第2話 懐かしい曲

誰もいない我が家は乾いていて、自分の居場所ではないように感じた。

妻と子が出かけてしまい、出社の用意をする。

昨夜が深夜まで続いたせいで、少しだけ遅めの出勤が許されている。

昨夜、家事をしてから寝てしまったため、今日の分のスーツを用意するのを忘れていた。

ぼんやりした思考のままクローゼットに向かう。

扉を開ける前から危険なことはわかっていた。

内容物が今にも溢れ出しそうな緊張感を扉が保っている。

しかし、開けないわけにもいかずゆっくりと取っ手を引いた。

たたまれてもいない洋服が溢れ出してくる。

さすがにたたむ余裕がないが、なるべく綺麗に脇に寄せて今日着る分のセットを選ぶ。

習慣となっているので、思考することなどほとんどないが、

たまに我に帰ってしまう。

そうしたとき、自分はどこにいるのだろう。何をしているのだろうと行動が止まってしまう。

子どものときに出かけた森のある公園が思い出される。

意味もなく、体力の限り走り回る。

楽しそうなのっぺらぼうの両親。

顔のない母が私の名前を呼ぶーーー「たかゆきーーー」

私は、服の散乱したクローゼットの前に立っていた。

無意識に緩くなった結婚指輪をいじっている。

簡単に外れてしまうそれは全く自分の馴染むことがなく、幸せを象徴するものではない。

不意に指をすり抜けた指輪がクローゼットの中に転がっていく。

床に這いつくばってそれを探す。

しばらく使われた痕跡のないコンドームが埃をかぶっている。

その向こうに銀色の物体がある。

怪訝に思うが、指輪のすぐ隣に転がっていたので、一緒に救い出す。

私が学生時代に使っていた携帯音楽プレーヤーだった。

有線のイヤホンをぐるぐると巻いたそれはスマートフォンよりも大きく、懐かしかった。

特に意識したわけではないが、携帯音楽プレーヤーをスーツのポケットにしまい、出勤した。


「井上さん、それいまだに使ってるんですか」

昼休みにも関わらず仕事の終わらない私の元に同僚の加賀が近寄ってくる。

朝見つけた携帯音楽プレーヤーはデスクで充電されていたのだ。

「まだ動くんすか」

さほど歳の変わらない加賀も懐かしいようで、断りもなく弄び始めている。

「さっき電源がついたところだよ、これから試聴」

そう言って手に持っていた3.5mmジャックのイヤホンをちらつかせる。

「懐いっすね、有線」

それだけ言うと加賀は若い女性社員を追って去っていく。

私は、それとなくその女性社員のスーツの尻部分を眺めている。

いつからかはもう覚えていないが、女性の後ろ姿を見るたびにその臀部に下着の痕跡が浮かび上がらないかを見つめるようになっていた。

バレていないつもりでも、女性からはわかるものだと聞くが責められた経験もなく、視界から消えるまで眺めている。


帰路。またしても私の視線は女性の揺れ動く臀部に注がれていた。

いつもこの感情は性欲なのかと自分に問うが明確な回答が出たことがない。

あの尻をどうしたいと言うこともなく、見ているだけなのだから。

会社で充電した携帯音楽プレーヤーを起動させる。

保存されている曲たちは、中学から大学に入る頃に聞いていたものだった。

再生するとイヤホンから問題なく曲が流れる。

当時はやったヒップホップは意外と歌詞を覚えているもので声にならない声で口ずさむことができた。

曲調も相まって、歩調が早まる。聞いていた当時の体に戻ったようでもある。

あの蓄積していた疲労を束の間忘れ、前を歩く女性を追い越していた。

その女性が、追い越し際に大きく私を避けた。

小さく時が止まった。なぜだろう。私が何かしたのか。

君に何かをしたのか。俺は真っ当に生きているのだ。

なんで妻に蔑ろにされて、可愛くもないお前にまで避けられるのか。

何もなかったはずの負の感情の火が灯った。

一瞬にして強烈に駆け巡り、妄想の中で追い抜いた女を殴りつけるすんでまで進んでいた。

現実は、女性はすでにおらず、立ち止まった私が帰宅途中のサラリーマンたちの邪魔になっているだけだった。


懐かしい曲は、一曲ループになっていて、またイントロが流れ出していた。



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見えない夜 @tomo_kura

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