第13話 『失恋の一夜』
静かな路地裏に佇む日本酒バー「宵のしずく」。
扉が控えめに開き、男がふらりとカウンター席に腰を下ろす。
疲れた表情を見て、律はそっと声をかけた。
「いらっしゃい」
「ああ……なんか、飲ませてくれ」
律は相手の様子を見つめ、少し考えた後、冷蔵庫から特別純米酒を取り出す。
「これをどうぞ。米の旨味をしっかり感じられる一本です」
注がれたグラスから立ち上る香りが、どこか落ち着きを与える。
男は一口含んで、少しだけ表情を緩めた。
「うまいな……けど、なんか重い」
律は静かに頷きながら、軽く笑った。
「純米酒は、米の持つ力強さがそのまま味に出るんです。
人間の気持ちも、素直に出るときには重さが伴うのかもしれませんね」
男はグラスを揺らしながら、ぽつりと呟いた。
「……別れてきたんだ、彼女と」
律は少しだけ相手の顔を見つめ、問いかけるように言った。
「何かあったんですか?」
「……あいつさ、俺の全部を知ろうとしてきたんだよ。
どこにいるのか、何をしているのか、誰といるのか……。
最初は可愛かったんだけど、そのうち重たく感じて……」
男の声はどこか戸惑いを含んでいる。
律は黙って話を聞きながら、新たなグラスを磨いていた。
「責められたわけじゃないんだ。ただ、俺が勝手に息苦しくなっただけだと思う。
あいつ、俺を信じたいって言ってたのに……俺がそれを怖がったんだ」
律は少しだけ目を細めた。
「人の気持ちが純粋なほど、それを受け止める側には重圧がかかることもあります。
でも、その重さがあるからこそ、きっと本物なんだと思いますよ」
男は少しだけ考え込むようにグラスを見つめた。
「俺が逃げたんだよな……。正直、面倒だって思ったんだ。
自分の時間が欲しくて、相手に合わせるのがしんどくて……。
でも、今こうして飲んでると、なんか寂しいんだよな」
律は軽く頷きながら、静かに語りかけた。
「特別純米酒も、力強さと素直さが一緒にあるからこそ味わい深いんです。
その重さがなければ、ただの淡泊な水になってしまう。
きっと、彼女もあなたを想う気持ちが素直すぎただけなのかもしれませんね」
男は一瞬だけ苦笑し、少しだけ肩を落とした。
「俺、あいつのこと、ちゃんと見てやれなかったんだな……。
自分の都合ばっかり考えて、向き合うのが怖かったのかも」
律はそっと笑みを浮かべた。
「心が磨かれていく過程で、余計なものが削り落とされるように、
あなたもきっと、今夜少しだけでも自分の気持ちを磨けたのかもしれません」
男は最後の一口を飲み干し、すっきりした表情で席を立った。
「ありがとう。なんか、少し楽になった気がするよ」
律は軽く頷き、背中を見送った。
月明かりが路地に差し込み、彼の影を長く引き伸ばしていた。
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