しろくやせてこころ
小さな炭酸
***
二月だというのに外はいやに明るくて、換気のために開けた窓からは春風のような温かい空気が入ってきた。その風はカーテンを柔らかく膨らませ、彼女の問題用紙を机の上から僕のもとに運んできた。優雅な鳥の羽のように音もなく降り立ったそれを僕は拾い彼女に渡した。問題用紙の隅々まで計算の跡があり、僕は彼女に計算用の白紙を渡すのを忘れていたことを思い出した。ちらりと解答用紙に目をやると空欄はなく、どれもおおむね正しい答えが書き込まれているようだった。
「もう終わったのでいいですよ」
と彼女は言い、回答用紙を僕に差し出した。僕は振り返って時計を確認する。まだ10分ほど時間はあったけれど、僕は解答用紙を受け取った。それから「採点するから少し待ってて」と言った。彼女は「はい」と返事をし机の上のシャーペンや消しゴムを筆箱の中にしまい、消しゴムのかすを床へと払い落とした。
回答用紙には薄く丁寧な字で『2年4組20番 中村由香』と書かれていた。そういえば彼女はそんな名前だったと思いだす。自分の担任するクラス以外の生徒だと、顔と名前が上手く一致しない。かろうじて繋がるのは名前とクラス、そして成績くらいだった。彼女の成績は優秀だったはず。もちろん僕が受け持っている物理に関してはということだけど。
「理科室、久しぶりに来ました。こっちで授業やらないんですか? 実験とか」
「君たちをわなわな移動させるより、僕がそっちへ行った方が早いからね。実験なんてやってる暇はないし」
「せっかく綺麗な別棟に理科室があるんだから使わないと勿体ないですよ。気分転換」
「考えておくよ」
僕は彼女に目もやらず黙々と解答に丸を付けていった。丁寧な字で丁寧な解答が書き込まれていて、それを僕が上から赤いペンで丸だとかバツだとか三角だとか採点していく。おかしな世界だと思った。こんな力学や電磁気学が彼女の人生になんの役に立つのだろう。僕は彼女より少し早く産まれて、少し物理ができるだけなのに「キルヒホッフの法則への理解が少し足りていないね」なんて偉そうに言うのだ。もし僕が彼女と同じクラスメイトだったら、僕は彼女の足元にも及ばなかっただろう。85点。おかしな世界だと思った。
僕は彼女に解答用紙を返した。問題の制作者としていくつか言いたいことがあったけど、何も言わなかった。彼女はそれを無感動に受け取り、すぐに半分に折りたたんだ。まるで85点を取ることがあらかじめわかっていたかのようだった。85点なかなかの高得点だ。彼女のクラスでは間違いなく3本の指には入るだろうし、学年でも10番前後といったところだろう。
「戻っていいよ。まだ授業をやってるだろうから静かにね」
「先生はここでお昼を食べるんですか?」
なんだか見透かされたような気分になって、彼女の方に目を向けた。別に僕をからかっているわけではないようだった。純粋な疑問。少し過敏になりすぎているな、と思った。
僕は息を吐きだしてから「たまにね」と言った。いくつになっても職員室の空気には慣れない、とは言わなかった。歳を取るにつれて言えないことが増えている。
「昼休みここで過ごしてもいいですか?」
「どうして?」という質問に彼女は口をつぐんだ。言いたくないというより、上手く言えないようだった。首もとで切りそろえられた襟足を不安げな少女のように触っている。
「先生、先生たちの中で浮いてますよね?」
「意外とそうでもないよ」
「いつも見かけると一人でいる」
「そりゃ高校生とは違うからね。いつも誰かと一緒にいるわけじゃない」
四限の終了を知らせるチャイムが鳴った。校庭に目線を下すと、さっきまでサッカーをやっていた男子生徒たちが一人もいなくなっていた。僕は彼女が問題を解く音を聞きながら彼らのサッカーを見ていた。とても気持ちよさそうに彼らは校庭を走っていた。もう春が来たのかと錯覚するほどの日差しが、変わらず校庭に降り注いでいる。
「じゃあ先生、いままで女性と付き合ったことがないってうわさは嘘ですか? ロリコンだって言われてますよ。だから高校の先生をやってるんだって」
「それを聞いて君はどうするの」
「どうもしません。というかどうもできません。ただそういう空気に耐えられそうにないんです」
僕は改めて彼女を見た。2年4組20番で物理の成績が優秀な中村由香としてではなく、彼女自身を。まず綺麗な目をしていると思った。10代のあどけなさ残る顔立ちとは不釣り合いな瞳。化粧っ気がない透明な肌と対照的な血色の悪い唇。手足はすらりと不健康的に細く、それを真っ黒な制服が中和していた。もし僕が彼女と同じ高校生だったら、手も足も出なかっただろうと思った。話すことも関わることもなく、ただじっと春の曇りのように恋をしていただろう。でもそれは高校生だったらの話だ。あの頃は、目に映る女の子の一挙手一投足すべてが僕の胸を初恋のように苦しめた。彼女たちが触れることのできないバーチャルの生命体のように思えた。でもいまは違う。
「隣の準備室を使っていいよ。鍵は開けておく。あんな埃っぽいところに昼休みに来るような人は僕しかいない。もし誰かに何か言われたら僕の名前を出すといい。ノートか何かを取ってこいと言われたって」
「そんなことしてバレたら先生が怒られないですか?」
「それはバレ方によるだろうね」
***
「あの子たちも来年は三年生ってなんだか感慨深いですよね」
と安田朋美は言った。彼女とは同僚で唯一の同期だった。半年ほど前からよくこうして仕事終わりに誘われて食事をするようになった。ほとんどが学校から少し離れた大衆居酒屋で、彼女が愚痴を話し、僕がそれを聞いていた。周りに同年代の同僚がおらず、仕方なく僕に白羽の矢が立ったという感じだった。しかしもっと早くからこうしておくべきだったと後悔した。抱えている悩みはどれも似たようなものだったし、そしてなにより僕らは気が合った。彼女は現代文の教師で僕は物理の教師、彼女は地元の国立大を出ていて僕はぱっとしない大学を卒業していた。しかし彼女と話すと僕はリラックスできたし、彼女もそのようだった。お互い話してみなければわからないことがある。
「でも受験生のクラスってやっぱり違うものなのかな。みんなピリピリしたりナーバスになったり。覚えてます? 自分のときこと」
僕は覚えていないと言ってから、そのことについて考えてみた。しかし結論は変わらなかった。高校のころのことは不思議と何ひとつ思い出せなかった。まるで年表が黒で塗りつぶされているみたいに。
「私は覚えてますよ。友達と一緒の大学に行けたらいいねって言って、ここら辺の進学校の高校生って私のころもとりあえずみんなK大を目指すんです。東京の名前の知れた私立に行くには場所が悪くて一人暮らしになっちゃうから。私、いまだに覚えてて直近の模試でD判定取っちゃたんです。いままでは悪くてもCだったのに」
そこまで言うと彼女は嫌な思い出を捨てるように息を吐きだしてから、二杯目のグラスに口をつけた。今日学校で見かけたときよりも心なしか唇の色が明るかった。指には見慣れない指輪もついている。
「その友達はすごく優秀な子でずっとA判定だったんです。本当はもっと上の大学も狙えたけど、その子の親が家から通えるところにしなさいって。女の子で国立大に入れたら、まあ誰も文句は言わないじゃないですか。彼女は私の前では言わなかったけれど、本当はもっと上の大学に行きたかったように見えました。私は一緒の大学には入れたら嬉しいので何も言いませんでした」
「それで二人とも無事合格できたんだ」
「そうです。私はぎりぎり、彼女は余裕で合格しました。彼女はそのあと色々あって大学をやめちゃったんですけど」
あまり詳しくは話したくなさそうだったので僕は相槌だけを打って、適当に目についたものをつかみ箸を口に運んだ。彼女は遠い思い出を懐かしむみたいにテーブルの上のメニュー表を眺めていた。何も書かれていない裏面を二度ひっくり返して確認し、メニュー表をもとの位置に戻した。
「何の話でしたっけ」
「3年生の担任が不安だって話」
「そうです、そう。周りの先生に聞いても、何とかなるとしか言わないし」
「不安になったり、心配するのっていいことだと思うよ。心配事の9割は起こらないって言うじゃないですか。それってたぶん、心配してるからだと僕は思います」
彼女は頬杖をついて僕の言ったことを考えているようだった。ただ思い付きをそんなに深く考えられても困ると思いながらも、彼女はもう自立した一人の大人なのだ、わざわざ情報の取捨選択まで気にかけてやる必要はない。そう彼女は大人なのだ。そして僕も大人だ。しかし僕は言ったいつ大人になったのだろう。成人したときだろうか。それならいまの子は高校生でもう大人ということになる。なら働き始めたときか。そもそも僕は大人なのだろうか。
「しっかり心配しきって、あとはもう何とかするしかないって自分を信じればいいんだと思いますよ」
大人と子供の違いはどこにあるのだろう。僕は彼女——中村由香を思い出した。彼女はまだ子供だ。というより大人になる成長過程だろう。カエルならオタマジャクシに四本の脚が生えてきてしっぽが目立たなくなってきているころだろう。その状態はオタマジャクシと呼ぶのだろうか、それともカエルなのか。
そんなことを考えていると彼女が大きなため息をついた。僕がどうしたのかと聞くと「また心配事をひとつ思い出した」と言って息を吐きだした。
「クラスで生徒の変なうわさが流れてるんです」
「変なうわさ?」
「そう。中村さん——そういえば今日、期末テストの残りをちゃんと受けたんですよね?」
僕はうなずく。
「彼女、遅刻とか欠席とかが少し多くて、でも授業態度が悪いとかも聞かないし、テストの点数もよくて優秀な子だからあんまり気にしてなかったんです。体も丈夫そうではないから月に何回かは体調が悪い日があるよねって。でもたまたま生徒同士がうわさしてるのを聞いちゃって」
「どんな?」
彼女は言葉を探すように唇を歪めた。それから「あんまり真に受けないでくださいね」と前置きをした。
「男の人と会ってるのを見たって言うんです。かなり年上の」
僕はなるべく深刻そうなそぶりで相槌を打った。僕は彼女に今日のことを言うかべきかどうか迷った。でも自分の生徒が担任でもない先生に助けを求めたと知ったら彼女は多少なりともショックを受けるだろうと思った。彼女は真面目で責任感が強いタイプだった。それでも生徒と先生という関係を考えたら彼女に言うべきなのだろう。しかし結局言うとことはできなかった。僕にはそれが自らのくだらない保身のために彼女との約束を破る行為に思えた。
「彼女、特別美人ってわけでもないし、優秀さをひけらかすようなところもないから嫌われるような生徒じゃないんです。むしろ好かれやすい方だと思う。私の経験から言っても。だからそんなこと言われるような子じゃないというか」
「火のない所に煙は立たない?」
「そこまでは言ってないですけど……」
「うわさはうわさだよ。高校なんてそんなうわさしょっちゅう流れるし、すぐに忘れられる。でも何かあってからじゃ遅いから、僕も少し気にかけてみますよ」
「そうですね、お願いします。今日はこんな話ばかりですみません。今度、もっと明るい時間にご飯一緒にどうですか? いつも私の愚痴ばかり聞いてもらてて申し訳ないし」
「もちろん、ぜひ」
彼女と別れて一人になってから、「おかしな世界」とつぶやいた。彼女は僕に好意を持っている。僕も彼女に好意を持っている。同期として何度か一緒に飲んだ。そして今度一緒に食事をする。なんだか恋の始まりを演じているみたいだった。この感情は偽物じゃない、恋と呼んでもいいはずだ。でも何かが引っかかる。踊っている、踊らされていると感じる。いったい誰に。わからない。はたしてこの感情は僕自身のものなのだろうか。
***
一人の女子生徒に理科準備室を貸してから、理科室に行きにくくなった。職員室で適当に昼食をすませ、理科室で授業の準備をするのがいつの間にか僕のルーティンのようなものになっていたらしい。昼食を食べ終えてからの昼休み、特にそのあとに授業がない日は何をすればいいかわからなくなり手持無沙汰になってしまった。だから僕は仕方なく昼休みの終わり際に理科室へ向かった。彼女がいなければいないことを知れるし、一度会ってしまえば気まずさもなくなるだろうと思った。僕は教科書やノートを持って席を立った。
この学校の理科室は教室とは別棟の二階にある。一階にある職員室から薄暗い渡り廊下を通り、階段を上って二階へ行く。別棟の一階には生徒たちが集まる細やかな食堂のようなものがあり、いつも昼休みの時間ギリギリまで生徒たちが談笑していた。今日はいつもより人が少なく感じた。三年生がいないからだ。それでも主に二年生のいくつかのグループが楽しそうに食事をしていた。いろんな人がいる。教室で食べようが、食堂で集まって食べようが、理科準備室で食べようが昼食は昼食だ。何も変わらない。しかし僕はそんな当たり前のことに気づくのに二十年以上もかかってしまった。それを十七で気づく人もいれば、一生気づかない人もいる。いろんな人がいる。
案の定、彼女はそこにいた。まるで自分の部屋のように頬杖をついて、無感動に埃のかぶった生物図鑑を眺めていた。僕に気づくと彼女は一瞬体を強張らせ、すぐに安心したように息を吐きだした。その様子を見て、僕は一体何をしているんだろうと思った。これではまるで密会じゃないか。
「なんだ先生か」
「僕しか来ない」
「ねえ、ほんとに先生しか来ないの?」
僕はうなずく。
「でも私、理科室で授業受けたことあるよ。何回かだけど」
「もちろん来る可能性はある。でも昼休み後に理科室を使う授業って僕のしかないんだ。だから可能性は低い」
「今日もそう?」
「今日は違う。水曜日はこの時間授業がないんだ。だからいつもここで時間を潰してる」
「私は邪魔かな」
「僕は理科室の方にいるから気にしないでいいよ。君がいるか確認しに来ただけだから」
「私、毎日ここに来てる。気に入った。静かで心が落ち着く」
「それはよかった」
と僕は言うと、彼女は優しく笑った。花が太陽を見て目を細めるみたいに、とても自然に。窓がなく二つの出口しかないこの狭苦しい部屋には似合わない微笑みだった。ここは僕の部屋だ。ここには出口しかない。彼女はどうしてここに迷い込んできたのだろう。授業開始五分前の予鈴が鳴った。それを聞いて僕は彼女を見て、彼女も僕の方を見た。
「ねえ、授業は?」
彼女は何も言わずに今度は埃かぶった元素周期表を眺めた。彼女の足もとには体操服の入ったカバンが置いてあった。
「単位は大丈夫なの? 遅刻欠席が多いって聞いてる」
「誰から」
安田先生だと僕は答えた。彼女は大きくため息をついた。どうやら安田先生はあまり生徒に(少なくとも彼女に)よく思われていないみたいだ。彼女も彼女なりに頑張っているのだと、目の前の女子生徒に言おうと思ったけど、何もかもめんどくさくなってやめた。安田朋美が生徒から嫌われていようが、中村由香が進級できなからろうが僕には関係ない。問題は勤務中に異性の生徒と二人きりでこの狭い部屋にいることだ。でも次第にそのことさえもどうでもよくなった。僕は大人として彼女に居場所を提供してあげているのだ。別に見返りを求めているわけじゃない。いったいそれの何が悪い。
「いいの?」
僕が理科室へ行こうと扉に手をかけると彼女はそう言った。その声色から、背中越しでも彼女の表情がありありと伝わった。わがままな子供を相手にしているようないらだちと、自己嫌悪がどっと肩に乗りかかった。でも僕はすぐに肩の力を抜いた。僕は彼女よりも幾分歳を重ねた大人なのだ。そして僕らは対等で公平だ。先生をしているとそのことをときどき忘れてしまいそうになる。『そんなこと知るか』と怒鳴りつけるのは公平じゃない。
僕は理科室からひとつ椅子を持ってきて、彼女の前に座った。彼女は頭のいいサルが自分の目の前に椅子を持ってきて座りだしたかのような表情をしていた。やるからにはきちんと最後までやり切ろうと僕は思った。その結果どこにも行けなくてもだ。もともとこの部屋には行く先なんてない。いつかは扉を通ってもといた場所へ出ていくしかない。もしくは全く知らない場所へ連れていかれるかもしれない。
「ねえ、怒ってます?」
「少しね。自分自身に」
「私のせい?」
「違う」
僕がそういうと彼女は少し警戒を解いたように、椅子の下に折り曲げていた足を少し伸ばした。スカートと靴下の間から覗くその足は陶器のように白く細かった。僕は彼女がその足で歩いている姿を想像しようとしたけど、上手くいかないかった。記憶の中の彼女はいつも座っていた。きっと現代アートのような奇跡的なバランス感覚で立ち、歩いているのだろうと思った。
「私、ここしか居場所がないんです」
「同じだ。僕にも居場所と呼べるような場所はここしかない。一人暮らしなのに家にいるとなぜだか気が滅入る。それにお互い変なうわさを流されてる」
それについて彼女は何も言わなかった。きらきらと舞っているホコリだけが時間の流れを表していた。この薄汚れた理科準備室に時間という概念を持ち込んだのはおそらく彼女が初だろう。ここにあるものは100年前も、100年先も変わらないものばかりだ。そしておそらく僕もそうだった。
「君を見ていると初恋を思い出す」
ずいぶん大胆な発言だなと思う。悪意のある切り取り方をされたら、きっと僕は唯一の居場所さえも失うだろう。
「それは先生がロリコンだからですか?」
彼女は表情一つ変えずにそう言った。
「それは大切なことかな」
「はい」
と彼女はうなずいた。僕は考え込むように曖昧な返事をした。理科準備室は相変わらず埃っぽくカビや薬品が混じったようなにおいがした。空気が悪くよどんでいる。しかし僕はここのよどんだ空気が好きだった。僕にとって外の世界の空気はある意味では軽薄すぎて、ある意味ではよどみすぎていた。それは彼女も同じのようだった。水を得た魚という表現は適切ではないかもしれないけれど、とても落ち着いてゆっくり息を吸っているように見えた。
沈黙。さて、と僕は思った。何をどう話せばいいのだろう。口から出した言葉はたちまち酸化して、本来持っていた意味を失ってしまうような気がしてならなかった。僕は混じりのない純粋な言葉を探した。しかしそんなものはどこを探してもなかった。純粋な鉄がどこを探しても見つからないのと同じだった。そのままの姿ではいれない。だから人は純粋な言葉を発したいとき、涙と熱を持つのかもしれないと思った。しかし僕はそのどちらも持ち合わせていなかった。
「言葉で説明することは難しい。これは僕の内面に関わることだし、個人的な話もしなきゃいけない。ただ君を見ていると初恋を思い出すといったのは、君が初恋の子に似ているからとか、いまでも高校のころの恋を引きずっているからじゃない。君と初恋が似ているんだ。初恋なんてそんなに美しいものじゃない。色んな感情が歪んでそれが美化されたものだ。でも洗練された清潔さが必ずしも美しいわけじゃない。君のことはほとんど何も知らないけど、僕には過去の感情と今の君が重なって見える。だから僕は君のことがそれなりに好きだ」
「説明が下手みたい」
「そうだね」
「それなりに好きだなんて言葉、初めて聞いた」
「僕も始めて言ったよ」
「でもここ最近言われた言葉の中で一番うれしい」
「あんまり健康的な生活を送ってないみたいだね」
僕がそう言うと彼女は記憶に積もった埃をフッと吹くように笑った。耳を澄ますと、外でサッカーボールが蹴られる音や、上の階の音楽室からリコーダーやギターの鳴る音が聞こえた。僕も彼女もしばらくの間、黙って学校の音を聞いていた。僕はこの部屋が学校の一部であることを思い出した。
「ねえ、私も先生のこと何も知らないけど、それなりに好きだよ。それだけはわかる」
「ありがとう。ここ10年言われた言葉の中で一番うれしいよ」
「あんまり健康的な生活を送ってないみたい」
まったくその通りだと僕は笑った。彼女は頬杖をつきな僕のから頭のてっぺんから足の先までを一通り眺めてから立ち上がった。それから体操服を抱えてドアの前まで歩いて行き、ふと何かを思い立ったように止まった。
「私、当分ここには来ないと思うの。だから先生のインスタ教えて」
「そんなものはやってない」
じゃあラインと彼女はスマホを差し出した。少し迷ったけど、あきらめて僕は彼女とラインで友達になった。友達と僕は思った。世界には色んな関係性がある。彼女は僕のラインを追加し終えると、特に何も言わずにドアを開けて理科準備室から出ていった。彼女の遠ざかっていく足音を聞いていると自分が一人取り残されているような気分になった。彼女は先に進み、僕はこの場所から一歩も動いていない。しかしそれの何が問題なのだろう。ここは僕の場所なのだ。どうして僕がでていかなければいけない? しかし彼女の言うようにあまり健康的ではないことは確かだった。
その日の夜、彼女からラインが届いた。「おやすみなさい」というたった一文だけだった。絵文字もなければ句読点もない。それが僕らのラインの友達としての最初のやり取りだった。僕は「おやすみ。」とだけ書いて送信した。すぐに既読はついたけど返信はなかった。『23:48』健康的な生活と僕は思った。
***
確かに彼女はあの日以来、理科準備室には来ていないようだった。何度か彼女の教室の前を通りかかると、友人たちとともに楽しそうに昼食を食べていた。安田先生が言うように彼女は同年代の同性に嫌われるようなタイプではないようだった。難しい年ごろだ。人間関係は膨張し続け、さらに複雑化する。それは彼女だけではない。周りは大小はあれどみんな同じような悩みを抱えている。だからこそ安定を求め、互いに寄り添いあう。それは大人にはできない役割で、互いの成長にとても重要な部分を担っている。僕はそういう関係から逃げだした人間だった。そんな人間が先生をやっているのはおかしな話だが、そんなおかしなことが起こりうるのだ。この人間社会では。
僕はそんなことを考えながらカビっぽい理科準備室を後にし、隣の理科室で午後の授業の準備をした。特にこれと言ってやることもないのだけど、こうして授業内容を一通り頭の中でシミュレートするのが癖になっていた。ここはこう教えて、こういう質問が来たらこう返そう。そんな風にシミュレーションをするが、質問が来ることなんてまずないし、授業をまともに聞いている人もクラスの半数ほどだった。ときどき自分が何のためにこの授業を行っているのかわからなくなる。誰もいない教室で終わりのない授業を永遠とする果てのない夢のような感覚。すべてを放り出してしまいたいけど、授業をしているとき僕の肉体は僕の管理下になかった。教科書と律義にまとめた授業用のノートに操られているマリオネット。僕はその様子をただ俯瞰していた。
教室ドアの前でポケットに入れていたスマホが震えた。安田先生からのラインだった。今週の土曜日にお昼を食べに行きませんかという内容だった。丁寧にお店のホームページのURLも貼られている。僕は「いいですね」とだけ打ちスマホをポケットにしまった。
「先生、何してるんですか? もしかして彼女さんとライン?」
からかうように教室に戻ってきた生徒に言われた。僕は軽く微笑み「そんなところかな」と返事をした。学校の先生をやっていると学生時代にはできなかった表情が色々できるようになる。意味深に笑ってみたり、怒ってみたり、真面目な表情をしたり。
***
安田さん(学校では安田先生、外では安田さんと呼ぶことにした)がランチに提案したお店は雰囲気の良いおしゃれなレストランだった。いつものように学校から離れていて、高校生が寄り付かなそうな場所。お昼時なのでお店の前には数人の列ができていた。どうやってこんな初めての食事にはぴったりですといった場所を見つけてくるのだろう。ここら辺には何度か来たことはあるけど、こんなお店は目に入らなかった。ググればでてくるのか、それともインスタで話題になっているのか。どちらにせよ僕には縁のない場所だったことに変わりはない。
「中島先生、中島さん、中島くん……呼び方、どれがいいですか?」
「どれでもいいですよ。好きに呼んでください」
彼女はうーんとくぼんだ頬に人差し指を当てながら少し考え、「じゃあ中島くんにします」と言った。同期だし、同い年だし。
「距離感難しいですよね。学校だと先生って呼んじゃうし、敬語になっちゃうから、こうして会うのはいつも変な感じがする」
僕はメニュー表を見ながらうなずいた。確かに変な感じがする。僕はパスタとパンを注文し彼女は小盛のパスタと同じく小盛のサラダを頼んだ。「ダイエットしてるんです」と彼女は何かやましいことでもあるかのように言った。僕は反射的に彼女の体形を眺めた。女性らしい線の柔らかい体形をしていた。別にダイエットするほどの体形なのかと思ったが何も言わなかった。僕は「過度なダイエットは危険です」と描かれたポスターが校舎内に貼ってあったなと思った。「あなたらしい体形でいよう」とも描いてあった。確かに彼女は痩せすぎだったと僕は中村由香のことを思い出した。
「休みの日は何をしてるんですか?」
「え、僕?」
「他に誰がいるんです?」
「確かに。小説を読んでるよ」
と当たり障りのない返事をした。嘘ではないけど本当でもなかった。実際は何をしているだろう。何も思い浮かばなかった。僕の世界には休日というものが存在していないのかもしれない。僕が「そっちは」と聞くと彼女は「私も小説読んだりしますよ」と答えた。それから何かを言うまでの猶予時間を作るようにサラダを少し口に運んだ。僕も彼女に倣ってパスタを口に入れた。ほんのりレモンの香りがして、僕はなぜかキャベツ畑を飛びまわるモンシロチョウをイメージした。きっと彼らが好む料理はこんな味なのだろう。
「私この前、恋人と別れたんです」
僕はパンをかじって彼女の次の言葉を待った。彼女は目の前のサラダにすっと目線を落とした。持っていたフォークをレタスに刺し、少し迷ってから口に運んだ。僕は間を埋めるために何か話そうかと思ったけど、思いつく言葉すべてが不適当な気がした。中村由香のときとは違い、明確な答えがあり、それを導きだすための沈黙だった。しかし僕には答えを見つけだすことはできなかった。答えが書いてある参考書を引っ張りだすところまではできる。しかしどこに答えが書いてあるのかわからなかった。見当はつく。でもページをめくって探している時間はない。だから僕は黙っていた。答えは彼女が持っている。
「アセクシャルって知ってます?」
僕はうなずく。彼女は小さく息を吐く。
「私、たぶんそれで」
「たぶん?」
「うん。そう……だって、経験がないから言い切れないし、それに、性欲はあるから」
うん、と僕は納得するようにうなずいた。僕が彼女に惹かれる理由がわかった気がした。それから僕は彼女にかけるべき言葉を探した。しかし上手く僕の思いや考えがをすっきり表現できる言葉が見つからなかった。僕も彼女もお互い同じ分だけ歳を取ってきたのだ。高校生や周りの同僚たちよりも価値観や考え方も近いはず。それなのに、いやだからこそ適切な言葉というものが見つからなかった。僕が思いつくようなことなんて彼女が考えていないはずがないのだから。
それから彼女は一つ一つ丁寧に自らの現状と考えを僕に打ち明けた。アセクシャルというのは他者に性的欲求を抱きにくいセクシュアリティであること。しかし自分には性欲があること。それは矛盾しているようで矛盾していないのだということ。他にも恋愛感情はあり、結婚願望もあるということなどを打ち明けた。こういうことって本当に近い人には話しづらいんです。
「こういうことって男の人はどう思うんでしょうか」
「こういうことっていうのは、安田さんが他者に性的欲求を抱かないってこと?」
「何だかわがままを言ってるみたいに思えて」
僕は曖昧に返事をして、コップに入った水を飲みほした。空になったコップを眺めながら性欲について考えた。目の前の彼女には性欲があって、僕にもそれはある。しかし僕らは食事が終わればそのまま解散する。僕は彼女を抱きたいだろうか。どうだろう。よくわかない。点と点を結ぶ線が絡まって、思考のあるべき地点への到達を拒んでいる。
「一般的に言って、不満を持つ人は多いのだと思う。男性にしろ、女性にしろ。ただ、そう思わない人もいる」
「私の彼氏はたぶん不満を持つ方の人だったんだと思う。そのせいでなんだかうまくいかなくて、別れることになった。大人になったら、もっと自然に恋愛とかできるようになるんだと思ってました」
僕はまた何も言わずにただ黙っていた。彼女は皿の上で器用にパスタを一口大に丸め口に運んだ。
「みんな色んなものを抱えて生きてるんですよ。大人になっても」
きりきりと脳から耳にかけてノイズが走った。断片的なイメージが差し込まれるような意図していない誤作動。何かが僕の正常な思考を妨げている。それに伴って中身のない吐き気を感じた。彼女の声が反響する。僕はあの暗くて埃っぽい理科準備室のことを想像した。人目につかずただひっそりと立ちすくむ人体模型、色あせた図鑑や参考書、生物としての原型を失いつつある標本。遠くで聞こえる音楽室の楽器の音やサッカーボールが跳ねる音。それらをひとつひとつ思い出していった。そしてそこには中村由香がいた。制服から白くて細い不健康な手足をのぞかせ、ぼんやりとここではないどこかを眺めている。
***
朝、出勤し職員室へ行くと、何やら騒がしく人だかりができていた。会議中と貼られたドアの前には困ったようにうろついている生徒と、ひそひそと小さな声で話す生徒がいた。中に入ると数人の先生が何やら神妙な面持ちで話し合っている。会話の中心にいるのは安田先生のようだった。まさかな、と思いつつ、ここで首を突っ込んで面倒ごとに巻き込まれるのはごめんだった。僕は自分の席に荷物を置き、それとなく話を聞いてみた。案の定、中村由香のことで話し合っているようだった。
今朝学校に、うちの学校の制服を着た女子生徒が男性と会っているのを目撃したという電話があったらしい。そしてその生徒が中村由香なのではないかということだった。写真などの確証はないが、うちの生徒の保護者からの電話で嘘を言っているとは考えにくいということだった。現在はその生徒が本当に中村由香なのかを論点として話し合っているようだった。
そこまで情報を把握すると僕は席を立ってトイレに向かった。そこで彼女に現状を知らせるためにラインを送った。この雰囲気ではもう学校中でうわさになっているだろう。僕は気の毒な少女を思ってため息をついた。しかし身から出た錆で、自業自得なのだ。いつかはこうなることが頭のいい彼女にわからないはずがなかった。むしろこうなることを望んでいたのではないかとさえ思う。彼女はこれから職員室に呼び出され、きっと保護者まで引っ張り出される。僕にできることは何もない。
***
「朝から散々な目にあいました。もう本当に死にたくなる」
中村由香は吐き捨てるように言って、こめかみを中指で抑えた。眉間にしわを寄せて何度もため息をついている。
「ねえ、いま、この状況を見られるのは非常にまずい」
「じゃあ、先生が出て行ってくださいよ」
「ここは僕の部屋だ。それに今日はやらなきゃいけないことがある。次の授業で使う小道具の準備だ。君の助言を聞いて、たまには理科室を使おうと思ってね。つまり君に出て行ってもらわないと困る」
「次の授業って私のクラスですよね。じゃあ少し早く着いたってことで」
「ねえ、君を邪魔もの扱いしたいわけじゃないんだよ。ほんとに、切実にそう思う。でも仕方がないんだ。僕だってこれの何が悪いんだって思うよ。でも仕方がないんだよ」
彼女の目にすっと影が落ちていくのが見えた。きっとさっきまでも同じような目をしていたのだろうと思った。色んなことをあきらめた目だ。その目は僕の胸を強く握る。僕の胸は掴まれた後の手の形をまるで紙粘土のように記憶する。苦しくて心地よい恋に似ていて非なるもの。彼女は大きくため息を吐いた。目の前のガラスケースが彼女の息で白く曇った。外は晴れているのに、ここは雨の日みたいに湿っていて、カビ臭く、触れるものすべてがべたついていた。
「何もかもが私にやさしくない」
彼女は手を握り、机を思いきり叩いた。積まれた本や机は鈍い音を立て、ガラスケースやそこにしまわれたビーカーなどがガシャンと甲高い音をあげた。彼女はもう一度机を叩いた。目には涙が浮かんでいた。手の痛みなど感じていないようだった。
「じゃあ、やさしい言葉をかけてあげようか。例えば、ずっとここに──」
「いらない」
「じゃあ、やさしい行為は?」
「いらない。本物のやさしさ以外いらない。何もいらない。何もいらない」
彼女はずっとうつむいていた。重力によって垂れ下がった髪が彼女が口を開くたびに一本一本意思を持っているかのように揺れた。いらない、いらない、何もいらないと、不完全なそれらは言った。
「誰かに恋をしたことはある?」
「ない」
「誰かを愛したことは?」
「ない」
彼女は言った。それから小さな声で「そんなの、あるわけない」と言った。その声は重力の強い星で放たれた弓矢のように僕の目の前に落ちた。この声を誰かが拾わなければいけないのだと、僕は足もとに転がるそれを眺めながら思った。そうしなければ彼女はそれを持って世界の果てへでも行ってしまうだろう。僕は一体何を迷っているのだろう。時間は止まっているようで、彼女の中ではしっかり動いている。一分一秒経つごとに彼女は遠ざかっていく。どうしてみんな僕のもとに大切なものを置いていくのだ。僕にどうしてほしいというのだ。
僕はあきらめて授業の準備に戻ろうとした。授業中に初めて動かして、動作しませんでしたなんてごめんだった。しかし手が全く動かなかった。やるべきことは命令として脳から出ている。それなのにその命令が上手く読み取れない。まるでピントが合わないみたいに。
めまいがする。誰かが彼女に対して責任を負わなければいけない。それは彼女の両親が負うべきもので、それが果たされないなら、彼女の親戚や担任、周りの大人が負うべきもの。僕はそこに含まれるのだろうか。含まれるに決まっている。じゃあ、一体いつ僕が大人になったというのだ。彼女と僕のどこに違いがあるというのだろう。僕はただ時間に背を押されてここにいるだけだ。彼女は、違う。彼女は僕と違い自ら選んでここにいる。
彼女は立ち上がった。それから僕を見た。真っすぐ、銃弾のように。
「最低」
そう僕に言い放ち、出て行った。彼女は泣いていた。その白と黒でできた一対の瞳は心が浮かばせ、透明な感情を零している。その瞳は僕を月光のように見透かしているのだろう。彼女の言うとおりだ。美しいと思った。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。やっぱり時間は動いていたのだと思った。この部屋だけが特別なわけじゃない。世界から守らているわけじゃない。僕はさっきまで彼女が座っていた椅子に腰を下ろした。まるで信号が途切れたみたいに胸より下に力が入らなかった。胸には彼女の言葉が刺さっていた。僕の自己防衛を否定するように真っすぐ。彼女に対して世界はこれと同じことをしてきたのだ。何度も何度も。彼女が自己防衛として取った行動を頭から否定して叩き壊した。そして僕が鎧がなくなった生身の体に銃弾を撃ち込んだのだ。
僕は立ち上がった。こんなことをしている場合ではない。僕は胸に刺さった言葉を勢いよく引き抜いた。傷口からどろっとした赤黒い血が溢れた。そんなものが一体何だというのだ。どうせ誰にも見えやしない。足を一歩踏み出すと何かにつまずいた。それは彼女が置いていった声だった。僕はそれを拾って走りだした。
彼女の教室に行き、扉を開け室内を見渡した。彼女の姿はない。入口の近くに座っていた生徒に聞くと「見てない」と言った。僕は礼を言い教室を後にした。
こんなとき彼女が行きそうな場所はどこだろう。屋上? あそこは鍵がかけられている。じゃあトイレだろうか。でもどこの? この狭い県立の高校でも10個近く女子トイレはある。でも僕はそこに入る権利がない。そもそも彼女はそんな場所で泣くだろうか。彼女はこの校舎内に居場所がないのだ。理科準備室を除けば。なら、すれ違ったのかもしれないと思い、僕はまた理科室へ駆け戻った。しかしそこに彼女の姿はなかった。ちらほらと授業のために移動してきた生徒がいるだけだった。彼らに中村由香を見なかったかと聞いた。答えは同じだった。「見てない。今日はずっと見てない」僕は揺れる肩を落ちつかせながら、ポケットからスマホを取り出した。指先が震え上手く操作できなかった。何とか電話をかけることができたが、彼女は出なかった。
『どこにいる?』
『話がしたい』
と僕は彼女にラインを送った。すぐに既読はついた。しかし返事はなかった。
『明日の昼休み、理科準備室で待ってる』
授業開始のチャイムが鳴った。
***
翌朝、僕は安田先生に中村由香についてそれとなく聞いた。彼女はやっかいごとを吐き出すみたいにため息をついてから「とりあえず様子を見ます」と言った。彼女は左手の親指で右手の爪をひとつひとつ撫でていった。穢れを払う儀式のように。
「昨日はあのあと帰ったんですか。確か昼休みは見かけた気がするけど」
「みたいです。荷物も置きっぱなしで。今日もさっき本人から休むって連絡がありました」
「そう」
僕は彼女に礼を言って、職員室を後にした。彼女の声が聞けたという事実は僕を安心させた。僕は彼女とのラインのトークルームを開いた。昨日と何も変わらない。僕からの不在着信と既読がつけられた多くの告白のようなメッセージ。彼女を明日まで繋ぎとめておく正しい方法を何ひとつ思い浮かばなかった。だから僕は彼女に明け方までずっと自分のことを語り続けた。どこに生まれて、どの学校を卒業した。両親は、友達はのようなことだ。どれもありきたりでつまらないものだった。それも尽きると僕は彼女に対する思いを語った。一方的に僕が彼女をどう思っているのかだ。見返すとそれは不器用な中学生が書いたラブレターのように見えた。
君はわがままで傲慢で痩せすぎている。それに不健康なほど白い。でもそれらは君の美しさの一部だ。不完全で弱く脆く儚い。そんな君が僕は好きで、これから誰かに恋をして、ありきたりで、どこにでもいるような、バカな大学生になっていくことを嬉しくも悲しくも思う。云々。
午前中の授業を終えて僕は急いで理科準備室へ向かう。こんなときに限って生徒数人が授業後に質問しに来た。どれも授業を聞いていればわかるようなものだったが、職業上そう言って突き放すことはできなかった。それから別棟に向かう渡り廊下で安田先生に話しかけられた。しかし話は半分以上理解できなかった。もしこの間に中村由香が帰ってしまったらと思うと気が気でなかった。彼女との話を適当に済ませ、僕は理科準備室へ急いだ。
ドアを開けるとそこには誰もいなかった。昨日彼女が座っていた椅子がそのままの状態で置かれており、空気は埃っぽく淀んでいた。僕は彼女は来なかったのだと、机に寄りかかりながら思った。目の前には色あせた元素周期表があり、何かのしるしのように人体模型が立たずんでいる。何が入っているかわからない段ボールとその横には丸められたポスターがある。僕は実家の自室を思い出した。引っ越しの際に必要なものは根こそぎ持っていかれ、必要のないものだけが取り残されている。過去の憧憬や涙が埃に積もられながら健気にその部屋を守っている。
僕は大きな喪失感に襲われた。僕の大切なものが知らないうちに彼女のもとに渡っていた。彼女はそれを持ってどこかへ行ってしまった。僕はこれからどうすればよいのだろう。心に大きな穴が開いている。人体模型すらも僕に同情して泣いているように思えた。誰かが泣いている声が聞こえるようだった。泣いている? 僕は耳を澄ました。確かに聞こえる。現実で、この部屋のどこかで、誰かが泣いている。
僕は音の聞こえる方へ行った。そこは理科室を掃除する際に使われるほうきやちりとりが入っているロッカーだった。僕はそのドアに手をかけた。ゆっくり錆びた金具がきしむ音を立て、ドアが開いた。そこには中村由香がいた。
彼女は泣いていた。僕は彼女をそこから出して、椅子に座らせた。どうしてそんなところにいるのか聞いた。しかし彼女は泣いているだけで何も言わなかった。僕は彼女の頭は服についたほこりを取りながら彼女が口を開くのを待った。埃を取り終えると理科室へ椅子を取りに行った。
彼女に触れたとき、彼女が実際に存在していることを初めて認識したような気がした。触れなければホログラムかどうかの区別すらつかない瞳だ。そのままくりぬいて彼女に差し出したかったけどそんなことをしたって意味がない。僕は彼女に触れてその異様に痩せた肉体を初めて認識した。一体何が彼女をこんな姿にするのだろう。
「私、今日誕生日なの。それなのに、どうしてこんな目に合わなきゃいけないの。私が何をしたっていうの。どうしてこんなに惨めな……」
「ねえ、どうしてあんなところにいたの。泣いてたってわからないよ」
「先生まで私に泣くなって言うの」
「違う。説明してほしいだけだよ」
「あの人が来たの」
「あの人?」
「そう、あの人。最初は先生かと思ったの。だってそうでしょ。ここには誰も来ないって。でも何かかが違くて、足音とか雰囲気が。それで私とっさにロッカーに隠れたの」
彼女は何度もしゃくりあげながら言った。堰が切れたようにぽろぽろと涙が零れた。それは彼女の手を濡らし、彼女の黒い制服に染みこんでいった。
「それで?」
「あの人、先生の名前を呼んでた。中島くんって」
安田先生だ。さっき会ったとき僕に「見つけた」と言っていた。昼休み、職員室にいなければ僕はここにいる。彼女は泣きながら気持ち悪そうに何度か嗚咽した。僕が手を差し伸べると、彼女はそれを強く払いのけた。
「触らないで。お願いだから。触らないで。私に、触らないで」
「触らないよ」
「目も閉じて」
僕は言われたとおりに目を閉じた。彼女の荒い息づかいが鮮明に聞こえるようになった。まるで自分自身の内側で呼吸しているみたいだった。彼女に払いのけられた左手が痛んだ。あの細い腕のどこにこんな力があるのだろうと思った。しかしあんな白くて細い腕にも生きているだけの力はある。彼女だけだ。僕を傷つけるのは。
「ラインで言ってたことは本当? 私をおだてるための噓?」
ほんとう? それともうそ?
「本当だよ。全部」
「じゃあ私に殺されても文句は言わない」
「そんなことを言った覚えはないけど」
目を閉じたまま僕は言った。
「それが君自身のためになるのなら、全部やればいいんだよ。パパ活だろうが、売春だろうが、殺人だろうが。だってそうするしかないんだ。だったらやるしかない。誰かにとやかく言われるのはそのあとなんだ。気にしなくていい。いつか誰かが、君と一緒にその責任を背負ってくれるよ。そして僕は君に殺されて無責任な死体になる」
「無責任な人」
「でも君に対して、死体なりに責任を取ろうとしてる」
「じゃあ、私と一緒に死んでくれる」
彼女が僕の目の前に立つ気配がした。ふわりと空気が動いて、彼女のにおいがした。水のような色のない匂いだった。たぶんずっと泣いているからだと思った。
「生きることって死ぬことなの。それをわかってない人が多すぎる。そんな人たちが学校の先生をやってる。死が近づいているんじゃない。人は生きてるだけで少しずつ死んでいくの。細胞が死に置き換わっていく。私はそれに時には身を任せて、時には抗ってるだけ。それの何が悪いの」
僕は目を開けて彼女を見た。彼女はやっぱり泣いていた。真っ黒な瞳から涙がこぼれて頬にいくつもの筋を描いていた。僕はその姿を見て胸が強く締め付けられた。何が僕の胸を締め付けるのだろう。彼女の若さだろうか、それとも美しさか、それとも脆さ、儚さだろうか。
「君を見ていると初恋を思い出す」
「先生の初恋も泣いていたの」
「いいや、泣いてない。泣けなかったんだ。でもいま泣いてる」
「ねえ、どう責任を取ってくれるんですか」
彼女は僕を見下ろしながら言った。僕は立ち上がり彼女を見た。彼女は思ったよりも背が小さく奇妙な感覚がした。僕は彼女の頬に触れ、涙の跡をぬぐった。
「とことん付き合うよ」
「何に」
「泣くんでしょ。付き合うよ。君が泣く必要がなくなるまで」
彼女は僕に正面から寄りかかるようにして体を預けた。僕は彼女の体を支えながら、まずいなと思った。理科室へ生徒が入ってくる気配がした。授業変更でこの時間は一年生の化学のクラスが理科室を使うことになっていることを忘れていた。しかしそれが一体何だというのだろう。
「抱きしめて」
僕は彼女の背中に手を回した。彼女も同じように僕の腰あたりに手を回した。僕のシャツに鼻を押しつけて彼女は声を出して泣いた。
「私、一時間くらい泣くから。この程度で許すなんて思わないでください。私、本当に傷ついたんだから」
「わかってる。本当にごめん」
「私、誰かにちゃんと謝られるのって、初めてです。こんな気持ちになるんですね」
「うん」
僕は自分より10個近く年下の彼女の体を抱きしめながら、自分の心の所在を感じることができた。それは冬の木々のように白く細く痩せていた。それを一人の少女が見つめている。少女は酷く痩せていて、雪のように肌が白い。彼女は寄りかかるようにしてそこに腰を下ろした。そして少しばかり泣いて、そのまま眠ってしまった。ずっとここにいればいいと僕はつぶやいた。
しろくやせてこころ 小さな炭酸 @niko2_5_
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