長に言われた。
生きがいを失っていた晃司にとっては、どんな理由であれ自分を必要としてくれるひとが、まだいたことが嬉しかった。
<chapter 02 工作員アジトの倉庫>
名古屋市内某所、屋根近くにある小窓から朝の光が入ってくるものの、全体としては薄暗い、ガランとしたなにも置かれてない倉庫内では、リーダーと呼ばれる人物が椅子に座り、美緒を捉えることができずに戻ってきた黒いスーツに白いシャツ、黒いネクタイのお揃いの格好をした工作員達がその向かいに横一列に立ち並び、詰問を受けていた。
*以下、リーダーとエージェントとの会話は朝鮮語
「エージェントA、まず経緯を報告してくれ」憮然とした表情で、リーダーが言う。
「はい、リーダー。私はエージェントBと二人でリーダーに言われたとおり、リ・ジウンの自宅マンション前に車を止めて、ジウンが東京から戻ってくるのを待ちました。しかし到着の予定時刻を過ぎてもジウンが一向に現れないので、リーダーに連絡をして指示を仰いだのはご存知のとおりです」エージェントAは、すこしうつむき、上目遣いでリーダーの表情を読みながら続ける。「すぐに捜索するようにとの指示でしたので、ジウンの自宅マンションから徐々に範囲を広げて、飲食店やホテルを中心にジウンの画像を見せながら捜索しました」
「で、私がエージェントCとエージェントDも、きみ達と捜索にあたるよう差し向けたんだな」
「はい、そのとおりです。エージェントCとエージェントDに合流したエージェントBと私は、先程もご説明しましたとおり飲食店やホテルを中心にジウンの画像を見せながら、範囲を広げ捜索し・・・」
「四人一緒に行動していたのか?」
「はい、四人で捜索するようにとの指示でしたので」エージェントAは、なにかまずいことでもしたのかと、困惑の表情を浮かべた。
「四人でとは言ったが、一緒に行動しろとは言わなかったぞ。手分けしたほうが多くをあたれるとは思わなかったのか? せめて二手に分かれるとか」リーダーの顔が怒りで赤みを帯びてきた。
「申し訳ありません」エージェントA、エージェントB、エージェントCとエージェントDは、立ったまま腰を直角に折り曲げて謝罪した。
リーダーは、こいつら、どこまで使えない奴らなんだ。一から十まで説明しないとまともに仕事をこなすこともできないのか。こんな奴らを使って成果を上げろなどと本国もよく言えたもんだな。お陰で苦労して手に入れたこの地位も危険にさらされるかもしれない。俺が今までどんな気持ちでお前らと一緒に行動してきたと思っているんだ。わかってもらってもまずいが、もうすこし仕事のできる人間と仕事をさせてもらいたいもんだと怒りがふつふつと湧き上がってきた。
「で、結局なんの足取りも掴めずに朝方戻ってきたわけか」
「申し訳ありません」エージェントA、エージェントB、エージェントCとエージェントDは、立ったまま腰を直角に折り曲げて、もう一度謝罪した。
リーダーは、話にならんなと諦め「もういい、とっとと帰って次の指示があるまで待機していろ!」とエージェント達に投げやりに告げ、犬をしっしっと追い払うように手を振った。「だが、今回の失策で俺達日本チームが本国から何らかの責任を取らされる可能性があることは覚悟しておくように」
「はい、それでは失礼します」とエージェントA、エージェントB、エージェントCとエージェントDは、不安な表情を浮かべて、そそくさとアジトを後にしようとした。
その後姿に一瞬鋭い視線を送ったリーダーは「エージェントD、ちょっといいか」と言って、今度はおいでおいでと手で合図をしてエージェントDだけをもう一度近くに呼び寄せた。
エージェントDはすぐに近づいてきて「なんでありましょうか」と背筋を伸ばして聞いた。
リーダーは座っていた椅子から立ち上がって、エージェントDの耳のそばで「きみは彼らと違って頼りになる。今夜23時に、きみだけもう一度ここに来てくれ。特別に頼みたいことがある」と囁いた。
エージェントDは、自分が他の仲間よりもリーダーの信頼を得ていることが嬉しく「はい、承知いたしました」とハキハキと答え、先程の不安が消し去ったかのように帰って行った。
結局、自分達の失策を本国に報告するのをできるだけ遅らせて、なんとかこちらで始末をつけようとしている間に、焦った鬼頭幸三郎が千種区を封鎖するなどというとんでもない方法を取ったので、リーダーが本国に報告を入れ、本国でしかわからない美緒の位置情報を掴んだ時点では、千種区内は日本の警察、それ以外に美緒が出た時は工作員達が受け持つという話が既に鬼頭幸三郎と本国との間でついていた。なので、日本チーム工作員は、しばらく静観せよとの指示が下っていた。
自分達の失策を報告した時に、本国からそれほどの怒りを感じなかった、というより”よくやった”いう感触だったので、本国ははこれを利用して、鬼頭幸三郎から更に金を巻き上げる手を思いついたのかもしれない。
リーダーは、倉庫内の一角に設置された事務所の方を振り向き「美加、怪物AとBに準備しておくよう伝えてくれ」と告げると、事務所の中から美緒と同じ容姿のクローンが現れ「わかりました」と静かに答えた。
<chapter 02 晃司と美緒 千種区封鎖>
晃司と美緒は、今後のことについて話し合った。とにかくなんとかして千種区から無事に脱出して、遠方に美緒の身を隠す必要があること。そのためにできることは、晃司は惜しみなく協力すること。
そんな話をしていると、美緒が根本的な疑問を口にした。
「あの、本当にありがたいことなんですけれど、どうしてそこまで協力してくれるんですか? 私の意思ではないにせよ、日本の首相を殺害したことは事実です。つまり私は殺人犯なんですよ。それなのに・・・」晃司とは赤の他人で、なんの利害関係もないのに。
「なんでだろうな、俺にもわからないよ。でも、昨日の夜、寝ながらいろいろ考えてみたんだ。きっと美緒さんは、あまり愛情を受けずに過ごしてきたんじゃないのか。俺も娘に注いでやるはずの愛情を誰にも注がずに生きてきてしまった。俺には信じられない出来事が次々に起こって、なんだかよくわからないけど、考えてもわからないことをいくら考えても仕方がないし、こうなったのもなにかの縁だから、生きる気力もなく生きてきた俺なら、もう深く考えなくても感情だけで行動してもいいと思うんだよ」
「感情って、私を助けたいっていう思いですか?」
「そうだよ。なんだかそう思うんだよ」
美緒は、すこしの間うつむき加減で目をつぶって考えている様子だった。
「わかりました。じゃあ、お任せします。私も今の状況をどう打開すればいいかわかりませんし、どのみち日本の警察と本国から追われるのでしょうから、生き残れる可能性は高くないと思います。それなら理由はともあれ、私のことを真剣に考えてくれるひとは、一人でも多いほうが助かりますし、そんなことは親もいないクローンの私にとっては初めてのことですから」
「よし、じゃあもう俺に迷惑がかかるとか、そんなこと言うのは無しにして、真剣にこれからのことを考えよう」と言ったものの、晃司にもどうして良いのか、アイデアはまるで浮かんでこなかった。
じっとしていても状況は変わらないので、晃司が「とりあえず、実際にどうなっているか偵察して来るよ」とマンションを出て、区境が一番近いと思われるナゴヤドーム方面へ歩いて様子を見に行ったところ、出来町通の古出来町交差点では、さき程の報道どおりすでに封鎖が始まっていた。
千種区から出ていく側の車線にバリケードが設けられ、4、5人の警官が検問を実施している。
”本当にあっという間に封鎖しやがった”と晃司は思うのと同時に、相当どす黒い大きな力が動いているなと感じた。たった一晩で千種区全体を封鎖するなんて、人員を考えても資材を考えてもありえない。まるでこんなことがいつ起こってもいいように準備されていたみたいだ。鬼頭の力はこんなに強大なものになっているのか、そうなるとこれから自分は政府と警察を相手にしようとしているのか、と晃司の中に闘志が湧いて・・・来るはずもなく、絶望感だけが漂ってきた。
帰宅後、晃司はことの成り行きを整理したいと思い、美緒に町田首相を暗殺するまでの経緯を詳しく尋ねてみた。
美緒が言うには、北朝鮮工作員の日本でのアジトは、名古屋にある。これは日本全国どこへ行くにも交通の便も良く、列島の中央付近にあり、東京に比べると格段に警察や公安の警戒が甘いので選ばれたそうだ。アジトにはリーダーと呼ばれる人間がいて、本国とのやり取りはすべてこのリーダーが行っており、個々の工作員はリーダーからの指令に従っているだけで詳しい事情は知らされない。工作員も何人いるのかわからない。お互いに顔を合わせる機会は、何人かでチームを組んで司令を実行するときのみで、通常は美緒と同じように日本人としてバラバラに生活しているはずだと言う。
「リーダーって、なんだか秘密組織のトップにしては軽い感じがするね」
「そのひとが、そう呼ぶようにって通達してきたんです」
「そうなんだ。俺が行っているバイト先の清掃会社にもチームごとに何人かのリーダーがいて、その人からその日の仕事の分担とか、何時に始めて何時に終わるとかの指示があるから、なんだかバイトのノリみたいな気がしちゃうな」晃司はこんな重たい話なのに、なんだかちょっと笑ってしまう自分を抑えながら、美緒の話の続きを聞いた。
「詳しい話は知りませんけれど、リーダーは日本人なんです」
「えっ、日本人が北朝鮮の工作員のリーダーなの・・・」晃司は唖然として、次の言葉が出てこなかった。
「そうなんです。日本で行動するには日本人のほうがなにかと都合がいいということもあるんでしょうが、私が知る限りでは、そのひとの両親が新興宗教にハマってしまって、財産や収入のほとんどをその教団に吸い上げられて、家族が崩壊してしまったらしいんです。で、子供の頃から親戚や施設をたらい回しにされて、とても不幸な人生を送ってきたそうで、そのことを国のせいだと思って日本に強い恨みがあるそうなんです」
「そういうことか。確か町田首相は三代に渡る政治家一家で、爺さんの町田秀治が首相だった頃に、集票組織とするために新興宗教を保護して宗教法人の資格を与え、自宅近くの土地を提供して教団の本部もそこにあるはずだ。町田首相の父親の秀次はギリギリのところで自由民権党総裁にはなれなかったけれど、爺さん以来ずっとその教団の組織票を自分達が目をかけた候補者に振り分けることで派閥の基礎を築き、孫の町田秀則が再び首相の地位まで上り詰めた。3年ほど前に町田首相が、同じようにその宗教団体に両親がハマって家族が崩壊した若者に襲われて刺されそうになった事件があったよね。その時はSPがなんとか防いで事なきを得たけれど、ニュースやワイドショーで随分取り上げられていたもんな」
「そうですよね。私もあのときに、きっとリーダーの両親がハマっちゃった宗教ってこれなんだろうなって思いました」
「じゃあ、そのリーダーにとっては、町田首相を殺すことは、願ったりかなったりってことだったんだね」
「そう思います。国に恨みがあるというより、突き詰めれば町田家に対する恨みですもんね」
ある日、美緒がリーダーに呼び出されてアジトに出向くと、本国からの司令で一条香として料亭に潜入し、機会を見つけ町田を暗殺するように言われた。料亭への橋渡しは鬼頭から事前に行っているので、問題はないことは話したとおりだということだった。
「やっぱり、かなり練られた計画ってことだよね」
「はい。私が実行するまでに半年かかっているわけだし、その間、リーダーから急かされることもなったので、じっくり機会を待つことができましたし、今夜実行するという連絡もリーダーにはしていませんから、鬼頭もオーダーしたとは言え、町田首相の死を知ったのは突然のことだったはずです」
「鬼頭は随分精神的にプレッシャーがあったんじゃないかな。自分が北朝鮮と通じてることがバレてもいけないし、焦って町田首相を殺すように催促もできないし」
「どうでしょうか、それぐらいのことで精神的プレッシャーを感じるような人物だったら、あの若さであの地位は手に入れていない気がします」
「そうかもね。でも、その鬼頭が焦って千種区を封鎖するっていう暴挙に出たんだから、相当、美緒さんのことを早くなんとかしたいんだろうね」
「自分のこれまで築いてきたものが吹き飛んじゃう可能性がありますもんね」
「よし、経緯はわかった。こんなしょぼくれたオヤジの俺が、どこまで鬼頭を相手に戦えるかわからないけれど、とにかくできることはすべてやってみるよ。町田から鬼頭に首相が変わったところで、自分の生活にはなんの影響もないと思っていたけれど、もうそんな些細な問題じゃない気がしてきた」晃司は、自分が急に物語の主人公になってしまったような気がして、体が熱くなるのを感じた。
それから、どうやって封鎖された千種区から脱出するのか二人であれこれ考えてみた。
美緒を男に変装させて検問所を突破するとか、検問所の付近で晃司が体調不良で急に倒れ警官が駆け寄る隙に美緒が突破するとか、美緒が体調不良を装って千種区外へ救急搬送されるとか、方法を検討してみたものの結局決め手に欠け、それ以上良いアイデアも浮かばず、テレビと晃司のスマートフォンを使い情報を集めることに終止して、夕食どきを迎えてしまった。
美緒のスマートフォンは、電源を入れると居場所を追跡されてしまうので、首相を殺害して料亭を出たときから電源を切ったままだ。
ウーバーなどの宅配や出前を利用すると、晃司が一人ではないことがどこから漏れないとも限らないので、自由に動ける晃司がスーパーに買い出しに出かけることにした。これからのことを考え、二人が3、4日困らないような食材を美緒が書き出してくれたので、晃司はそのメモどおりのものを、卵、ヨーグルト、キャベツに豚肉などを買い揃えてスーパーを出て帰りを急いだ。
その時ふっとアイデアが浮かんできた。
「美緒さん、下水道はどうだろう?」晃司は玄関を開けた途端、美緒に問いかけた。「夜にマンホールの蓋を開けて、下水道を通って千種区の外に脱出するんだ。そのあとはできるだけ大きな駅は使わず、各駅停車のローカル線を乗り継いで遠くまで行くんだ」晃司は興奮気味に話した。
美緒はすこし間をおいて「下水道をどちらに進むかわかるんですか?」と尋ねてきた。
「そんなことはわからないけれど、地下街でもスマートフォンのグーグルマップは使えるから、下水道の中でも方位や行き先はわかるんじゃないかな」
「なるほど、地表の道路とは違っていても現在地や進む方向ならわかりそうですね」美緒は嬉しそうに答えた。
「今夜すぐに実行するのは無理だけれど、明日ホームセンタに行って、マンホールのふたを開けるバールと長靴やライト、軍手やビニールカッパなんか要りそうなものを揃えてこられたら、夜には実行できるんじゃないかな」
二人は、なんとなく希望が見えてきたことに喜び合い、美緒が作ってくれた夕食を食べた。
今夜は豚の生姜焼きだった。プラスティックトレーに入っていない夕食をこの部屋で食べたのはいつ以来だろうと晃司は思った。もちろん、自分以外の人間とこの部屋で夕食を共にしたことなど皆無だったので、こんな些細なことで涙が零れそうになってしまうのをごまかすのが大変だった。
「明日の深夜、人通りがなくなった頃に、まずはこの近くのマンホールの蓋をバールを使って開けて下水道に降りる。下水道を西に向かって千種区の境界を超え、地下鉄東山線の千種駅を過ぎたあたりで地上に戻り、どこかで一泊しよう。深夜に歩き回るのは怪しいから、人通りが多くなった次の日の朝に、名古屋駅の新幹線や電車のホーム、バスはさすがに警戒されているだろうから、徒歩で一宮まで向かう。これがグーグルマップだと21kmちょっと、だいたい4時間半くらいかかる。途中で自転車を買って自転車で向かってもいいね。タクシーや公共交通機関を使わなければ大丈夫だと思う」
「タクシーは大丈夫じゃないですかね? 出回っている私の写真と印象が違うし、マスクでもすればもっとごまかせるし、なにより佐藤さんと二人連れですもん」
「でも、車内の様子は録画されているんじゃないかな。時々金を払わずに逃げる客とか、運転手に暴力を振るう様子を捉えた映像をニュースでみたことがあるから。できる限りあとからでも足取りを掴まれるようなことをしないほうがいいと思うんだけど」
「そうかもしれませんね。でも、私は大丈夫ですけれど、佐藤さんは4時間以上も歩けますか?」
「歩いたことはない・・・だから歩けるかどうかわからないけど、これが一番って気がする。だめなら自転車を買うよ、途中で。昔、大脱走って映画があってさ、ドイツ軍に捕まった捕虜達が収容所から地下に穴をほって脱出するんだよ。で、結局最後まで逃げ延びたのは、自転車と川をボートで下った奴らだけで、バイクや鉄道、飛行機を使って逃げた奴らは全部捕まっちゃうんだ。急がば回れというけれど、こういう時って、本当にそうだと思うんだよね」
「じゃあ、明日一泊するのは、どうするんです? 知り合いにでも泊めてもらえますか? ホテルは使えないですよね?」
「それなんだけど、漫画喫茶やネットカフェは身分証明書を提示する必要があると思うし、信頼できる知り合いはいないし・・・相談なんだけれど、ラブホテルがいいんじゃないかと思うんだけれど。ホテルの従業員とは会わなくて済むし、身分証明もいらないし・・・」
「いいですよ。佐藤さんがそれでいいのならば、私は問題ないです。だいたいここですでに一泊させてもらっているし、私が嫌だと思ったら自分の身を守るすべはわかってますから」と言って、美緒はぺろっと舌を出した。
「そんなつもりはないよ。ひどいな!」今度は美緒の冗談に、晃司が怒る番だった。
「一宮まで行ったらどうしましょう?」
「うん、その後はローカル線を乗り継いで、下関まで行って関釜フェリーに乗って韓国の釜山まで行く、釜山まで行ったら釜山にある金海国際空港(キメこくさいくうこう)からトルコのイスタンブールまで行って、そこから北キプロスに入る。北キプロスが最終目的地だ」
「はぁ〜、北キプロスですか?」美緒はピンときていない様子だった。
「北キプロス、正式名称を北キプロス・トルコ共和国といってね、実質的にトルコが支配している国なんだけれど、犯人引き渡し条約をトルコ共和国としか結んでないから、世界各国の犯罪者が集まってきてるんだって。つまり美緒さんが日本の警察に引き渡されることもないし、日本人や韓国人が多いところではないから、北朝鮮の工作員が近づいてきてもわかりやすいでしょ」
「なるほど、そういうことですか。でも、そんなことどこで知ったんです?」
「小説を読んだ」
「小説ですか? フィクションじゃないんですよね?」
「フィクションじゃない。どちらかというとドキュメンタリーのようなものだった。日本では『ドラゴン・タトゥーの女シリーズ』で有名なスウェーデンの作家でジャーナリストのスティーグ・ラーソンっていうひとが追っていた実際に起ったスウェーデンの首相暗殺事件を、彼が亡くなったあと、残された資料を基にヤン・ストックラーサってひとが本にまとめた『スティーグ・ラーソン最後の事件』っていうんだけどね、かなり面白かったので、そのあと自分でも調べてみたんだよ。そしたら本当に北キプロスは犯人引き渡し条約をトルコとしか結んでなくて犯罪者が集まっていることがわかった」
「それなら、治安が悪くないですか? そんなに犯罪者が集まってきちゃって」
「それがそうでもないらしい。トルコ軍が常駐していることもあるのかもしれないけど、はっきり理由はわからないが、まあ普通に生活できるみたいだよ」
「そうですか、でもルートまでよく調べましたね」
「昼間にね、なんとなく千種区から脱出したらその後はどうしたらいいのか考えて、調べてみたんだよ。でも、肝心の脱出方法が思いつかなかったから、話せなかった」
「なるほど、それで買い物して帰ってくるときに映画みたいにのんびり目的地まで行く手段を思いついたんですね」
「そうなんだ。成田や羽田、関西国際空港のような空港や近場のセントレアや名古屋空港なんかは、手配されているだろうけれど、関釜フェリーは穴場だと思うんだよね。だいたい足取りがつかめなかったら、韓国に渡ることも想像できないだろうし」
「ひとつ確認ですけど、佐藤さんはパスポート持ってるんですか? それとも一緒に来てくれるのは下関までなんですか?」
「それが、持ってるんだよ。不思議に思うかもしれないけどね。1年ほど前なんだけど、バイトに行ってるビル清掃の会社の社長から、社員旅行で韓国の済州島へゴルフをしに行くから佐藤さんも一緒に来ないかって誘われたんだ。他にやることもないから真面目にバイトに行ってただけなんだけれどさ、社長はとても助かってるから、費用は会社で出すからパスポートだけ取ってくれって言われてね。結局、やっぱり俺なんかが楽しい思いをしちゃいけないって思って、直前で断っちゃったんだけれど、その時パスポートだけ取ったんだよね」
「へぇ〜、それは私にとって、ラッキーでした。社長さんに感謝しなきゃ」美緒は屈託のない笑顔を見せた。
「社長には、北キプロスまでたどり着けたらちゃんと話さなきゃな。もうバイトには行けないんだし」
「なんて話すんですか? 北朝鮮の工作員でクローンの女と逃げるって言うんですか?」
晃司は美緒をまっすぐ見て「生きていく理由を見つけられたって言うよ。娘を死なせてしまったというのは、なんとなく話してあるしな。俺が生きる気力をなくしてるのも知ってるから、いろいろと良くしてくれてきたんだと思う。そんなひとだから、きっとそれでわかってくれると思うんだ」と言った。
美緒はなにも言わずに背を向けてうつむいた。
涙をこらえているように見えた。
美緒が、初めてひとから注いでもらった愛情を感じているのかもしれないと晃司は思った。
テレビのニュースを一通りチェックしてみたが、新たな情報が得られたわけでもなく、同じようなことの繰り返しだった。
晃司は、鬼頭が自分の身辺をあまり探られたくないこともあって、意図的にリークする情報をコントロールしている気がした。
「今夜は、美緒さんがこっちの布団で寝なよ。明日の夜は脱出で大変だろうから、ゆっくりできないかもしれないし、今日はぐっすり寝たほうがいいよ」
「私は大丈夫ですよ。そういう訓練を積んできてますし、佐藤さんこそ明日に備えてゆっくり寝たほうがいいんじゃないですか?」
「俺だって大丈夫だよ。ひょっとしてバカにしてる?」
「そんなことないですよ。じゃあ一緒に寝ますか?」
晃司にとっては娘と一緒に寝るようなものだから問題はないはずではあったが、50歳を目前にしていると言っても男である以上、長い間、異性に接触したことさえない自分がなんの反応もしない自信はなかった。
「美緒さんが布団で寝ればいいよ。俺は大丈夫だからさ」
「私になにもしない自信がないんですか?」
「なにを言ってるんだ。俺は美緒さんを娘のように思っているのに、なんてことを言うんだ・・・」
「私は大丈夫ですよ。そういう訓練も積んできてますから。それに、私だって女ですから、一度くらい愛情を感じるSEXをしてみたいですから」
「そっ、そういう訓練ってどういうこと?」
美緒が言うには、工作員としての訓練と称して、十代の頃から北朝鮮幹部の性の慰みものになってきたとのことだった。権力者は洋の東西を問わず、相手を言いなりにしようとする人間が多いので、世間一般的には”変態”と言われる性癖の持ち主が多かった。でも、結果的には、北朝鮮での経験がその後の工作員としての活動には役立ったとのことだった。
晃司は、悲しくてしかたがなかった。娘が生きていれば同じような年頃なのに、美緒は自分なんかよりよほど過酷で残酷な人生を歩んできている。この娘をなんとか自由にしなくては、という使命が自分にのしかかって来たことを強く感じた。
結局、その日の晩はひとつの布団で二人で寝た。
晃司にとっては、昔、幼い娘が自分達が寝ているベッドに入ってきて一緒に寝たことを思い出させるとともに、妻と一緒に寝ていた頃を思い出させる夜になった。
絶対に有り得ないことだけれど、こんな幸せがすこしでも長く続けば有り難いと思いながら眠りについた。
<chapter 02 首相官邸>
鬼頭は首相官邸で、いかにも仕立ての良い上質なスーツを身に纏って町田が使っていた首相用の椅子に座り、警察からの一条香逮捕の一報を待っていた。
「もう丸一日だぞ、まだ犯人は捕まえられないのか! 警察はいったいなにをやっているんだ! なんのために千種区を封鎖したと思っている!」
脇に控える秘書官に喚き散らし、机に握り拳をドンっと叩きつけた。
「潮見崎、北からの連絡はないのか?」
潮見崎筆頭秘書官は「先ほどこちらから連絡を取りましたところ、一条香は、まだ確実に千種区内に潜伏中とのことでした」と落ち着いた口調で答えた。
「もっと詳しい位置情報は得られないのか? あいつらならわかりそうなものじゃないのか」
「もちろん、それも確認いたしました。が・・・」潮見崎は口ごもった。
「なんだ。遠慮せずに言ってみろ」
潮見崎は「はい」では言わせていただきますという表情で「詳しい位置情報を知りたいのなら、もう10億用意しろとのことでした」
「なんだと! あいつらには、すでに30億も払っているんだぞ! その上、位置情報が欲しいなら、あと10億よこせだと」鬼頭の怒りが沸点に達した。「だいたい、あいつらが一条香を取り逃がしたからこんなことになっただろ。あいつらの落ち度じゃないか、そうだろ、潮見崎!」
鬼頭の手がわなわな震え、怒りで顔面が赤く染まってきた。
「はい、おっしゃるとおりです。ですが、北は最後までこちらに任せればよかったものを、焦って千種区を封鎖されたおかげで、千種区内が警察官で溢れ、こちらの身動きが取れなくなってしまった。責任はお前達にあると」
「なんだと、随分舐められたもんだな! 30億も払ってやったのに、このざまか! 30億だぞ、あいつらの国なら孫の孫のその孫の代まで一家で遊んで暮らせる額だろうが」
「はい、それもおっしゃるとおりですが、ショーヘー・オオタニの年俸の半分にも満たない額で、一国の首相を始末して自分がその座につくんだからずいぶん安い買い物だとも言っていました」
鬼頭は「くそっ!」と叫ぶと、机の上においてあった水の入ったグラスを壁に向かって投げつけた。
潮見崎は、二人以外には誰もいないとはいえ、こんなに冷静さを失ってしまうとは、この男もそう先は長くはないのではないかと思った。
「で、いくらなんだ」
「ですから、あと10億と」
「違う! 大谷翔平はいくら貰ってるんだ」
「確か・・・年収で127、8億だったかと記憶しています」
鬼頭は、俺は大谷翔平の年収の半分どころか4分の1にも満たない額でこの国の首相の座を手にし、権力を自分のものにしようとしているのか、と思った。
”剛腕”と言われ、世襲政治家の町田と違い受け継ぐ地盤もなく、応援してくれる組織も持たない中で、鬼頭は、ただひたすら脇目もふらずに汚い手を使ってでも上を目指してきた。地方の市議会議員から始まり国政に打って出る頃には、すこしずつではあるが支援者も増え、しっかりした地元の後援会もできた。このころから鬼頭にすり寄ってくる業者や輩も増え始め、鬼頭もそれを拒まず素直に受け入れた。
頂点に上るためには金がいる。いくらあっても足らない。
暮らしは豊かになり夜な夜な料亭に通うようになり、魑魅魍魎が跋扈する世界を鬼頭は渡ってゆくすべを身につけ、あと一歩というところまでやってきた。が、そこが限界だった。いくら金をばらまいても、世襲議員ではない鬼頭には”お家柄”という最大の問題を乗り越えられずにいた。
中小企業のサラリーマン家庭で育った鬼頭は、いくら頭が良くても、トップには立てない。子供の頃は力がすべてだったので、暴力で人を支配することを覚え熱中した。高校時代には自分は表に出ず、弱みを握り裏で不良グループを操ることを覚え、大学時代には不良グループに大麻草を栽培させ売りさばくことで大金を手にしたが、当然、地元の反社会勢力に目をつけられ、不良グループのメンバーは歯を全部抜かれたり、耳をそがれたり、片目をくり抜かれたり、手足の指をすべて折られるなどして壊滅した。鬼頭はあくまで表には出ていなかったが、身の危険が迫っているのを感じ、大学を休学し儲けた金で2年間アメリカに留学した。そこで日本のトップに立つには、どうすれば良いのか真剣に考えた結果、政治家を目指すことにして、日本に戻りまずは市議会議員へ立候補した。
現役大学生が立候補したので話題になり、メディアにも取り上げられる機会が多く、アメリカ留学経験を活かして広く開かれた市政を若さを武器に実現したいという鬼頭の主張が有権者に受け、最下位ではあったがなんとか当選を果たした。
その後は、これまで築いてきた”どうすれば人を支配することができるか”という経験と知識をフル活用して、今の地位までたどり着いたのだが、”お家柄”を打ち破り首相の座につくには、副首相という、今、この座にいる時に上をどかすしかない。
外務大臣政務官時代にいずれ役に立つ時が来るだろうと北朝鮮の幹部とパイプを作り、定期的に一定額を送金してきた。それが今回役に立ち、町田を始末することに成功したが、自分が焦ってしまったこともあり、事態は思わぬ方向に動き出していた。
しかし、日本のトップに上り詰めたところで、たかだか野球選手の収入の足元にも及ばないのか、名誉と権力しか上回るものはないのか、仮にプライベートで大谷翔平と食事をしたら、やっぱり支払いは、立場上自分がするんだろうな、と鬼頭は思い虚しさが心を漂った。
<chapter 02 工作員アジトの倉庫>
エージェントDは、リーダーに言われたとおり、23時に工作員日本チームのアジトの倉庫へといつもの黒いスーツ、白いシャツ、黒いネクタイといったいつのまにか自分達の間では制服のようになった”仕事着”で再びやって来た。倉庫内は暗く明かりはついていなかったが、なんといってもその存在を知られてはいけない工作員のアジトなので、疑うことなく倉庫の大きな扉の横に設けられた通常の出入りに使う小さな扉を網膜認証システムで解錠し中に入った。
倉庫内に足を踏み入れ「リーダー、いらっしゃいますか?」と声を掛けるも反応がない。おかしいなと思ったその時、後ろから首にワイヤーが巻き付けられ、背中がバク転するときのように後ろに反り返り、両足が地面から離れた。誰かに天井を向いた状態で背負投でもされているような格好だが、首に巻かれたワイヤーはエージェントDの重みでグイグイ首に食い込み、指を入れようにも入らないし、足をどれだけばたつかせてもどんどん苦しくなってゆくだけだった。
エージェントDの顔色が、赤から紫がかった色に変わり、足のバタつきもなくなりピクリとも動かなくなったころ、その体はどさりと地面に投げ落とされた。
倉庫の壁際に置かれていたフォークリフトで、パレットの上に乗ったドラム缶が運ばれて来て、エージェントDの目を見開いたままの亡骸がそこに入れられたところで、倉庫の大きな扉が左右に開き、警告の電子音を響かせながらミキサー車がバックで入ってきた。シュートと呼ばれる生コンクリートを流し込むための樋(とい)からドラム缶に生コンクリートが注ぎ込まれ、ドラム缶に蓋がされミキサー車が出ていくと、今度は2トントラックが同じようにバックで入ってきた。その荷台にパレットごとフォークリフトでドラム缶を乗せると、運転席と助手席からひとが降りてきて荷台にブルーシートをかけ、闇の中へ走り去っていった。
それをフォークリフトの座席から、無言で見つめている人物がいた。
エージェントDが亡骸の入ったドラム缶は、今夜中に船で沖まで運ばれ沈められる。見つかることは絶対にない。この国では年間9万人前後が失踪する。その一人に加わっただけだ。いや、そもそも日本人でもなく日本国籍も持たない北朝鮮の工作員なので、そこにも入らないか。それにしても嫌な仕事を引き受けてしまったな、とリーダーは思った。
<chapter 03 晃司と美緒 3日目>
朝、晃司が目を覚ますと、また美緒がキッチンで朝食の準備をしていた。
食パンをそのままかじるか、前の晩にコンビニで買ってきたおにぎりひとつを、ただただ口の中にいれるだけの日々が20年も続いていたので、美緒との時間はなにものにも代えがたい時に思えた。
ところが、二人で朝食を食べているとき美緒が口にしたのは、晃司にとって意外なことだった。
「寝る前になんとなくそうじゃなかったかなと気づいて、朝起きてから調べてもらおうと思っていたんですけれど、下水道って人が通れるほど大きなものばかりじゃなかったんじゃないかなって」美緒が申し訳なさそうに尋ねる。
「えっ、そうなの?」
「おそらく幹線道路の地下の下水道は広いんでしょうけれど、住宅街にあるこのマンションの近くの下水道は人が通れるほど大きくないと思います」
「映画で下水道の中での銃撃戦とか逃走劇とかよく見るけどな」
「まあ、映画ですもんね。しかもハリウッド映画とかじゃないですかね、それって」
おっしゃるとおりです、と晃司は思った。
スマートフォンで調べてみると「下水道管の大きさは、直径25cm程度から8.5mに及ぶものまでさまざまです。上流にある下水道管ほど小さく、各家庭から下水処理場や河川へ流れつくまで、人が通れない下水道もたくさんあります」という結果だった。
いくら夜中とはいえ、幹線道路のマンホールの蓋を開けて下水道へ降りていくのは怪しすぎる。作業員に化ける手も無くはないが、なんのツテもない二人が、それらしい車両や道具を揃えるのは不可能だった。
二人が一言も発することなく黙々と朝食を食べていると、突然インターフォンが鳴った。
晃司の部屋を訪ねてくる人は皆無で、しかもこんなに朝早い時間となると宅配便でもなさそうだ。
晃司はゆっくりと玄関に向かい、ドアスコープから外の様子を覗った。
くたびれたスーツを着た二人の男が立っており、その一人が今度はドアを無造作にドンドンとノックしてくる。
晃司はとりあえず、奥の部屋にいる美緒に玄関から見えないところに隠れるように手で合図して、美緒のスニーカーをシンクの下の収納スペースに隠してからドアを開けた。
「すみませんね、朝早くから。県警の杉本と田代です」
ゆるくネクタイをして無精髭を生やしたグレーのスーツの男が、警察手帳を見せながら言った。
「ニュースでご存知かと思いますが、このあたりに重要参考人の女が潜んでいるようなので、われわれが手分けして一軒一軒お尋ねしているわけです。こちらにはお一人でお住まいですか?」後ろに立つ若そうな男が鋭い目線を送る中、だるそうな口調で前に立つ男が聞いてきた。
「そうですが、なぜ一人暮らしだと?」
「家族やご夫婦でお住まいの場合、たいていは靴がいくつか玄関に置いてありますし、部屋の中もこんなに物が少ないってことはないと思いますよ」と言って男はキッチンと格子のガラス戸越しに室内を舐め回すように見た。
こういうタイプの刑事が、映画やテレビドラマだと妙に鋭いやつだったりするんだよな、と晃司は思った。
「20代半ばくらいの不審な女性を見かけませんでしたか? あまり鮮明に写っていませんがこんな感じの女性なんですけれども」と言って男はスーツの内側のポケットからスマートフォンを取り出して美緒が東京、もしくは名古屋駅の構内を歩いていると思われる画像を見せてきた。
「一条香ってことになってますけどね、おそらく偽名でしょうし、ここら辺に住んでいることは間違えないらしいんですけれど、行方がわからないもんだから、大げさに千種区全体を封鎖するなんて上が言い出しちゃって、まったく俺らもいい迷惑なんですよ。いくら首相を殺したからって、こんな小娘一人のためにね」男は勘弁してくれよと言わんばかりに首のあたりを掻きながら、今にも欠伸をしそうな顔で不満を漏らした。
「いや、知りませんね。仕事先と部屋の往復しかしないような生活を何年も送っていますし、ご近所とも交流がまったくないもんですから」
「そうですか、まあこういう捜査は99.9%が無駄足なんですよ。それは俺らもよくわかってます。でもやんなきゃならないんですよ、仕事だもんだから。朝早くにお邪魔しました。朝ご飯、続けてくださいな」と言って男達は立ち去った。
朝食中だということがなぜわかったのだろうか、と晃司は疑問に思ったが深くは考えずに、とりあえず美緒の存在がバレずに済んだことにほっとした。
ローテーブルに戻り、食事を再開すると美緒が思わぬことを口にした。
「あの刑事、私のことに気づいたかもしれませんね」
「えっ、なんでそう思うの?」
「私は横になって隠れていたので、すりガラスの格子戸越しに直接目視はできなかったと思いますけれど、なんとなく気づかれてしまったような気がします」
「そんなことないだろ、靴も隠したし、上がり込んでこられたわけじゃないんだし、玄関先でちょっと話しただけで美緒さんがこの部屋にいることなんてわかりっこないよ。心配しすぎだって」と言いながら、晃司自身もなんとなく不安を感じてしまっている自分を否定できなかった。
テレビのニュースやワイドショーでは、千種区の封鎖から丸一日が経過した今も捜査になんら進展が見られないことを伝えていた。
状況把握に努めながらも、結局振り出しに戻った美緒の脱出計画も、捜査同様なにも進まないまま、その日の夜を迎えてしまった。
夜、またひとつの布団で眠りにつくとき、晃司は美緒に言った。
「こうなったら持久戦で行こう。千種区全体を封鎖するには莫大な警察官と自衛隊員の動員が必要だ。そうなったら必ず国内のどこかが手薄になって犯罪が増える。国民から反発も出るだろうし、そんなに長くは封鎖なんてできやしないよ」
「そうですかね、そうならいいけれど。逆に絞り込まれて、このマンションがある町内ぐらいに封鎖が狭くなったら身動きが取れなくなっちゃいますよね」
「悲観的な意見だけれど、可能性はあるね。そうしたらなんらかの手段で強行突破するしかないね」
「強行突破ですか? どうするつもりなんですか?」
「例えば幹線道路だったら警備にあたっている人数も多いだろうけれど、間道なら一人か二人になるから、その警備にあたっている警察官の注意を俺が引いてるうちに、美緒さんが突破するとか」
「どうやって?」
「バールとかで襲いかかるとか、ちょっと古い気もするけど、火炎瓶投げつけるとかさ」
「そんなことしたら、佐藤さんはどうなっちゃうんです。一緒に逃げてくれるんじゃないんですか?」
「そうしたいけど、他に方法が無ければ仕方がないよ。それに一時は勾留されても、俺は首相を殺したわけじゃないし、公務執行妨害程度の軽い刑で済むから、自由になったらあとを追いかけるよ」
「そんなに上手くいくかなぁ。日本の警察はかわせても、本国の工作員が佐藤さんを見逃さない気がします」美緒は一度目をつぶって思いを巡らせてから「やっぱり私が側にいるほうが、まだ佐藤さんを守れる気がします」と言った。
そうなると千種区からの逃走を手助けしているのか、自分が守ってもらっているのかわからなくなってしまうが、美緒の言葉に晃司は胸が熱くなった。
こんな自分のことを心配してくれる人が、傍らにいるんだと思うだけで、自暴自棄になって死なずに生きてきて良かったと思えた。
<chapter 03 首相官邸>
鬼頭は今夜も、もはや我が物になったかのごとく首相の椅子に座りながら、何も成果が上がらない千種区の封鎖に苛立っていた。
「潮見崎、警察からまだなにも連絡はないのか? あいつらはいったいなにをやっているんだ! こんなことだから税金泥棒って言われるんだ!」このまま犯人を捕まえられなかったら、どうするんだ。犯人を捕まえられない以上、いつどこで俺と北朝鮮が裏で繋がっていることを一条香がマスコミの連中にリークするかもしれない。もし最悪の事態になっても、今の自分であればもみ消すことは可能だろうが、イメージダウンは避けられない。やっとの思いで町田を取り除いて首相の座を手にしようとしている今、国民の支持を広く集め、選挙に勝利し、圧倒的に長くその座にとどまり日本の歴史に名を残すような男になりたい。鬼頭幸三郎はそう思っていた。
「残念ながら、今のところは進展はないようです」と潮見崎は無表情に答えた。
「このまま千種区を封鎖するのは、今週末までが限界だぞ。全国から多くの警察官を投入している以上、どうしても地方の治安維持が手薄になる。そこを狙って闇バイトの奴らに地方の金持ちが狙われたり、空き巣の被害が増えるような状況をマスコミに報道されたら、俺の将来の評判をも落とすことになりかねない。なんとか明日には一条香を捕まえろと、警察庁長官にはっぱをかけろ! 自分の首が惜しかったら、結果を出せと伝えておけ!」鬼頭幸三郎は、自分でも怒りで顔が赤くなるのを感じた。
潮見崎は、この男の腹の括り方はこの程度だったのか、と内心絶望にも近い感触を覚えた。学生時代から、鬼頭幸三郎に仕え、体を張ってこの男を守ってきた自覚のある潮見崎にとっては、今の鬼頭幸三郎は、見ていられなかった。
「ひとつ伺ってもよろしいでしょうか」
「なんだ」
「警察が一条香を逮捕した後は、どうなさるおつもりでしょうか?」
「そりゃ決まってるじゃないか。拘置所の中で自責の念に苛まれて自殺でもしてもらうさ。北の連中に上手く殺らせればいいだろう。そこまでが込の金額を払ってあるんだからな」
なるほど、そのあたりは抜け目なく、さっさと頭痛の種を取り除くつもりなんだな、と潮見崎はある意味感心した。
「ところで、潮見崎。昔、ヤクザに折られた手足の指は、最近はどうなんだ?」鬼頭幸三郎は、東山動物園のコモドオオトカゲのタロウが日曜日の午後に餌を与えられた時のような目つきで潮見崎の顔を見た。
「はい、お陰様で最近は、湿度の関係でしょうか、雨が降る数時間前に疼く時がたまにあるくらいで、日常生活にはまったく問題ありません」と潮見崎は答えながら、お前も一度手足の指を全部折られてみろよ。そうすれば俺の痛みがすこしは理解できるんじゃないか。お前を今の地位に押し上げたのは、誰のおかげだと思っている。俺や若い頃にお前のせいでヤクザに耳をそがれたり、目をくり抜かれたりした奴らがいたことを忘れるなよ。この国のトップに上り詰めるには、家柄も金もなかったお前には、正しいことだけやってちゃ無理だ。それは俺にも重々わかっているが、そのために犠牲になった奴らのことを絶対に忘れるなよ。今のお前はそいつらに顔向けできるような男なのか、と心のなかで思った。
「そりゃ良かったな。また折られないように気をつけないとな」鬼頭幸三郎はにやりと笑った。
「はい、もう懲り懲りですからね」こいつは、俺を脅しているのか。お前が焦って千種区を封鎖したツケを俺に回そうとしているのか。そのうち痛い目にあって貰う必要があるかもしれないな、と潮見崎は思いながらにっこりと笑ってみせた。
昔の仲間とは、今でも時々連絡を取り合っている。鬼頭幸三郎の出世を喜んでいる奴もいるが、それはいつか昔の悪事のことを週刊誌に暴露すると鬼頭を脅して金になると思っているからだ。皆、自分達の歯や耳や目と引き換えに、鬼頭を今の地位までお仕上げてやったと思っている。その恩をいつか金に代えるのは当然の権利だと。
<chapter 04 晃司と美緒 4日目>
美緒が晃司の部屋に転がり込んできて、4日目の朝、二人が朝食をとっていると前日同様にインターホンが鳴った。
二人とも顔を見合わせ、嫌な予感が現実にならないことを祈りつつ、晃司は玄関へ向かった。
晃司が玄関扉のドアスコープから外の様子を覗くと、昨日、二人で訪ねてきた刑事の嫌な予感を抱かせた冴えないほうの男が立っていた。
「昨日うかがった県警の杉本です。なんどもすみませんね」
晃司はドアを開け、杉本に尋ねた。
「なにか事件に進展があったんですか?」
「そうなんですよ。と言っても私の中だけですけれどね」と杉本は不敵な笑みを浮かべている。
「ご要件はなんでしょうか?」と晃司は声を上ずらせながら訪ねた。
「では、単刀直入に言わせてもらいますよ。あなた、ここに犯人の女を匿っていますね」
「なにを突拍子もないことを、そんなわけないでしょ。どんな根拠があるんですか?」
「まあ、他の部屋の住人に聞かれるとやっかいだ。中でゆっくり話しましょうや」そういって杉本は強引に玄関に入ってきた。
「昨日ここに来たときにね、ピンときたんですよ。あなたがどことなく動揺していたし、引き戸の隙間から奥の部屋のテレビ画面が見えたんですけれどね。電源の入っていないテレビ画面って、鏡のようにものが映るんですよ。でね、よく見ると玄関からは見えないところに女性らしい人影が隠れるように伏せているのがわかった。あなたは一人暮らしだというし、交際している女性なら隠れることもないし、玄関に靴がないのもおかしい。それなら私に存在を知られたくない人物じゃないかと思いましてね」
「なにか勘違いされてるんじゃないですか? そんなひとここにはいませんよ。私一人です」
「なら奥の部屋を見せてくださいな」
「令状も無いのに、そんな要求に従う義務はないでしょ!」
「なら令状を取って出直してもいいし、なんなら今ここで仲間を呼んで強引に家宅捜索しても、私は構いませんよ」
晃司は嫌な予感が的中してしまい、背中に冷たい汗が一筋流れるのを感じた。
「いやなに、なにも私は容疑者を捕まえに来たわけじゃないんだ。もしそうなら、いくらなんでもこうして一人で出向くはずないでしょ」
杉本は様子を窺うように上目遣いで晃司を睨みつけてからこう言った。
「私は、あなたがたにもメリットのある取引をしに来たんですよ」
晃司は、なんだこいつは? 本当は刑事じゃなかったのか? 美緒さんの仲間の北朝鮮の工作員か? と頭の中でぐるぐる考えていると、杉本が強引に「上がらせてもらいますよ」と言い捨て、晃司を突き飛ばすようにして美緒のいる奥の部屋へズカズカと歩いていった。
娘を失ってからの20年間、運動らしい運動もしておらず、うだつの上がらない中年男の晃司に、抗う力などなかった。
押されて尻餅をつかないようにするのが精一杯で、「待て!」と声をかけたときには、杉本は既に奥の六畳間に到達していた。
美緒は朝食を食べていたローテーブルに正座したまま、身を隠さずに入ってきた杉本を穏やかな顔でじっと見つめていた。
「あなたのおっしゃる取引とはなんでしょうか?」美緒はためらうことなく口にした。
「ほう、こちらのお嬢さんは、肝が据わっているな。自分が犯人だと認めたね、うだつの上がらない男より話が早くていいな」
「刑事なのに私に取引を持ちかけるあなたのほうが、よほど警察組織の中で日の目を見ない冴えない人なんじゃないですか」
「言ってくれるね、お嬢さん。俺はいつでもあんたを逮捕できるんだぜ」
「あなた一人でできるなら試してみては? 私は特殊な訓練を受けています。素手で人を殺すなんて、瞬時にできますよ」
「ほう、そんな強い女がどうして首相の町田をわざわざ毒殺なんかしたんだ」
「そういう指示を受けたからです」
「なるほどな、あんたの単独犯ってことなんてあり得ないもんな、なにか大きな力が動いているんだろうな。仮にも一国の首相を殺すんだからな。どうやらあの噂は本当かもしれんな」と言って杉本は美緒とローテーブルを挟んで向かい合ってドカッと胡座を組んで座った。
「まあ、そんなことは俺にとってはどうでもいいんだけどな」杉本は美緒と六畳間の入口で立ち尽くしている晃司を交互に見ながら話を続けた。「単刀直入に言うと、俺があんたらを封鎖された千種区から外に出してやる。そのためにそれ相応の金が必要だって話だよ」
「思ったとおり、あなたは出世できないのを人のせいにして恨みを生きがいにしているような汚職刑事だったんですね」と美緒が言った。
「なんとでも好きなように言えばいいさ。で、話に乗るのか乗らないのか?」
晃司が二人の話に割り込んで叫ぶように「いくらなんだ、いくら欲しいんだ」と言いながら、倒れ込むように杉本の横に座った。
「まあ、絵に描いた餅じゃしょうがないからな。あんたらが払えそうな額で500ってとこか。金が準備でき次第、逃がしてやるよ」
「500万だな。間違いないな」と言いながら、晃司は六畳間の端にある押し入れを開け、布団の横からみかん箱程度の段ボールを引っ張り出してきた。
「ここに500万以上あるはずだ。数えて持って行ってくれ」
杉本が驚いた顔で晃司を見る。
「お前も犯罪者だったのか? どこで盗んだ金だ」
「盗んでなんかいない。俺の金だ。というか20年の間に貯まってしまった金だ」
「貯まってしまっただと。なんだそりゃ。貯める気もなったのに知らないうちに貯まっちゃいましたってか」
「そのとおりだ」
「ふん、まあ過程なんか俺には関係ないからな、500万が手に入れば問題はない」
杉本が段ボールを開けると、中にはたくさんのなにも書かれていない種類の違う封筒が無造作に積み重なっていて、封筒のひとつひとつに3万から5万の現金が入っていた。
三人で手分けして、すべての封筒から現金を取り出し、金を数えてみると全部で814万にもなった。
「こんなオンボロマンションで一人暮らしのうだつの上がらない中年オヤジが、部屋にこんなに現金を貯め込んでるとわな。なけなしの定期預金を取り崩して、知り合いを駆けずり回って金借りて、売れるものを全部売っぱらって、一週間くらいかけてやっとなんとか4〜500集められるかどうかだと思ってたよ。正直、驚いたねえ」と杉本は右手で顎をこすりながら、目を大きく開いて晃司を見た。
「じゃあ、こっから500万もらうぞ」
「500万でいいのか、全部やるから持ってってくれ」
「はっ、お前頭おかしいのか? 500でいいって言ってるのになんでそんなこと言うんだ」
「お前こそ、金が欲しいんだろ。だったら変に律儀にならずに全部持ってけ。これは、本当は俺が持っているべき金じゃないんだ」
「なんだか知らないが、そうまで言うなら盗んだ金じゃなきゃ、有り難くいただくとするか」
そう言うと、杉本は現金をスーツのあらゆるポケットに押し込んでいった。
「まあ、あんたらもこのままじゃ信用できないだろうし、300も余計に貰ったからな、どうして俺が金に汚いか教えてやるよ」と杉本は二人から目を逸らして、ゆっくりと語り始めた。
「俺には5歳になる娘がいる。娘は生まれつき心臓が悪くて、移植手術を受けなければそろそろ危ない」
そこで一旦言葉を切り、視線を晃司に向けた。
「移植にどれだけ金が費用か知ってるか? まずはアメリカに渡って、専用施設に入りドナーが見つかるのをひたすら待つ。ドナーの条件として、当然のことながら血液型が同じこと、体重差とか感染症、悪性腫瘍が無いことなんかがいろいろあってな。そのうえ待ち名簿の何番目にリストされるのかは、そのときなってみなきゃわからん。間に合わずに、待ってるうちに死んでしまうこともある。運良く順番が回ってきて、移植手術を受け、リハビリして日本に戻るまで、ざっと2億は必要だ。それで済むかどうかもわからん」
杉本の目には、無力な自分自身に対する怒りが込み上げていた。
「クラウドファウンディングで、有り難いことに7000近くの金が集まった。残りの1億3000は、俺がどんな汚い手を使っても集めてみせる。そのためには俺はどうなってもいい。女房も昼も夜も必死になって働いた。俺は刑事の職を利用して、押収したヤクやチャカを持ち出してヤクザに売りさばき、あと2000ってところまで来てる。あともうすこしだ。この800があれば、あと1200だからな。もうすこしで娘を助けてやれるかもしれない」
杉本の話を聞いて、1億以上も夫婦で貯めたのか? 一体この男はどれだけ多くの麻薬や拳銃を盗み出して売りさばいたんだろうと思うと同時に、晃司は同じ歳ごろで死なせてしまった自分の娘のことを思い出さずにはいられなかった。
なんとかしてやりたい。でも今の自分にできるはこの金を渡すことだけだ、と思うと握り拳に思わず力が入ってうつむくことしかできなかった。
「残りの1200万は、私が出します」と唐突に美緒が口を開いた。
「そんな金があるの?」と晃司が聞くと、美緒はコクリと頷いた。
「私は工作員ですから、工作費用としてそれくらいの日本円は渡されています」美緒は晃司に向かって「佐藤さん、スマートフォンのシムカードを貸してください。私のスマートフォンでこのひとの口座にお金を振り込みますから」と言った。
美緒のスマートフォンは逃走したとき追跡を逃れるために位置を特定する設定をオフにして電源を切ったままだ。
今ここで電源を入れると、基地局の電波受信からある程度居場所が絞れて仲間だった工作員が襲ってこないとも限らないので、電源を入れる前に晃司のシムカードを入れてアプリを使いオンラインで振込をするつもりだ。
「あなたの口座番号はわかりますか?」
「ああ、ヤクザとの取引にも必要な場合があるしな。スマホにメモってある。だが、なんであんたが俺にそんな大金をくれるんだ?」
「私も佐藤さんもつらい思いを数え切れないくらいしてきているんです。特に小さな女の子がつらい目に合っているのを知ってしまって見過ごすわけにはいかないんです。あなたのことは反吐が出るほど嫌いだけれど、娘さんに罪はありません。救える命なら救ってあげたい」美緒はまっすぐに杉本の目を見て言った。
杉本は無言のまま、するどい目つきで美緒を見つめ返していたが、「この借りは必ず返す」とぽつりと言った。
美緒はアプリを立ち上げ、杉本の口座番号を入力して、送金処理をした。まだ午前9時前だったので、銀行が動き出すまでは最終的に入金確認ができないが、杉本は「俺が要求したのは500だからな、あとの分はあくまでおまけだから別に構わんよ」と言った。
杉本は今夜21時に、封鎖されている千種区境にあたる桜通のJRを越した信号交差点からひとつ北側の間道の検問所あたりまで来て身を潜めるように言った。桜通の検問所付近で杉本が騒ぎを起こすので、必ず間道の検問にあたっている一人二人しかいない警察官は、桜通り検問所に駆けつける。その隙を見て晃司と美緒に検問所を突破して区外へ逃げるようにとのことだった。
杉本は帰り際に「言いたくなきゃ言わなくてもいいが、あんたらどうゆう関係なんだ? 話しぶりからして血縁者でも愛人でもなさそうだし」と聞いてきた。
「別になんの関係もない他人同士だよ」と晃司はなんでそんなこと聞いてくるんだろうという顔つきで答えたが、何も知らない他人からしたらおかしな話だよな、やっぱりと思った。
杉本が部屋を去ったあと、美緒が晃司のスマートフォンの位置情報の設定をオフにしたいと言った。
「もちろん構わないよ。なにも困ることはないし」
「じゃあ、そうさせてもらいますね。あと口座も教えてもらっていいですか?」
「俺の口座をどうするの?」
「残りの資金を振り込むんです」
「えっ、まだ残ってるの?」驚く晃司をよそに、美緒は「はい、まだ2千万ちょっとあります」と微笑む。
「そんなに・・・」
「私、東京から帰って来る新幹線の中で、万が一に備えて、本国が用意した口座から活動資金を全部、私が自分で用意したスイスの銀行口座にアプリを使って移したんです。でも、これから逃げるには日本の銀行口座にお金があったほうが引き出すのも便利だし、もし私になにかあったときも、佐藤さんが自由に使えますもんね。本国が用意した口座は今頃凍結されてるでしょうし」
晃司は困惑しながらも「なにかあって貰っちゃ困るけど、確かにそれがお金は引き出しやすいね。現金があったほうがなにかと便利だと思うから、振り込んでもらった後で、とりあえず一日に引き出せる上限の50万をキャッシュディスペンサーから引き出してこよう。俺、悪いけどさっきの金が無くなったら、大した貯金も無いし・・・」
「そんなこと気にしなくていいですよ。とんでもなく迷惑かけてるのはこっちなんだし」
美緒の笑顔で晃司は救われた気がした。
晃司はローテーブルの脇に置いてあるプラスティック製の3段の小物入れの中から、預金通帳を出して美緒に渡し、美緒は先程と同じ要領で、晃司の口座に残りの金をすべて送金した。
「ところで、さっきあの男に渡したお金はどうしたのか聞いていいいですか?」
「ああ、あれね。子どもを亡くして、妻と別れて一人暮らしを始めてこのマンションに引っ越してきた頃からなんだけどさ、なにも書いていない封筒に毎月月末近くになると3万とか5万とかが入って、郵便受けにあったんだよ。でもさ、宛名も差出人も手紙も無いし、気味が悪くて使わないままどんどん溜まっちゃって」
「そうなんですね。心当たりはないんですか?」
「たぶんだよ、確かめたわけじゃないから勝手な推測だけれど、別れた妻じゃないかと思う。俺のことは恨んでいるだろうけど、それ以外に俺のことを気にかけてくれて20年も毎月金をくれるひとなんて思いつかないよ」
「別れた奥さんには確かめなかったんですか?」
「最初の頃は、本当に誰だろうって、気味が悪かっただけだし、妻しかいないな、と思った頃には妻とは連絡がつかなくなっていたからね」
「そうなんですね。じゃあ、奥さんは連絡が途絶えても、ずっと佐藤さんのことを心配してくれているんですね。郵送されたわけではないし、ちゃんとここまで届けてくれているんですね。なんか、ちょっと安心しました」
晃司は、そういうことなのかな、妻は自分のことを恨んでいて当然なのに、20年もの間、心配してくれているとは思えないけどな。かと言って他に誰が自分のことを気にかけてくれているかと言うと、まったく思い浮かばないのも事実だし、やっぱりそういうことなんだろうなと改めて納得した。
それから晃司と美緒は、杉本の話が信用できるものなのか検討を始めた。
まずは、地図の確認だ。グーグル・マップで調べると、確かに桜通の千種区境は、JRが両側は土手になっていて河川のように道路より低い位置を南北に走り、JRに沿った西側の北方向への1車線で一方通行の道路になっていた。
つまり東西に伸びる桜通にクロスして南北にJRの線路が走り、そのJRに沿うように線路の西側は北方向へ、東側は南方向への一方通行道路があるのだが、西側の道路が千種区境となり、区境より東側が封鎖せれている千種区で、区境を越えた西側は東区になる。
杉本の言う桜通からひとつ北側の間道の検問所とは、下を走るJRを横切る豊年町第16号線の高張橋ということになる。
桜通は片側3車線の名古屋を東西に横切る3つの主要幹線道路のひとつなので、検問所にも多くの警察官が詰めて検問にあたっているはずだが、ひとつ北側の間道にあたる高張橋は道幅も狭く検問所の人数は確かに少ないだろう。
「でもあの男が嘘をついていたらどうなる?」
「お金は渡しちゃったし、私を捕まえれば手柄にもなりますしね」
「あれだけ多くの押収した麻薬や拳銃を横流ししていれば、いずれはばれて捕まる運命だろうが、あいつはそんなことは覚悟の上だ。いまさら出世を求めるとも思えないけれど、完全に信用するのは危険過ぎるな」
二人は先に金を払ってしまったことを後悔したが、交渉したところで後払いでは男は納得しなかっただろう。だからその事を気にするのはやめようということにした。
「ひとつ北側の間道と言っていたから、ひとつ南側に行くとか」美緒が口にした。
「そうだね、それくらいのリスク回避はするべきだな」と言って晃司がグーグル・マップの画面を下にスクロールしてみると、桜通のひとつ南側でJRを超えられるのは錦通になってしまうことがわかった。錦通も名古屋を東西に横切る桜通、広小路と並ぶ3つの主要幹線道路のひとつで交通量も多く、当然検問の警察官も多くいるので、そのうちの何人かが持ち場を離れて桜通検問所方面に駆けつけたとしても検問所が空になることはありえなかった。
「やはり桜通北側の高張橋の検問所を超えるしかないな。もし桜通でなにも起きなかったり、高張橋付近で多くの警察官が待ち伏せしているような気配を感じたら引き返すしかないね。俺がすこし時間より先に付近に行って偵察してくるよ。俺は手配されている犯人の容姿ではないし、区境も問題なく超えられるだろうから高張橋を渡った東区側の様子も見て来られるし」
「でも、もしあの男が待ち伏せしていて佐藤さんが捕まっちゃったらどすればいいんです? 犯人隠匿の罪に問われるんじゃないでしょうか?」
「可能性はあるけれど、もしそれで捕まりそうになったらできる限り派手に逃げるから、隙を見て美緒さんが検問所を突破しなよ」
「一人で逃げるなんて嫌です」美緒はきっぱりと言った。
「もし俺が犯人隠匿や捜査妨害で捕まったとしても、あいつが信用させるためだと言って、自分の弱みを話してくれたから、警察に麻薬や拳銃を横流ししていることを話してやる。あいつだって娘さんが無事に移植手術に臨むまでは捕まりたくはないだろうし、甘い考えかもしれないけど、待ち伏せして捕まえることはないんじゃないかな」
「そんなに上手くかなぁ。なんといっても相手は刑事ですから、こちらがなにを言っても困らないように手を打ってあるんじゃないかなぁ。それに横流しの話だって、今思えば本当かどうか怪しいですもんね」
「まあ、そんなに悲観せずに。今は他にいい方策もないんだし、試してみるしか仕方がないよ」
晃司も不安しかなかったが、可能性にかけるしかない。いざとなったら自分が美緒を逃がしてみせると心に誓っていた。
でも、今更ながら晃司はどうしてここまで美緒のために必死になってしまっているのか、美緒も自分のことを信頼しているのか、よく考えればわからなかった。
わからないが、やはり、わからないことを深く考えてもわからないので、時間の無駄だと思ったし、娘を亡くしてからこんなに充実感を覚えるのは初めてだし、ただただダラダラと生きてきたこの20年を取り戻せるのではないかと思い始めていた。
<chapter 04 晃司と美緒 外出>
昼食は思い切って外食にした。
今夜逃げると決めたら今更ジタバタしても仕方がなし、しばらく帰って来られないのなら、開き直って、どうしてもkameの焼売と牛肉麺が食べたくなった。
kameは桜通の千種区の西端にほど近い、YAMADA web.com千種センター店から桜通を挟んで筋向かいにある焼売を売りにした”赤くて狭いアジアの食堂”だ。
店の売りの焼売も旨いのだが、晃司は圧倒的にエスニックなピリ辛味の牛肉麺が好物で、月に2、3度通っていた。
平日はランチ時しか営業しておらず、ランチメニューの牛肉麺のセットを頼むと、焼売3つと惣菜2種、雑穀米が太麺で歯ごたえ十分の牛肉麺とともに出てくる。
店内は15、6席ほどの小さな店で、BGMはクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルの「雨を見たかい」やディープ・パープルの「スモーク・オン・ザ・ウォーター」などの70年代ロックか、歌声が明らかに若い矢沢永吉の「アイ・ラヴ・ユー、OK」や中森明菜の「飾りじゃないのよ涙は」などの日本のロック、歌謡曲が有線で流されていることも晃司のお気に入りのひとつだ。
晃司と美緒がぷらぷら歩いて12時半ごろに暖簾をくぐって狭い店内に入ると、アオザイを着た店員が「いらっしゃいませ、空いている席にどうぞ」と声をかけてくる。
店内には一人の女性、夫婦連れ、女性の二人組が食事をしており、比較的空いていたので晃司はすこし安心した。窓には目貼りがされていて外からは様子が窺えないが、人目が少ないにこしたことはない。
「ここの牛肉麺は辛いのとパクチーのエスニック感が大丈夫なら病みつきになる味だよ」
「そうなんですね。でもご飯と焼売も付いているから、すこし多いかもしれないです。食べきれるかなぁ」
「意外と少食なの?」
「意外ですか?」
「だって、ねぇ〜」晃司は小声で「工作員って過酷な訓練してるから、よく食べるのかって思ったよ」
「それは、訓練中でしょ。今は体型のこともすこしは気にする二十代の女性です」
「そうか、そうか。ごめんごめん。食べきれなかったら俺が引き受けるから、安心して」
晃司も大食漢ではなく、どちらかというと食が細いのだが、どういうわけか子供の頃から好きなものだけは沢山食べることができた。母親が作ってくれた炊き込みご飯は、日頃の白米なら茶碗に1杯しか食べられないのに5杯もお代わりして母を喜ばせたり、これも母が好きだったにぎり寿司なら3人前食べてもまだ足りないと思うくらいだ。
結局、美緒はやはり慣れているのか、辛さをものともせず自分の分はぺろりと食べきり、無駄に代謝のいい晃司は、大量に汗をかきながら牛肉麺のピリ辛スープまで全部飲みきった。
「おいしかったですね」
「だろ、月に何回か通っていたから、しばらく食べられないと思うと今日のは特に旨かった。やっぱり来てよかったよ」
晃司は満足げに腹を擦った。
「すぐ近くだし、ついでに区境の検問の様子も見てこよう」
二人は遠巻きながら、桜通と1本北の今夜突破する予定の高張橋の検問所の様子を確認した。
桜通は片側3車線の幹線道路を、高速道路の工事規制の要領で1車線にして検問を実施していた。
矢印看板を置いて車線を徐々に絞り込み、ラバーコーンをいくつか車線に平行に並べ、検問所付近はバリケードの前にパトカー2台が2車線を塞ぐように横向きに停車していて、警察官は全部で7、8人いて、さらに両側の歩道にも柵があって警官が二人ずつ配置されていた。
通過する車は、ストップマークを棒の先につけた道具で、1台ずつ踏切の遮断機の要領で警察官に止められ、車内の目視と高感度サーモグラフィーによるモニターチェックを受けて検問を通過する。
それに比べると1本北の高張橋は、道幅の狭い東への一方通行の道を簡易的なバリケードで塞ぎ、警察官が二人だけで車内目視とトランクを開けさせての昔ながらのアナログなやり方でチェックし、簡易バリケードをずらして通行させる検問を実施していたが、晃司と美緒が5分ほど見ている間には、車の通行は付近の住人が時折通るくらいで、歩行者の通行は一人もいなかった。
「やっぱり大人数の桜通の検問所と比べると、高張橋の検問所は二人しか警察官がいなかったね」
「そうですね。あの男がどんな騒ぎを起こしてくれるのかわからないけど、上手く行けば二人とも持ち場を離れる可能性はありそうですね。もし一人が残ったら、私がなんとかします」
「なんとかって、殺しちゃうの?」
「そんなことしませんよ。一時的に気を失ってもらうだけですよ」
「警官一人くらいなら、簡単なんだ・・・」
「簡単じゃないですよ。警察官だって訓練は受けてるはずだし、そんなに簡単ではないと思うけれど、なんとかなると思います」
晃司は美緒が本気になったら、一体どれぐらい強いのかと思った。
「でも、高張橋だと検問所を車で強引に突破しちゃえば区境を越えられそうだね」
「そうですね。当然警官は止めるでしょうけれど、跳ね飛ばすつもりで行けば突破できちゃう感じがします」
「その後、複数のパトカーとカーチェイスになって結局逃げ切れそうにはないかもしれないけどね」
「突破した先のことを考えると、派手な突破方法だと、やっぱり限界ありそうですね」
ということは、やはり今のところあの男に期待してみるしかなさそうだな、と二人は思った。
関係いない話だけれどと言って美緒が唐突に切り出した。
「佐藤さんって左利きなんですね」
「そうだけど、それがなにか?」
「一晩泊めてもらって、次の朝、朝食を食べたとき気づいたんですけど、日本の社会って特に食事するときは、左利きを矯正して右利きに変えるって聞いてたもので」
「ああ、お箸は右、お茶碗は左ってことね。それは随分前の話だと思うよ。俺達の親世代には確かにあった風習だね。現に父親も左利きだったけれど、食事と字を書くのは右だったしね。子供の頃に矯正されたらしい。おかげで左右両方が利き手のように使えるって言ってたけどさ」
「へぇ〜、じゃあ私の情報はかなり古かったんですね。私に日本語を教えてくれたひとがそう言ってたもんですから」
「北朝鮮でってこと?」
「そうです。どういう理由で本国に来た方かは知らされなかったですけれど、年配の日本人の女性でした」
「拉致されっちゃったひとかな。そうだとしたら頭にくるし、とても可愛そうだ!」
晃司が憤慨すると「でも日本にこれたけ在日朝鮮人が多いのって、昔、日本が強制連行とかして連れてきちゃったのもあるんじゃないですか?」と美緒が穏やかに反論した。
「そう言われると、返す言葉もないけどね・・・」
晃司はバツが悪そうに左手で頭を掻いた。
そんなことを話しながら、今池にある銀行のATMで美緒が晃司の口座に振込んだ金から一日の上限額50万を引出し、千種公園を横切ってマンションまでぷらぷら歩いて戻ろうとしていると、いきなり後ろから晃司は腕をグイッと掴まれた。
”痛った”と思って振り返ると「お前達こんなところでなにをしてるんだ!」と杉本が怒りを顕にして立っていた。
「なにって、昼飯を食いに行ったついでに銀行で金をおろしてマンションに戻るところだけど」
「なに呑気なこと言ってるんだ! 今、千種区内は俺みたいな刑事や警官がごろごろいるんだぞ。この女を捜すのに必死になってるというのに、外食なんかしている場合か! 捕まりたいのか、お前達は!」
「いや、そんなことは・・・。美緒さんの見た目も手配画像とは全然違うし、ましてや親子のように見える二人連れだから問題ないだろうと思ってた・・・」
「日本の警察をなめるんじゃねぇ! 俺が気づいたってことは、他の刑事も気づく可能性があるってことだ。ふざけんなよ!」
「あんたは、玄関に美緒さんの靴がないとか、俺が一人暮らしだと言ったのに隠れている人間がいるとか、状況証拠でピンときただけで、美緒さんの容姿を確認してわかったわけじゃないんじゃないのか?」
「屁理屈を言うな! 地下鉄の駅でもバス停でも、もちろん道路の検問でも、それくらいの若い女を中心に警戒しているんだぞ。こんな昼間っから外をうろついていて職質でもされたらどうする? 上手く逃げ切れるのか? 今、騒ぎでも起こしたら終わりだぞ!」
「わかったよ、悪かったよ。すぐにマンションに戻るから、そんなに怒るなよ」
「たっく、人の気も知らないで、いい気なもんだな。さっさと戻って、今夜まで、もう出てくるんじゃねぇぞ! お前のマンションはもう確認済みで問題なしってことにしてあるから、俺以外の刑事や警官が訪ねていくことはないからな、変なのが訪ねてきても絶対に出るんじゃないぞ。よく覚えとけ!」
杉本は怒りが収まらない顔して、まだなにかぶつぶつ言いながら立ち去って行った。
「なんだあいつ? やけに怒ってたね」
「そうですね、ちょっとびっくりしちゃいました」美緒も驚いた様子だったが「でも、あんなに真剣に私達を怒るってことは、今夜の計画は信用出るかもしれませんね」と言った。
「そうだよね、騙して捕まえるつもりなら、あんなに真顔で怒らないよね。でも、まあ一応は警戒しておこうか」晃司と美緒は急ぎ足でそそくさとマンションへ向かった。
<chapter 04 汚職刑事と銀縁メガネの女>
杉本は、まだ怒りが収まらなかったが、千種公園内のユリ園の西側にあるベンチに戻ってきて、かじりかけの焼きそばパンとペットボトルのお茶で昼食を再開した。
千種公園内のユリ園は、5月下旬から6月中旬頃にかけて、黄、白、オレンジ、ピンク色など色鮮やかな約10,000球ものユリが見頃を迎える隠れた観光スポットだが、桜が終わり、この時期はモクレンや水仙が園内各所で見られるものの、ユリの開花はまだ先で一休みの時期にあたる。
ベンチに座り、パンをかじる杉本の背後から女が近づいてきた。
「今の二人連れは、お知り合いの方ですか?」
杉本は驚いて振り向き「なっ、なんだ、お前か驚かせるなよ」とほっとした。
「驚くってことは、見られたくない相手だったってことですかね?」
「後ろから不意に声をかけられたら誰だって驚くだろ、お前、気配消し過ぎだぞ。刑事の俺がまったく気づかないなんて、いったいお前はどこでそんな技を身に着けたんだ?」
「別に、特別なことはなにもしていませんよ。杉本さんこそ、なにに気を取られてたんですかね」とその女は微笑んだ。
銀縁のメガネをかけ、ベージュのパンツスーツに皮のトートバックを肩にかけた女は、杉本が以前担当した愛知県議絡みのゼネコン汚職事件で顔見知りになった名日新聞の記者だった。
確か、まだ20代後半だったはずだ、と杉本は記憶をたどりながら「なんの用だ。鯱」と乱暴に吐き捨てた。
「私の名前を覚えてくれていたんですね、杉本さん」女は冷たい笑みを浮かべている。
「そんな名前を忘れるわけないだろ。西城鯱。いくら名古屋生まれの名古屋育ちで”城”の文字が名字にあるからって、女の子に”鯱”なんて名前を付ける親の気持ちがわからんね」
「そうですか? 私は気に入ってますけどね。鯱は名古屋城の守り神、金鯱の鯱ですし、海洋生態系のトップに立つ捕食者ですからね」
「ふん、で、なんの用なんだ?」
「決まってるじゃないですか、今、千種区は前代未聞の封鎖されて、町田首相暗殺犯を警察は必死になって追ってるんですから、なにか警察の人間にしかわからない情報を教えていただけないかなぁと思いまして」鯱は感情が一切わからない表情で杉本に問いかけた。
「なんで俺が、以前の事件で顔見知り程度で大して関係もないお前に内部情報を漏らすと思う?」杉本はベンチに座ったまま、鋭い視線を鯱に送りながら吐き捨てた。
「さあ、どうなんでしょうかね」ベンチの背後に立ち、無表情のまま鯱は続けた。「いえね、私は警察じゃないから、どうこうできる立場ではないんですけれどね、ある裏社会に詳しい人間から、警察関係者が押収した拳銃や麻薬を反社に横流ししているんじゃないかって噂を耳にしたものですから。ご協力いただけるんじゃないかと思いまして」
杉本は背筋が凍る思いがした。娘を救ってやるまでは、絶対に捕まるわけにはいかない。一度喰付いたら離さないと警察内でも有名な鯱に、証拠を掴まれたら終わりだ。
”どうすれば、ごまかせる? この女を俺から引き剥がすには、なにをすればいいんだ”杉本は必死で考えた。
「なにが知りたいんだ?」杉本は鯱の出方をうかがうことにした。
「聞いてなかったんですか? 町田首相を暗殺した一条香について、なにかわかっていることがあれば教えてください」
「国をあげて犯人を追っている事件だぞ。俺のような末端の刑事が公に発表されていない情報を持っていると思うか?」
「さあ、それはどうでしょうね。私の持っている情報と、あなたが持っている情報とどちらがあなたにとって重要なのかってとこによって変わってくるんじゃないですか」鯱は遠慮することなく、杉本を立ったまま上から氷のような冷たい視線で睨みつけてきた。
杉本はなるべく表情に出ないように必死で感情を抑えながら、考え続けた。今、こいつは確実に俺を脅している。鯱が納得できる情報を与えない限り、横流しの件をしつこく突いてくるだろう。かといって、さっきの二人連れが一条香と匿っている男だ、とは言えるわけがない。鯱が納得できる情報を与えたからと言って、横流しの件をすっぱり諦めるわけがない。これからも何かにつけ、情報提供を要求するようになるだろう。
でも今は、とりあえずかわすしかない。横流しも噂レベルではどうしようもない。娘の資金が一条香のお陰で目標額に到達したのだから、もうこれ以上不正を働く必要はないし、証拠を掴まれることはないのではないか。
杉本は決断して、ベンチの背後に立ったままの西城鯱に向かって口を開いた。
「今夜21時頃、検問所でなにかが起こるかもな」
「なにかって、なんですか?」
「そこまでわかっていれば、俺が事前に阻止するよ」
「ふーん。そうですか」鯱はすこし首を傾けて、意味ありげに笑った。「検問所ってことは、幹線道路なんでしょうね。どの幹線道路です? もったいぶらずに教えてくださいよ」
杉本は、鯱の言葉遣いは丁寧で声のトーンは変わっていないが、圧がグッと増した気がした。
「そこまでわかっていれば・・・」
「俺が阻止するんですか? せめて東西南北くらいのヒントはくださいよ」銀縁メガネの奥で鯱の目が鋭さを増した。
「さあ、どうだろうな。西が怪しいと思うよ、俺は」
それを聞くと、なにも言わずに鯱は来たときと同じように、本物の鯱が獲物を捕食するときのように気配を消して静かに去って行った。
「なんてやつだ。あいつは新聞記者じゃなくて刑事になるべきだな」杉本は背中と脇に嫌な汗が流れるのを感じながら、完敗だと思った。あんな小娘に脅されるとは、情けない話だ。その原因を作ったのは自分だが、今後もあいつには気をつけたほうがいいなと、千種公園から出ていく鯱の背中を見ながらつぶやいた。
<chapter 04 晃司と美緒 出発>
その日のテレビニュースやワイドショーでは、その日も町田首相が殺害された事件を放送時間の大半を割いて伝えてはいたが、町田首相のこれまでの歩みだの、何度も何度も流されている画質の粗い東京駅の監視カメラに映っている犯人と見られる女の映像を繰り返したり、封鎖された千種区の区境の様子を何箇所かを映し出すのみで、具体的な進展がないまま事件発生から四日が経過しようとしているとアナウンサーが話していた。
ワイドショーに至っては、犯罪ジャーナリストと呼ばれるお馴染みの数人が、代わる代わる別の番組に登場しては、コメンテイターと言われるタレントやタレントまがいの弁護士、大学教授を相手に推測の域を出ない話を披露するばかりで、コメンテイターもそれに合わせて実のないコメントをしているだけだった。
リポーターにインタビューを受けている千種区民の胸から下しか映っていない映像も流されているが、その反応はまちまちだ。
スーパーの前でインタビューを受けた主婦は「無差別に人を刺し殺した通り魔的な犯人じゃないから、怖くて外に出られないってこともないし、区内の移動は自由なので、買い物にも困らないし、千種区が封鎖されたからって自分の生活に大きな影響はないんだなと思いました。ただ週末には子どものサッカーの試合があって、区外へ送り迎えしなくちゃいけないから、出るときだけはいつもより1時間以上早く出ないとだめでしょうね。それだけが大変なので、やっぱり早く犯人が捕まって欲しいです」
基幹バスと呼ばれる、バス専用レーンを走るので朝夕の通勤通学時間に渋滞に巻き込まれずに利用できる路線バスの専用バス停でインタビューを受けた区外へ通勤するサラリーマンは「基幹バスで通勤しているので渋滞知らずだったんですけれど、封鎖されてから、バスは千種区境手前のバス停で一旦全員降ろされてチェックを受けることになったので、結構早めに家を出ないといけなくなりました。会社も事情はわかってくれてるから、千種区内を通行するバスで出勤するひとには、多少の遅刻は目をつぶってくれていますが、毎日、朝早く出ないといけないので、いい迷惑ですよね」
また、地下鉄で通勤する中年の女性は、「地下鉄の場合、今までも基本的に一人ずつ改札を通過するのでチェックもスムーズでそれほど大きな混乱はありませんね。若い女性を中心に犯人に背格好が似ているひとが止められて詳しいチェックを受けるのを目にしますけれど、中にはなんで自分だけ毎日チェックされるんだって警察官に食って掛かっている女性もいました」
同じく地下鉄の駅で通学する男子高校生は、「基本的に僕らはチェック対象外だから、警官もさっさと通れって感じで止められることはないけれど、昨日は前で止められる人がいて改札が詰まっちゃって、乗らなきゃいけない地下鉄に乗れなくて遅刻しちゃいました。でも理由が理由だから、学校も遅刻扱いにしないし、逆に寝坊して遅刻してもバレないから、しばらく続いちゃってもいいかもしれないです」とお気楽コメントを披露している。
20時になり、晃司は自分のパスポートと現金、スマートフォンの充電器具とすこしの着替えをバックパックに詰め込んで、美緒とマンションを出て、突破予定の高張橋検問所へ向かった。
美緒も自分のマンションから持ち帰ったバックパックを背負っているので、これから小旅行に出かける親子のようだった。
杉本との約束には、30分ほど早く現場付近に到着し、まずは晃司が高張橋の検問所を通過して区境を越えた東区側に待ち伏せている警察官がいないか調べてくることにした。
その間、美緒は住宅街に一人で佇んでいると怪しまれるので、YAMADA web.com千種センター店を中心に周回道路を歩き続けることにした。
「気をつけてくださいね。本当は離れたくないんですけれど、私が一緒に行くことはできないから」美緒が晃司に声を掛ける。
「大丈夫だって、俺は容疑者じゃないし、男だから区境も問題なく通過できるし、もし東区側に警官が待機してても捕まることはないよ。心配しないで」
晃司の思ったとおり、区境を難なく通過し、一通り南北の間道を歩いてみたが待ち伏せの警察官は見当たらず、周辺を一廻りし特に心配する要素もないことを確認して、再び検問所の横を通って千種区内に戻ってきた。
高張橋のワンブロック東側で待っていると、ほどなく美緒が歩いてきたので状況を説明し、問題はないことを告げた。
<chapter 04 工作員アジトの倉庫>
エージェントA、B、Cがリーダーに呼ばれ、仕事着でアジトの倉庫に集まっていた。そこには他に初めて見る同じ容姿の大きな熊のような男二人と自分達が取り逃がしてしまったリ・ジウンとそっくりの女エージェントがいた。
リーダーが「エージェントDはどうした? 遅刻か?」というと、美加が「それが連絡がつきません。先程も携帯に連絡したんですが、繋がらないままです」と答えた。
「なんだと、電源を切って女のところへでもしけこんでるわけじゃないだろうな。きみ達はなにか知らないのか?」
エージェントA、エージェントBとエージェントCはお互いに顔を見合わせ、お互いに首を横に振り「我々も普段は別々に暮らしておりますので、エージェントDがどこに住んでいるのかも知りませんし、ましてやエージェントDの女性関係など知る由もありません」と答えた。
「そうか、まあいいだろう」仕方がないなと軽くため息を漏らした後で、リーダーが続ける「本国より連絡が入り、本日、昼間に美緒ことリ・ジウンに動きがあったそうだ。西の千種区境あたりまで行って再び潜伏中と思われるマンションに戻ってきたそうだ」
「えっ、ジウンの潜伏先がわかっていたんですか?」と思わずエージェントA、エージェントBとエージェントCが声を上げた。
「そうだ。本国は最初から美緒の位置情報を掴んでいたが、我々が失策を挽回しようと報告を遅らせたため、日本側が焦って千種区を封鎖するという前代未聞の愚策に打って出た。なので、そこからは千種区内は日本側で、区内から脱出した場合は我々が受け持つということで話がついたらしい」
「そうだったんですね。ならもっと早く本国に報告していれば、一晩中ジウンを捜したりせずに・・・」とエージェントAが口にすると、「そもそもエージェントAとエージェントBが自宅マンションに戻って来る美緒を捕らえられなかったからこんなことになっているんだろうが、文句を言えた立場かどうかよく考えろ。エージェントDは我々の知らない間に責任を取らされて本国に粛清されたかもしれないんだぞ」とリーダーが厳しい口調で言葉を遮った。
エージェントA、エージェントBとエージェントCは、一斉にリーダーに顔を向け、恐怖と驚きの表情を浮かべている。
「で、今夜、美緒がまた昼間と同じ様に西の千種区境を目指して動き出したとのことだ。そこで、怪物A、怪物Bは東区側に先回りして美緒を始末しろ。美加は怪物二人と同行して、どうやら美緒を匿っている中年男がいるらしいから、そいつを始末しろ」
「工作員でもない関係のないひとを殺すんですか?」と美加が聞いてきたので「美緒と数日一緒にいるからには、我々の情報も少なからずその男に漏れていると思わなくてはならない。念の為だよ」本当のところは、本国と言うより鬼頭幸三郎のほうが気が気ではないと思うがな、とリーダーは心のなかで呟いた。
「美加と怪物A、怪物Bは、すぐに出発しろ。美緒はすでに動き出している。詳しい位置情報は美加のスマートフォンに送るから、クリーニングチームも連れてすぐに出発してくれ」
「ラジャー」と美加が答え、怪物Aと怪物Bは、無言で頷くとすぐに倉庫から出かけて行った。
「よし、ではエージェントA、エージェントB、エージェントCは、一旦エージェントDの自宅へ行ってなにか手がかりになるものはないか確認してくれ。住所はスマートフォンに送る。なにかわかったらすぐに私に報告するように。そのあと美加達の後追って彼らのサポートに当たってくれ」
「ラジャー」とエージェントA、B、Cが大きな声で答えた。
<chapter 04 汚職刑事>
杉本は東区側から、桜通を東へ向かって覆面パトカーを走らせ検問所に向かっていた。約束の21時すこし前には、現場に到着できるはずだ。別に金さえ手に入れれば、晃司と美緒との約束を守る義理はなかったが、娘の心臓移植費用の足らない残りの金額をポンと出してくれた二人に対して心の底から感謝していた。
杉本はもともと真面目な刑事だった。世の中にすこしでも貢献したい、犯罪を取り締まりたいという思いで、この職業を選んだ。
大金を手にできる職でもなく、時には命の危険にさらされるかもしれない職を、地方の二流大学を卒業しただけで、キャリアになれるはずもない杉本が選んだのは、大げさに言えば使命感だけだった。
それも、娘に病が見つかって一変してしまった。
世の中の役に立ちたいという気持ちを、娘を救ってやりたいという気持ちが遥かに凌駕してしまった。今の杉本には、娘の病をなんとかして、娘を救うことだけで頭の中はいっぱいだった。
杉本は娘の心臓移植費用を工面するために、警察の保管庫にある押収された拳銃や覚醒剤を横流しすることを思いついた。
通常、押収された拳銃は一定期間保管され、その後は警察の内規に従って廃棄される。つまりは廃棄されるまでは、保管庫の段ボール箱に入った拳銃の有無を確認することはない。
杉本は押収された拳銃と同じ、もしくは同じようなモデルガンをインターネットで入手し、入れ換えた。日本国内で流通する拳銃の多くは、駐留米軍が日本を離れるときに秘密裏に金に変えられたものか、フィリピンあたりから密輸されたもので、それほど種類が多いわけではないため、似たようなモデルガンを入手するのは難しくなかった。押収時に調べは済んでいるので、少々の違いは問題ない。担当の事務職員によって、廃棄される場所に運ばれ機械的に処理されるだけだ。
覚醒剤の場合はもっと簡単で、こちらは成分調査を終えて保管庫に入れられているので、中身を小麦粉と入れ替えておけば誰にも気づかれずにそのまま小麦粉が廃棄されることになる。
しかし、かなりリスクを伴う行為のため、杉本自身もいつまでもごまかせるはずはないと思っている。
自分はいずれ逮捕され、世間を賑わすスキャンダルになるだろう。
ひょっとするとことの重大さに、警察組織全体で隠蔽することがあるかもしれないが、もしそうなったところで自分は無傷でいられないのは覚悟の上だ。
残りの人生を刑務所の中で過ごそうと、遠い何処かの街でひっそりと暮らすことになろうとも、娘だけは絶対に助ける。
ときには、横流しした拳銃をブローカーに渡して、ブローカーが売った先を聞き出し、それを再び自らが押収することもした。摘発と押収を一人でやってのければ、その拳銃は完全に杉本が自由にできるものになる。こうして2回3回と同じ拳銃を横流した。
東南アジアの寺院の隣で、鳩を解き放つと徳を積めると言って参拝者に鳩を売りつけ空に放たせる。その鳩は鳩舎に戻ってくるので、翌日にはまた同じ鳩を売るのとシステムは同じだ。
拳銃も覚醒剤も、できうる限りブローカーを噛ませ、自分が直接取引することはほとんどなかったが、中にはどうしても直接取り引きしなければならないケースもあった。
取引相手はほぼ100パーセント反社組織だ。顔がバレるとあとあとろくなことはないと思ったが、背に腹は代えられず接触は必要最小限に留めた。それでも業界で刑事が拳銃やヤクを売り捌いているらしいという噂が流れ出していると、あるブローカーから耳にした。
覚醒剤はエンドユーザーに直接捌いていては、一度に捌ける量に限界がある。拳銃はそのまま反射組織が保有する場合が多いが、覚醒剤の場合、反社組織が仲卸の形になりエンドユーザーに広がってゆく。
自責の念に駆られたのは、最初のうちだけだった。この拳銃でひとが撃たれたたら、それで命を落としたら、この覚醒剤のせいで人生を狂わせてしまったら、ヤク中になって関係のないひとを無差別に襲ったら。考えたらきりがなかったが、だんだん結局はそいつ自身が悪いのだ、と思うようになった。
スーパーにだって包丁は売っている。金属バットだって簡単に手に入る。車に至っては日本の屋台骨を支える一大産業だ。ようするにその道具をどう使うかが問題なのであって、すべては使う側の責任なのだと自己暗示にかけることによって罪の意識を薄れさせて行った。
そんなとき美緒を匿う晃司と出会い、「この男は、なぜこの女を匿うのだろう」という疑問が生まれた。
首相を殺した犯人を、血縁者でも愛人や恋人でもない見ず知らずの男が匿う理由がわからなかった。女に騙されているのか? 女の色仕掛けに惑わされたのか? それともなにか他に理由があるのか?
答えが見つけられないまま、金を脅し取るために再び晃司の部屋を訪れた杉本は意外な展開に心底驚いた。あのうだつの上がらないオヤジが、部屋に現金を800万以上持っていたこと、さらに犯人と思われる女が1200万もの金を娘のために出してくれたこと、どう考えても予想を越えた展開だ。
今の自分は、どうしようもない汚職警察官、ダークサイドに堕ちた哀れな男だということは、もともと真面目な性格だっただけに十二分にわかっていたので、晃司と美緒が娘のために金を出してくれたことに罪の意識が蘇り、二人を信用させるために、つい娘のことと自分が今までやってきた汚い仕業を二人に話してしまった。
だが、本当の理由はそこにはなく、自分でもすべてを誰かに話して懺悔したい、楽になりたいという気持ちがあったことは自覚している。
”言ったことは、たとえ口約束でも必ず守る”というのが、若い頃からの杉本の信条だ。
大学生のとき、あまり好きなタイプではない4年生の先輩と、自分と同じ2年生3、4人で居酒屋で飲む機会があった。
その先輩は茶髪でゆるくパーマをかけて、派手な色の服装が好みで赤や黄色などの原色の服をよく着ていたし、馬鹿話が好きで、杉本から見るといつもふざけている印象しかなく、尊敬とは無縁の人物だった。
生真面目な杉本とは正反対のそのチャラい先輩と酒飲むのは、気が進まなかったが、所属していた映画サークルの先輩なので断りきれずに付き合っていた。先輩は飲み始めた当初から「このあと河本のとこで麻雀する約束になっているから、あとでみんなで行くぞ」と言っていたのに、終電の時間が過ぎても飲み続けている。酒があまり強くはない杉本にとって、長時間の飲み会はそれだけでも苦痛だったし、馬鹿話に終止して得るもののない時間にもいらだちを感じていた。ただ、杉本の下宿までは歩いても30分程度だったので、それだけが救いだった。
杉本は今夜はそのうちお開きになって自分の下宿へ帰れるものと思っていたが、居酒屋が閉店した午前2時ごろに店を出ると、その先輩が「よし、そいじゃこれから歩いて河本のとこまで行くぞ」と言ってどんどん歩き出した。麻雀の約束をした河本先輩の下宿までは、電車で5駅ほどあったので後輩達は全員目を丸くして驚いたが、黙って帰るわけにもいかず、結局真夜中に酒に酔っているせいもあって2時間ほど歩いて、へとへとになって河本先輩の下宿にたどりつた。
そこでは同じサークルの先輩達が麻雀卓を囲んでおり、「おー来たか、次、俺と代わろう」と言ってチャラい先輩を麻雀卓に当たり前のように招き入れた。
杉本はチャラい先輩と入れ替わりで麻雀卓を離れた先輩に、「俺達は終電がなくなっても、こんな時間でも来ると思ってたんですか?」と聞いてみた。すると、その先輩は「あいつは言ったことは、必ず守るから当然来ると思ってた」と四人がパイをかき混ぜる麻雀卓を眺めながら言った。
その時、杉本は自分もこうありたいと思った。
ひとから信頼されるというのは、こういうことなんだとチャラくて嫌いだと思っていた先輩から教えてもらった。
どんな見た目でも、言ったことは必ず守る。
口約束でも、約束は約束。
あいつが言ったことなら間違いない、と周りに思われるような人間になりたいと思った。
それ以来”言ったことは必ず守る”が杉本の信条になっている。
杉本は、桜通検問所が視界に入ると鯱のことを考えた。あいつは間違いなく名古屋を東西に横切る幹線道路、桜通、錦通、広小路のどこかの検問所付近に来ているだろうな。おそらく3本の真ん中に当たる錦通の検問所あたりから、桜通と広小路を監視するはずだ。しかし、間違っても俺が細工するところを見られると厄介だ。桜通検問所付近に鯱がいないことを慎重に確認しなくては。
杉本は桜通の検問所を横目にしながら一旦通過して千種区内に入りパトランプを点灯させ、kameのある交差点でUターンして、桜通を検問のために渋滞している車列の横を今度は西へゆっくり進んだ。
矢印看板を置いて車線を徐々に絞り込んでいる手前で停車し、矢印板を3つ移動させ検問所近くまで覆面パトカーを進めた。
ドアを開けて車から降り、忙しそうに検問所で作業する制服警察官達に「お疲れ」と声をかけた。
検問所に詰める警察官は、昼夜3交代制をしいており、今の時間だと16時から24時を担当するユニットが稼働している。
警察官は交通量の多い日中より少なめで6人体制だ。
こいつらも全国のどこからか駆り出されてここにいるんだろうな、と杉本は思った。
近くにいた若い警察官に「なにか変わったことはないか」と聞いた。
「今のところ異常なしです。こんな大袈裟なことして、犯人を捕まえられなかったらどうするんですかね? 世間から非難轟々ですよ」とその警察官は不平を漏らした。
「まあ、上の判断だし、現場に責任が及ぶわけでもないし、警視総監の引責辞任くらいで済ませるんじゃないか。こっちは関係のない話だよ」と杉本も投げやりに言い放ち「それより犯人を見逃すと俺達の責任になる。しっかり頼むぞ」と若い警察官の肩を叩きその場を離れた。
警察官達はそれぞれの仕事に集中しており、杉本を気にする様子はない。
杉本は周りに鯱が居ないことを念入りに確認したあと、乗ってきた覆面パトカーに近づき、左側後部の給油口を開け、用意してきた巻いてある包帯の端を持って給油口へ投げ入れた。包帯は給油口内をくるくる広がりながら落ちて行き、あらかじめタンク半量程度に調整したガソリンまで到達する。
杉本は給油口から包帯の端を30cmほど外側に垂らし、ポケットから使い捨てライターを取り出だすと、包帯の端に火をつけて、ゆっくりを桜通を検問所が設置されている側の車線とは逆の車線を横切ってその場を離れた。
その数秒後、ドッンっという仕掛け花火が打ち上げられるのを間近で聞いたときのような爆発音とともに、覆面パトカーの後部座席のサイドウインドウが砕け散り、火を吹き、後輪が2、30cm宙に浮くのが見えた。
覆面パトカーの後輪が地面に着地し、水に濡れた犬がブルブルっと体を震わせ水滴を弾き飛ばすように小刻みに車体を揺らした。
検問所にいた6人の警察官は、一斉に覆面パトカーを振り向き、なにが起きたのかわからず驚きの表情でフリーズしている。
検問所付近で足止めされていた車は、先頭車両が猛スピードで走り去り、残りは急いで車から降りて歩道へ避難し始めた。
杉本は避難していた北側の歩道から、走って検問所付近に近づくと警察官達に大声で叫んだ。「急いで検問所と歩道、反対車線も封鎖しろ! 混乱に乗じて犯人が検問を突破するかもしれん」
警官達は、「了解」と大声で応え、すぐさま桜通を千種区境で全面封鎖する作業に入った。
<chapter 04 晃司と美緒 突破>
晃司と美緒は、高張橋検問所の様子がうかがえるマンションへ住人を装って近づき、二人で駐輪場に身を潜めていた。
高張橋を通行する車両も人もおらず、持て余し気味の制服警察官二人の姿が見える。
21時ほぼ定刻どおりに、晃司は一瞬身を屈めてしまうくらいのドッンっという大きな音が桜通方面から聞こえた。
その直後に高張橋検問所にいた二人の警察官は、躊躇なく桜通検問所へ全速力で走り出した。
「美緒さん、今だ」晃司は美緒に声を掛けると、二人でバックパックを揺らしながら高張橋検問所をこちらも全速力で駆け抜けた。
桜通方面から、ずいぶん遅い時間の夕焼けの空のようなオレンジとも赤ともつかぬ色だけが押し寄せ、なにか叫び声が聞こえる。
100mも走ると晃司は心臓が信じられないくらいの速度で脈打ち、体内の空気濃度が薄くなるのを感じ、膝に手をついて立ち止まり、まるで無酸素運動の限界と言われる800mを全力疾走した後のアスリートのように激しい呼吸をした。
「佐藤さん、大丈夫ですか?」美緒は至って平静だ。息を切らしてすらいない。
晃司は答えられないので、肩を揺らし呼吸しながら、ただただ顔の前で手を左右に振った。
「脇道に入りましょう」美緒はそう言うと、晃司を抱きかかえるように郵便局の角を曲がったところで晃司をすこし休ませることにした。
一旦検問所を突破すれば、無用に走り続けるのはかえっておかしいし、ここは事件には関係のない男女を装って冷静に検問所から離れたほうが良いと美緒は思った。心配なのは、大きな爆発音に近所の住民が反応して様子を見に外に出てくることだったが、マンションのベランダには何人か人が出てきていたものの、関わりになりたくないという気持ちのが強いのか、様子を見に出てくる住人はいなかった。
きっと今頃、みんな必死でXを検索しているんじゃないかと美緒は思った。
<chapter 04 銀縁メガネの女>
鯱は杉本が考えたとおり、桜通と広小路検問所を目視できる錦通検問所付近に居た。なにかあった場合、走ることに備えて一旦自宅に戻り、パンプスをスニーカーへ、トートバッグをバックパックに代えて、この場に待機していた。
スマートフォンで時間を確認すると、21時5分前だった。鯱が錦通り検問所付近に到着してから、30分以上経過している。今のところは、なにも異常はない。もしこれが杉本が流したガセネタだったとしたら、こちらにも覚悟がある、というより杉本には覚悟してもらわなければいけない。
空は暗くてわからないが、星が綺麗に見えているので今夜は晴れているんだろう、夜空を見上げたなんてずいぶん昔のことのようだ。曜日も時間も関係なく仕事に追われる毎日だ。スマートフォンを手に取ったついでに、明日の天気予報を確認するためにアプリを立ち上げたときに、桜通検問所方向からドッンという爆発音が聞こえ、炎が上がるのが見えた。
その瞬間、鯱は全力で桜通検問所を目指して走った。距離にして300mほどか、学生時代は陸上部で中距離の選手だったので走力には自身があったが、なんと言っても、この仕事を始めてからというもの不規則な生活が続き、運動らしい運動なんてほとんどできなくなってしまった。でも、今はそんなことを愚痴っている場合ではない。現時点でのベストを尽くすのみだ。
鯱が左右の腕を大きく振って、足を高く上げることを意識しながら走っていると、桜通の1本北の高張橋検問所から、二人の警官が同じように全力で桜通検問所を目指して走ってくるのが見えた。
鯱は”これだと高張橋検問所は、無人だよね?”と思い、桜通のさらに100mほど北にある高張橋検問所に目をやると、自分と同じようにバックパックを背負った男女と思われる二人が検問所をこれまた全力で東区側へ走ってゆくのが見えた。
それを目にした鯱は、昼間に千種公園で、杉本が親子のような男女に声を荒げていたのを思い出した。あのときは、過去に杉本が逮捕したことのある男が、平日の昼間に公園を歩いているのを見つけ、ちゃんと仕事をしているのか問いただしてでもいるのかと思って、さほど気にしてはいなかったが、今思えば隣りにいた若い女性は手配中の一条香と同じような年頃と身長だったような気がする。
鯱はここは自分の勘に賭けるしかないと瞬間的に判断し、急いで方向を変え男女が消えた東区側を目指して走り続けた。
<chapter 04 首相官邸>
「首相代理、一条香が千種区内から脱出したそうです。たった今、北から情報が入りました」秘書官の潮見崎が首相官邸の首相執務室のドアをノックして開け、中で待機している鬼頭幸三郎に近づき、小声で告げた。
「よし、これで北の奴らが自由に動けるはずだ。あの女を始末するのも時間の問題だろうな」鬼頭幸三郎は首相の椅子に座ったまま不敵に笑い、「そろそろ自由民権党総裁、そして我が国の首相になる準備でもしておくか、なあ潮見崎。お前も俺に仕えることができて、光栄だろ」と机の上に置かれたバカラのグラスを手にすると、芳醇な香りを放つシングルモルトをストレートでぐいっと一口で飲み干した。「党のジジイ達には文句は言わせない。俺に楯突くやつはすべて潰してやる。なんなら金を握らせて黙らせてもいい。北の奴らに追加で10億払ったと思えば安いもんだ」と気持ちの高揚を抑えきれないかのようだ。
「で、封鎖されている千種区から、どうやって検問を突破したんだ?」
「そちらの方は、警察からなんの連絡もないので、詳細はわかりかねます」
「なんだと、北の連中に分かって、日本の警察にはわからないと言うのか」
「警察は、まだ一条香が千種区内から脱出したとは思っていないでしょうから、情報が上がってこないのも当然かと。しかしながら、警察には一条香が、まだ千種区内に潜伏中と思わせておいたほうが、あの女を北の連中に始末させるには好都合なのではないでしょうか」
「ふん、そんなことはわかっている。状況を聞いたまでだ」
潮見崎は、偉そうなことを言っているが、こいつは何もわかっていないな。こんな男に首相を任せていいものだろうか。俺がしっかりして、こいつの手綱を握ってコントロールしてやらなければ、日本は大変なことになるかもしれないなと思った。
「よし、今夜はゆっくり寝られそうだ。新しい情報が入ったら、すぐに知らせろ。俺はリビングで寛ぐことにする」鬼頭幸三郎は椅子から立ち上がって、ゆっくりと潮見崎の前を通り過ぎ首相執務室を出ていった。
<chapter 04 晃司と美緒 対決>
桜通を消防車やパトカーが次々に検問所を目指して走ってくる音が裏通りにも響いてくる。
やっと晃司の息が多少整い始めたので、美緒は「そろそろ歩きましょう」と言って晃司の手を引くようにして動き出した。
二人はゆっくり歩きながら「検問所を突破したとき、桜通の検問所のほうを見たんですけれど、赤々と炎が上がってましたね。なにかが爆発したのは間違いがないと思いますけれど、あの男はなにを爆破したんでしょうね」と美緒が聞いてきた。
晃司は桜通の検問所の様子をうかがう余裕はなかったが、視界の端に炎が上がっているのは感じられたので、爆発してなにかが燃えているということは理解していた。
「なんだろうね・・・。わからないけれど・・、ずいぶん派手な・・・方法で検問所を突破させてくれたよね」
晃司はまだ息が完全に整っていないので、軽いめまいを感じながら途切れ途切れで答えた。
「日本じゃテロもないし・・。警官もさぞびっくり・・・しただろうな。持ち場を離れて行った・・二人の警官を責められない・・・よね」
「本当ですよね。あの男が約束を守ってくれたのは嬉しいけれど、あんなに派手にしなくてもねぇ」
美緒は笑っている。
「水・・・が飲みたい。コンビニか・・自販機ないかな?」
晃司があまりに必死そうに訴えるので、美緒の笑顔は更に大きくなった。
「こっちは笑いごとじゃ・・・ないよ。こんなに・・・息が切れたのは・・いつ以来だろう」
すこし大きな通りに出たところで、自販機を見つけてペットボトルの水を買って一気に半分くらいを飲み干すと、晃司はやっと肩で息をしなくて済むようになった。
夜通し歩いて、JR尾張一宮駅を目指すのもひとつの策ではあるが、やはりここは晃司の体力のこともあり、頓挫した下水道脱出計画どおり、どこかのラブホテルで一泊して通行人の多い昼間に歩いて駅に向かうということにした。
名古屋市営地下鉄の新栄町駅付近には、ラブホテルが点在しているため、地下鉄の駅にして一駅分程度の距離にあるそのあたりを目指して二人は歩いた。
なんとなく薄暗く人通りもなく住宅街でもなく、窓の少ないビルがそこここに見られる地区までやってきたとき、ビルの影からすーっと眼の前に後ろ足で立ち上がって前足をだらしのないバンザイのように上げた熊が現れた。
晃司はどうしてこんな街なかにまで熊が出没したんだと思い、思わず美緒の二の腕をしがみつくよう持ち後ずさった。が、よく見るとそれは熊のような大きな男のシルエットだった。
美緒の表情は厳しいものになり、晃司の手を振り払うようにして身構え、背負っていたバックパックをゆっくりと脇に置いた。
ファイティングポーズで、戦う意志を示している。
「佐藤さん、逃げてください!」美緒は強い口調で、目線を熊男から逸らさずに言った。
「いやいや、俺だけ逃げるなんてできない・・・。俺も戦う・・・」
「佐藤さん、緊急事態だからはっきり言います。あなたを守りきれるかどうかわかりません。逃げてもらったほうが助かります」
晃司は美緒にはっきり”お前は足手まといだ”と言われ、かなり落ち込んだが、確かにそのとおりだとすぐに思い返し、素直に逃げることにした。
「美緒さん、きっ、気を付けて」
なんて間抜けな言葉だと思ったけれど、晃司はそれしか言えなかった。
晃司が2、3歩踏み出したとき、美緒が熊男に攻撃を仕掛けた。
ぐいっと間合いを詰め、熊男が抱きつくように両腕で美緒を掴みかかった瞬間に身をかがめ、左足を軸に右足を振り回し、水面蹴りの要領で足元ではなく男の右膝を蹴り抜いた。
膝を横から蹴られた熊男は「がぁっ」と短く声を漏らしてそのまま抱きつくような姿勢のまま片膝をつき前方に手を突いた。
すると美緒はすかさず、熊男の背後に回り込み、デニムパンツのポケットから素早く取り出した小型で折りたたみ式のサバイバルナイフを広げ、熊男の後頭部に突き立てた。
勝負はあっけないほどに瞬時に勝敗がつき、晃司がほっとして引き返して美緒に歩み寄ろうとすると、今度は二人が歩いてきた方向からもう一人の熊男が現れた。
「早く逃げて! こいつらもクローンです。何人出てくるかわかりません」美緒はもう一度、晃司に警告した。
あまりのことにこれまで一般人として生活してきた晃司には、もはや現実のものとは思えず、震えるように顎を上下に動かし頷くとその場からT字に交差する脇道へ急いだ。
すこし離れたビルのエントランスで身を潜めていると、しばらくして曲がり角から美緒がこちらに向かって走ってくるのが見えた。
晃司は思わず道路に躍り出て「美緒さん、大丈夫だったの?」と言った。
美緒は無言のまま晃司に駆け寄ってきたので、晃司は美緒を迎え入れ、抱きしめようと両腕を広げた。美緒はそのままの勢いでドンッとぶつかってきたので、晃司は後ろによろけてしまい、晃司を弾き飛ばすようにして走り去った時は、茫然自失として美緒の走り去る背中を見送った。
そのあと、晃司は左の脇腹に熱を感じて視線を落とすと、脇腹にアイスピックが突き刺さっていた。
「えっ」思わず声を発し、まじまじと自分の脇腹を見ながら、こういう時のお決まりのポーズで、膝から崩れ落ちた。恐怖のあまり動悸と呼吸が異常に早くなり、なにがなんだかわからずにパニックになったとき、先程、美緒が走ってきた方向から、また美緒がバックパックを背負って走ってきた。
晃司は、今度は確実に殺されると思い、恐怖のあまり声も出せず、ただただ両手を前に出して手のひらを美緒に向け”やめてくれ”の代わりに左右に揺らした。
「佐藤さん、大丈夫ですか?」
駆け寄ってきた美緒が晃司の前でしゃがみ込んで聞いた。
「だっ、だっ、大丈夫って、美緒さんが俺を刺したんじゃないか」目を見開いたまま、両手で美緒の肩を掴んで晃司は答えた。
「なにを言ってるんです、私が佐藤さんを刺すわけないでしょう。その女はどっちへいきましたか?」
晃司は先程美緒が走り去った方角を、震える指で指し示した。
「じゃあ、私は反対からここに来ましたよね。私じゃないですよね」
「でも、間違いなく美緒さんだったよ。髪型も服も靴も一緒だったと思うし・・・」
「じゃあ、そいつは私と同じオリジナルから生まれたクローンです」
「美緒さんのクローン?」
「そうです。正確に言うと私のクローンではないですけど、佐藤さんはクローンを私だと勘違いして刺されちゃったんです」
「そ、そうなんだね。美緒さんじゃないんだね。良かった美緒さんに刺されて死ぬのは嫌だよ。そういえば荷物は背負ってなかったしな・・」と晃司は力なく俯いて言った。
「もう、俺のことはいいから、一人で逃げてくれ。俺はここで死ぬのを待つよ・・・」
「なに言ってるんですか。こんなかすり傷程度で人は死にませんよ。臓器も動脈も外れているし、アイスピックを抜くと血が出ちゃうから、このまま歩いて病院探しましょう」
「か、かっ、かすり傷なの、これが? 嘘だよ。俺はもう死んじゃうんだ。だってめちゃくちゃ刺されたとこが熱くて痛いもん」
「駄々こねずに立ち上がってください。ちゃんと歩けますから」
晃司は足が震えて自力ではなかなか立ち上がれなかったが、美緒の肩を借りて立ち上がると、痛さはあるものの、美緒の言ったとおりわりと動くことができた。
「きっとショックだけなんですよ。まあ普通の人なら当たり前ですよね。アイスピックで脇腹刺されることなんてないですもんね」と美緒は半笑いで晃司を支えている。
幸い綺麗に一突きされて、ネービーブルーのパーカーには穴が空いているものの、血のにじみは目立たない。
中に着ている白いTシャツはさすがに血で汚れているだろうが、左手でアイスピックを支えれば、歩けないことはなかった。
「ほんとに、俺、死なないの? 大丈夫なの? これからも美緒さんと一緒に逃げれるの?」
「大丈夫ですって。たぶんこの程度なら、ひと針ふた針縫ってもらって絆創膏貼って終わりですよ」
美緒の笑顔を見ながら歩いていると、嘘ではないようだと晃司は感じた。それなら、美緒の肩を借りながら情けない姿で歩く自分に腹が立ってきた。
「大丈夫、もう自分で歩けるから。スマートフォンでこの近くの夜間救急病院を探そう」
そう言って、美緒に晃司のバックパックのサイドポケットからスマートフォンを取り出してもらい検索した。
運良く夜間診療もしている個人病院が、雲竜フレックスビルの一筋南にあることがわかったので、晃司は脇腹に突き刺さったままのアイスピックが揺れないように左手で支えながら歩き出した。
「Googleマップだと、ここから1kmもないね。良かったよ、それくらいで」
「気を付けて歩いてくださいね。コケちゃったら大変ですから」
二人は街路灯もあまり無い薄暗い路地を目的地に向かってとぼとぼと歩いた。
「ところで美緒さん、あの熊のような男二人はどうしたの? 一人は美緒さんに刺されるのが見えたけれど」
「始末しましたよ。大きいので動きが緩慢だったから、意外に簡単でした」
「始末って、殺しちゃったの?」
「まあ、あの場合、相手もそのつもりで来ているので、やむを得ないですよね」
「だっ、大丈夫なの? 死体をそのままにしてきちゃってるじゃん。戻ってどうにか隠さなきゃ」
「大丈夫ですよ。だいたいあんな大男二人をどうやって隠すんです? ああいう場合は、必ずクリーニングチームが近くに待機していますから、今頃跡形もなくなっていますよ」
「そっ、そうなんだ・・・」
「ちゃんと無駄に血が飛び散らないように刺殺しましたから、処理も簡単だったはずです」
「そっ、そうなんだ・・・」
「私のこと、怖くなっちゃいましたか?」
「そうだね・・・、いや、そんなことはないよ」
「無理しなくていいですよ。怖くなって普通です。私と佐藤さんじゃ生きてきた世界が違うんですから、正直に言ってくれて大丈夫です」と言って美緒はすこし悲しげに微笑んだ。
「いや、大丈夫。怖くなんかない。俺は美緒さんを助けるって決めたんだから、これからなにがあっても怖くないし驚かないぞ」
晃司の心臓は普段の倍以上のスピードで動いている。でも、ここでめげるわけには行かない。美緒を一人で放り出すわけにはいかない、と晃司は強く思う反面、自分が足手まといにならないように自分に身は自分でなんとかしなければと思った。
そのころ鯱は、二人の男女が走り去った東区側から、徐々に範囲を広げ、新栄町付近のラブホテル街にたどり着いていた。
このあたりのラブホテルに逃げ込まれたら確認する方法はないな、粘り強さには自身があるが、さてこのあとどうしたものかと立ち止まって思案していると、探している二人組が先の路地を歩いて横切るのが見えた。
まだまだ自分には運が味方してくれているんだと鯱は思い、思わず笑みを漏らし、気配を消して二人の後を追いかけた。
<chapter 04 晃司と美緒 病院>
晃司と美緒は裏道を選んで、なるべく人に会わないように目的地を目指したが、それほど深夜帯でもないので、何人かの通行人にはすれ違った。
だが、スママートフォンを見ながら通り過ぎる人、友人と喋りながら、時折猿のような甲高い声で叫ぶように笑う若い女性の二人組、スーツ姿のサラリーマン風の酔っぱらい達などが、すれ違う二人にはなんの興味も示さず通り過ぎて行った。
晃司は人の関心なんてこんなものかな、と思った。脇腹にアイスピックが刺さった男とすれ違っているのに、いくら暗いからといっても、あまりに気が付かなさ過ぎだ。気が付かないと言うより、他人には無関心だ。すぐ隣の千種区が全面封鎖され首相を殺した犯人が隠れているかもしれないのに、つい先程、桜通検問所で大きな爆発があり、多くの緊急車両がサイレンを鳴らして走り回っているのに、こちら側ではなにも変わらない日常が続いている。
病院の前に到着すると、そこは個人病院とはいえ5階建ての立派なビルだった。
”SASAKI CLINIC”とバックライトが仕込まれたステンレスの箱文字サインが、ビルの壁面に浮き上がっている。
美緒はクリニックに入る前に、用意しておいたマスクをして、黒いキャップを被った。
これじゃ、ニュース映像で流れている粗い画質の犯人とは、どう見てもわからないなと晃司は思った。
自動ドアが左右に開き、エントランスから院内に入ると、すぐ左手に「受付」と書かれたカウンターが有り、右手には3連の椅子が教会のように通路を挟んで左右にそれぞれ8列並べられており、眼帯をした中年の男とスマートフォンを操作している短いスカートで足を組んだ頭頂部が黒くなった金髪の女が離れたところに座っていた。
受付カウンターに置かれた呼び鈴を鳴らすと、すぐに奥の部屋から40代半ばくらいに見えるすこし怖そうな女性看護師が出てきた。
「どうされま・・。ああ、刺し傷ですね。すぐに1番の診察室へどうぞ」と晃司の脇腹に刺さったアイスピックを見て、診察室の方向を手で指し示しながら言った。
晃司がアイスピックを支える手を右手に代えて、左手で診察室の引き戸を開け、二人が診察室に入ると、白髪交じりの髪をオールバックしてメガネをかけた恰幅の良い初老の白衣を着たいかにもといった医者が、どっしりと黒い革張りの椅子ににこやかな表情で腰掛けていて、先程受付で対応してくれた看護師も既に脇に立っていた。
「刺されちゃいました?」といきなり聞いてくるので、晃司は焦りながらも「いや・・・氷を削ろうとしていたとき、足がよろけてこけちゃいまして、気がついたらこんなことになってました・・・」と、とっさに嘘をついた。
「ほう、ご自分で。いや、土地柄というか、夜間診療時間帯は特に喧嘩やヤクザ絡みの怪我や傷で来院される方も珍しくはないもので、失礼しました。ほら、このあたりから栄、伏見あたりまでは飲み屋が多いですもんね」と恰幅の良い医者が言った。
名古屋の新栄から栄、伏見にかけては、名古屋の中心地ともいえる繁華街で、夜の店が立ち並ぶ地区も多くあるため、酒絡みの喧嘩で怪我を傷を負ったりすることも日常茶飯事なんだろうな、と晃司は思った。
「で、そちらのお嬢さんは、付き添い?」と医者は晃司の横に立つ美緒を見て聞いてきた。
美緒は声を発することなく、黙って頷いた。
「じゃ、そこの診察台に仰向けに寝転んでくださいね」と看護師に促され、晃司は診察室の脇に設置された医者の椅子と同じ黒だが素材はビニールレザーの診察台に横になり、時代劇で、長屋で生活するちょんまげの浪人が寝るとき使うような四角柱の枕に頭を預けた。
「どんな感じ、痛い?」と医者が聞くので、晃司はアイスピックが刺さって痛くないやつがいるのか、と思いながらも「まあまあ、痛いです」と答えた。
「じゃ、これ抜いちゃいますから、そのあとすぐにパーカーと中に着てるものを傷口が見えるように捲りあげてくれます。看護師がお手伝いしますから」
恰幅の良い医者は相変わらずにこやかな表情でこともなげに言ってくる。
先程の看護師が診察台の脇に来て、晃司のパーカーとTシャツの裾を両手で掴んだ。
「じゃ、1・2の3で抜きますよ。ちょっと痛いかもしれないけれど、我慢してくださいね。いいですか。はい、1・2の3」で、アイスピックが抜かれた。
「うっ」思わず声が漏れてしまう。
そのあと、看護師に手伝ってもらいながら、慌ててパーカーとTシャツを胸のあたりまで捲り上げた。
ラテックス手袋を装着した医者は、傷口を覗き込んで「あっ、綺麗なもんですね。あなた、運が良かった。こけて刺さっちゃったわりには、真っ直ぐに、傷口も最小限だし、かすり傷で済みましたね」
やっぱりこの程度は”かすり傷”と言われてしまうのか、と晃司は思いながら、大事には至らぬことが再確認できてほっとした。
「出血も少ないようだから、このまま軟膏を塗って絆創膏でも大丈夫ですけれど、早く治したいのならチャチャッと縫いますけどどうします?」
”チャチャっと縫っちゃうんだ”と多少の不安も感じながら、これから美緒と逃げることを考えると早く治すに越したことはないので、晃司は縫合してもらうことにした。
「じゃ、麻酔打ちますね。ちょっとチクッとしますよ」と医者が傷口の近くに注射針を刺し、麻酔薬を晃司の体内に注入した。
「はい、それでは縫っちゃいますから、まだ痛かったら言ってくださいね」と、手術室で行うのではないのか、と戸惑う晃司をよそに診察室の台の上で、どんどん事が運んでゆく。
ひと針縫合したあとで、医者が「サービスで、もうひと針縫っときますね」と楽しげに言った。
あっという間に縫合は終わった。
そのあと看護師に5cm角くらいの白いバンドエイドのような絆創膏を貼ってもらい、診療は完了した。
「じゃ、お大事に。化膿どめの抗生物質と絆創膏の替えと痛み止めを出しときますからね」と医者は最後までにこやかなままだった。
診察室を出て、受付前の3連椅子に二人で座ったときは、先程の中年男と若い女はすでにいなくなっていた。
晃司は、そういえば子供の頃に両親に医者に連れられて来たとき嗅いだ病院独特のアルコール消毒と他の薬が混ぜ合わさったような匂いって、いつごろから無くなったんだろう、と思ったので美緒に聞いてみようかと考えたが、年も離れ、育ってきた環境もあまりにも違い共感してもらえるはずがないのでやめておいた。
待合室の天井から吊るされたテレビモニターでは、桜通千種区境検問所で起きた警察車両の爆発事故についての緊急ニュースが流れていた。
現在、検問所付近は封鎖され、通行ができないので、区外に出る車両は錦通か広小路へ迂回するようにとアナウンサーが繰り返し伝え、現場からのリポートでは、黒焦げになった警察車両が映し出され、怪我人はいないものの消防自動車とパトカーが何台も集まり、騒然とした雰囲気の中、何人もの警察官と消防隊員が動き回っており、杉本も姿もチラッと画面の端に映り込んだ。
アナウンサーは最後に、首相殺害犯との関連は今のところわかっていないと伝えていた。
「あいつ、随分派手なことしたんだ。怪我人が出なくて良かったよ」晃司はテレビモニターを見上げながら、独り言のようにつぶやいた。
「ほんとですね。私達のために他の人が怪我でもしたら申し訳ないし・・・」
晃司は美緒に顔を向け「でもさ、これもこっちがやったことにされたら堪んないよね」と不満をぶつけた。
「そこは日本の警察を信頼するしかないですよね。鬼頭幸三郎は本国と太いパイプで繋がっていても、それがバレないように最新の注意を払っているでしょうから、警察幹部にまで腐敗が広がってないといいですけど・・・」
「ちょっと望みが薄いかもね。こういう場合、ドラマでは大概警察組織の上層部にまで腐敗は浸透していて、主人公がどんどん追い詰められていくもんな」
「佐藤さんって、下水道のことと言い、意外にドラマや映画が好きなんですね」
「まあね、一人だし、どこかに出かけたりしないから、家でテレビ観ている時間がたっぷりあったからさ」
「でも、ドラマはドラマですから、この国の警察を信じときましょうよ、今のところは」美緒は笑顔で晃司を見た。
先程の看護師がまた受付の奥の部屋から出てきた。どうやら、奥の部屋と診察室は自由に行き来できるようにバックヤードが繋がっているらしい。
「どうぞこちらへ」と看護師が晃司に声をかける。「先程はすぐに診察室にご案内したので伺っていませんでしたが、保険証かマイナンバーカードはお持ちでしょうか?」
「あっ、マイナンバーカードを持っています」と言って、晃司はバックパックから財布を取り出して、中に挟んでいつも持ち歩いているマイナンバーカードを看護師に見せた。
看護師は一瞬、眉間に険しい表情になったが、すぐに表情をもどして「じゃあ、そこの読み取り器に置いて、画面の指示に従って操作してください」と言った。
「うちのクリニックは、夜間診療時間帯は院内処方なので、お薬と絆創膏をお渡ししますね。化膿どめは毎食後に1錠ずつ、絆創膏は入浴後に新しいものを貼ってください。痛み止めは痛くなったら我慢せずに服用してくださいね。血がにじまなくなれば絆創膏はいりませんが、傷口が服にこすれて血がつくこともありますから、念の為、三日ほどは貼っておいてください」
晃司が薬と絆創膏の入った薬袋を受け取り、現金で支払いを済ませると、看護師がぽつりと言った。
「やっぱり、佐藤晃司さんだったんですね」
マイナンバーカードを見せたのだから、名前がわかっているのはおかしくないが、”やっぱり”とはどういう意味だろうと晃司は思った。
「ええ、そうですけれど、以前どこかでお会いしましたっけ?」
美緒に絡んだ話じゃないといいけどな、と思いながらも、晃司は素直に尋ねてみた。
すこしの間、看護師はじっと晃司を見つめて「お忘れでしょうか? 私、佐々木沙織と申します」
”佐々木沙織って誰だ?、同級生か? いや、すこし若い感じがするし、以前ご近所に住んでいたひとか? 娘の幼稚園の友達のお母さんか?” 晃司は思い出せず戸惑っていた。
「美音(みおん)ちゃんをはねてしまった佐々木です」
「あっ・・・」
晃司は思い出した瞬間に声が出なくなってしまったが、すぐに我に返って「その節は、大変なご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした!」と深々と頭を下げた。
「やめてください。はねてしまったのは私で、お詫びしなければならないのはこちらのほうですから・・・」
「いや、そんなことはありません。あのとき私が娘の手を離さなければ、あんなことにはならなかったんだ。あなたはなにも悪くありません。だってあなたは避けようがなかったじゃないですか。あんなに間近で飛び出されて避けられる人なんかこの世にいませんよ。あの事故であなたはご自分を随分責められたんじゃないですか? 苦しまれたんじゃないですか? 私が手を離さなければ・・・。悪いのはすべて私なんです。あなたにはなんの非もありません」
晃司は心から溢れ出す言葉を止められなかった。
「そんな風に言っていただけるとは、思いもしませんでした・・・。大切な娘さんを奪ってしまった私のことを、深く恨んでいらっしゃるとばかり思いながら、この20年間、自分を責めて生きてきました」
「申し訳ありません・・・。あのあとすぐにお詫びできれば良かったのに・・・。私は生きる気力を無くしてしまい、ただただ無気力に木偶の坊の様に生きてきてしまいました。あなたのお名前すら覚えていなかったし、捜そうともしなかったんです。詫びて済む話ではないとは思いますが、本当に本当に申し訳ありませんでした」晃司はもう一度深々と頭を下げ「どうか、もうこれ以上ご自分を責めることだけはやめていただけないでしょうか。お願いですから・・・」と頭を上げて佐々木沙織の目をまっすぐに見ながら訴えるように言った。
佐々木沙織は目からこぼれ落ちそうになった涙をポケットから取り出したハンカチで拭いながら「本当にいいんでしょうか? それで・・・」と呟くような声を絞り出した。
「もちろんです。絶対にそうしてください。そうしていただかないと、私もとても苦しいです。あなたのことは気にはなっていたんですが、自堕落に生きることを選んでしまってなにもしてこなかった。今日、ここで偶然お会いできたのがせめてもの救いです。これからご自分を取り戻してください。あなたを恨む人間などどこにもいないですから」
佐々木沙織は、今度はハンカチで鼻を押さえながら、しずかに涙がこぼれるままにして佇んでいる。
美緒はその二人のやり取りを晃司の背中越しに見ながら、”ああ、ここにも長い間苦しんできたひとがいるんだ”と思った。
「今夜、佐藤さんにお会いできて良かったです。私の肩に長年乗っていた重荷を下ろせました。ありがとうございました」
「こちらこそ、お詫びできて良かった。娘もきっと喜んでくれていると思います」
佐々木沙織と晃司は、しばらく言葉をかわすことなく見つめ合っていた。
長い間二人を苦しめ続けてきたものが、すこし夜空に消えていった気がした。過去は変えようがないけれど、これからはお互いに前を向いて、今よりも自分を大切にして生きていっても大丈夫だと。
「でも、佐藤さんは、怪我をされてここまでどうやって来られたんでしょうか? お住いになっている千種区は、今大変なことになっていますよね?」
急に聞かれたくない話になり、晃司は動揺してしまった。
「あっ、いや。あ〜、歩いてきました」
「アイスピックが刺さったままですか?」
「えーっと、そうなんです。車も持っていませんし、ぷらぷら歩いて来ちゃいました・・・」晃司の背中に嫌な汗が伝った。
「しかし、なぜ佐々木さんは、私が千種区に住んでいることをご存知なんです? あっ、そうかマイナンバーカード出したからか・・・」
「いいえ違います。今だから言いますけれど、私、毎月佐藤さんのマンションまで行っていました」
「えっ、なんのために・・・・」
毎月というと、そうか、この20年毎月欠かさず金の入った封筒が郵便受けに入っていたのは、このひとだったのかと晃司はやっと気づいた。
「お金を郵便受けに入れていたのは、あなただったんですか!」
晃司は自分の愚かさを心の底から悔やんだ。
事故直後、佐々木沙織の代理人という弁護士が、晃司を当時親子三人で暮らしていたマンションに尋ねてきた。
その弁護士は、顧客である事故当事者は十分な保証がついた自動車保険に加入しており当然保険での支払いもされるが、その他に慰謝料としてあなたが望む額をお支払いしたいと申していると言ってきた。
妻は亡くなった娘の部屋から一切出てこないような状態だったので相談できなかったし、晃司は頭が混乱して、まともに考えられない状態であったが、娘の命を金に替えるような気がして嫌だったのと、自分が一番悪いのだとわかっていたために、弁護士の申し出を断り続け、金を一切受け取らなかった。
”このひとだったんだ、別れた妻じゃなかったんだ”そう言われれば、辻褄が合う。
だとすると、自分はこのひとを20年もの間、本当に苦しめ続けてなにも気づかなかったんだ、と晃司はどんどん体が重たくなるのを感じた。
「申し訳ありません」
晃司はもう一度深々と頭を下げた。ただただ謝ることしかできなかった。
「やめてください。頭をあげてください。あれは私が勝手にしたことです。私はあの事故のあと、目撃者やあなたの証言もあって、避けようのなかったことが認められ、ひとの命を奪ってしまったにも関わらず罰金と免許取り消しという軽い処分で済んでしまいました。だから、あれは、あなたのためというよりむしろ自分のためと言ったほうが正しいかもしれません。毎月お金を届けることで、自分はちゃんと贖罪しているんだという気持ちですこしだけ楽になれたんです」
佐々木沙織は、うつむき加減でゆっくりと、これまでの20年を振り返るっているようだ。
佐々木沙織は、踏ん切りを付けたように顔を上げ、晃司の目を真っ直ぐに見る。
「佐藤さんは、これからどうなさるおつもりですか?」
「えっ、いや、普通に自宅に帰りますけど・・・」
「本当ですか? そうは見えませんけど。ご自宅から歩いてきて、ご自宅に帰るのに、どうしてそんなリュックを持っておられるんでしょう? そこのお嬢さんとお二人でどこかへ旅にでも行かれるような荷物ですけど」
「やぁ〜、なんと申し上げればいいのかわかりませんが、実はそうなんです。これからちょっと旅に出ます」
「やはり、そうなんですね。その旅はそこのお嬢さんのためのものでしょうか?」
今度は幾筋もの嫌な汗が、だらだらと晃司の背中を伝った。
「いやぁ〜、そんなことはないですけどね・・・・ちょっと遠方の親戚のところへ二人で出かけようかと・・・」と晃司は消え入るような声で答えた。
「わかりました。少々お待ちください」と言って佐々木沙織は奥の部屋にひっこんだ。
晃司は警察に通報されるのではないか、美緒のことがバレたのではないかと気が気ではなく、振り返って美緒を見ると、美緒は特に変わった様子もなく、”大丈夫ですよ。きっと”と囁いた。
佐々木沙織は、すぐに受付まで戻ってきて、銀色の”L”マークの付いたスマートキーをカウンターの上に置いた。
「これを使ってください。私はあの事故から車の運転をやめてしまったので、兄の物です」
晃司はきょとんとして佐々木沙織を見つめ返した。
「先ほど診療したのが、私の兄で、このクリニックの三代目医院長です」
佐々木クリニックは佐々木沙織の祖父が開院し、徐々に大きくなり、今では入院病床もあり、夜間診療も行うクリニックになったということだった。
夜間の診療は、人手が足りないこともあり佐々木兄妹が揃って勤務することが多く、実家近くに一人暮らしをしている佐々木沙織は、だいたいは兄にピックアップしてもらい一緒に出勤し、帰りも兄に車で送ってもらっている。
「え〜っと、車を貸していただけるということでしょうか?」
「はい、お使いください」
「その〜、なぜ?」晃司は怪訝そうな顔で、相手を探っている。
「千種区は封鎖中なのに、アイスピックが脇腹に刺さった状態で、ご自宅から歩いて来られた。検問所でなにも言われないはずないですよね。しかも旅行に行くような荷物をお二人とも背負って」
もはや晃司の目が泳ぎだしてしまい、ひたいからも嫌な汗が滲んできた。
「それに、佐藤さんは左利きでしょ。診察室の開き戸を左手で開けておられました。左利きのひとがアイスピックを左手に持っていて、コケた拍子に刺さった場合、右の脇腹に刺さりますよね。左脇腹に正面から突かれたようにまっすぐ刺さることなどないと思います。医院長もすぐに気づいたと思いますよ」
晃司は万事休すだと思い、警察が乗り込んでくる前にこの場から逃げ出だそうと考えていた。
「安心してください。通報はしません。するなら既に警察が踏み込んでますよ。どうやら付き添いのお嬢さんがなにか関係していそうですから、車があったほうがなにかと便利なんじゃないでしょうか。どうぞ自由にお使いください。兄には私から話しておきますから」
佐々木沙織は、晃司達がクリニックに入ってきたときのキリッとした表情に戻っていた。
「付き添いのお嬢さんは、亡くなった美音ちゃんが生きておられたら同じような年頃じゃないでしょうか? 佐藤さんは、なにか生きていく心の支えのようなものを見つけられたのではないですか? 私もこれで20年前の出来事から自分を開放することにします。今夜、ここで偶然にも佐藤さんにお会いして、佐藤さんのお気持ちをうかがえて私のこともお話できたので、それでいい気がするんです」
晃司は、今度はしっかりと佐々木沙織の目を見つめ「ぜひとも、そうしてください! 今の私は、あなたになんの恩返しもできません。20年間にいただいたお金も事情があってすべて使ってしまいました。お詫びのしようもない・・・。だからせめてこれ以上ご自分を責め続けることだけはやめていただきたい! 本当にお願いします」
佐々木沙織は、黙って頷いた。
「エントランスを出て、クリニックの裏側に回ると、スタッフ用の駐車場があります。そこの一番奥に兄の車が止めてありますから、どうぞ早く行ってください」
佐々木沙織が二人を急かせるようにして、受付カウンターから出てきた。
「待ってください。佐々木さんの携帯番号を教えていただけないでしょうか? きっとお借りした車は、大変申し訳ないのですかどこかで乗り捨てることになります。ここに返しに来ることはできそうもありません。せめてどこに停めてあるかくらいはご連絡させてください」
「そうですね。うかがったほうが兄も助かるでしょうから」と言って佐々木沙織は受付カウンターの上に置かれたメモ用紙に自分のスマートフォンの番号を書いて晃司に渡そうとする。
「それならLINEのほうが、良くないですか?」美緒が思わず声を出した。
「LINEなら位置情報も送りやすいし、そうほうが便利ですよね。佐藤さん、LINEは使ってますか?」
晃司は戸惑い気味に、自分の携帯を取り出し「バイト先の連絡網でアプリは入れてはいるけれど、どうしたら友だち追加できるかわからない。全部バイト先の若い連中がやってくれたから・・・」
晃司から美緒がスマートフォンを受け取り、操作して佐々木沙織が差し出したスマートフォン画面のQRコードを読み取り、友だち追加して”OK”マークの絵文字を送信した。
「届きました。問題ないようですね」
「では、車を停めた場所をあとでご連絡させていただきます。私からもお礼を言わせてください。こんなにご親切にしていただいて、なんと言っていいのかわかりませんが、本当にありがとうございました」
美緒も深々と頭を下げた。
「お礼なんて結構ですよ。私は自分のためにやっています。すべてはこれから自分が苦しみから解き放たれるためですから」
晃司と美緒は佐々木沙織にもう一度頭を下げると、エントランスを出てクリニックのスタッフ駐車場に向かい、一番奥の白のレクサスLSセダンに乗り込んで、ゆっくりと駐車場を出た。
「なんか、こんな高級車を運転するのは、怖い気がする。どこかにこっすたりしたらどうしよう?」
晃司はドキドキしながらステアリングを握っていた。
「大丈夫ですよ。”ご自由にお使いください”って言ってたじゃないですか。もしぶつけても、お金はありますから弁償すれば大丈夫。落ち着いて運転してください」
美緒の言葉に冷静さを取り戻した晃司は、手のひらの汗をチノパンの太ももあたりで拭って運転を続けた。
<chapter 04 銀縁メガネの女とその後輩>
鯱は晃司と美緒の後をつけている途中で、どうやら男のほうが脇腹に怪我を負っているらしいことに気がついた。高張橋検問所を駆け抜けたときには、そんな感じは受けなかったので、その後、自分が二人を捜すのに手間取っているうちになにかがあったのだろう。
佐々木クリニックへ入っていく二人を見送った後、スマートフォンで後輩の徳川宗家(むねいえ)に電話した。
『はい、徳川です。鯱先輩ですか?』
「ソウケ君、いまどこ?」
『そうけじゃなくて、”むねいえ”です。なんども言ってますよね。”とくがわそうけ”だと、意味がぜんぜん違っちゃうじゃないですか!』
「そんなことは、どうでもいい! 今どこにいるんだ!」
『なんだか鯱先輩、殺気立ってますね。こわぁ〜』
「ほんとに焼き入れるぞ! どこだ!」
『社にいますよ』
「何やってる? 抜け出せるか?」
『明日の朝刊のラテ欄のチェックをしています』
「なんで社会部の記者が、ラテ欄のチェックをしているの? そんなの私達の仕事じゃないよね?」
『部長が、ラテ欄のニュースや報道番組のチェックをやれって言い始めて、ついでに全部のラテ欄も校正しろって言われちゃったんです』
「相変わらず、いじられてるな、君は」
『名前が名前だから、庶民から反感買っちゃうんですよね、僕って』
それが原因ではないことに気づいていないことが原因だぞ、ソウケ君。鯱はそう言ってやりたかったが、話が長くなりそうなので「今すぐ社用車を手配して、きみが運転して今から送る位置まで来てくれ! わかったな! ラテ欄のチェックなんて、窓際のオヤジに任せておけばいいんだ!」
『窓際オヤジがこんな時間まで仕事してるわけないじゃん。先輩なに言ってるんですか?』
鯱は返事をせずに通話を切り、”すぐに来なかったら、これからきみが社を辞めるまでネチネチといじめ抜いてやる”という一文を添えて位置情報を徳川宗家のスマートフォンに送った。
徳川宗家は、鯱にいじめ抜かれるのは勘弁して欲しいと思ったのか、名日新聞本社から車なら15分程で到着できる佐々木クリニックのエントランス付近に20分弱でやって来た。
「よし、まずまず早かったな。いじめるのはやめてあげよう」と運転席の窓開け、顔をのぞかせた徳川宗家に鯱が言った。
「ほんとですか? 鯱先輩を信用していいのかな? こんな時間に急に社用車を手配して20分でここまで来れたんですから、絶対合格点ですよね。僕って、やっぱり有能ですよね」と笑う徳川宗家を無視して、鯱は助手席に乗り込み「しばらくここで張り込むから、あそこのじゃまにならない位置に車を移動させて、エンジンをかけたままライトを消して待つように」
「なんだか刑事ドラマみたいですね。新聞記者ってこんなこともやるんですか?」
ソウケ君、きみはまだ知らないかもしれないけれど、こんなことばかりなんだよ。よく覚えておきな、この名前だけりっぱな青二才が、と鯱は心のなかで罵りながら、徳川宗家の質問は無視した。
張り込み中というのは手持ち無沙汰なので、それほど興味があったわけではないけれど、この際だから聞いてみるかと思い、視線はクリニックのエントランスに向けたまま鯱が口を開いた。
「ところで、ソウケ君。きみは、やっぱり徳川家康を始祖とする将軍家の末裔なんだよね?」
「いいえ、全然関係ないみたいですよ」と徳川宗家は、またその話かといった口ぶりで答えた。「家系的にはまったく血の繋がりもないし、なんの関わりもなかったみたいですけれど、名字がせっかく徳川なんで、父と母が”徳川将軍一覧”とにらめっこして、そこに載っていそうで載っていない名前を僕につけたみたいです。家康以来、”家”の字がつく将軍って多いじゃないですか。で、八代将軍吉宗は、暴れん坊将軍とか言われれてカッコいいから、宗家って名前にしたんだけれど、鯱先輩みたいに”そうけ”って読むひとばかりなんで、困っちゃいます」
鯱は、”暴れん坊将軍”は、ドラマの作り話なんじゃないか? いや、実際に子供の頃は手のつけられない暴れん坊だったんだっけか? まあ、そんなことはどうでもいいが、ソウケ君の親はこんな名前をつけて子どもが将来困らないとでも思ったのだろうか? と、自分のことは棚に上げて哀れみを込めた視線を運転席に座る徳川宗家に送った。
「だし、僕ってこんな名前だから、子供の頃から今までずっと、あだ名は”ショウグン”って決まっちゃって。ムネ君とかトクちゃんとか呼ばれたかったのに、庶民の発想って貧困なんですよね、ほんとに」
話を聞けば、お前もバリバリの庶民じゃないか、将軍ズラしてるのはお前の方だよ、ソウケ君。と、鯱は思った。
「三井住友銀行に、創業家とまったく関係のない三井君とか三井さんっていそうですよね? そういうひと達って、やっぱり上司が勘違いしたり、”もしや”と思って勝手に優遇されたりするのかな?」
うちの新聞社は、徳川新聞じゃないし、ソウケ君を優遇することはないと思うよ。そんなことがあるとしたら、仮にも社会部の記者にラテ欄のチェックなんてさせる上司はいるわけがないよね、ソウケ君。鯱は徳川宗家のお気楽さが、かえってこいつを将来大物にするのかもしれないと考えた。
「トヨタにだって、本田とか松田とかいるだろうし、鈴木なんて絶対に何人もいますよね。ホンダにも豊田や松田はいるし、住友物産に三井もいそうだし、そういう人達って、やっぱり社長には絶対になれないのかな? トヨタの社長が本田宗太郎とかじゃ、やっぱまずいですもんね。どう思います、鯱先輩」
鯱は答えるのも面倒だったので、話題をすこしずらして「子供の頃、いじめられたりしなかったのか、その名前で」と聞いてみた。
「全然平気でしたよ。さっきも話したとおり庶民から”ショウグン、ショウグン”って呼ばれてましたからね。僕がなにか頼むと頭を下げて”はっはあー”って言ってやってくれたりね。問題なしでした」
それはきっと、きみのことをからかっていたんだよ、ソウケ君。きみが鈍感な子供で本当によかったね。あと、クラスメイトを庶民と言うな、と鯱は半ば呆れた。
「鯱先輩はいじめられなかったんですか、そんな名前で?」
「そんなとは、なんだ」お前だけには言われたくないと、鯱は思いながらすこし運転席側に身を乗り出してしまった。「私は別に困ったことはないよ。いじめっ子がからかってきたことは何度かあったけれど、その都度、そいつの弱みを調べて、逆にそいつがいじめられるように仕向けてたから」
「ええっ、わっる。鯱先輩って、子ども頃から悪女の才能があったんですね」やっぱりこいつが社を辞めるまでネチネチといじめてやるべきだと、鯱は考え直した。「でも、弱みをどうやって調べたんです?」
「簡単なことだよ。そいつの家の近所をうろついていれば、噂好きのおばさんが向こうから声をかけてくる。当時の私は小学生だったから、小さな女の子が近所をうろついていることが、そういうタイプのおばさんには我慢できないんだろうね。 あとは、おばさんの家に上がり込んで、お茶を飲みながら詮索してくるのを躱しながら聞き役に徹していれば、次から次へとご近所の噂話をしてくれる。そうやって仕入れた中から、私をからかったり、いじめたりした奴に関すること、例えば、そいつの母親が近所の蕎麦屋の大将と不倫しているとか、そいつの父親は中小企業の社長だけれど、どうも経営に行き詰まって倒産間近らしいとか、あそこの子供は実子ではなく養子なんだけれど、本人にはまだ言っていないなんていうデリケートな問題もあったな」
「いや、全部デリケートな家庭内の問題だと思いますけどね」徳川宗家は目を丸くして、鯱を見ている。「で、それをどうしたんです?」
「そりゃ、学校中にその噂を広めてやったに決まってるじゃないか。私をからかったり、いじめようなってな奴らは地獄に落ちればいいんだよ」
「本人が知らないのに、養子であることを学校中にバラすなんて、極悪非道ですよ。その子の心の傷を考えたことなかったんですか?」徳川宗家は、鯱先輩だけには嫌われないようにしておかねば、と心の底から思った。
そんな話をしていると、佐々木クリニックのエントランスから、晃司と美緒が出てくるのが見えた。
初めて晃司と美緒を正面から見た鯱は、あの二人は、やはり昼間に千種公園で杉本に声を荒げられていた男女じゃないか。間違いない。あの女が、どうせ偽名だろうが町田を殺した一条香だ、と確信した。杉本は何らかの理由であの二人を逃がしたんだな。警察が押収した覚醒剤や拳銃を横流しして金を儲けてる噂のある杉本のことだから、金で転んだのかもしれないな。いずれにしても、あの二人を徹底的に追跡せてやる。鯱の粘着質な性格が活かされる時が来たようだ。
「昔話はどうでもいい。出てきたぞ」鯱はゆっくりドアを開けながら、「ソウケ君は、もう帰っていいよ。ご苦労さま」と告げ車から降りて晃司と美緒の後を追いかけて行った。
徳川宗家は、もう帰っていいって、結局なんのために僕を呼び出したのか聞かされないままじゃないか、本当に腹の立つ女だ。でもあの女に逆らうとどんなしっぺ返しが待っているかわからないからここは我慢のしどころだな、と思いライトをつけて、仕方がないから社に戻るかと思ったところ、鯱が急いで駆け戻ってきた。
鯱は助手席のドアを勢いよく開けて乗り込み「ソウケ君、病院の建物の裏から車が出てくるから、それを慎重に尾行して」と視線を病院に向けたまま告げてきた。
「えっ、張り込みの次は尾行ですか。僕達、まるでドラマの刑事みたいですね」徳川宗家は先程までの不満顔から、テンションがあがって笑顔が漏れ始め、なんだか楽しい夜になりそうだぞ、と思った。
<chapter 04 晃司と美緒 宿泊>
車が手に入ったので、このまま計画どおりJR尾張一宮駅まで、すぐに向かっても良いのだが、夜間の交通量が減る時間帯に動けば飲酒検問や、あきらかに高級車に不釣り合いな晃司が運転しているので不審尋問を受けないともいえず、美緒がすぐにでもホテルに入りたいと言うので、結局、徒歩で向かうはずの当初予定どおり新栄近辺のラブホテルで一泊して、明日の朝、交通量が増えた時間帯になるべく幹線道路を通らずにJR尾張一宮駅に向かうことにした。
一番近くにあったラブホテルの駐車場に車を止め、エントランスを入って行くと、すぐに部屋の写真パネルが格子状に縦横4部屋ずつが並んでおり、空いている部屋はバックライトで写真パネルが明るく表示されており、その下のボタンを押すとパネルの下にある取り出し口にその部屋の鍵が出てくる方式だった。
美緒は躊躇なく空き部屋になっていた左下角の101号室のボタンを押し、晃司を急かしながらパネルボードから一番近い101号室に入った。
美緒は無言のまま部屋のフロアーライトのプラグをコンセントから抜いて、熊男を始末した折りたたみ式で小ぶりのサバイバルナイフをポケットから取り出して、電気コードのビニールカバーを10cmほど削り取り、銅線むき出しにした。
「美緒さん、なにしてるの?」
「いいですか、これから私が銅線を握ってプラグをコンセントに差しますから、佐藤さんはゆっくりと10数えてプラグをコンセントから抜いてください」
「そんなことしたら、美緒さんが感電しちゃうじゃないか」
「感電させるんですよ。でも、私が感電して銅線を握った手を離せないかもしれませんから、佐藤さんがプラグをコンセントから抜いてくださいね」
「なんでそんなことするの?」
「いいから、説明はあとです」
美緒は洗面所に行って右手を水で濡らして戻ってきた。
「いいですか、行きますよ」と言ってむき出しの銅線を左手で握った美緒が、右手でプラグを壁のコンセントに差し込んだ。
晃司は理由がわからず、しゃがんだ姿勢で目を見開いて小刻みに震える美緒を見て慌てふためいたが、焦りながらも美緒に言われたとおり10数えてプラグを抜いた。美緒はさすがにはぁはぁと肩を上下に揺らせながら息をし、尻を床につけて体育座りのようにしている。
「美緒さん、大丈夫?」
声をかける晃司を無視して、美緒は立ち上がり自分のバックパックを肩にかけて「もう一度エントランスに戻りますよ」と言って部屋を出て行こうとする。晃司は追いすがるように自分のバックパックを背負って、慌てて後を追いかけた。
美緒は今度はパネルボードで、2階で101号室の対角線上に位置する204号のボタンを押して鍵を取り出し、すぐ脇の階段を駆け上がり部屋に入った。
「なになに、どうしたの? そろそろ説明してよ」
「すみません。急がないとと思ったものですから」
美緒は部屋の中央に置かれた丸い大きなベットに腰掛けながら、晃司に話しだした。
「千種区を出た途端に襲われたじゃないですか。きっと本国には私の居場所を知る方法があると思うんですよ。携帯は電源を入れてないし、だとすると私の体内に、マイクロチップとかGPSカプセルとかなにか埋め込まれているはずなんですね。だから、さっき佐藤さんに手伝ってもらって感電して、体内のなにかしらのものを壊せた、もしくはおかしくさせることができたんじゃないかと思います」
晃司は、今まで暮らしてきた現実世界から、自分がますます遠ざかってしまったことを思い知らされて、唾をごくりと飲み込んだ。
「クリニックでは人目もあるので襲ってこなかったですけど、ここなら部屋に踏み込まれたら逃げ場がないですからね。私の思い違いでなければ、101号室を本国の工作員が襲ってくるはずです。あと、佐藤さんのスマートフォンも電源を切ってこの袋に入れてもらっていいでしょうか、私のも入れてありますから」
美緒はバックパックからスマートフォンがすっぽり入るサイズのマチの無いグレーの袋を取り出して、晃司に渡した。
美緒の説明によると、袋は”セイフティーバッグ”と呼ばれる代物で、袋の布素材の間に薄い鉛が仕込まれており、その中にスマートフォンを入れれば、万が一にも位置を特定されることはないとのことだった。
「俺のスマホもバレちゃっているのかな?」
「わからないですけれど、おそらくはバレていると思いますし、バレていなくても用心するのに越したことはないですから」
「わかった。電源を切って袋に入れておくよ」
晃司は電源を切ったスマートフォンをシフティーバッグに入れて、自分のバックパックに押し込んだ。
美緒はベットから、部屋の入口へ歩いて行き、すこしドアを開けて耳を澄ました。
程なくドカドカと複数人の足音が聞こえ、美緒達がいた101号室あたりに踏み込む音が階段を通じて聞こえてきた。
1分ほど待つと、ドアの閉まる音が聞こえ、廊下に出てきた何人かの男が朝鮮語で会話するのも聞こえた。どうやら美緒達が部屋にいないので、2階から順に1号室を調べようと言っていることが美緒には理解できた。階段を使って男達が2階にやってきて、201号室のドアを開けようとするが、中から鍵が閉まっていて開かない。スーツ姿の2人の男は頷き合い、そのうちの一人が胸ポケットからピッキング道具を取り出して解錠作業に取りかかった。
鍵はすぐに開けられ、男達が勢いよくドアを開けて201号に踏み込んだが、「きゃぁ〜」という女性の叫び声があがり、男達がドアから出てきた。
一人のリーダー格の男が、「次だ!」と言うと、男達は階段を上の階へ登って行った。
それを見届けて、美緒がベッドに戻ってきた。
「やっぱり、私の体内にかなり正確な位置を把握する事のできるものが埋め込まれていたようですね。1号室を全部あたるようです」
「この部屋は大丈夫なの? 全部の部屋を確認するんじゃないか?」
「それはないと思います。日本の警察は本国の工作員の動きを知らされていないから、できるだけ早く私を捕まえてこの場から立ち去りたいはずです。だから縦に1号室を全フロアーで確認したら、あきらめて立ち去るはずです。どこの国に行っても現地の警察とトラブルを起こさないのが工作員の鉄則ですから」
「そうなんだ。でも1号室までは正確に位置把握できても、フロアーまでは特定できなかったってことなの?」
「だと思います。位置は正確に把握できても高さまでは、わからないみたいですね」
「この部屋には来ていないってことは、美緒さんの体内に埋め込まれたものもさっきの感電で壊れちゃったんだよね? 安心していいんだよね。俺のスマートフォンはさっきまで電源が入ってけど大丈夫なのかな?」
「スマートフォンだけでは、ここまで正確な位置は無理だと思います。周辺の基地局からこの建物にいるんじゃないか、くらいだと」
「そうか、それなら安心だね」
晃司は深呼吸をして、なんとか自分を落ち着かせようと努力した。
15分ほどして、美緒が部屋を出てこっそりホテルの駐車場の様子を見に行ったが、工作員達が乗ってきたような車はすでになく、今回は上手く危険を回避できたようだった。
「佐藤さん、今夜は疲れたでしょ? いろんなことがいっぺんに起きたし、刺されたお腹も痛いでしょうから、シャワーを浴びてもう寝ましょうか」美緒が優しく声をかける。
「そうだね、疲れたよ。佐々木さんにも偶然会えて、謝罪できたのは良かったけど、結果としては迷惑をかけちゃった気がするしなぁ。体も心も疲れた。風呂にゆっくり浸かりたいところだけれど、傷口に悪そうだから美緒さんが言うとおりシャワーにしとこうかな」
あらためて部屋を見渡すと、中央に丸いベットが置かれ、天井は鏡張りで、部屋とバスルームの仕切りはガラス張りで中が丸見えだった。
脇にはローテーブルとソファーがあり、コンパクトながらビジネスホテルのシングルルームよりは、ずいぶん広かった。
ただ、照明が薄暗くピンクだし、かなり古いタイプのラブホテルのようだ。
晃司は恥ずかしがる年齢でもないし、まあいいかと思いながら、着ていた服を脱いで脇のローテーブルに置き、クリニックで傷口に貼ってもらった絆創膏を剥がしバスルームに入った。
温かいシャワーを浴びると、やはり気持ちが良かった。湯気が床から立ち上って、全身を包む。今日は晃司の50年近い人生の中で、一番いろいろなことが起こったし、精神的にも肉体的にも一番疲れた。頭を前に倒して壁に手をついて、後頭部にシャワーを当てながら、ぼーっとしていると、後ろで人の気配がした。
晃司が振り向くと、着ているものをすべて脱ぎ捨てた美緒がバスルームに入ってきた。「えっ」と声に出したものの、もう抵抗する気力もなく、晃司は美緒を受け入れることにした。
ホテルのバスタオルで体を拭いてベットに戻り、晃司は美緒を抱いた、というより抱かれた。すべては美緒の主導で終わりまで進んでいった。
裸のまま布団をかけ、ベットに二人で横になりながら、晃司はとうとう一線を越えてしまった、こうなったら逃がすだけではなく自分も美緒と一緒に北キプロスで暮らすしかないな、と思った。
でも、これまでの人生を考えると別に悪くないか、そんな考えが浮かぶと、鏡張りの天井に映った自分の顔がすこし笑っているように見えた。
「亡くなったお子さんは、みおんちゃんって言うんですね。クリニックで佐々木さんとの会話が聞こえちゃいました」
美緒も鏡張りの天井を見ながら聞いてきた。
「そうなんだよ。美しい音と書いて美音(みおん)っていうんだ」天井の鏡を通して、お互いの顔を見ながら会話をする。
「だから、最初に美緒さんの名前を聞いた時、驚いたし、もし美音が生きていたらこれくらいの年齢で、こんなにかわいい娘に育っただろうなって思ったよ」
「だから、私を泊めてくれたんですね」
「それだけじゃないけどね。思い出したのは事実だよ」
「こんなかわいい、ですもんね」
美緒が笑っている。
「俺ね、随分長い間、美音が目の前ではねられておかしな格好で宙を舞って血まみれで道路に叩きつけられる夢を何度も何度も見たんだよ。まあ夢じゃなくて現実で起こったことなんだけど・・・」
エアコンのブーンというかすかな音だけが室内に漂っている。
「その夢を見てさ、美音に駆け寄ろうとすると、実際に体が動くのかな。夜中に汗をびっしょりかいて飛び起きるように目が覚めるんだ。でも、最近は回数が減ってきたんだよね、以前に比べると」
布団の中で、美緒が晃司の手を握ってきたので、晃司もその手を強く握り返した。
晃司は、美緒の手の温かさを感じながら「ここ数日、美緒さんといて、俺もそろそろ幸せになってもいいかなぁって気がしてきたんだよね」と鏡の中の美緒に語りかけた。
「佐藤さんといて、私もそう思いました。幸せになりたいって・・・人から愛情を感じたのが初めてだったから。なってもいいですよね? クローンでも幸せになってもいいですよね?」
「もちろんいいに決まってるよ。クローンだろうがオリジナルだろうが、関係ないよ。みんな幸せになる権利はあるはずだ」
晃司は横を向いて、美緒の横顔を見つめ、美緒もそれに応え晃司を見つめ返した。
しばらく二人は見つめ合ったままなにも言葉を発しなかったが、美緒が唐突に口を開いた。
「私、わからないことがあるんです」
「どんなこと?」
「私と同じクローンが、佐藤さんの脇腹をアイスピックで刺したでしょ。アイスピック自体は、どこででも手に入るし、刺しても傷口が小さくて済むし、返り血を浴びないし、私達工作員が誰かを始末するときよく用いる道具なんですけれど、佐藤さんはクローンを私だと思ってすっかり油断していたんですよね」
「そう言われると、なんか俺がバカみたいに聞こえちゃうけど、正直、そのとおり、美緒さんだと信じ込んでた」
「なら、脇腹を刺す理由は2つです。どちらも殺すつもりはなかったってことです」
美緒が言うには、正面から人をアイスピックで刺して殺すときは、心臓か、眼球を刺してアイスピックの先端を脳に至らしめるかのどちらかなのだと。
両方できたにもかかわらず、脇腹を刺したのは、単に美緒にこれ以上関わると命の保証はないぞ、という警告。
「そうじゃないとしたら、本国からの司令に反して、わざとかすり傷で済ませたかです。私と同じクローンなら私と同じ訓練を積んでいて当たり前です。それなら絶対にあの状況で狙いを外すことはないので、間違いなく意図して脇腹を刺しています」
美緒はすこし眉間にシワを寄せながら「どちらの理由で脇腹を狙ったのかがわからないんです。もし、万が一ですよ。本国からの司令に反して脇腹を刺したのなら、今度はあの子が本国から狙われてしまう」
「美緒さんは、クローンがわざと俺の脇腹を刺したって思うんだ」
「そうなんです。なんと言っても私とあの子は、オリジナルが一緒だから、思考もある程度感じ取れるんですよね。理由まではわからないけど、あの子の判断で脇腹を刺した可能性が高いと思ってます」
「じゃあ、あの子も狙われちゃうね」
「ですよね。それが心配なんです・・・ほんとに・・・」
美緒は不安そうにため息をついた。
「でもさ、今の俺達じゃ、なんにもできないし、そうと決まったわけじゃないから、今は申し訳ないけれど、自分達のことを考えようよ」晃司には、そう言って美緒を慰めるしか方法がなかった。
「俺もわからないことがあってさ」
晃司は話題を変えた。
「さっきまで美緒さんの体の中に位置情報が相手にわかってしまうなにかしらのものが仕込まれていたとして、俺のマンションに居るときは、どうして工作員は襲ってこなかったんだろうって思うんだけど」
「そうですよね・・・。私もそれは考えたんですけれど」
美緒が言うには、美緒が晃司のマンションに転がり込んだ夜、美緒を襲うか拉致して別の場所で始末しようとしていた工作員は、美緒を発見できなかったので一晩中探し回ったのではないか。ある意味これは工作員の失態だから、なるべく本国への報告を遅らせて、自分達でなんとかしようと考えたはず。ということは、位置情報は本国が把握しているだけで、現地の工作員が簡単に手に入れられるものではない。仮に見失ってすぐに本国に連絡したとしても、本国から美緒の位置情報が提供され、このラブホテルと同じ様に、晃司の住む7階建てのマンションのすべての3号室に踏み込むのは、一時利用しているだけだったり、警察に話を聞かれたくない事情を抱えたカップルが利用するラブホテルと違い、そこに暮らしている住人はすぐに通報するだろうからリスクが高すぎると判断したのではないか。
そうしているうちに、焦った鬼頭幸三郎が手を打って、朝には千種区を封鎖してしまい、大量の警察官や刑事が千種区内に投入されたので、工作員達は千種区内で美緒に手を出すのを諦め、本国と鬼頭幸三郎が話をして、日本の警察は千種区内、それ以外は本国の工作員が受け持つことにしたのだと思うと。
「なるほどね、そう考えれば納得できるな。美緒さんが俺のマンションに来たのは正解だったね」
「ほんとに。今ここに二人でいられるんですから、大正解でした」
二人はそんなことを話ながら、知らぬ間に満足感に包まれながらうとうと眠ってしまった。
<chapter 04 銀縁メガネの女とソウケ君>
晃司と美緒が乗った車の後をゆっくり追跡していくと、近くにあったラブホテルに入っていくのが見えた。
「ソウケ君、入って」鯱は躊躇することなく、命令口調で言った。
「えっ、嫌です。さっきの病院みたいに表で待っていればいいじゃないですか。鯱先輩と社用車でラブホテルに入っていくところを誰かに見られたら、もう僕はお終いです」
「誰に見られるの? いいからささっと入って、でなきゃ、今ここできみをお終いにしちゃうよ」
徳川宗家は”どうやってお終いにするんですか?”とは口に出せず、不審者のようにおどおどとしながらラブホテルの駐車場に車を入れた。
「ホテルの入口が見えるところに、どこでもいいから車を止めて」と鯱に言われ、徳川宗家は入口の真ん前の駐車スペースに車を止めようとしたところ「きみは馬鹿か? こんなところじゃ、先入った二人にも丸わかりじゃないの、もうすこし頭使いなよ」と鯱に怒鳴られ、どこでもいいからと言ったのはそっちじゃないか、と思いながら他の駐車スペースに車を移動させようとすると「まあいい、ここならホテルのエントランスの様子も分かるし、このままでいこう」と鯱が言った。
「でも、こういうタイプのホテルって、エントランスとかが、もっと見えにくいというか、見られにくい構造になってるもんじゃないかな? このホテルはシティーホテルみたいで珍しいですね」
「ソウケ君は、ラブホテルをよく利用するの?」
「そっ、そんなプライバシーを侵害するような質問にはお答えできません。一般論ですよ、あくまで」
一般論でラブホテルの構造までわかるとは思えないが、まあソウケ君の私生活に興味があるわけではないので、ほっておこうと鯱は思った。
「これからどうするんです?」
「どうするもこうするも、あの二人次第だよ」
「そもそもあの二人は、何者で、どうして僕達は二人を追いかけてるんですか? そろそろ教えてもらってもよくないですか?」
徳川宗家が、甘ったるい声で聞いてきたので、鯱も何も説明していなかったことを思い出したが、こいつに説明する必要があるのかどうか迷った。しばらく無言で考えた後、やはりこの先どんな展開が待っているかわからないので、多少の説明はしておくべきだと判断した。
「あの二人が、今、千種区が封鎖されている原因だと思う」
「えっ、どういうこと? 千種区が封鎖されている原因ってことは、あの二人が町田首相を殺した犯人ってことですか?」徳川宗家は、ひとはこれほど目を開くことができるのかというくらい目を見開き、ぽかんと口も開いたまま鯱を見ている。
「まだ誰にも言わないで。確証はないからね。でもほぼ間違っていないと、私の勘が告げている」
「なんだ、鯱先輩の勘か。それじゃ骨折り損のくたびれ儲けになっちゃうかもしれないですね。驚いて損しちゃいました」
鯱は、やはりここらで一度こいつを締めておく必要がありそうだと思った。
「じゃあ、このまま駐車場で一晩過ごすこともありうるってことでしょうか?」鯱はいちいちうるさい奴だと思い、コクリと頷くだけで無言の返事をした。「それなら、僕だけ部屋に泊まってもいいですか? シャワー浴びたいし、ベットでゆっくり寝たいです」
鯱は、この男は記者には向いていない、本当の徳川の末裔で、代々の遺産で遊んで暮らせるような人生でないと、そのうち路上で生活するようなことになりかねないなと思った。
そんな話をしていると、晃司と美緒がエントランスに出てくるのが見えた。
「出てくるんですかね? さっき入ったばかりなのに」
「どうだろうな」
「あっ別の部屋を選んでる。どういうことなんですかね?」
「私にわかるわけないだろ」と鯱が苛立って答える。
しばらくすると、黒いアルファードが勢いよく駐車場に滑り込みホテルの入口に横付けするように急停車した。
鯱達は横付けしたアルファードで視界を遮られ、ホテルの中の様子が見えなくなってしまったが、後ろの席と助手席から2人の黒いスーツを着た男達がホテルに入っていき、運転席には同じ格好の男が一人エンジンをかけたまま残っているのがわかった。
「なんだか物騒なひと達がやって来ちゃいましたね。あの二人を捕まえにきたのかな? 警察には見えないし、闇の組織だったりして」と徳川宗家は、言葉に反して楽しげだ。
「ソウケ君は気楽だね。私もそんなにお気楽に生きられたら、良かったのにな」鯱は嫌味のつもりで言ったけれど、徳川宗家は、そのとおりですよと言わんばかりに笑みを浮かべて頷いている。
15分ほど成り行きを見守っていると、アルファードの男達が戻ってきて車に乗り込み、駐車場の空いているスペースで方向転換してもの凄いスピードで走り去っていった。
「最初からすぐに出ていくのがわかっていたのなら待っている間に方向転換しておけばいいのにね、気の利かない運転手でしたね」と徳川宗家が言うので、鯱はソウケ君と初めて意見の一致を見たな、こんなこともあるんだと意外だった。
すると、今度尾行対象の女のほうが、エントランスまで来て辺りをうかがうようにしので、鯱は女に気づかれるとまずいと思い、とっさに助手席から身を乗り出して徳川宗家に抱きついて自分の顔を隠すとともに、ホテルへ入る前に駐車場でイチャつくカップルを装った。
女はすぐに、また中へ戻っていった。どうやら上手くさっきの怪しげな男達をかわしたようだな、こうなると明日の朝までは動きはなさそうなので、こちらも腰を据えて臨むしかないなと鯱は思って徳川宗家に目をやると、声を発すること無く目を見開き、池の鯉が餌を求めて口をパクパクさせているかのよう口だけが動いていた。
<chapter 04 晃司と美緒 旅立>
翌朝、目覚めた晃司と美緒はレクサスLSセダンに乗り込み、どんよりとした曇り空の中、JR尾張一宮駅を目指した。
「今日はなんだか、あまり天気が良くないね。美緒さんと出会ってから、ずっといい天気だったのにね」
「そうですね、どんよりですね。私、わりと晴れ女なんですけれど・・・。佐藤さんが雨男ですか?」
「そんなことはないと思うけどなぁ、飲食店は定休日とか臨時休業とか、あんまりついていないことが多いけれど、天気はそうでもないと思うよ。まあ、このまま曇りで、雨が降らないといいけどね」などと他愛のない会話をしながら、車を進めてゆく。二人には、そんな時間が楽しく感じられた。
こんな状況ではなくて、音楽でも流しならドライブできたらと思いながらも、情報だけはチェックしておきたいので、ディスプレーでテレビ番組を流した。
臨時特番はすでに放送されておらず通常放送に戻っていたが、ニュースでは、昨晩の桜通検問所で起きた警察車両爆発直後の模様を視聴者から提供されて映像で流して、未だ原因不明であるが、町田首相殺害犯がなんらかの形で関わっているのではないかという警察から発表されたコメントを伝えていた。
また、今回の爆破を受け、首相官邸では鬼頭首相代行のもとに内閣官房長官、国家公安委員会委員長、警察庁長官など関係者が一堂に集まり、今後の対応を検討中だそうだ。
「もっと封鎖の仕方が厳しくなるのかな?」赤信号で停車している間に晃司が呟くように言った。
「どうでしょう、そのほうが私達にとってはラッキーかも知れませんけれど、千種区の住民の方々には迷惑かけちゃいますね」
「だよね。俺達にはどうしようもないことだけれど、早く封鎖が解けるといいね」
途中で、立ち寄ったコンビニで晃司がサンドイッチとコーヒーを買うついでに、美緒がなるべく派手な、例えば真紅と黄色のようなマニュキアを2種類買って欲しいと言った。
「そんなものどうするの?」
「私の人差し指と親指に色違いで塗るんです」
「なんのために?」
「そうしておけば、例えば私がトイレに行ったとして、帰ってきたとき人差し指と親指を見せながら佐藤さんに近づけば本物だとわかりますよね。逆に指を見せなければ、またクローンですから逃げてください」
「そうか、次もかすり傷ですむ保証はないもんね。了解、美緒さんと離れたときは必ず確認するよ」
コンビニの駐車場に止めた車の中で、二人でサンドイッチを食べ、コーヒーを飲み終わると、美緒はさっそく購入したパラドゥのブルーグリーンを左右の親指に、レディピンクを左右の人差し指に塗り始めた。
「こうやって2本の指だけに違う色を塗ると、なんだか変な感じですけれど、今はへんてこなほうが目立っていいですもんね」
先程までのコーヒーの香りをかき消すように、マニュキアに含まれるシンナーのような独特の臭い、酢酸エチルや酢酸ブチル、トルエンなどの有機溶剤が揮発することで発生する匂いが車内に漂いだしたので、晃司はウインドウをすこし下げて外の空気を車内に入れた。
「美緒さんは、普段、マニュキアは塗らないの?」
「必要に応じて塗ったりします。仕事に必要ならね。でも、先日までは料亭に仲居としていたので、塗らなかったですね」
そうか、そんなことまで自分の意思では選択できないのか、と晃司は思った。
きっと、普通の美緒くらいの年頃であれば、ファッションやコスメを存分に楽しめるのに・・・。
美緒はマニュキアを塗りながら、過去の自分を思い出していた。
訓練で初めて人を殺した時、手と足が震え心臓の鼓動が自分でも感じられた。あれは脱北者の家族だったのだろうか、それとも南や日本からから連れてこられた人達だったのか。中には白人もいたし、やはり世界中から拉致されてきたのか。徐々に人を殺すことに慣れ始めた頃に、子供が連れてこられ手にかけてしまった時は、罪の意識で泣きわめきそうになったが、上官はそれを許してはくれなかった。猿ぐつわをされて拘束衣を着させられ、3日間独房に放り込まれた。
首から下を水に浸けられたまま24時間過ごしたこともあったし、吐き気がするような性的なこともされた。
思い出すのも嫌だと思って封印していた過去なのに、晃司と出会ってから思いがけず心から良かったと思える出来事がいくつかあり、訓練中のつらい出来事がしっかり”過去の出来事”になったからだろうか。自ら思い出している自分に不思議な感じがした。
これからの自分に、もしもつらい出来事が起こっても、それは今までとは違う、心のどこかに希望の光が見える、次に起こる楽しい出来事のために耐えることのできる出来事なのではないかと思えた。
それからユニクロにも寄って、晃司が新しいネイビーブルーのパーカーと白いTシャツを買って、その場で着替え、アイスピックで刺されて穴の空いたパーカーと血ですこし汚れたTシャツはリサイクルボックスに入れて処分した。
二人は幹線道路を避けながら、1時間30分程で目指すJR尾張一宮駅付近に到着した。
三井のリパークにレクサスLSセダンを止めて、リスクはあるものの佐々木沙織との約束どおり、晃司はバックパックの中のセイフティーバッグから自分のスマートフォンを取り出して、電源を入れ美緒に渡した。
「ごめん、LINEで位置情報をどうやって連絡すればいいかわからないから、佐々木さんにここのコインパーキングの位置を知らせてくれないかな」
「わかりました。ついでにお礼も伝えておきますね」
美緒にLINEを送ってもらい駅に向かおうとすると、美緒が車のグローブボックスの中に、せめて駐車代金くらいのお金を入れておいたらどうかと言う。晃司もそれはそのとおりだと思い、それなら多少のお礼も含め、佐々木沙織があまり気にしなくても良い額、1万円を入れておくことにした。
お礼としては、すこし中途半端な額のような気もしたが、この先なにが起こるかわからないので、今は気持ちが伝われば十分ではないかという話でまとまった。
<chapter 04 銀縁メガネの女とソウケ君>
鯱と徳川宗家は、気づかれないように慎重に男と女を社用車で尾行していた。
途中で尾行対象がコンビニに寄ったので、二人も朝食を買うことにした。
「ソウケ君、私は顔が相手にバレるとまずいから、きみが適当に朝食を買ってきてくれないかな」と鯱が眠そうな顔で言った。
「別に構いませんけれど、鯱先輩は結局、朝まで寝なかったんですか?」徳川宗家はスッキリした顔で答えた。
駐車場に止めた社用車の運転席で、ぐっすり朝まで寝た徳川宗家とは対象的に、鯱はいつ晃司と美緒が出てくるかわからないので、朝まで一睡もできなかった。「眠気覚ましになるものを頼むね」と車を降りてコンビニの店内へ向かおうとする徳川宗家に声をかけた。
男が戻って来るより早く、徳川宗家が戻ってきたので、”こいつ、やればできるじゃないか”と思ったが、その手には緑茶のペットボトルとシュークリムが2つずつあるだけなのを見て、怒りが爆発した。
「なんで、そんなもの買ってくるんだよ! 眠気覚ましって言ったらコーヒーだろうよ! それでもって、朝食にシュークリームってどういう発想なの? きみは頭がおかしいのか?」
「なんでそんなこと言うんですか? だいたい”適当に”って言ったのは、鯱先輩ですよね。それに緑茶のカフェインは確かにコーヒーより少ないど、ゆっくりと体内に吸収されるから覚醒作用が長続きするんですよ。それに糖分が足らないと思考能力が低下しちゃうし、運転しながらでも食べやすいから尾行している二人が急に出発しても対応できるじゃないですか」徳川宗家は眉間にシワを寄せて反論してきた。「文句があるなら”適当に朝食を買ってきてくれないかな”なんて言わずに、自分で買いに行けばいいのに!」
まあ、そう言われてみれば自分にも非があるし、ソウケ君の言うことも一理あるなと鯱は思い、ここは素直に謝ることにした。「寝不足とは言え、苛立ってしまって申し訳ない。ソウケ君の言うとおりだね。悪かった」と頭をすこし下げた。
「わかって貰えればいいんです」と徳川宗家すっかり機嫌を直したようで、シュークリムを美味しいですね、と食べだした。
男がコンビニ袋とコーヒーを2つ持って車に戻ってきたのを見ると、鯱はやっぱりコーヒーが飲みたかったな、これからこいつにはハッキリ自分の意志を伝えるべきだな、と思った。
その後も、追跡していくと今度はユニクロの駐車場に入っていき、男だけが店内に入り、しばらくすると何も買わずに出てきた。
「何も買わずに出てきたね。なんのために寄ったんだろうか?」と鯱が疑問を口にすると、「パーカーが同じ色だけれど代わった気がしますね。店に入って行く前は、もっと着古した感があったと思いますよ」と徳川宗家が答えた。
鯱はそうかな、別に代わった感じはしないけどな、と思いながら車に戻った男の様子を観察すると、助手席の女が男の胸のあたりに手をやりなにかしている様に見えた。
「ほらやっぱり。タグは外してもらったかもしれないけど、透明のサイズシールが残っていたんですよ。M M M M とかって書いてある縦長の」と徳川宗家が言った。
こいつ意外に鋭いな、なんとかとハサミは使いようと言うけれど、上手く使ってやれば役に立つかもな、と鯱は思い運転席の徳川宗家に顔を向けた。
鯱と徳川宗家も尾行対象の後を追って、JR尾張一宮駅付近の三井のリパーク付近に到着した。
「ソウケ君、きみはここから社に戻って、部長に私の本日分の有給休暇を申請しといて。このまま成り行きで2、3日休むかもしれないから、その時は上手く言っといてね」鯱は早口で必要事項を徳川宗家に告げて、社用車のドアを開け車から降りた。「あとさ昨日も言ったけれど、このことは、まだ誰にも言うなよ」と氷のような目で徳川宗家にドスの利いた声を浴びせ、晃司と美緒のあとを追いかけて行った。
「あのひとは、結局、僕を足として利用しただけなんだなぁ。あのひとは僕の本当の怖さを知らないからなぁ」と徳川宗家はつぶやき、この借りはきっと返してもらうぞ、と口を真一文字に結んだ。
<chapter 04 工作員アジトの倉庫>
「美加、本国が美緒と一緒にいる男の携帯電波を捕らえた。どうやらJR尾張一宮付近にいるようだ。わざわざ一宮まで行って、もう一度名古屋方面へ戻ってくるとは考えにくい。おそらく西に向かうはずだ。JR尾張一宮には新幹線は停車しないから、今から追っても京都駅まで新幹線で行けば、必ず追いつける。エージェントA、エージェントB、エージェントCを連れてすぐに向かってくれ」とリーダーが厳しい表情で美加に司令を伝えた。
「ラジャー。でも大垣あたりで電車を降りてしまったらどうしましょう。もはや位置情報が掴めないんですよね」
「それはないだろう。大垣で降りてどうするんだ? あいつらの目的は我々から逃亡することだぞ。必ず西にあるどこかの空港を目指すはずだ。北陸へ向かう可能性もないとは言えないが、中部圏から離れた場所から高跳びしたいと考えるのが妥当だろう。責任は俺が取る。心配しなくていいからすぐに向かってくれ」
頷いて出ていこうとする美加にリーダーが声を掛ける。「美加、お前は美緒と同じオリジナルを持つクローンだ。戦わせれば相打ちも覚悟しなければならない。だから俺は怪物Aと怪物Bに美緒の始末を任せて、美加には男の始末を頼むと言ったんだ。しかし、こうなってしまっては、そうも言っていられない。今度はしくじるなよ。男の急所をわざと外すような真似は二度とするな。次は私もかばいきれないぞ。いいな」
美加は黙って頷くと「ありがとうございます」と言って名古屋駅へと急ぎ、途中で合流したエージェントA、エージェントB、エージェントCとともに新幹線で京都駅を目指した。
<chapter 04 晃司と美緒 西へ>
平日の午前8時台の駅は、まだまだ通勤通学の人達で混雑していた。
この機会に一度トイレを済ませておこうということになり、晃司と美緒は男女用のトイレに別れた。
晃司が先に用を済ませてトイレの前で待っていると、美緒がマニュキアを塗った指を見せながら戻ってきた。
本当は各駅停車で人混みに紛れながらゆっくり西を目指したかったが、各駅停車は2駅先の岐阜止まりだったので、午前8時22分発の特別快速大垣行きに乗車することにした。
特別快速と言っても通勤通学の人達が多く利用している電車なので、”人混みに紛れる”という二人の目的を果たすのには十分だった。
プラットホームに上がると、晃司が「一番前の車両に乗りたい」と言ったが、美緒が止め、中間の車両停車位置へと晃司の腕を引っ張って行く。
「なんでだめなの? 一番前が気持ちいいじゃん。途中で空いてくれば、前の景色も見えるかもよ。絶対先頭がいいって」
「わがまま言わないの、観光旅行じゃないんですよ」美緒が呆れ顔で晃司を見る。「もし、もしですよ。途中の駅で本国の工作員がこの電車に乗り込んで来て、私達が乗っていないか確かめるなら、どこから始めると思いますか?」
「えっと、それは先頭か最後尾の車両から反対側に向かって通路を歩きながら捜すかなぁ」
「でしょ。じゃあ先頭車両に乗っていて、相手が先頭車両から捜しだしたらどうします?」
「車両の後ろ側の扉から急いで逃げるか、2番目の車両に逃げるかだけれど、どっちにしても慌てて逃げなきゃいけないからバレるね・・・」
「そうですよね、だから真ん中あたりの車両に乗って、どちらからか怪しい人達がやってこないか見張らなきゃ。それに大概の駅はホームの中程に改札に向かう階段やエスカレーターがあるから逃げやすいと思いますよ」
なるほどなぁ、そういうことか、と晃司は納得したと同時に、これからは美緒に逆らわないようにしようと誓った。
二人は大垣駅に到着し、午前9時10分発米原行き普通に乗り換え、さらに米原から午前9時50分発新快速姫路行きに乗り換え、関釜フェリー乗り場のある下関港国際ターミナルを目指した。
電車が京都駅到着したとき、晃司の隣りに座っている美緒の顔が険しくなった。
あたりをうかがいながら「降りましょう」と言って、晃司の腕を掴んで車両の扉が閉まる直前に、プラットホームに出た。
「どうしたの? なにかあった?」
「見間違いかもしれませんけど、本国の工作員がホームの端にいたような気がしたんです」
美緒は走り出した電車の後ろのほうを向いて言った。
「もし、来るならこの京都駅だと思ってたんですよ。名古屋から新幹線に乗れば、たった1駅、40分でしょ。十分、在来線に乗ってる私達を追い抜いて待ち伏せできますもんね」
美緒が首を左右に振りながら、工作員を探している。
「あぁそうか、先回りできちゃうね。でもどうして俺達が電車に乗ったってわかっちゃった・・・」晃司はあっと思い、これしかないと確信した。
「一宮の駐車場をLINEで佐々木さんに連絡したからか・・・」
晃司は今更ながら、美緒に申し訳ない気持ちになり自分の不注意を悔いた。
「原因はわからないけれど、他にもなにかあるのかもしれませんよ。今は、そんなことより逃げましょう。どうも一人は電車に乗って、二人は乗らなかったみたいです」
プラットホーム後方から、黒いスーツを着た二人の男が急ぎ足でこちらに向かってくるのが見えた。
晃司と美緒は、プラットホーム中央付近の階段を駆け上がり、改札口を目指して走った。季節に関係なく、京都駅の通路は日本人と外国人の観光客で混雑しており、注意しながら間をすり抜けるように蛇行して走った。西口改札を出て、南北自由通路を新幹線乗り場方面に進み、1階に降りて土産物屋や飲食店の並ぶエリアに入り、最初に見つけた喫茶店に逃げ込んだ。
晃司は売店などが立ち並ぶ通路が見渡せる窓際からすこし離れたテーブルに座り、喫茶店の窓から土産物屋や飲食店の並ぶ通路を注意して見守った。
美緒は一人の女性が、コーラとサンドイッチを食べている窓際のテーブルに通路に背を向けて座った。
女性はびっくりした様子で固まっていたが、美緒が「突然すみません。変な男に追われています。男が通路を通り過ぎてゆく間だけここに座らせてください」と小声で言うと、コクリと頷いてコーラをストローから一口飲んだ。
すぐに先程の二人の男がキョロキョロしながら通り過ぎていくのが見えたので、晃司は美緒に手で合図を送ると、美緒が突然同席した女性に「ありがとうございました。これはこちらでお支払いしますね」と言って、置かれた伝票を持って晃司のテーブルにやってきた。
「なんとか上手くかわせたようですね」と美緒が冷静な口調で言った。
晃司はまだ肩で息をしながら「うん、なんとかね・・・」と口にするのが精一杯だ。
「これからどうしましょうか? もう一度時間をずらして在来線に乗りましょうか? それともバスとか他の手段に切り替えます?」
美緒は不安な様子で、指先でトントンと机をたたきながら晃司に目を向けた。
晃司は、茶色のブラウスに黒のサロンを巻いたウェイトレスが運んできてくれたコップの水を一気に飲み干し、コーヒーを2つ注文すると「いや、こうなったら新幹線を使おう」と美緒の目をまっすぐ見て言った。
喫茶店の店内にあったテレビでは、千種区の封鎖が住民の生活を鑑みて今週末で解除されること、首相殺害犯の捜索には、今後も全力を尽くすことを鬼頭幸三郎自ら会見で語っている。
「大丈夫でしょうか? 新幹線を使ったら、日本の警察にも追われるんじゃないでしょうか?」
「今の会見観たでしょう。今週週末で千種区の封鎖を解くってことは、今週末までは警察の人員は千種区に集中させるってことだよ。きっと鬼頭は北朝鮮からの情報で、俺達がもう千種区内にはいないことはわかっているけれど、なにも結果が出せないまま、すぐに封鎖を解けないんじゃないかな。て、ことは日本の警察は、まだ千種区一極集中せざるを得ないってことでしょ。なら、今から新幹線に乗っちゃえば、仮に北朝鮮の工作員が何本か後の新幹線で追ってきても、アドバンテージはこっちにあるってことじゃない?」
「そうですよね、さすが佐藤さん、頼りになりますね」美緒が満面の笑みを浮かべる。
「たまには役に立たないとね、足を引っ張るばかりじゃ一緒に逃げる意味ないもん」
「そんなことないですよ。一緒にいてくれると安心するし、私は本当に感謝してます」
優しい美緒がどこまで本気で言ってくれているのかはわからなかったが、とりあえずここは素直に喜んでおこうと晃司は思った。
「でも、どうしてあの男達に気付いたの?」
「まあ、一番は勘なんですけれど、まず京都は怪しいと思っていたのは話したとおりですし、あの男達は私達が乗った電車が入ってくるホームの一番手前に立っていて、手荷物を持っていない、同じような顔の男が3人いたように見えたんです。しかも黒いお揃いのスーツを着て。さっき通り過ぎていくのを見たら、ただ似通った背格好なだけで、クローンというわけではなさそうでしたけれど、結構わかりやすかったです」
ウェイトレスがコーヒーを運んできて「ごゆっくりどうぞ」と言って立ち去る。
「駅に止まる直前とは言え、ホームの端じゃ、電車もまだある程度のスピードだったのに、よく分かったね」
「動体視力は、訓練で鍛えられていますから。それに、私が佐藤さんのお宅に転がり込んだ時もそうですけど、もし間違っていても問題ないけど、違和感が当たっていたら大変ですからね。とりあえず逃げたほうが無難なんですよ、ああいう時は」
なるほどなぁ、と晃司は思った。
単なる勘や嗅覚だけじゃなくて、ある程度論理的裏付けがあるから察知できるし、すぐに行動を起こせるんだ、やっぱり自分とは随分違うな、と晃司は感心した。
「でも、今思えば、わざと私にわかるように不自然な三人組でホームに立っていた気がします。一人が電車に乗り込んで、二人がホームを警戒していれば、私達が電車に乗り続けても、降りてきても、どちらにしても捕まえられると思っていたんでしょうね」
「なるほど、じゃあ俺達はまんまとあぶり出されたわけか、ずる賢いやつらだなぁ」と晃司は相手もなかなかやるじゃないか、と思った。
二人は2つのテーブルの会計を済ませ、店を出ると先程走って来た方向に戻り、新幹線乗り場の自動販売機でチケットを買い、とりあえず一番早く乗車できる11時02分発の広島行きののぞみ自由席の二人掛けの席を見つけ乗り込んだ。
<chapter 04 銀縁メガネの女も西へ>
鯱は眠い目をこすりながら京都駅で電車を突然飛び降りた尾行対象を見失わないように、必死であと思いかけたが、南北自由通路を新幹線乗り場方面に進み、1階に降りて土産物屋や飲食店の並ぶエリアに入ったあたりで見失ってしまった。なにやら怪しげな二人組の男も後を追っていたようなので、尾行対象の二人も警戒感が強まったのかもしれないな、と思った。
しかし、これからどうするか、尾行対象の二人が京都市内に出てしまっていたら、観光客でごった返しているし万事休すだな。でも、あの二人は逃げるためにわざわざJR尾張一宮からローカル線を乗り継いで西に向かったはずだ。だとすると、人の目の多い京都に潜伏するためとは考えにくい。京都駅で電車を飛び降りたのは、怪しげな男達に追われているのを察知した予定外の行動だったんじゃないか。それなら二人の本当の目的地はどこだ? この近辺だと大阪の関西国際空港や神戸空港から海外や見つかりにくい国内のどこかへ飛行機を利用して高跳びしようと思っているんじゃないのか。なら、京都からだとJRで関空か、いやもう一度JRを利用するのは怪しげな男達も追いかけていることだし、リスクが高いかも。そうなると思い切って新幹線? 京都駅からなら、地下鉄で四条駅まで行って烏丸駅から阪急という経路もあるが、そっちを選択されたら終わりだな。よし、ここは東区であの二人を見つけたときのように自分の運にかけるしかないな。
そう決意すると、鯱はくるっと方向転換して新幹線乗り場へ歩き出した。
しばらく新幹線の切符売り場付近の物陰に隠れて様子をうかがっていると、尾行していた二人が現れて新幹線の切符を自動販売機で買っている。
”よし! 私は運に恵まれているな。熱田神宮で初詣の時に引いたおみくじも大吉だったしな。日頃の行いのせいもあって、持ってるね”と心のなかでガッツポーズをしながら、鯱も自動販売機に向かった。
でも、目的地はどこだ? とりあえず新大阪まで買っとくか? いや、まて、もしも二人がその先へ行くのなら、自由席なら途中で車掌に車内改札あう可能性があるな。車掌とのやり取りで尾行対象に注目されてもまずいから、ここは思い切って最長の博多まで買っておくか。これでスクープでもできたら、当然経費で落とせるし。
鯱は博多までの乗車券と特急券を買い、急いで晃司と美緒を追いかけた。
<chapter 04 晃司と美緒と銀縁メガネの女と工作員 西へ>
岡山を通過したあたりで、美緒が「指、確認してくださいね」と言い残しトイレに行くために席を立ったので、晃司は戻って来る美緒の指を確実に見るために上半身を座席から通路に乗り出すようにして待っていたら、美緒が手術前のドクターのように胸のあたりまで手を上げ、手のひらを自分に向けながら戻ってきた。
この状態ならば、いくらなんでも見間違えることはないけれど、気づいた他の乗客には随分おかしな光景に見えるだろうと思い、晃司は思わず笑みが漏れてしまった。
ところが、美緒は席に戻るなり「あんなに通路に乗り出していたら、周りの人からおかしいと思われちゃうじゃないですか。気をつけてくださいね」と叱られてしまったので、晃司は「悪かったよ」と謝りながら内心むっとした。
「佐藤さん、気づいてます?」通路側の席に座る美緒が言った。「私達の5列後ろの3人掛けシートの一番通路側に座っている銀縁眼鏡をした女性」
「えっ、その女性がどうかしたの? 工作員?」
「違いますよ。私達と一緒に京都から乗ってきたんですけれど、よほど疲れているのか、わりとすぐに寝ちゃって、あんな風に大きな口を開けたまま爆睡しちゃったんです」美緒の顔に笑みがこぼれる。「あんなに爆睡してるんだから、途中で降りないで、私達と同じ終点の広島まで行くんでしょうね、きっと」
晃司も振り向いて爆睡女性を確認しようと、シートの間から後ろを覗くと、すぐ後ろの席に座っている若い女性と目が合ってしまい怪訝な顔をされたので、慌てて前に向き直った。
鯱の隣の隣、3人掛けシートの窓際には、キャップとメガとマスクで顔を隠した美加が座っていた。
美緒がトイレのために行き来した時は、顔を窓に向けうつむき加減にしていたので、気づかれずに済んだようだ。京都駅から美緒と男の様子を観察していると、美緒が本当に男を信頼しているように思えた。なんと言っても美緒と美加は、同じオリジナルからのクローンなので、なんとなく美緒の考えを感じ取ることができるし、感情が近いためか、言葉をかわさなくとも、今、美緒はとても幸せな気持ちでいることが理解できた。
”私もいつかは、一瞬でもいいから美緒のように幸せな気持ちになってみたい”と美加は思うと、こころにリーダーの顔が思い浮かんだ。
新幹線は12時42分に広島に到着した。
京都発で西へ向かう新幹線は、晃司と美緒が乗車した11時02分発の後は新大阪止まりが4本続き、そのあとが博多行になる。
二人は、広島駅でこの13時03分発の新幹線博多行新幹線を待つ間に、キヨスクでおにぎりとお茶のペットボトルを買ってプラットホームのベンチで簡単な昼食をとった。
「もし、北キプロスへ無事に到着したら、佐藤さんは日本へ帰っちゃうんですか?」と美緒が不安な気持ちを隠しながら聞いてきた。
「一旦は帰るよ。部屋の片付けとか、引き払う手続きとかあるしね。でも、戻るから」晃司は美緒の顔を見て答えた。
「本当に、絶対、戻ってきます?」美緒が今度は不安を隠さず、晃司を見つめる。
「本当に、絶対絶対に戻るよ」晃司も美緒を見つめ返して力強く声に出した。
「本当に、絶対に戻ってきてくれるなら、私と結婚してくれませんか?」美緒が唐突に言った。
「えっ、けっ結婚? こんなオヤジと夫婦になっていいの? 美緒さんにはもっとふさわしい人がいるんじゃない? 俺は必要なときに一緒にいるだけで十分じゃない?」
「そんなことないです。年の差は関係ありません。私が幸せになるには佐藤さんが必要なんです」
美緒の目が潤み始めている。
「本当に、絶対絶対それでいいの? 俺は独身だし問題ないけれど、美緒さんはそれでいいの? 今は良くてもちょっと時が過ぎたら後悔するんじゃないかな」
「そんなことないです。私は今まで幸せを感じることなく生きてきましたけれど、今、とっても幸せなんです。だから後悔なんかしませんよ。ただ、私が結婚できるのかどうかは心配ですけれどね」
美緒が持っているのは、高橋美緒という日本名の偽造パストートだけで、実際に戸籍や国籍があるわけでもない。かといって本名のリ・ジウンとしては、身分を証明するものはなにも無い。
「それは大丈夫じゃないかな。北キプロスにだって教会ぐらいはあるだろうし、二人で行って牧師さんか神父さんかわからないけれど、そのひとにセレモニーをしてもらって神の前で誓うだけで良いんだから」
こういう時って、日本人は宗教に対して寛容なので便利だなぁ、と晃司は思った。
正月になれば神社に初詣に行き、結婚式は教会であげて、死んだらお坊さんに御経を唱えてもらって戒名を付けるのが、特に変わった行為ではなく一般的に行われている。これぞ、八百万(やおよろず)の神々を信仰してきた日本人の宗教に対する寛容さ、というか、そこにアイデンティティーを求めない信仰に対する希薄性の現れだ。
「要するに、二人が納得すればOKなんじゃないの? これから日本で生きていくんじゃないんだしさ」
「ずっと一緒にいてくれるってことですか? 世界中のどこで生きていくことになっても」
「そうだよ。美緒さんが嫌じゃなければ、そうするつもりでいたけど」
嬉しそうに微笑む美緒の頬がすこし赤みを増した。
「でも、北キプロスってキリスト教圏でしたっけ? トルコの文化圏ならイスラム教じゃないですかね?」と言って、美緒の笑顔が大きくなった。
鯱は、終点の広島駅に到着するという車内アナウンスで目を覚まし、焦って美緒がまだ乗っているか確認した。
良かった、まだ乗ってるいつの間にか寝ちゃったみたいだな。二人は広島で降りるのかな? それとも更に西へ向かうか? 西へ向かうとしたら、二人の最終目的地はどこだ。九州へ渡って鹿児島あたりから沖縄まで行くとかか? 出だしがローカル線だったからな、きっとゆっくり逃げて警察や怪しげな男達の追跡を躱すつもりだったんだろうな。そのあと予定が狂って京都からは新幹線で広島ということは、本当ならゆっくり逃げたかったってことだよね。ということは・・・下関か? 関釜フェリーで韓国に逃げるつもりか。なるほどね、関釜フェリーなら空港と違って手配されていない可能性が高いもんね。沖縄方面より、そっちの可能性が高いかもね。そうなると、パスポートまでは持って来ていないから、関釜フェリーに乗船する前になんとかこの尾行を有意義なものにするしかないなと、鯱は思った。
晃司と美緒は小倉駅からは鹿児島本線に乗り換えて、ようやく関釜フェリー乗り場のある下関港国際ターミナル近くの下関駅までやってきた。
「結構長かったですね。朝8時台に一宮を出て、もう14時過ぎですもんね」
「うん、でも最初はここまでローカル線を乗り継いでくる計画だったから、本当はもっともっと時間がかかったんだよね」
「そうですね、まだましでした」
美緒は駅の2階にあたる東口を出て空を見上げ「なんだか、雨が降ってきそうな雲行きですね・・・」とつぶやいた。
鯱は下関駅に着くとすぐに1階に降り、東口タクシー乗り場から、客待ちしている先頭のタクシーに乗車して「下関国際ターミナルまで」と叫ぶように告げた。タクシーの運転手は「お客さん、あそこまでなら歩いても10分以内で行けるし、大きな荷物も持っていないようだから、歩いていったらどうだい。タクシーなんてもったいないよ」と言う。鯱は晃司と美緒より先回りして、二人がやってくるのを待ち伏せしたかったので、バックパックから財布を取り出して5,000円札を運転手に渡して「お釣りはいらないから、早く行って」と言った。
運転手はどんな理由かわからないけど、随分急いでいるようだね。まあこっちはお金を貰えれば文句はないけど、と言って距離にして500mほどを、途中一度の信号待ちを含めても3分ちょっとで下関国際ターミナルまで鯱を運んでくれた。
晃司と美緒はシーモールを右手に見ながら、遊歩道をオーヴィジョン海峡ゆめタワー方向に進み、EDIONのある交差点を右に回って歩いてゆくと下関港国際ターミナルの建物が見えてきた。行き交うひとはまばらで、誰もが雲行きを気にしながら先を急いでいる様子だった。
下関港国際ターミナルの眼の前を走る道路から遊歩道へ延びた昇降階段を通り過ぎると、ポツポツ雨粒が落ちてきた。
晃司が空を見上げると、黒い雨雲に覆われた空から、まるで流星の大群のように雨粒が落ちてくる。
「ちょっと急いだほうが良いね、傘持ってないし」と前を見たまま後ろを歩く美緒に声をかけた。
その時、晃司は背中にドスンという衝撃を受け、前によろけ転びそうになるのをなんとか耐えて後ろを振り返ると、女が先ほど通り過ぎたばかりの昇降階段を遊歩道から急いで駆け下りていくのが見えた。
その女はキャップを被り、黒い薄手のMA-1を着ていたが、階段を駆け下りながら一瞬こちらを振り向いた顔は美緒と同じだった。
”俺を刺したクローンだ”と晃司は思ったが、そんなことより自分に倒れかかってきた美緒が心配で、慌てて抱きかかえた。
前のめりに倒れた美緒の背中には、アイスピックが突き突き刺さっていた。
晃司が美緒を仰向けに抱き起こすと、美緒はかすかな声で「逃げて・・・早くここから逃げて」と言った。
「そんなことできないよ。救急車を呼ぼう!」晃司が叫ぶように言って、自分のバックパックからセイフティーバッグに入ったスマートフォンを取り出そうとすると、今度ははっきりとした声で「早く逃げて! お願いだから私にかかわらないで!」と美緒が睨むように告げると、美緒の目が大きく開き口を開いたまま抱える晃司の腕から首がこぼれ落ちるように傾いた。
「美緒、美緒、死ぬな、俺をまた一人にしないでくれ!」晃司の言葉に反して、美緒の体はもう動くことはなかった。
倒れた美緒を見た人達が周りに集まってきて、「どうしたの?」「救急車を呼べ!」「ひとが倒れてる!」などと口にしながら、本格的に降り始めた雨とともに傘の環が美緒と晃司を中心に広がり始めた。
晃司は眼の前でお起こったことが信じられなかったが、すこしずつ後退りしてその環を抜けて、絶望感を感じながら鉛のように重く感じる足を引きずるようにして、雨に打たれながら下関駅へ引き返して行った。
鯱は、ターミナルビルに到着した後、2階に上がり柱の陰に隠れ、”こういうのは、不意打ちをかけるに限る。相手が動揺しているうちに、有無を言わさず質問に答えさせる”と遊歩道を歩いてくる晃司と美緒を直撃してインタビューするために、二人ががやって来るのを今か今かと待ちわびていた。
外は雨が激しく降り始めたようだった。ターミナルビルの窓ガラスに雨粒が降り注いでいる。しばらく待っても二人がターミナルビルに入ってこないので、まさか目的地は別の場所だったのか? と、不安になり、遊歩道からの入口まで行って外を覗くと、何人かが傘の輪を作っており、叫び声が聞こえた。
近づいて見ると、輪の中心に目を見開き横倒しになっている女の姿があった。
「しまった」鯱は思わず口にして、女を抱き起こしたが、背中側にアイスピックが深々と刺さっていて、すでに息がなかった。遊歩道の駅の方角に目をやると男が頭を垂れてゆっくりと駅へ向かって雨の中を歩き去るのが見えた。
鯱は男を追いかけるべきか、この場に留まって取材するべきか一瞬迷ったが、なんと言ってもこの女は、ほぼ間違いなく町田首相を暗殺した一条香なので、やはりこの場で取材を続けるべきだと決め、自分のスマートフォンを取り出し動画録画を始めた。画像はあとから動画から生成できるので、WEB版のことも考慮して動画のほうが有益だと思ったからだ。
同時に集まってきている人達に、なるべく顔を写さないようにしながらインタービューもして、状況把握につとめた。
<chapter 05 エピローグ>
美緒の死は地元名古屋の名日新聞がスクープする形で大々的に報道され、国中を大騒ぎさせる歴史的な報道となった。
町田首相を暗殺した犯人が、山口県下関市の下関港国際ターミナル前の遊歩道で何者かに刺殺され発見された。現場には暗殺犯と思われる女を追跡中の名日新聞の記者がおり、犯人が刺殺された直後から現場に取材にあたった。現場での動画も名日新聞のWEB版で公開され、その生々しい音声と映像は国民に大きなショックを与えた。
なお、町田首相を暗殺した犯人は、関釜フェリーに乗船して韓国へ逃亡を図ろうとしていた模様であったとも伝えられた。
大スクープをものにした鯱は、社長賞を受賞し、多額のボーナスを手にした。
「鯱先輩、先輩はどうして犯人の女と一緒に逃げていた男のことをなにも書かなかったんですか?」と徳川宗家が腑に落ちないという顔で聞いてきた。
「それはね、ソウケ君。裏が取れていないからだよ。記事を書く者としての基本じゃないか」
「だって、僕と先輩で二人を尾行していたんだから、ちゃんと裏、取れているじゃないですか?」
「きみはなにをもって、裏が取れていると言っているの? その存在が明らかなだけで、どこの誰ともわからないじゃないか」
「それなら、あの病院へ行って取材しましょうよ。佐々木クリニックでしたっけ? あそこで男が治療を受けたんでしょ。それに車も手に入れてたし、絶対、知り合いかなにかですよね」
「あのね、ソウケ君。医療機関には守秘義務というのがあるんだよ。患者の個人情報を漏らすわけがない」
「そんなの極悪非道な鯱先輩にかかれば、口を割らせるくらい簡単でしょ」
「いちいち、うるさいな。あの二人を見てて、きみはどう思った? 私は社長賞もボーナスも手に入れたから、これ以上あの二人について書くつもりはない! そんな必要がどこにある。彼らの想いを感じ取れなかったのか、きみは!」
徳川宗家は目を潤ませながら「極悪非道の鯱先輩にも、赤い血が流れてたんですね。ひとの想いに心を砕くなって・・・。僕は嬉しいです」と言った。
「その極悪非道ってのやめなさい」
すると徳川宗家は「だって、小学生だった本人が知らないのに学校中に”あいつはもらい子だ”なんて暴露しちゃうなんて、極悪非道以外になんて言えばいいんですか?」とスマートフォンで”極悪非道 類義語”と検索して「悪逆無道、残酷非道、暴虐非道、極悪凶猛、極悪大罪、無法千万、無理非道のどれがいいですか?」と聞いてきた。
鯱は残酷非道にお前を痛めつけてやるよ、ソウケ君。と心のなかでつぶやき、徳川宗家を睨みつけた。
「あっ、そうだ。今度、高級焼き肉か回っていないお寿司奢ってくださいね」
「なんで、私がソウケ君に奢らなきゃいけないんだ」
「社長賞貰ってボーナス出たんでしょ。それもこれも僕があのとき社用車で駆けつけて、次の日も二人で追跡したからじゃないですか。やだな、先輩、健忘症ですか?」
鯱はこいつには極悪凶猛な接し方のほうがいいかもねと思いながら「そんなもん業務の一環だろうが」と突っぱねた。
「嘘でしょ、嘘でしょう? 感謝の一欠片もないんですか、先輩は」
「あ〜、うるさい! 奢ればいいだろ、奢れば。どこでも好きなとこを予約しとけ!」と言ってしまった後に、鯱は、そう言えばソウケ君に、どこでもいいからとか、適当にとか言うとろくなことがなかったんだっけ、と思い嫌な予感がした。
住民に多大な迷惑を掛けてまで、愛知県千種区を前代未聞の封鎖したにもかかわらず、まんまと犯人を取り逃がしてしまった警察の責任は重く、近く警察庁長官と愛知県警本部長がその責任を取って辞任し、警視庁トップの警視総監は半年間30%の減給になることが発表された。
また、町田首相を暗殺した犯人を刺殺した何者かは現在も逃亡中で、警察が全力を上げて捜査中であることも各ニュース番組では告げられていた。
が、刺殺犯である美緒と同じ北朝鮮工作員のクローンが捕まることは、今後も決してないだろう。
その後、鬼頭幸三郎が副首相から横滑りで自由民権党総裁となり首相となった。
鬼頭幸三郎はいよいよ俺の時代がやってきたな。まずは手始めに、昔、俺のことを脅してくれたヤクザ達をしめあげてやろうか。それとも北朝鮮の奴ら同様に、俺の手足として使ってやろうか。いずれにしても、俺はとうとうこの国の最高権力者に登り詰めたんだな、と首相官邸で感慨に浸っていた。
美緒が刺殺されてしまってから2ヶ月が過ぎ、晃司は関釜フェリー『はまゆう』のデッキから星がきらめき始めた夜空を眺めながら釜山を目指している。
晃司は美緒を失ってから、とりあえず名古屋の自宅に戻ったものの、娘、美音を失った直後のように、なにもする気が起きず、ただただ無気力に日々を過ごした。
美緒が残してくれた金が口座に十分に残っていたので、生活に困ることもなく、生きる意味を感じない時を過ごしていたが、1ヶ月を過ぎたころ、ふっとこう思った。「美緒は今の自分を喜んでくれているだろうか?」
答えは簡単で、喜んでくれているはずがない。そう思うと、美緒のためにもこれからの人生を美緒に喜んでもらえるように生きなければ、という気持ちが湧いてきた。
しかし、なにができるわけでもなく、せめて美緒と一緒に行くはずだった北キプロスまで行って、美緒の想いに応えたいと思い立ち、下関から関釜フェリーに乗って釜山に向かう途中だ。
杉本は晃司が自宅マンションに戻ってから半月が過ぎた頃に訪ねて来て、妻と娘が、準備が整い無事に渡米したとのことだった。
しばらくの間、二人はローテブル向かい合って座り、お茶を飲みながら近況を報告しあった。
桜通千種区境検問所での警察車両爆破に関しては、結局首相殺害犯の女もしくは仲間が行ったということで片付いたらしい。
なぜそれで済んだのかわからないらしいが、警察幹部が鬼頭幸三郎からなんらかの指示を受けたのではないかというのが、杉本の考えだった。
晃司も千種区境検問所を突破してからの出来事を、話しても支障がないと思われる範囲でかいつまんで話、最後は北朝鮮の工作員に美緒は刺殺されてしまったと伝えた。
「北朝鮮の工作員? あの女も元々仲間だったのか?」まるで映画の世界の話だな、と杉本は半信半疑の様子だった。
「そうだよ。結局、鬼頭に繋がることを断ち切るために、美緒は殺されてしまったんだよ」
「鬼頭って、噂には聞いていたけれど、本当にそこまで悪に染まったやつだったとはな。そんな奴が首相になっちまって、この国はこれからどうなって行くんだろうな」杉本は湯呑みからお茶をグビッと飲んだ。「ところで、お前、あの女とどこまで逃げるつもりだったんだ?」
「北キプロスだよ」
「北キプロス? なんだそりゃ、国の名前か? 聞いたこともないな。そんなところまで逃げたとして、あの女と暮らしていくつもりだったのか?」
「そうだよ。悪いか、結婚しようと思ってた」
杉本は、「殺人犯で北朝鮮の工作員の女とか? お前は、どうしようもなくめでたいやつだな」とゲラゲラと笑い、湯呑みをテーブルに置いた。「ああ、そうだお前に言っておくことがある。鯱には気をつけろよ」
「鯱? 鯱って海にいる鯱?」
「違うよ。名日新聞の記者の西城鯱だ。お前、あいつが書いたスクープ読まなかったのか? お前のことはなぜか省かれていたが、名古屋から一宮を経て京都、下関への逃走ルートや下関国際ターミナル前であの女が刺殺された直後の詳しい様子や動画まで公開されていたのに」杉本は怪訝そうな顔をした。
「なにも見ていない。思い出したくないんだ」晃司はため息をひとつついて、胡座をかいた自分の足先に目をやった。「美緒が死んでから、美緒に関する記事は何ひとつ目にしていない。テレビニュースで流れてきても、チャンネルを変えちゃうしな」
杉本はしばらくなにも言わずに、晃司を見ていたあと、立上がってそのまま玄関へ歩き出した。その背中に晃司が「お前さ、俺よりひと回り以上年下だよな。なのにずっとタメ口だよな。そろそろちゃんと敬語使えよ」と冗談半分に告げると、杉本は「お前にはこのままでいいような気がするんだ」と答えた。年の離れた先輩より、友達の方が合ってる気がするから。
そして、帰り際に「あの女、残念だったな」と背中を向けながら言い残して去って行った。
晃司は、あいつは俺よりずいぶん若いはずだけれど、俺のことをいつの間にか”お前”呼ばわりしてくる。あいつなりの親しみの表現なのか、と思いすこし笑えてきた。娘さんが手術の準備に入ったのなら、これであいつも悪事に手を染めることがなくなるだろうから、これまでのことを上手く誤魔化して捕まらなければいいな、と思った。
佐々木クリニックへは、抜糸のために3週間後に出かけた。佐々木沙織の兄である医院長は「もっと早く来ないと、肉が糸を巻き込んじゃうじゃないですか」と、この日もにこやかに話し、晃司が車を貸してくれたお礼を言おうとすると、そんなことはどうでもいいんだよと言った感じで右手を軽くあげて手のひらを向けて止められた。
佐々木沙織とはその時も顔を合わせたが、忙しそうにしていたので軽くお礼を言う程度で帰ってきた。
晃司は、まだ誰かと食事に出かけるような気になれる状態ではなかったが、これだけはやっておかなければと思い、なんとか自分を奮い立たせて後日LINEで佐々木沙織に連絡し、車を借りたお礼に一度食事に出かけた。一応ちゃんとしたところが良いだろうと、新栄にある名古屋東急ホテルの中国料理レストラン南国酒家にした。名の通ったホテルのレストランだが、ドレスコードがそこまで厳しくないので、晃司には有り難かった。
床屋に行って髪を整え、ユニクロでジャケットを新調して行った。
一宮のコインパーキングで乗り捨てたレクサスLSセダンを、兄は一言も不平を言わずに取りに行き「グローブボックスに1万円も入っていたぞ」と笑顔で報告してくれたと言っていた。佐々木兄妹がしてくれたことには、本当に頭が下がる。佐々木沙織には、長い間苦しい思いを背負わせてしまったにも関わらず、深い事情も聞かずに助けてくれて、食事に行った時も、美緒のことは一言も聞いてこなかった。晃司は、どう感謝の気持を伝えたら良いのかわからないほど深く感謝した。
それからは、時々「暑なってきましたね」とか「月が綺麗に出ていますよ」とか何気ないことをLINEし合って連絡を取り合うようになった。彼女も重荷を下ろして、これからは前を向いて歩いて行ってくれることを、晃司は切に願っていた。
晃司の体に当たる海上を吹いてくる夜風が、妙に温かい。
”星空は綺麗に輝いているけど、もうすこししたら雨雲に覆われて降り出すのだろうか、そういえばあの日も雨が降り出したんだっけな。北キプロスまで行って美緒の魂を弔ったら、名古屋に戻り、またビル清掃のバイトに復帰しよう、自分を必要としてくれているひとがいるのであれば、どんな小さな期待にも応えながら生きていこう”と晃司は『はまゆう』のデッキの手すりに両肘をつきながら夜の海を見つめながら思った。
暗い海でもフェリーが進むことで、白い波が大きな三角形のように後ろに広がっていくのが見えた。
<あらすじ>
ある晩、バイト帰りの晃司が自宅マンションの部屋のドアを開けた時に、後ろからタックルされたように玄関に倒れ込んだ。そのとき自分の背中に乗っていたのが美緒だった。北朝鮮のクローン工作員だった美緒は、当時の首相、町田秀則を本国からの命令に従って中居として潜入していた料亭で毒殺し、最終の新幹線で自宅のある名古屋に戻ってきたが、自宅があるマンションの前で仲間の工作員が待ち伏せしているのに気づき、身の危険を感じて咄嗟に隣のマンションのエントランスに身を潜めていたところに晃司が帰ってきたので、後をつけて部屋に転がり込んできた。
一晩泊めて欲しいといきなり言う美緒に事情を聞くと、とても晃司には信じられない内容だったが、テレビでは首相の町田が急死して特番でニュースを報道し続けていたし、内容が美緒の説明と合致していたので、20年前に自分の不注意から、5歳になったばかりの娘が眼の前ではねられて死んでしまって以来、生きる屍のようにただただ意味もなく生きてきた嘗てのエリート銀行マンだった晃司は、もし生きていれば同じ年の美緒に娘を重ね合わせ一晩だけの約束で泊めてやった。
翌朝、美緒の作ってくれた朝食を食べながらテレビニュースを観ていると、当時の副首相、鬼頭幸三郎がいきなり、町田首相暗殺犯の女が潜伏中とみられる愛知県名古屋市千種区を完全封鎖し、犯人の逮捕に全力を尽くすと発表した。
驚いた晃司と美緒は、町田暗殺を北朝鮮に依頼したのは鬼頭であり、その実行犯である美緒を始末することもオーダーのひとつであったことを確信し、二人でなんとか封鎖された千種区から脱出し、その後はローカル線を乗り継いで、下関まで行って関釜フェリーで韓国の釜山まで行き、釜山にある金海国際空港(キメこくさいくうこう)からトルコのイスタンブール、そこから犯人引き渡し条約をトルコ共和国としか結んでいない北キプロスに逃げる計画を立てた。
晃司と美緒は、聞き込みのために晃司の部屋を訪れた県警の杉本という汚職刑事に金を払って、杉本が検問所付近で警察車両を爆破するという手口で検問所にいた警官たちの注意を引き、千種区外へ脱出した。杉本は、幼い娘の心臓移植手術のために警察が押収した薬物や拳銃を横流しすることで高額な費用を捻出しようとしていたので、晃司と美緒からも金を巻き上げようとしたのだが、事情を知った二人は、娘の心臓移植手術に役立てて欲しいと杉本の要求以上の金を提供したことで、それに恩義を感じた本来は真面目な刑事だった杉本が、二人との約束を実行に移したのだった。
区外に脱出した晃司と美緒だったが、出た途端に北朝鮮の工作員に襲われ、晃司が美緒と同じオリジナルを持つクローンを美緒と勘違いしてアイスピックで脇腹を刺され、急いで夜間診療を実施している佐々木クリニックで治療してもらったところ、院長の妹で20年前に晃司の娘をはねてしまった当事者の看護師、佐々木沙織と偶然再会し、晃司は当時の非礼を心から詫び、佐々木沙織も長年自分を責め続け背負い込んできた重い肩の荷を下ろすことができ、お互いに心が軽くなるのを感じた。
一度喰い付いたら離さないと評判の”西城鯱”という執念深い女性記者と徳川宗家(むねいえ)という名前だけ立派な徳川将軍家とはなんら関係のない後輩の凸凹コンビに尾行されながら、晃司と美緒は北朝鮮の工作員に妨害されながらも、計画どおりなんとか下関までたどり着いたが、関釜フェリーのターミナル直前で・・・・。
千種区大封鎖 Tohno Wagin @tohnowajin
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