◆第3話:傷ついた魂◆

ニューヨーク・シンフォニカの音楽ホールは、どこか冷え切った空気に包まれていた。


レオナルド・ヴァレンティーノが新たな指揮者として就任してから数日が経った。しかし、団員たちの動揺は収まらず、音楽もぎこちない。まるで不協和音が見えない壁となって、ホール全体に広がっているようだった。


「どうしたらいいの……」


ホールの片隅で、ダリア・フォスターはひとり苦悩していた。父の死から立ち直れないまま、オーケストラを支えなければならないという重責が、彼女の心を押しつぶしていた。


「父さんなら、どうしてた……?」


幼い頃から見てきた父の背中が、鮮やかに蘇る。指揮台に立ち、迷いなくタクトを振る姿。あの大きな手。あたたかい声。しかし、その記憶が今は痛みとなり、胸を締めつける。


「レオナルドがいる限り、このままじゃバラバラになる……」


その時、廊下の向こうから、低く囁く声が聞こえてきた。


「やっぱり噂は本当か……」

「レオナルドがかつて自分の楽団を崩壊させたって……」


ダリアは思わず耳を澄ませる。団員たちの間に広がる不信感。レオナルドの冷徹な態度、その裏にある真実が、徐々に形を帯びてくる。


彼は何を隠しているのか。


その夜、静まり返ったホールに、一人佇むレオナルドの姿があった。暗闇に溶け込むように立つ彼の背中には、昼間の冷たい威圧感とは異なる影が落ちている。


「どうしてあなたは……そんなに冷たく振る舞うの?」


ダリアが恐る恐る声をかける。レオナルドは答えない。ただ、沈黙だけが空間を支配する。


「あなたがどれだけ天才でも、孤独な音楽には誰もついてこない。音楽って……一人で奏でるものじゃないでしょ?」


微かな響きを持つその言葉に、レオナルドの瞳がわずかに揺らぐ。だが、それはほんの一瞬のことだった。


「……わかっている。だが、音楽を信じれば信じるほど、人は裏切るんだ」


静かに紡がれたその言葉には、深い傷が滲んでいた。


ダリアはその痛みに触れようと、一歩近づく。


「それでも——」


しかし、レオナルドは視線を逸らした。


「人間なんて信じるな。音楽だけが真実だ。それだけだ」


鋭く突き刺さるような声。だが、その奥底には、どうしようもない孤独が滲んでいた。


ダリアは彼の背中を見つめながら、音楽にかける情熱の裏にある深い闇を感じていた。


この男は、何を失い、何を守ろうとしているのか——


それを知るには、まだ時間が必要だった。

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