第8話 四字熟語

「ナミダグモ?なにそれ小雨とは違うの?」

「違いますよ。人が涙ぐんでいる状態の名称です。『涙雲』」

「へぇ。じゃあ『もぐらたたき』」

「『木苺』」

「それはいちごとなにが違うの?」

「ストロベリーとラズベリーの違いですね」

「へぇ。じゃあ『りんごがり』」

「綾瀬さん、ラズベリーに引っ張られないでください。『り』じゃなくて木苺の『ご』です」

 そして『りんご狩り』がアリなのかはグレーゾーンだ――普通にアリで良い気がする。

「あそっか、じゃあ『ごみひろい』」

 これもグレーゾーン――普通にアリか。

「『西表山猫』」

 白熱していたしりとりが約二時間が経過した時、この人物は登場した。

 電車にはもう僕たちの他に乗客はおらず、しりとりの途中で挟まれるかなり頭の悪そうな会話も恥ずかしく無くなってきた頃。戰山駅の一つ前の駅、擾山駅で『彼』は乗車した。

 この暑い日にスーツを崩さずに着用し、そのハンサムな顔に薄い笑みを浮かべる彼はすでに何か異質なものを感じさせた。

 アナウンスが鳴る中、二人で並んで座っていた僕の隣に、『彼』は座る。

 流石の綾瀬さんでもこれには顔を強張らせた。

 僕たちの他に誰もいない車内で、僕の隣をわざわざ選んで座ることは、少なくとも普通ではなかった。

 『彼』の奇行にしりとりは中断され、アナウンスも止み、車内はしんと静まり返る。

 しかしその静寂も『彼』によって壊された。

「どうされました?しりとりを続けてくださいよ。終わるまで待ちますから」彼は宙を見つめて呟くように言った。

 この状況でしりとりを続けられる図太い人間は日本には存在しない。

「じゃあ、『こわれかけのラジオ』」

――どうやらここは日本ではないらしい。

「ははは『壊れかけのradio』ですか、若いのに、随分懐かしい曲をご存知ですね。次は私ですね、では『女遊び』」

 続けろと言われて続ける方も、続けさせて割り込む方も、どっちもおかしいと思うのだが、それを指摘しても三体二、数的不利である。僕はあからさまな苦笑いを作ることだけで我慢した。

「ああ失礼」『彼』は手を芝居掛かったように合わせる。「どうぞ続けてください」

 なんだこいつ。

「なにか、僕たちに用があるんですか?」耐えきれず僕は聞いた。「もうすぐ目的地に到着しまいますので、なるはやでよろしくお願いします」

「戰山駅まではまだ三十分くらいかかりますけどね、まあ良い頃合いでしょう。尺を長引かせすぎるのは読者を飽かします」

 僕と綾瀬さんは黙る。

 僕たちは戰山へ行くなんて一言も言っていない。

「いえいえ、そんなに感心するものでもないですよ。終点までは荒山と戰山しかないので二分の一の確率で当たります。そして荒山はなんで電車が止まるのかもわからないただの山ですので戰山に絞られます。と言っても、戰山にも『毘沙門』しかありませんけどね」

 この人は普通ではない。

「すごいですね」僕は間を埋めるために思ってもないことを言った。

「だから別にすごくないですって、どうせあなたは、心の底では私を蔑んでいることでしょう。あなたはそういう人間です。正直に言ってみてくださいよ」卑屈な発言だが、彼の顔には自信がうかがえた。

「正直に?」僕は聞く。

「ええ、正直に」

 いいんだよな。正直に言っても。失礼だとか気にせずに。

「二分の一の確率で僕たちの目的地を当てたぐらいで、まるで名探偵が自分の推理をひけらかすかのように振る舞えるのは一種の才能だなと思いました」

 言ってしまったという後悔より、言ってやったという高揚感が湧いたが、それも一瞬にして体から枯渇する。

「ははは、知ってましたよ、あなたがそう考えているのは。けれども残念ながら、私は名探偵ではない。それはむしろあなたに似合う『役』です。私はそんな危ういキャラクターではなく、もっと安全で醜い、そしてつまらない、売れないライターですよ」

 『彼』は笑みを崩すことなくそう言った。

「はい?」

 饒舌な『彼』の前では、僕からは二文字しか絞り出せない。

「ゴーストライター。それが私の『役』です」

 『役』とか『キャラクター』とか、この人は漫画と現実の境目がわからなくなった可哀想な人間かも知れない。こういう人間は怒らせると面倒臭いことになりそうなので、僕はもう失礼なことは言わないと心に決めた。

「書き物をなさっているのですか?」なるべく明るい口調を作る。

「その通りです。私の職業は小説執筆の代行ですよ」僕の表情の変化など『彼』には影響を持たない。

「へぇ、珍しい。どんなものを書くんですか。読んでみたいものですね」早く会話を終わらせたいという本心とは裏腹に会話は盛り上がってしまう。

「いやいや糸巻さん、それではゴーストライターでなくなってしまいますよ。語るのが職業であるのに、その職業上自分の職業について語ることはできないのが辛いところですね」言って『彼』は、これまた芝居掛かったのうに天を仰ぐ。

「辛いんですか、それは気の毒です――僕の名前を知っているんですね」スルーしようとも考えたが、疑問が勝手に口から出てしまった。

「そうですよ。ライターとして当然のことです。登場人物の名前を忘れるなんて、自身の趣味と罪にかまけて我が子を放置するようなものですよ。そういえば、私はまだ名乗っていませんでしたね。私の名前は風光明媚。学がないあなたでも書ける簡単な四字熟語です」

「風光明媚?本名ですか」

 父親を貶されても僕にはダメージがないので、これにはスルーができた。

 しかし風光明媚か。『彼』には意味不明とか有耶無耶とか魑魅魍魎とか都市伝説の方が相応しく思えるけれど。

「ご想像にお任せします。時に謎は、明かさない方が美しく輝くというものですよ。ところで糸巻さん、主人公として、あなたは今回の旅をどのように考えていますか?」

「は?」

 今度はついに一文字だ。もうそろそろ危うい。

 今この人は僕を主人公と呼んだか?まさか僕を主人公にした小説を書くつもりなのだろうか。

 僕の生い立ちや今後の旅の展開は普通ではないという自覚は当然あるし、母と妹との再会は涙ありの感動エピソードになる可能性はなくもないが、それを物語にされるのは少し疑問が残る。

「何事もなく、終われば良いと思っていますよ」

 軽く流せただろうか。

 たとえこの度で何事もなかったとしても、母と妹を連れ帰ったとして、今後二人がどのような立場になるのかは何事か起こってしまいそうだ。家族揃って使用人になる、なんてのはなんだか嫌な想像だ。

「それは無理ですね、何事もなく終わるなんてことは、主人公にはありえません。日常系ゆるふわアニメだって、何かしらはありますよ。当然あなたは日常系ゆるふわアニメの主人公ではないので、今回の旅は一筋縄では行かないものになる」

 僕の旅は何事もなく終わることはないと、断言された。それは未来を知っているかのようで…。

 少し震えた。

「結局、何が言いたいんですか?」

 震える声のまま聞いた。

 すると風光明媚は気持ちの悪い笑みをいっそう強めて言った。

「私はライターですからね、火をつけにきたんですよ。主人公であるあなたに」

「…そうですか」

「これから先は全てを受け入れることです。どんな超常現象が起きても、それを受け入れ、対処し、時には利用しなくてはいけません。主人公であるあなたに『こんなの嘘だ!』とか叫んで現実から逃避するようなことがあってはなりませんからね」

 超常現象を受け入れ、対処し、利用する。全く実感が湧かないのでできますとも無理ですとも反応しずらい。

「私は次の荒山で降ります」風光明媚は突然立ち上がって言った。

 風光明媚の名に恥じない風貌の彼は僕の顔を覗き込む。

「――格好良い活躍を期待してますよ、主人公」

「………」

 僕はついに何もいえなかった。

 アナウンスと共に電車が止まると、『彼』は軽やかな足取りで降車し、森の中に消えていった。

 特に何もない、あるとしたら樹木しかない荒山駅で降りた『彼』がどこに向かうかなんて疑問は、今更起きなかった。

「――なにあれきもちわるい」

「同感です」

 綾瀬さんが十分ぶりぐらいに口を開いた。

 風光明媚がいる間、綾瀬さんはほとんど口を開いていなかったので、三点リーダーが三つも残った僕はまだ良い方なのかも知れない。

「お腹すいたね」

「そうですね。お昼食べちゃいますか」

 僕たちは戰山までの十数分の間におにぎりと唐揚げを食べた。

 『彼』との会話の記録を胃の中に押し込んで消し去りたいのかも知れない。

 結局、消化した後は一部は身となり、ほとんどは糞として体から出るのだけれど。

 文字通りクソみたいな例えだ。

 僕は決して小説制作に関わることはできないだろう。きっと僕が関わったら碌な小説にならない。

 首を絞めながら、ため息をついた。

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