walk-off

sorarion914

九回裏、二死満塁

 あの夢を見たのは、これで9回目だった。




 夢の初回。

 僕は長い坂道を走っていた。


 皺だらけのスーツを着て、埃だらけの革靴を履き、ネクタイを風にはためかせながら、息も絶え絶えに走っていた。

 とにかくひたすら走っていて――目が覚めた。



 2回目も、やはり僕は走っていた。


 どこまでも続く真っ直ぐな道を、やはりヨレヨレのスーツに汚れた革靴、クタクタのネクタイを風になびかせながら、必死の形相で走っていた。

 まるで何かに追い立てられるように――そこで目が覚める。


 やたらと疲れる夢に、さては日頃のストレスか?と首を傾げたが、そんなに追い込まれるほど重要な仕事を任されているわけではないし……

 呑気を絵にかいたような男だと言われるくらい、ストレスをあまり感じたことがない。


 変な夢だな――と思いつつも、あまり気にはしていなかったが……



 さすがに、その後3回4回と、同じような状況で走っている夢を見て些か気味が悪くなった。


 なぜ自分はいつも、あんなに必死に走っているのだろう?

 そして、どこに向かって走っているのだろう?


 走るという行動は変わらないのに、景色は見るたびに変わっていた。

 最初は坂道。

 次は遊歩道のような真っ直ぐな道。


 どこかの交差点。

 駅の改札口。


 見覚えのある景色もあるが、そうでない景色もある。

 全てが繋がっているのかどうかは分からないが、とにかく走っているのだ。



 7回目の夢を見た時。

 初めて真夏のような照りつける日差しを感じた。

 くたびれたスーツ姿の自分が、大量の汗をかきながら、それでも走るのを止めずに口の中で何かを呟いていた。



 8回目の夢で、その呟きが聞こえた。



「急がなきゃ……急がなきゃ……






「な?変な夢だろう?」

 僕がそう言うと、華乃子かのこさんは笑った。

けいさん、お疲れなんじゃありません?そんなに疲れる夢を見るなんて」


 いつも行く喫茶店の、いつものカウンター席で、僕は店主である華乃子さんに今まで見た夢の話を聞かせた。


「最初は逃げているのかと思ったけど、どうやら遅刻しそうになって慌てているみたいなんだ」

「大事な約束を忘れているんじゃなくて?」

「そんな約束なんて――」


 僕はそう言って膨れてみせたが、内心少し焦っていた。

 正式に交わした訳ではないが、話の流れで軽く交わした口約束なら覚えている。


『俺がもっと出世したら、華乃子さん俺と結婚してくれよ』


 華乃子さんは「あら楽しみね。待ってるわ」と笑った。

 笑うと、白くふっくらとした頬に片えくぼが出来る。

 30を過ぎてはいるが、どこか可愛らしくて品のある女性だった。

 自分の方が10は上なのに、彼女の前ではまるで子供のようになってしまう。


 僕は気まずさを隠すようにコーヒーを啜りながら、

「一体俺はどこに行こうとしているんだろう?」

 と呟いた。

 すると、隣の席に座っていたもう1人の常連客、民男たみおさんが「あの世に行こうとしているんじゃないか?」と、縁起でもないことを言った。

 既に会社をリタイヤした70近い爺様だが、余程やることがないのか、毎日のように店に入り浸っている。


「いやだ、民さん。怖い事言わないでよ」

 華乃子さんが眉間を寄せてたしなめた。

「だってさ。圭さん、アンタも40過ぎたら少しは体に気を付けないと。不摂生はいけないぜ」

「別にいいさ、どうなっても。どうせ出世する見込みなんてないし……若手に抜かれてばっかりだ」

「アンタ今の仕事向いてないんだよ。華乃ちゃんと一緒に、この店やればいいじゃない」

「そんな――」


 僕はそう言って、華乃子さんを見た。

 彼女と一瞬目が合ったが、華乃子さんは黙って俯くと、そのまま――何かを取りに行く振りをしてカウンターの裏へ姿を消した。



(今更プロポーズなんてできない……)



 既に出世を諦めた自分を見て、きっと彼女も諦めている。

 いやきっと呆れているに違いない。


 こんな不甲斐ない男を、彼女が選ぶわけがない。


「俺なんかより、彼女にはもっと相応しい人がいるよ」

 そんな僕に、民男さんが舌打ちした。

「アンタ、女心、分かってねぇな……」




 そんな話をしてから、ひと月後。

 僕は久々に華乃子さんの店に来た。

 しかし、いつもなら開いている時間なのに、店のドアには《close》の札が出ている。


「あれ?今日って定休日だったかな?」


 僕は首を傾げた。

 外回りを終えて会社へ帰る前に、一息つこうと思っていたのだが……

 準備中なのかと中を少し覗いてみたが、店内は暗く、ひと気はない。

 店の前で、ウロウロしていた僕の姿を見つけて、民男さんが近づいてきた。


「華乃ちゃん、店閉めるってさ」

「え?」

 ゆっくりと近づいてくる民男さんが、僕の目を見ながら言った。

「もう一週間前から実家に戻ってる。結婚するんだってよ」

「――」


 その言葉に、僕は棒立ちになった。


「ちょっと前から、親に見合いを勧められてた。ずっと迷ってたみたいだったけど、ようやく決心がついたんだろうな」

「……」

が煮え切らないばっかりによ……可哀そうに」

「そんな話、初めて聞いた……」

「口止めされてたんだよ。圭さんには言ってくれるなってな。ただの口約束でも、あの子は本気にしてたんだぜ?」

「でも……俺には華乃子さんを幸せにする自信がない。こんな――先が知れてる40過ぎのオッサンなんて――彼女にはもっと相応しい人がいるはずだ。若くてもっと可能性のある」

「アンタ本当に女心が分かってねぇな」


 民男さんは首を振ると、ポケットから一枚のメモ用紙を取り出した。


「アンタが今日ここに来るのは賭けだった。でも華乃ちゃんはそれに賭けたんだな。俺に託してくれたよ。これが最後のチャンスだぞ。アンタにはもう後がない」


 そう言って渡されたメモには、住所と地図が添えられていた。


「時間は14時だ。急げばまだ間に合う」

「でもそんな事――」

「諦めるのか?彼女は待っているんだぞ。アンタの事を!」




 その言葉に――




 僕は弾かれたように駆け出した。




(バカ野郎!!お前は一体なにをやっているんだ!!)





 ――あの夢を見たのは、これで9回目だった。


 9回目の夢の中で、僕は叫んでいた。

「バカ野郎!!お前は一体なにをやっているんだ!!」

 そして走り出す。



「急げよ!」

 背後から民男さんの声が飛んできた。

 僕が落とした鞄を大事そうに抱えながら、大声で手を振る。

「諦めるな!」


 僕は走った。

 彼女の生まれた町へ行くために、最寄り駅までひた走る。


「急がなきゃ……急がなきゃ……


 無意識にそう呟いていた。

 頭上には7月の太陽が、容赦なく照りつけてくる。

 そんな中を、スーツ姿でネクタイをなびかせながら、必死の形相で走るサラリーマンに、道行く人がみな驚いて視線を向ける。

 それでも、僕は足を止めなかった。


 急行電車に飛び乗るが、まるで鈍行のように感じた

 逸る気持ちを抑えながら、目的地の駅に着くや否や改札を通り抜け、見知らぬ駅前の交差点を赤信号スレスレで駆け抜けた。


 タクシー乗り場でタクシーを拾う。

「この場所にお願いします!」

 メモに書かれた住所を提示すると、車は動き出した。

 しかし――

 数分走ったところで渋滞にはまる。

「事故みたいですねぇ……目的地まで、あと少しなんですけど」

「じゃあここで降ります!」


 僕は河川敷の横で下車すると、真っ直ぐな遊歩道を走った。

 途中、ランニング中の人とすれ違ったが、みな一様に驚いた顔をしていた。

 スーツに革靴で遊歩道を走る男が、余程珍しかったのだろう。

 しかも、汗まみれで。


 でも僕はそんな視線などお構いなく、目的の高台に目を向けた。


 教会の尖塔が見えた。

(あそこだ!)



 僕は走った。

 会社に遅刻しそうな時だって、こんなに真剣に走ったことはない。

 遅れた言い訳を考えながら、呑気に歩いていただけだった。

 いつだって言い訳ばかりで、逃げていた自分。



(でも今は違うぞ)



 僕は、息も絶え絶えに走り続けた。

 スーツの下は汗でびしょ濡れ。革靴の底が滑って転びそうだった。

 ……ツラくて立ち止まりたい。

 けれど、ずっと自分を待っていた彼女は、もっとツラい思いをしていただろう。


 いつも愚痴ばかりの自分を励ましてくれたり、時には叱ってくれたり。

 こんな情けない自分に、本気になってくれるなんて思っていなかった。

 あんな口約束を信じて待つなんて……

 

 式の時間と場所を民男さんに託したのは、彼女なりの賭け。

 そのチャンスを、無駄になどするものか!!




 教会へ続く、長い坂道の下で立ち止まる。

「この坂道……」

 見上げて僕は息をついた。


 野球は追い込まれてからの方が面白いと、よく父が口にしていた。

 九回裏、二死満塁。


 追い込まれた今の僕に――迷いはもうなかった。





 僕は大きく息を吸い込むと、死ぬ気で坂道を駆け上がった。





 (そうさ……)






 諦めるのは、まだ早い。






【完】





※(´_ゝ`)最後までお読みいただき誠にありがとうございます。

     感想など聞かせて頂けましたら実にありがたいです。

     今後の執筆活動の励みにもなります。

     

     

    

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