妖精のダンス【KAC20253】

海音まひる

第1話 誕生日プレゼント

「明日の夜の演目を『ウンディーネの舞』に変えてもらえませんか……?」


 俺は座長に頭を下げて頼み込んだ。


「弟が、どうしても観たいって言うんです……」



 明日は、弟の九歳の誕生日だ。


「ベンは誕生日に何が欲しいんだ?」


 毎日のように舞台に上がって、金は少しずつ貯めてきた。高価なものは用意してやれないが、ちょっとした玩具ならどうにかなる。

 そう思って尋ねると、彼はしばらく考え込んだ後、こんなことを言ってきた。


「僕、妖精のダンスが見たいんだ」


「……妖精の、何だって?」

「妖精のダンスだよ。僕、前に一度、森で見たことがあるんだ」

「そうなのか?」


(そんなこと言われたってなあ……)


 妖精なんて実在しない。あれは、おとぎ話の生き物だ。

 ベンの頭の中で、おとぎ話と現実がごっちゃになってしまったのだろうか。力強い瞳からは、彼が妖精の存在を信じ切っていることが伝わってきた。

 しかしそのお願いは、僕の力ではどうにもならない。


「他に、何か欲しい玩具とかはないのか? ほら、木の細工とか……」

「ううん、いらない。高いでしょ、玩具は……」


 その言葉に、少しショックを受ける。

 幼い弟にそこまで気をつかわせてしまっていることが、悔しかった。


 父親は、生まれた時からいない。

 母親は、一年前に行方が分からなくなった。

 俺と弟の生活を支えているのは、ハルプモント座での俺の給料だけだ。


 工房の弟子や、あるいは商店の下働きなんかとして働けば、もう少し安定した収入があったかもしれない。

 しかし、俺は母親がいた頃に座長からスカウトされて以来、この働き方しか知らない。

 二人分の生活費を稼げているのは、あくまでも俺が、ハルプモント座の二番手として、高い給料をもらっているからだ。


 そう、俺だって、可愛い弟のために何かしてやりたいので。

 親のいないベンの夢を叶えてやれるのは、俺だけだから……


「ほら、妖精のダンスなら、森に行くだけでしょう?」


 ——そんな、実現不可能なお願い事じゃなかったなら。


 どうにかならないだろうか……


 そこで俺は思いついた。


 うちの演目の一つに『ウンディーネの舞』というものがある。

 森に迷い込んだ人間の男が、妖精の舞を目の当たりにするという筋書きだ。

 俺が人間の男の役、座中一番のノアという青年が妖精の役である。


 ノアの舞は毎夜、数々の夫人や乙女を魅了している。

 二番手としては苦々しい事実だが、彼の踊りの実力は確かだ。

 弟にそれを見せれば、満足してくれるのではないだろうか。


「……分かった。兄ちゃんがどうにかしてやるよ」

「ほんと!?」



 明日の夜は元々、まったく違う演目をやる予定だった。

 だから俺はこうして座長に頭を下げて、どうにか演目を変えてもらえないか頼んでいるのだ。


「お願いします。明日は弟の誕生日なんです……」


「……まあ、いいだろう。人気の演目だしな。二ヶ月前にやったばかりだから、振りも大丈夫だろう?」


 そう言って座長は、俺のことをじろりと見た。

 つまり、自分で言った以上、振りを間違えたりなんかしてはいけないということだ。

 演目を変えることは、了承してもらえた。


 座長は壁際の棚に歩み寄ると、チケットを一枚取り出した。

 緑色は、少し値の張る、前の方の席だ。


「明日のチケットだ。代金は給料から差し引いておく」

「いいんですか? こんな前の席……」

「弟のためのチケット代がそんなに惜しいか?」

「いえ、ありがとうございます!」


 俺がもう一度頭を下げると、座長は「それから」と続けた。


「主演はノアだ。前日に演目を変えるなんてとんでもないことだからな、お前の方からしっかり頼み込んでおくように」

「分かりました……!」


 礼を述べて、座長の部屋から出る。

 手元に残ったのは、一枚のチケット。


 あとはノアの了解さえ得られれば——

 ベンに妖精のダンスを見せてあげられる。

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