いーからはようせい

山樫 梢

いーからはようせい

 書斎に戻ると、机の上にみょうちくりんな人形が置かれていた。

 やれやれ、妻の仕業だな……。

 取り除こうと手を伸ばすも、握ろうした指は空をつかんだ。

 ――なんだ、幻覚か。

 よくよく考えれば妻は出勤中。家には私一人。こんな悪戯イタズラを仕掛けられる者などいない。

 眼鏡を外し眉間みけんむ。仕事も申告も進捗しんちょくかんばしくない。どうやら少し疲れが溜まっているようだ。

 今度こそ現実を直視しようと視線を戻す。


 ――ヤツはまだそこにいた。


 直視したいものではない。が、己が産み出してしまった以上は仕方なかろう。消し去る方法を探るために幻像げんぞうと向き合う。


 大きさは丁度煙草タバコの箱ぐらいか。全体の色は黄褐色おうかっしょくで、頭頂部には二本の暗褐色あんかっしょく縦縞たてじま簡略化デフォルメした栗鼠リスのようなずんぐりした形状フォルム。黒丸の目二つに逆三角形の鼻一つ、半円形の口一つという単純な顔立ち。

 何かに似ているな。何だったか……。

 そうだ、あれだ。選挙の際の投票所入場整理券の封筒。あの裏面に、集合体恐怖症トライポフォビアの有権者に恨みでもあるのかと邪推じゃすいを招く勢いでびっしりと印刷されている謎のマスコット。あれに似ている。背中の羽が翼ではなく蜻蛉トンボのごとき二対の細長いはねという違いはあるが。


 私は何故こんなものを想像してしまったんだ。抗アレルギー薬以外をキメた覚えはないのだが。


「やあ! ボクは確定申告の妖精だよ」

 幻覚生物が出し抜けに手を上げ、幼児向けアニメのキャラクターを思わせる声で宣言した。

「確定申告の要請ようせいだと!?」

 つまりこれは確定申告に追い込まれた私の脳疲労による産物なのか。具象化ぐしょうかしてまで提出を迫ってくるなど、どんな悪夢だ。我ながらこれほどまでにプレッシャーを感じていたとは……。花粉症と確定申告。きつい・過酷・苦痛の3Kさんケーは自覚を上回る負荷ふかをかけているようだな。

 これはいかん。仮眠を取らねばなるまい。30分……いや1時間ぐらいならば……。

「勘違いしていないかい? ボクは妖精、つまりフェアリーだよ」

 自称妖精が口を開い――ていないな。声を発しているのに口らしき線は閉じたまま、ほくそ笑んだようなえがいている。どういう発声器官をしているんだ。

 いや、相手は幻覚。常識が通用するものではなかろう。

「何だろうと構わん。寝て起きたらお前も消えるはずだ」

「消えないよ。キミが確定申告を提出するところを見届けるのが、ボクの仕事だからね」

「仕事だと?」

「そう。キミのような、期限ギリギリまで確定申告を済ませていない人のところに派遣はけんされて、追い込まれてすさみきった心にいやしを提供しながら作業を進めてもらうのがボクら妖精の仕事なのさ」

「そんな話は聞いたことがないぞ」

「公示はされていないからね。それに、ボクたちが派遣されるのは余裕がない人ばかりだから、大抵幻覚のたぐいだと思われちゃうんだよね」

「確かに……私もお前のようなものを見たとは相手が妻であっても言おうとは思わんな」

「それが賢明けんめいだよ」

 何だこの腹立たしい存在は!

「つまり、お前は国税庁の回し者ということか?」

「そう思ってもらって構わないよ」

「政府め!! こんなものを雇う余裕があるなら減税するか給付金を増やせ!!」

 ……いや、我が家は妻が世帯主になっているから低所得であっても給付の対象外。ここは減税一択だな。

「お金で雇われているわけじゃないよ。ボクらにとっちゃ、人間のお金なんてあっても邪魔なだけさ」

「ならば報酬ほうしゅうは何だ? ボランティアでもあるまい」

「ボクたち妖精はね、樹齢じゅれいの長い木から生まれて、その木と命を共にするんだ。生みの親である樹木が枯れたり伐採ばっさいされたりすると死んでしまうんだよ。だから、山林の保護をお願いする代わりにこうして手伝いをしているというわけさ。ボクたちにとっては死活問題だからね」

「なるほど。そういう裏取引があるということか」

 流石さすが政治家。汚い手を使う。

「それで、お前が代わりに申告書の作成をやると?」

「まさか。ボクは妖精だよ。人間の義務に関することなんてこれっぽっちも知らないさ」

「何しに来たんだ!!」

「マスコットとして、癒しを提供しにきたんだよ」

 政界の連中は余程よほど頭がイカレているのか? あるいはこんなものにでも癒しを感じるほど魑魅魍魎ちみもうりょう跋扈ばっこする魔窟まくつなのか知らんが、められたものだ。低所得者だからといってこんな得体えたいのしれないものに気を許すほど安くはない。

「今のところイライラしか提供されていないぞ!!」

「この時期はキミみたいに気が立ってる人間が多いからね。憤懣ふんまんぐちになっているのさ。ボクは妖精だから、どんな言葉を浴びせられても心を病んだりしないんだ」

 ブラックなのかホワイトなのか分からんな。

「人間が虫の言葉を無視してるのとおんなじようなものさ」

 こいつが腹黒いことだけは間違いない。

「そういった言葉を使うな。仮にも妖精を名乗るなら、ひらがなでしゃべるぐらいの心構えでいろ」

「キミは随分ずいぶん偏見へんけんの強い人なんだね。漢字かひらがなかなんて、発音の受け取り方次第じゃないかな」

 生意気な!

「そんなことはどうでもいいから、早く確定申告を進めておくれよ。キミが申告を済ませてくれないとボクも仕事を上がれないんだ」

 妖精の仕事は請負契約うけおいけいやくなのか。知ったこっちゃないが。

「誰のせいで遅れていると思っている! 大体、何故税金を支払ってやる側がこんな手間をかけねばならんのだ! 無申告や脱税をしようという者が現れるのも無理もない」

「いいよいいよ、その調子だ。誰かに愚痴ぐちを言うと気が晴れるだろう? まあボクに言っても意味はないけどね」

「私は文系の文筆家ぶんぴつかだぞ。計算なんぞくそ食らえ!!」

「それなら専門家に頼んだらどうだい?」

「冗談じゃない。そんなことをすれば奴らの思うつぼだ」

「やつらって?」

「わざと煩雑はんざつにしているとしか思えない難解な申告書を用意している目的は、税理士に依頼させるためだ。政治家の奴らは税理士から裏金を得ているに違いない。その税理士の資金源は家庭や会社の会計事情をのぞき見した上でむさぼり取った汚い金。あんな連中に渡す金などビタ一文いちもんない!」

「なら自力でやるしかないね。頑張がんばろう」

「お前は逐一ちくいち神経を逆撫さかなでしてくるな……」


 邪魔な妖精を手で追いやって用紙と向かい合う。紙の上からは退きながらも、妖精は用紙を覗き込んでくる。

「お前、人間の義務など知らんのじゃなかったのか」

「詳しいことは分からないけど、聞きかじった程度の知識ならあるよ。人間だって、犬を飼っていなくても犬の生態をなんとなくは知っていたりするだろう? 同じようなものだね」

 何故こうもしゃくさわたとえをしてくるのか。

「そもそも文字は読めるのか?」

「もちろんさ。悪い人間にだまされて不利な契約を結ばされないよう、契約書は隅々すみずみまで目を通さなくちゃならないからね」

 間の抜けた顔をしているくせに抜け目がない奴だ。

「おや、キミは個人事業主なのに、インボイス制度に登録していないんだね」

「するものか。さきんじて登録した連中は個人情報が流出したなどという話を聞いたぞ」

「個人情報を気にするのかい? キミ、連絡先を文化手帖ぶんかてちょうに載せていたじゃないか。いまさら隠す意味はあるのかな?」

 そういえばそんなものもあったな。名前を載せれば仕事を回して貰えるのではないかと打算したが、無意味であった。もはや過去の遺物よ。

 それはそれとして……。

「何故お前がそれを知っている」

「前に担当した人も作家でね。古い手帖をくれたんだ。今回担当の人も作家だっていうから、残ってるページを見てみたら載ってたんだよ」

「そいつは何のつもりでお前に手帳をくれてやったんだ?」

「紙は便利だからね。引き裂いて巣にき詰めてるんだ」

 ケダモノめ。

「……ん? お前、物に触れられるのか?」

 上から押さえ付けようと下ろした手の平は、妖精を貫通かんつうして机の上に着地した。

 やはり、立体映像であるかのように触れることはできない。

「もちろん。キミたちはボクたちに干渉かんしょうすることができないけど、ボクたちはキミたちに干渉できるんだ。妖精が争いを好まない温厚な種族であることにせいぜい感謝するといいよ」

 思った以上に恐ろしい存在のようだ。役人どもめ、こんな手に負えないものを雇って管理下に置いた気になっているのではあるまいな……。


「ねえ、キミ。ここ、収入と経費が同額になっているように見えるんだけど」

 引き続き私の申告書をチェックしていた妖精が、またしても頭を突っ込んでくる。くっ、目敏めざといな。

「そんなことってある?」

「私は常にこれで通している。市庁舎の申告会場で出した際には領収書をつけてこいなどと言いがかりをつけられて突き返されたが、郵送であれば問題ない」

「それは言いがかりなのかな?」

「言いがかり以外の何だというんだ!? 自営業に対してだけ重箱じゅうばこすみ楊枝ようじでほじくるような追及をしよって!! 上級国民せいじかは非公開や黒塗りが許されるんだぞ!? こんな不平等がまかり通ってなるものか!! Amazonアマゾンのギフトカードを課税対象にするならば納税もギフトカード可にしろ!」

「色々と不満があるのは分かったけど、ボクに言ってもどうにもならないよ」

「確定申告の妖精を名乗るならば国税庁に話を通せ!」

「前にも言った通り、ボクはただ応援して心を和ませるだけの役割だから、それ以上の業務はっていないんだ」

「毛ほども役に立たん奴だ。……とにかく、切手代の身銭みぜにを切ってでも郵送の方が面倒が少ない」

「窓口では通らないのに、郵送だと受け付けてもらえるのかい?」

「これまでは問題なかったな。結婚した年に妻を従業員として計上した時だけは電話が掛かってきて修正を求められたが」

「どうしてそんなことをしたんだい?」

「あの頃の妻は電話番などの手伝いをしてくれていたからな……。いけるかと思ったが、甘かった」

「新婚だけに?」

「殴るぞ!!」

「おやおや、触れないのを忘れちゃったのかい? それにしても、人間の仕事っていいかげんなんだね。その点、ボクたち妖精は厳格げんかくにやっているよ。なんせ、契約を破ったものは命を落とすからね」

「……お前を雇った役人はそのことを了承しているのか?」

「していると思うけど、どうかな。ボクたちにとっては当たり前すぎて、いちいち確認をとったりしないからね」

 つまり、契約を反故ほごにして木を切れば、こいつらと繋がっている役人の首も切れるわけか。何とおぞましい。政治家のすることだからどうせ深く考えずに契約したんだろう。


 首といえるくびれがないので体を傾げていた妖精が、ポンと手を打つ。

「キミの場合、きっと収入が低すぎて相手にされていないんだね」

 無礼千万ぶれいせんばんにも程がある!!

「黙れ!! 貴様のようなふわふわした生き物が代筆ゴースト目腐めくさがねを稼いでいる零細れいさい作家の繊細せんさいな内情をはかるんじゃない!!」

「まあまあ。それでも、納税するだけの収入はあるんだろう?」

「私の所得は基礎控除きそこうじょ以下だからな。源泉徴収げんせんちょうしゅう分の還付かんぷを受けるためにやっている」

「じゃあ税金の納付は?」

「ない」

 納税しなければならないほど収入のあった年であればなるべく判読しにくい文字で申告書に記入してやっているところだが、還付がある時は丁寧に書く。それが私の流儀だ。

「その立場でよくあんな不平不満が言えたものだね。びっくりするよ。まあボクとしてはキミが納税する側だろうと還付を受ける側だろうと構わないんだけど、一体どうやって生活しているんだい?」

「ぐぅっ……妻には、それなりに収入があってな」


 自分には無いところにかれたという理由で私の求婚を受け入れてくれた妻だが、結婚後に自分と合わないところしか無いと気付くと次第に冷淡になっていった。才能を見限られ、今となっては顔を合わせるたびに小言や嫌味、時には罵声ばせいを浴びせられるばかり。収入は完全に妻に依存してい身ゆえ、こちらは全く頭が上がらない。

 たまれなくて書斎に引き籠もる時間が増えた。私だって好んで代筆ばかりを引き受けているわけではない。本当に書きたいのは時代小説だ。ただそちらの依頼が全く来ないというだけ……。


「ヒモってやつだね」

 妖精め、ふたもないことを!!

「お前本当は人間の内情に精通しているだろう!?」

 私では住宅ローンの審査に通らないため、家の名義も全て妻のもの。ヒモと言われても仕方のない状況ではあるが、こいつに言われるのは我慢ならん。

 それに、私とて今の地位で終わるつもりはない。

「私が10年以上温め続けている大作が完成すれば、還付を受ける側から高額納税者へ早変わりだ。ベストセラー、ロングセラー、メディアミックス、海外進出……。そうともなれば税理士ハイエナどもに仕事エサを投げてやってもいい」

「ハハッ」

 すかさず妖精が夢の国をひきいているネズミのような笑い声を上げた。

「何がおかしい!!」

「今は出版不況なんだろう? 世に出してもらえるかな」

「分かったようなことを言うな。完成したら是非うちで出させて欲しいと言っている出版社が何社かあるんだ」

「リップサービスだと思うな」

 こいつめ!!

「口約束なんて当てにしたらいけないよ。どれほど時間と情熱をかけたところで、売り物にならないと見られればやんわりとお断りされるだけさ」

「だから、仮にも妖精を名乗るのであればもっと夢のあることを言え!!」

「随分と妖精に夢を見ているんだね。普通の人ならもう少し現実を見た方がいいんだろうけど、夢を追う職業だからなんとかやっていけてるんだろうね」

「頼む。教えてくれ。お前を殴るにはどうしたらいい?」

「仮にも文筆家を名乗るのなら、けんよりもペンで戦うべきじゃないかな」

 小癪こしゃくな!!

「それに、今は不毛ふもうな争いをしている場合じゃないよ。時計をごらん。この近くのポストの最終回収時間はもう過ぎてしまったじゃないか。郵便窓口は17時まで。早くしないと当日消印に間に合わないよ」

「本局ならゆうゆう窓口があるだろう。19時までならいける」

「その考えのゆるさが今のこの事態を招いているんだよ」

 いけ好かないことこの上ないな!?

「まあ、郵送が間に合わなければe-taxイータックスという方法もあるけどね。ボクとしては早く終わらせて欲しいんだけど」

「冗談じゃない。e-taxにしろンボイスにしろマナンバーしろ、イのつくものは信用ならんものばかりだ」

「サフ、さのう、ワフはどうかな?」

「一度でいい、殴らせろ」

 こいつ、本当は延滞税を搾取さくしゅせんとする国税庁が妨害のために送り込んできた刺客しかくではあるまいな……?


 ***


 業腹ごうはらな茶々入れに耐えながら、ついに申告書の作成を終えた。野次やじに心を乱されるような精神性では文筆業は務まらない。

 妖精はといえば、表情を一切変えないまま両手で万歳バンザイをしていた。本当に不気味な奴だ。まあいい。とうとうこいつを厄介払いできる。

 しかし、こうして改めて見てみるとやはり似ているな……。

「気になっていたんだが、お前とあの選挙のマスコットは親戚か何かなのか?」

「ああ、めいすいくんのことだね」

 あれはめいすいくんというのか。どうでもいいが。

「よく間違えられるんだけど、ただの空似そらにだよ。全くの無関係さ。自己紹介した通り、ボクは植物の妖精だからね」

「植物と言っても色々あるだろう。お前は何の植物から生まれたんだ?」

 これが栗鼠であるならば団栗ドングリ胡桃クルミといったところか。

「スギだよ」

「悪魔め!!」

 直接当たれない代わりに、抗議を示すため手元にあった紙を力任せに引き裂いて――ん?

 待てよ、この紙は……いまがた書き上げたばかりの確定申告……っ。

「あーあ。書き直しだね……」

 時刻は19時5分前。

 確定した残業をうれ哀愁あいしゅうのある声。初めてこの妖精に感情の片鱗へんりんを感じた。心は微塵みじんも動かされないが。

「e-Taxにするか……」

「それがいいと思うよ」


 こうして人は体制に屈していくのである。無念。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

いーからはようせい 山樫 梢 @bergeiche

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ