暁のダイヤモンド—摩天楼に響く最後の旋律—

Algo Lighter アルゴライター

◆第1話:失われた旋律◆

摩天楼の夜空に、鋭く突き刺さる冬の風が吹き抜ける。ネオンの光も届かぬ薄闇の中、ニューヨーク・シンフォニカの音楽ホールは静寂に包まれていた。かつて華やかな旋律が響き渡り、音楽の都を彩ったこの場所も、今では忘れ去られた遺跡のように冷え切っている。


ホールの中央に、一人の女性が佇んでいた。ダリア・フォスター——彼女は埃をかぶった指揮台を見つめている。指先が震え、そっと胸元を押さえた。


父、ジョナサン・フォスターが指揮棒を振る姿が鮮やかに蘇る。


——あの日、あの瞬間、ホールに響いていた旋律は、今や無音の世界に呑み込まれてしまった。


「どうして……父さん……」


小さく呟いた声は、虚しく闇に吸い込まれる。喉の奥が苦しく、胸を締め付けられるような喪失感が全身を貫いた。あの輝かしい日々が、指の隙間からこぼれ落ちる砂のように消えていく。


ジョナサンがこの世を去ってから、わずか数ヶ月。偉大な指揮者の死は、オーケストラを容赦なく崩壊へと導いた。スポンサーは撤退し、団員たちは散り散りになり、何より——音楽が、消えた。


父の魂と共に、旋律さえも死んでしまったのだろうか。


涙すらこぼせず、ただ呆然と立ち尽くすダリア。その時、ホールの静寂を破る足音が響いた。


「……ここで泣いていても、音楽は戻らない」


低く静かな声が、闇の中に漂う残響のようにホールに響く。彼女が振り返ると、黒いロングコートをまとった一人の青年がそこに立っていた。


「誰……?」


「レオナルド・ヴァレンティーノ。今日からこのオーケストラを率いる者だ」


その名を聞いた瞬間、ダリアの瞳が驚きに見開かれる。天才バイオリニスト——レオナルド・ヴァレンティーノ。その名は音楽界に燦然と輝き、孤高の天才と称されていた。


「どうして、あなたが……?」


「廃れたオーケストラを再建しろと命じられただけだ。興味はないが」


冷ややかな口調。まるでホールの冷たい空気をそのまま纏ったかのような声だった。彼の鋭い瞳がホールを見回す。その奥には、諦めとも憂いともつかぬ影が宿っていた。


「……音楽を愛していないのなら、帰って。ここは父の場所よ」


ダリアの言葉に、レオナルドは静かに瞳を細めた。


「音楽を愛していない? そんなものは、とっくに捨てた」


「捨てた……?」


「音楽なんて、所詮は幻だ。いずれ消えるものに何を縋る?」


その冷淡な言葉に、ダリアの中で何かが弾けた。


「幻だなんて……そんなこと、私は信じない!」


震える声で叫ぶ。レオナルドは無言でバイオリンケースを開け、ゆっくりと楽器を取り出した。そして、静かに弓を弦に当てる。


次の瞬間——燃えるような音色がホールに満ちた。


それは激情の旋律。悲しみと憤り、そして救いを拒む孤独が混ざり合った音だった。音楽を捨てたと嘯く男が奏でるその旋律は、まるで彼の心の叫びそのもののように、ダリアの胸に突き刺さった。


ホールの冷たい空気が震え、かつての輝きが一瞬だけ蘇る。


やがて、レオナルドは弓を静かに下ろし、バイオリンをしまった。


「音楽は、残酷だろう? だが、これが現実だ」


レオナルドの背中を見つめながら、ダリアは自分の心が強く揺さぶられていることに気づいた。


音楽を捨てたはずの男が紡ぐ旋律——それは、彼の孤独そのものだった。


この男は何を失い、何を捨て、それでもなお音を紡いでいるのか。


ダリアの中で、消えかけていた炎が再び灯り始めていた。


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