活路
夏生 夕
第1話
「一体あれは、何なの。」
誰もいない部室で、誰もいないからこそ呟いた。
実は半分、もう答えは出ているのだけれど、認めたくない。再び頭をその単語が過り、深く長い溜め息が出てしまう。
「勘弁してよ…」
「何がだ?」
驚いて振り返ると、先輩がいた。
この扉が開いた音にも気付かないとは。そろそろ疲れが回ってきているようだ。
「いえ別に。何もありません。」
「嘘つけ、君が独り言なんて相当だろ。なんもなくないでしょうよ。」
「いえ本当に。」
「しつこいな。なんかあったんじゃないの。」
しつこいのはそっちでしょ。
ただこの先輩、満足のいく返答が無いと離してくれない人なのは分かっている。
それでも正直に答える訳にもいかず目を逸らして、ぎょっとした。まただ。
また、いる。
テーブルの菓子箱、『あれ』が、蓋によじ登っているのが見えた。
思わず両手で顔を覆ってしゃがみ込んだ。勘弁してほしい。
「え、ちょっと、おい、」
「何をしているんですか、先輩。」
掠れがかった声がした。
顔を上げると、いつの間にか先輩の背後にもう一人立っている。眉間に皺を寄せ、眼鏡の奥には疑惑の色を浮かべて。
「あ、俺?もしかしてなんか疑われてる?」
「はい。彼女に何をしたんですか。」
合点がいった。確かにこれは疑わしい光景だ。
部屋に入るなり、仁王立ちした男と、顔を覆ってしゃがみ込む女。
つまり彼は、わたしが先輩に泣かされたと思っている。
「すみません、違います。泣いていません。この人に泣かされることなんて、ありません。」
「言ってくれるじゃねぇの。」
フォローの言葉を間違えた。
この人は誰かを泣かすような人じゃないと思います、と言いたかったのに。
「そうですか、では何を?」
先輩の軽口は聞こえていないかのように、わたしに向き直した。
あまり話したことの無い、一つ上の先輩。
二人ともこちらから目を離さない。
わたしはこういう時にてきとうな、咄嗟の言葉が出てくるような器用な人間ではない。
もはやこれまでか。
小さく息を吸い、腹をくくった。
「先輩方、この部屋に何か、いますか?」
「は?」「はい?」
俺たちですけど、というように二人で顔を見合わせた。そんなこた分かってる。
「わたしたち以外で。」
「誰か隠れてるとか?」
「そうではなく、」
「まどろっこしいな、なんだ?」
「最近、わたし見えるんです。その、ちいさいのが。」
「「ちいさいの?」」
「ちいさい、おじさん…」
改めて二人は顔を見合わせた。
「それはいわゆる、妖精ってやつ?」
「多分、いえ、分からないです。日に数回ですが、気付くと視界にいて。
初めはなにかが動いたかも、とその程度だったのが、最近ははっきり現れるようになっていて…」
「本当にいたんですね、おじさんの妖精。」
感心するように眼鏡の先輩が言った。
「え…信じるんですか?」
「あ、はい。だっているんですよね?」
「わかりません。ずっと幻覚だと思っていたんです。
おかしいじゃないですか、そんなのが見えるなんて。だから気のせいだと思うようにしてやり過ごしていたのに、誰かと話していてもどこにいても、誤魔化せなくなるくらいで。
その度に周りに変な顔をされて。」
「君はそういうとき、そしらぬ顔が出来なさそうだもんな。」
「素直に言ってみては?」
「そんなの出来ません!」
少しでも人と違うところ、変だと思われるところを見せてはならない。
昔からずっと気を付けてきた。
幼い頃から、やっぱりあの子はかわいそうだね、だから普通とは違うんだね、と生まれや育ちのことを引き合いに出され続けてきた。もうあんな思いはごめんだ。
それなのに、おじさんは容赦なく出現する。やめなさい、菓子を漁るな。
「すみません、大きな声を出して。」
「俺たちに見えないからと言って、いないとは限らないだろう。」
「…はい?」
「そうですよ。だって検索しただけでも、これだけの人数がちいさいおじさんを見て、投稿している。」
「ほんとだ、俺も聞いたことはあったけど、こりゃすごい数だな。」
「あの、本当に信じるんですか?」
「いるかいないかはさておき、今あなたに見えていることは信じています。」
ようやく画面から目を離したかと思えば、まっすぐわたしの目を見てくる。
「ここは日本、八百万も神がいれば、妖精なんか九百万はいそうだよな。」
「とにかく調べてみましょう。文化祭のポスター発表の題材にしてもいいですし。」
わたしの話だったのに、二人の間でどんどん話が進んでいく。
わたしの心配ごとだったのに、三人の話になっていく。
不思議な感覚だ。様々な感情が入り交じって、でも不快じゃない。これはなんと呼ぶのだろう?
「せんぱい、」
「ん?」
「ありがとうございます。」
今できる精一杯は、最大の感謝の言葉にしかならない。伝えたいことも思ったことも、気の効いた言葉で表すことができない。
「いいんだよ、おもしろそうだから!
それにこの文芸部はこういうときのためにある。」
「人の心配をおもしろがらないでください。」
「ところで、君の見るおじさんって、どんなタイプ?かわいい感じ?」
「高倉健さん、みたいな…」
「渋いな!!座って詳しく聞こうじゃないか。」
「分かりました。」
ふとテーブルを見て、驚いた。
お菓子が3つ並べられている。
そういえばさっき、健さん、もといおじさんが菓子を触っていた。
今は見えないあの姿に、初めてわたしは微笑みかけた。
活路 夏生 夕 @KNA
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