第15話 『花冷え 10℃』

静かな夜更け、宵のしずくの扉がそっと開いた。


入ってきたのは、上品なワンピースに身を包んだ女性だった。肩まで流れる髪を軽く揺らしながら、カウンターに腰を下ろす。律はその姿に自然と微笑み、いつもと変わらぬ穏やかな声で問いかけた。


「いらっしゃい。今夜はどんな気分ですか?」


女性は軽く息をつき、かすかに微笑んだ。

「少し華やかな気分にしてほしいわ。」


律はその言葉を噛みしめるように頷き、冷蔵庫から一本の瓶を取り出した。瓶の表面に薄く霜がつき、冷たさが伝わってくる。そのまま瓶を片手に掲げ、柔らかく言葉を紡ぐ。


「それなら『花冷え』ですね。10℃の冷たさの中に、ふんわりとした香りが立ちます。まるで夜桜を眺めるような気分になれますよ。」


女性は興味深そうに律の動きを追う。律は繊細な手つきでグラスに酒を注ぐと、薄い琥珀色の液体が淡く光を反射した。カウンターに差し出されたグラスから、ほんのり甘やかな香りがふわりと立ちのぼる。


女性は手を伸ばし、そっと口元に運んだ。一口含むと、その冷たさと共に優雅な香りが広がり、心がほどけるような感覚が広がる。


「…ほんと、桜が咲いているみたい。冷たいけれど、どこか心がほどける感じがするわ。」


律は頷き、優しい声で答える。

「華やかさと冷たさが同居する温度です。桜が冷たい風に揺れながらも美しく咲くように、心に少し余裕が持てる温度ですね。」


女性はふっと笑い、その笑みには少し寂しさが混じっていた。

「…最近、仕事が忙しくてね。綺麗に咲き続けなきゃって、つい肩肘張ってしまうの。でも、誰も私のことなんて気にしてないのかもしれないわね。」


律はそっとグラスを拭きながら言葉を返す。

「人は気づかなくても、桜が咲いていることには意味があると思います。誰かの目に留まらなくても、自分のために咲く花もある。そんな花が夜の中で静かに輝いているからこそ、ふとした時に心に触れるんでしょう。」


女性はその言葉に少し驚きながらも、また口元にグラスを運んだ。

「…そうね、誰かに見られるためじゃなく、自分のために咲く。そんな風に生きられたら、少しは楽になれるのかしら。」


律は微笑みを浮かべ、そっと囁くように言う。

「花冷えの酒は、冷たさの中にも華やかさがあるからこそ美しいんです。あなた自身も、冷たい風に吹かれても咲き続ける強さがあるから、こうしてここにいるのでしょう。」


女性はその言葉をかみしめ、グラスを空にした。

「ありがとう。少し気が楽になったわ。まるで、このお酒に救われたみたい。」


律は静かに笑い、グラスを下げる。

「また疲れた時には、花冷えを飲みに来てください。」


女性は微笑みを残し、静かに店を後にした。宵のしずくの扉が閉まり、夜の静けさが戻ってくる。


律はカウンターの上を整えながら、小さくつぶやいた。

「夜桜もまた、心の花のようなものかもしれませんね。」


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