第7話

学校へ到着したのは、一限後の休み時間に入った頃だった。

真っ先に職員室へ顔を出す。

担任に登校したことを知らせないと、家に連絡を入れかねない。

「遅刻してしまいすみませんでした。」

「おお、香山。来たのか。」

「はい。少し良くなったので来ました。」

それだけ伝えて去ろうとしたが、引き留められた。

「香山、ちょっと。」

「その、あれだ。もし精神的なことで悩んでいたら。」

「いや、まあ率直に言うとだな、病院で診てもらいたくなって、それをご両親に言い辛かったら私に相談してくれて構わないから。」

「はい、ありがとうございます。」

先生はまるで腫れ物を扱うように私にそう言った。

家族が、ではなく、私がおかしいとでも思っているのだろう。

無理もない。

生徒から家族の様子が変だと相談を受け、いざその場を訪れてみたら急に当の本人が弟に対し発狂し始めたのだから。

側から見れば狂人がどちらかなんて一目瞭然だ。

だから母のついたあの嘘も、恐らくすんなりと受け入れたことだろう。

あの時、圭ちゃんの事を受けても平静を装えていたなら、私の望む結果へと繋がっただろうか。

…たらればの仮定の話を考えても何も変わらない。

それに、私にそれが出来たとは到底思えない。

「失礼します。」

私は職員室を後にし、教室へ向かった。

学校で過ごすのもこれが最後かと思うと、自分が普通ではなくなるようで気が滅入る。

周りの子たちは変わらぬ日常を謳歌している。

同じ空間にいるはずなのに、私だけが一人別世界に取り残されているような感覚だ。

友人たちも、まさか私が明日からいなくなるとは思っていない。

急に消えたら心配してくれるだろうし、それなりに捜そうともするだろう。

少なくとも数週間、数ヶ月くらいは。

でも私のことなんてその内頭から消える。

別にそれを非難している訳ではない、友達と言えど人とは結局そんなものだ。

私も同じだろうか?

家に帰って、あれがママである確証を得られる何かがない限り、私は予定通りいなくなる。

天涯孤独になった後、いつか私にも家族のことを忘れる日が訪れるのだろうか。

…忘れた方がまだ幸せなのかもしれない。

忘れるほどの何かを見つけられたのだから。


学校が終わると私は真っ直ぐ家に向かった。

あれがママであってほしいと願わずにはいられないが、望みは薄いと自分に言い聞かせた。

余程のことがない限り、一人で家を去るという当初の決意を変えるべきではない。

自分で腹を括ったのだから、そう易々と曲げてはならない。

家に入る前に深呼吸をして、最後の確認をする。

普段通りの自分を崩さず、部屋に行き荷物を取る。

そしてタイミングを見計らって家を出る。

もし母と遭遇した場合は、一言だけ最後にママと呼んでみよう。

その反応を見て、判断する。

準備はできた。

念のためスマホのホーム画面に、ワンタップで警察に電話がかかるアイコンも用意した。

これから何かが起きたとしたら、多分スマホを触ることすら出来ないだろう。

それでも無いよりは有った方が、多少なりとも心の支えになる。

…行こう。

意を決して、私は家に入った。

人影は見られない。

気配も感じない。

だが、全員分の靴がある。

また和室に集まっているのだろうか。

父も弟も、会社と学校はどうしたのか。

足音を立てないように和室を通り過ぎるが、中からは何も聞こえなかった。

何処にもいないのなら好都合ではあるが、不気味でもある。

階段を昇り、二階に上がって異変に気付いた。

二階の床に傷が付いている。

こんなものは今朝までなかった。

その傷は複数の線が波打つように、一番奥、つまり私の部屋まで続いている。

よく見ると所々赤い箇所もあり、結構な量の髪の毛も落ちている。

これは、何…?

絶対にこの先へ行くべきではない。

引き返さなければ。

そんな思いとは裏腹に、部屋へ向かう足は止まらない。

部屋のドアは閉まっている。

私は恐る恐る、覗き込むようにして扉を開けた。

その光景を見た途端、膝から崩れ落ちた。

部屋の真ん中にママがいる。

目を開いたまま微動だにせず、床に横たわる姿がそこにあった。

それが何を意味しているのか私は瞬時に理解した。

「ママ、ママ…。」

なんで。

どうしてママが。

立つことが出来ない私は、這ってママの側に寄った。

髪は乱れ、爪は剥がれ落ちている。

嘘だ。

だって、今朝まで…。

死んでるわけない。

脈を確認した。

その現実を受け止める強さを私は持ち合わせていなかった。

声を出すべきではないのに。

大声で泣き叫ぶことを止められなかった。

亡骸にしがみつき、繰り返し何度も呼びかける。

私がどれだけ呼びかけようが、反応が返ってくることはなかった。

ママから離れることが出来ない。

この前のように偽りでもいいから。

私のことを抱きしめ返してほしかった。

大丈夫だよって。

…ママは殺されたんだ。

あいつに。

そう思った矢先、遠くから微かに笑い声が聞こえた。

母がしていたものと全く同じ、あのケタケタと笑う声が。

それだけじゃなく、例の鳴き声までも。

それらの音は徐々に大きくなっており、こちらに近づいてきていることを示していた。

部屋の姿見を思わず覗く。

開いたドアの向こうに廊下が映っている。

そして、奥にあいつが立っていた。

黒の着物を見に纏い、片腕で何かを抱えているように見える。

私は自分がもうすぐ死ぬことを悟った。

唯一の逃げ道である廊下からあいつが来ているのだ、もう助からない。

すり足で歩いてきている様子が鏡に映る。

咄嗟にスマホを出してアイコンを押した。

コール中を示す画面が表示される。

鏡を見直すと、もう部屋の入り口付近にいる。

これだけ近づかれて、ようやく私は知った。

こいつが異様なまでに背が高いこと。

抱き抱えている物が真っ赤な布で覆われていること。

そして鳴き声はその布の中から聞こえていることを。

赤い布に包まれたそれを、とても大切そうに抱いている。

赤ん坊だった。

この声は猫や動物のそれではなく、赤ん坊の泣き声だ。

下に目を向けると通話中の文字が表示されていた。

震える声で、自分の住所を繰り返す。

その最中も、この女はずっと笑い続けている。

何がそんなに可笑しい。

私の前にはママの亡骸が横たわっている。

殺したのはこいつだ。

ママを殺し、パパと圭ちゃんを狂わせ、今まさに私のことも手にかけようとしている。

人の家族を滅茶苦茶にして何故そんなに笑ってられる。

ママはおかしくなっても、それでも尚私を守ってくれたんだ。

笑うな。

ママを侮辱するな。

「返してよ。」

死が迫っているのに怖くない訳がない。

でも、その恐怖と同じくらいの怒りがあった。

「私の家族を返せ!」

私は涙を流しながら大声で叫んでいた。

私の叫びには何の反応も見せずに、こいつはそれでも笑うのをやめない。

悔しい。

こんな奴に全てを奪われることが。

こいつに殺されるのをただ待つことしか出来ないのが、私は悔しい。

ゆっくりと徐々に私の方へ寄ってきてる。

もう私は鏡を見ることをやめ、下を向き目を瞑っていたが、気配と音でそれがわかる。

ママ、ごめんなさい。

命と引き換えに助けてもらったのに。

私ももうそっちへ行きます。

私が覚悟を決めた時だった。

真横から声が聞こえた。

「いい子にしなかったんだね。」

…圭介の声だ。

「立って。」

手を引っ張られて無理矢理立ち上がらされると、そのまま後方へと突き飛ばされた。

私はよろめき、その場に倒れ込んだ。

急にあいつの笑い声が止まった。

「お姉ちゃんはもう行かないと。」

「目を開けたらいけないよ。」

その言葉が聞こえたのと同時に、関節が鳴る音をひどくしたような、鈍い音がした。

「圭ちゃん!」

私は忠告を破り、目を開いた。

弟の首があらぬ方向へ曲がっている。

その光景が目に入った瞬間、私は悲鳴をあげ、弟の名前を叫んだ。

圭ちゃんの体がそのまま床に倒れていく。

そして、弟の方に体を向けていたあいつが、体はそのままに顔だけをこちらへ向けようとしている。

すんでのところで、私は反対を向いた。

いつ間にか私の体が部屋の入り口にある。

ここまで私を動かすために、圭ちゃんは…。

すぐ前に廊下があった。

逃げなければ。

ママだけじゃなく、圭ちゃんまでもが犠牲になって私を逃がそうとしてくれた。

二人の死を無駄になんてしない。

私は立ち上がった。

走りたいのに、片足に重い痛みを感じて上手く走れない。

倒れた際に足を挫いたらしい。

それでも壁に手をやりながら、片方を引きずるようにして進む。

階段も手すりに掴まって何とか降りていたが、半分を過ぎた所でバランスを崩した。

全身を打ちつけながら転げるように落ちていき、体が床に当たってようやく止まった。

全身が酷く痛む。

口に鉄の味が広がり、内臓には鈍い痛みを感じる。

体の至る所で皮膚が捲れて血が滲む。

泣きながら手を前に伸ばし、玄関へと這いつくばって行った。

階段から軋む音と赤ん坊の泣き声が聞こえてくる。

あいつが降りてきてる。

もっと。

もっと早く。

このままじゃ追いつかれる。

最後の力を振り絞って、もう一度立ち上がった。

ドアはもう目前だ。

だが迫る足音も着々と近づいてきている。

すり足で迫りくるあいつの姿が頭をよぎった。

靴も履かずにドアノブに手をかけ、扉を開いた。

私の後ろ髪にあいつの手が触れた感覚がある。

それでも構わず私は前に進んだ。

髪の毛を引き抜かれようとも、私は止まらなかった。

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