いーからはようせい
山樫 梢
いーからはようせい
書斎に戻ると、机の上に
やれやれ、妻の仕業だな……。
取り除こうと手を伸ばすも、握ろうした指は空を
――なんだ、幻覚か。
よくよく考えれば妻は出勤中。家には私一人。こんな
眼鏡を外し
今度こそ現実を直視しようと視線を戻す。
――
直視したいものではない。が、己が産み出してしまった以上は仕方なかろう。消し去る方法を探るために
大きさは丁度
何かに似ているな。何だったか……。
そうだ、あれだ。選挙の際の投票所入場整理券の封筒。あの裏面に、
私は何故こんなものを想像してしまったんだ。抗アレルギー薬以外をキメた覚えはないのだが。
「やあ! ボクは確定申告の妖精だよ」
幻覚生物が出し抜けに手を上げ、幼児向けアニメのキャラクターを思わせる声で宣言した。
「確定申告の
つまりこれは確定申告に追い込まれた私の脳疲労による産物なのか。
これはいかん。仮眠を取らねばなるまい。30分……いや1時間ぐらいならば……。
「勘違いしていないかい? ボクは妖精、つまりフェアリーだよ」
自称妖精が口を開い――ていないな。声を発しているのに口らしき線は閉じたまま、ほくそ笑んだような
いや、相手は幻覚。常識が通用するものではなかろう。
「何だろうと構わん。寝て起きたらお前も消えるはずだ」
「消えないよ。キミが確定申告を提出するところを見届けるのが、ボクの仕事だからね」
「仕事だと?」
「そう。キミのような、期限ギリギリまで確定申告を済ませていない人のところに
「そんな話は聞いたことがないぞ」
「公示はされていないからね。それに、ボクたちが派遣されるのは余裕がない人ばかりだから、大抵幻覚の
「確かに……私もお前のようなものを見たとは相手が妻であっても言おうとは思わんな」
「それが
何だこの腹立たしい存在は!
「つまり、お前は国税庁の回し者ということか?」
「そう思ってもらって構わないよ」
「政府め!! こんなものを雇う余裕があるなら減税するか給付金を増やせ!!」
……いや、我が家は妻が世帯主になっているから低所得であっても給付の対象外。ここは減税一択だな。
「お金で雇われているわけじゃないよ。ボクらにとっちゃ、人間のお金なんてあっても邪魔なだけさ」
「ならば
「ボクたち妖精はね、
「なるほど。そういう裏取引があるということか」
「それで、お前が代わりに申告書の作成をやると?」
「まさか。ボクは妖精だよ。人間の義務に関することなんてこれっぽっちも知らないさ」
「何しに来たんだ!!」
「マスコットとして、癒しを提供しにきたんだよ」
政界の連中は
「今のところイライラしか提供されていないぞ!!」
「この時期はキミみたいに気が立ってる人間が多いからね。
ブラックなのかホワイトなのか分からんな。
「人間が虫の言葉を無視してるのと
こいつが腹黒いことだけは間違いない。
「そういった言葉を使うな。仮にも妖精を名乗るなら、ひらがなで
「キミは
生意気な!
「そんなことはどうでもいいから、早く確定申告を進めておくれよ。キミが申告を済ませてくれないとボクも仕事を上がれないんだ」
妖精の仕事は
「誰のせいで遅れていると思っている! 大体、何故税金を支払ってやる側がこんな手間をかけねばならんのだ! 無申告や脱税をしようという者が現れるのも無理もない」
「いいよいいよ、その調子だ。誰かに
「私は文系の
「それなら専門家に頼んだらどうだい?」
「冗談じゃない。そんなことをすれば奴らの思う
「やつらって?」
「わざと
「なら自力でやるしかないね。
「お前は
邪魔な妖精を手で追いやって用紙と向かい合う。紙の上からは
「お前、人間の義務など知らんのじゃなかったのか」
「詳しいことは分からないけど、聞きかじった程度の知識ならあるよ。人間だって、犬を飼っていなくても犬の生態をなんとなくは知っていたりするだろう? 同じようなものだね」
何故こうも
「そもそも文字は読めるのか?」
「もちろんさ。悪い人間に
間の抜けた顔をしているくせに抜け目がない奴だ。
「おや、キミは個人事業主なのに、インボイス制度に登録していないんだね」
「するものか。
「個人情報を気にするのかい? キミ、連絡先を
そういえばそんなものもあったな。名前を載せれば仕事を回して貰えるのではないかと打算したが、無意味であった。もはや過去の遺物よ。
それはそれとして……。
「何故お前がそれを知っている」
「前に担当した人も作家でね。古い手帖をくれたんだ。今回担当の人も作家だっていうから、残ってるページを見てみたら載ってたんだよ」
「そいつは何のつもりでお前に手帳をくれてやったんだ?」
「紙は便利だからね。引き裂いて巣に
ケダモノめ。
「……ん? お前、物に触れられるのか?」
上から押さえ付けようと下ろした手の平は、妖精を
やはり、立体映像であるかのように触れることはできない。
「もちろん。キミたちはボクたちに
思った以上に恐ろしい存在のようだ。役人どもめ、こんな手に負えないものを雇って管理下に置いた気になっているのではあるまいな……。
「ねえ、キミ。ここ、収入と経費が同額になっているように見えるんだけど」
引き続き私の申告書をチェックしていた妖精が、またしても頭を突っ込んでくる。くっ、
「そんなことってある?」
「私は常にこれで通している。市庁舎の申告会場で出した際には領収書をつけてこいなどと言いがかりをつけられて突き返されたが、郵送であれば問題ない」
「それは言いがかりなのかな?」
「言いがかり以外の何だというんだ!? 自営業に対してだけ
「色々と不満があるのは分かったけど、ボクに言ってもどうにもならないよ」
「確定申告の妖精を名乗るならば国税庁に話を通せ!」
「前にも言った通り、ボクはただ応援して心を和ませるだけの役割だから、それ以上の業務は
「毛ほども役に立たん奴だ。……とにかく、切手代の
「窓口では通らないのに、郵送だと受け付けてもらえるのかい?」
「これまでは問題なかったな。結婚した年に妻を従業員として計上した時だけは電話が掛かってきて修正を求められたが」
「どうしてそんなことをしたんだい?」
「あの頃の妻は電話番などの手伝いをしてくれていたからな……。いけるかと思ったが、甘かった」
「新婚だけに?」
「殴るぞ!!」
「おやおや、触れないのを忘れちゃったのかい? それにしても、人間の仕事っていいかげんなんだね。その点、ボクたち妖精は
「……お前を雇った役人はそのことを了承しているのか?」
「していると思うけど、どうかな。ボクたちにとっては当たり前すぎて、いちいち確認をとったりしないからね」
つまり、契約を
首といえるくびれがないので体を傾げていた妖精が、ポンと手を打つ。
「キミの場合、きっと収入が低すぎて相手にされていないんだね」
「黙れ!! 貴様のようなふわふわした生き物が
「まあまあ。それでも、納税するだけの収入はあるんだろう?」
「私の所得は
「じゃあ税金の納付は?」
「ない」
納税しなければならないほど収入のあった年であればなるべく判読しにくい文字で申告書に記入してやっているところだが、還付がある時は丁寧に書く。それが私の流儀だ。
「その立場でよくあんな不平不満が言えたものだね。びっくりするよ。まあボクとしてはキミが納税する側だろうと還付を受ける側だろうと構わないんだけど、一体どうやって生活しているんだい?」
「ぐぅっ……妻には、それなりに収入があってな」
自分には無いところに
「ヒモってやつだね」
妖精め、
「お前本当は人間の内情に精通しているだろう!?」
私では住宅ローンの審査に通らないため、家の名義も全て妻のもの。ヒモと言われても仕方のない状況ではあるが、こいつに言われるのは我慢ならん。
それに、私とて今の地位で終わるつもりはない。
「私が10年以上温め続けている大作が完成すれば、還付を受ける側から高額納税者へ早変わりだ。ベストセラー、ロングセラー、メディアミックス、海外進出……。そうともなれば
「ハハッ」
すかさず妖精が夢の国を
「何がおかしい!!」
「今は出版不況なんだろう? 世に出してもらえるかな」
「分かったようなことを言うな。完成したら是非うちで出させて欲しいと言っている出版社が何社かあるんだ」
「リップサービスだと思うな」
こいつめ!!
「口約束なんて当てにしたらいけないよ。どれほど時間と情熱をかけたところで、売り物にならないと見られればやんわりとお断りされるだけさ」
「だから、仮にも妖精を名乗るのであればもっと夢のあることを言え!!」
「随分と妖精に夢を見ているんだね。普通の人ならもう少し現実を見た方がいいんだろうけど、夢を追う職業だからなんとかやっていけてるんだろうね」
「頼む。教えてくれ。お前を殴るにはどうしたらいい?」
「仮にも文筆家を名乗るのなら、
「それに、今は
「本局ならゆうゆう窓口があるだろう。19時までならいける」
「その考えの
いけ好かないことこの上ないな!?
「まあ、郵送が間に合わなければ
「冗談じゃない。
「サ
「一度でいい、殴らせろ」
こいつ、本当は延滞税を
***
妖精はといえば、表情を一切変えないまま両手で
しかし、こうして改めて見てみるとやはり似ているな……。
「気になっていたんだが、お前とあの選挙のマスコットは親戚か何かなのか?」
「ああ、めいすいくんのことだね」
あれはめいすいくんというのか。どうでもいいが。
「よく間違えられるんだけど、ただの
「植物と言っても色々あるだろう。お前は何の植物から生まれたんだ?」
これが栗鼠であるならば
「スギだよ」
「悪魔め!!」
直接当たれない代わりに、抗議を示すため手元にあった紙を力任せに引き裂いて――ん?
待てよ、この紙は……
「あーあ。書き直しだね……」
時刻は19時5分前。
確定した残業を
「e-Taxにするか……」
「それがいいと思うよ」
こうして人は体制に屈していくのである。無念。
いーからはようせい 山樫 梢 @bergeiche
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