第6話
「咲希、ご飯だから降りてらっしゃい。」
この聞き飽きた台詞が今は私の心を深く抉る。
昨日は圭ちゃんが守ってくれた。
でもその弟はもういない。
まだ生きているのに、もう話もできない。
こんな事になるとわかっていたなら…。
私がダイニングを訪れた時にはすでに全員が席についていた。
私の前には弟が着席しているが、とても顔を直視できない。
別人の様になった姿を改めて見たら、きっと罪悪感と悲壮感に押し潰されてしまうから。
極力目を合わせないように、私は俯きながら食事を始めた。
テーブルにはビーフシチュー、パン、サラダが並んでいる。
幼少期にパンを食べて戻したことがあり、それ以来私は滅多に口にしなくなった。
ママはそんな私を気遣いパンを避けて献立を考えてくれていた。
その記憶も母にはない。
食べることは愚か、匂いを嗅ぐすら嫌だがそれでも私は無理やり口に詰め込んでいく。
母に悪い印象を与えぬため、食事を残す訳にはいかない。
決して私を叱る口実を与えてはいけない。
早くこの場を去りたい一心で次々と料理を口に運ぶ。
「咲希。」
名前を呼ばれ、何か粗相をしてしまったのかと食べる手を止めた。
「何…ですか?」
「食事を済ませた後、時間あるかしら?」
そんな…。
早過ぎる。
私にはもう少しだけ猶予が残されているものだと勝手に思い込んでいた。
…しかし、当然のことなのかもしれない。
残っているのは私だけなのだから。
最後に私が消えればそれで終わる。
「あの、今日は、学校のことをしなきゃ…。」
私の言葉に何の反応も見せず、沈黙が訪れる。
こんな言い訳で逃れられないことはわかっている。
胃の中のものを全て吐き出しそうだ。
「あのね、もうすぐテストがあって、それで。」
「私、お母さんに喜んでもらいたくて、その、だから頑張らないと、って。」
全身を震わせながら言葉を絞り出した。
下を向いたまま、ここから走って逃げることを考える。
立ち上がってドアを開け玄関まで行って外に出る、簡単なことだが、捕まらずに私はやり遂げられるだろうか。
少しでもしくじったらそこで終わり、でもここで何もしなかったらどの道お終いだ。
小刻みに揺れる足に力を入れたその時だった。
「そう。咲希はいい子なのね。」
母が沈黙を解き、反応を見せた。
「それならまた今度にしようかしら。」
一気に力が抜ける。
まさか見逃してもらえたのか。
どうして。
いや、そんなことはどうだっていい。
母の気が変わらない内に一刻も早くここを離れなきゃ。
残りを強引に詰め込み、口早にご馳走様を告げて私は自室へと戻った。
迂闊だった。
いい子にしていれば、しばらくは免れるものだと高を括っていた。
今こうしていられることが奇跡だ。
母の気まぐれだったのか、何が理由かはわからないが、とりあえず一命は取り留めた。
少しでも何かが違っていたならば、もうここにはいなかっただろう。
従順にしていようが、反抗しようが関係ないのだ。
遅かれ早かれ、私は…。
もう本当に時間がない。
母は言った。
また今度にする、と。
次はもう逃げられないだろう。
私は覚悟を決めた。
この家を出て、遠い地へ逃げる。
家の誰かが通報したら、失踪者として行方不明のリストに載ることだろう。
未成年だから警察に見つかれば連れ戻される。
当然学校に通うことはできなくなるし、今後まともな職に就くことも難しくなる。
それどころか食べる物も、寝る場所さえも確保できないかもしれない。
それでも、ここを出る事を望んだ。
生きるか死ぬかの話だ。
この先いくら過酷な道が待っていようとも、私は生きたい。
咲希として、生きていたい。
今夜中に家を出ることも考えた。
だが、その考えは危険であることに直前で気付く。
たしかにこれ以上この家に居ることは死に直結する。
でも、もし今わざと泳がされていたとしたら。
母が私の反応を伺うためにああ言ったのならば。
私が逃げることを見越して、一晩中監視されている可能性だってある。
そこで捕まったらもう言い逃れはできない。
しかし逆に、母の言葉を信用するのなら、今夜は家にいても安全だと捉えることができる。
また今度にする、とそう言った。
今度というのが、一週間後なのか、或いは明日なのか、いつなのかはわからない。
でも今夜はその中に含まれていない、それは間違いないはずだ。
明日。
学校から帰ってきたら、この家を出よう。
制服のままではあまりに目立つし、かと言って登校時に荷物が多いと母に怪しまれる。
学校が終わって帰ってきたら荷物をまとめて家を出る。
夕食の準備を始めたタイミングが最も安全だろう。
やることは決まった。
今夜は、この家で過ごす最後の夜だ。
家自体に思い入れはない。
むしろ最悪の印象しか持っていない。
この家に越してさえ来なければ。
あんな鏡台さえなければ。
だが、家族は違う。
今でこそ三人はああなってしまったが、私はみんなのことが大好きだった。
いつも穏やかで、仲良しだったママ。
少し抜けた所もあるが、優しかったパパ。
そして、最後まで私の側にいてくれた圭ちゃん。
今後一生この三人と会えないのを想像すると、言葉では言い表せないほどの悲しみに襲われた。
この家に残ったとしても、私の知っている家族とはもう会えない。
頭ではそれを理解している。
でも、みんな姿形だけは残っている。
三人を見捨てることも、金輪際二度と会えなくなることも、全てが私の胸を締めつけた。
それでも私は行かなければ。
その晩、私は棚からアルバムを出し、その一枚一枚を目に焼き付けるように眺めた。
写真は好きだ。
頭から抜けていた出来事も、それを見ると鮮明に思い出せるから。
その記憶の中で、家族に会える。
明日持っていく荷物の中にアルバムは含めない。
荷物はなるべく少ない方が良い。
数ある写真の中で、最も気に入っているものを一枚だけ剥がし、それだけは持っていくことにした。
以前夢にも出てきた、家族で海へ行った時の写真。
綺麗な海を背景に、全員が笑顔で写っている一枚だ。
家族との繋がりを示す、たった一つの形見として大切にしよう。
多くの思い出と共に私はそのまま一晩を過ごし、朝を迎えた。
深夜の間に母が、そしてあいつが来ることも警戒していたが、杞憂に終わった。
着替えを済ませた私は母の呼び声を待つ。
そろそろ朝食の時間だ。
意味はないのかもしれないが、私が今日家を去ろうとしている事を微塵も悟らせてはならない。
違和感を与えないためにも、朝食は共にした方がいい。
最後に一度だけ、あの者たちと食事を取ればそれで済む。
そう思えば我慢できる。
だが、一向に呼ばれる気配がない。
おかしい。
いつもならとうに朝食を摂り始めている頃だ。
まさか昨日に続いて、母は今日も朝食を作っていないのだろうか。
ルーティンの崩壊が顕著に現れてきている。
私は学校の鞄を持って部屋を出た。
階段の中腹辺りに来た段階で、朝食に呼ばれなかった訳を知ることになった。
襖が閉まっているのに、三人の声が和室からはっきりと聞こえてくる。
それなりの大きさで声を出さなきゃこうはならない。
「殺された。」
「殺された。」
前と台詞が違うが、何度も同じ言葉を繰り返している。
中の様子はわからないし、知りたくもない。
本当にこの家はもう限界が近い。
この場所から私は絶対に逃げ切ってみせる。
夕方には解放されるんだ。
いや。
もしかすると、夕方まで待つ必要はないのかもしれない。
今なら荷物を持って家を出られるのでは。
和室を通り過ぎようとした時、そんな考えがふと頭をよぎり足を止めた。
一旦部屋まで戻って、取りに行くべきか?
しかしそれには大きなリスクも伴う。
やはりこのまま学校へ。
そう決断し数歩進んだところで、襖が開く音がした。
「咲希。」
背後から声と共に息遣いを感じた。
声は母のものだ。
だが、名前を呼ぶ声は真後ろからではなく、少し離れた位置から聞こえた。
なのに、気配がすぐ後ろにある。
不規則で小刻みに息を吐くような、啜り泣く時に出るような音が間近からしている。
これが何を意味しているのか、私は理解していた。
「あの、学校に、遅れそうなんです。」
早く足を動かせ。
逃げなきゃ駄目なのに。
何で体が言うことを聞かないの。
「嫌!やめて!」
急に手首を鷲掴みにされた。
それと同時に私は叫び、必死に抗おうとする。
相当な力で握られており、振り解こうとするが全く敵わない。
「落ち着きなさい。」
隣から声がして、私の手首を掴んでいるのがあいつではなく、母であることに気付く。
だが、どちらでも同じことだ。
このまま私は消される。
「いや!」
腕を引っ張られ、私は連れて行かれた。
…後ろにではなく、正面の玄関の方に。
「早く学校に行きなさい。」
「なん…」
振り返って疑問を投げかけんとする私を、母は止めた。
「私の言うことが聞けないの?」
「…。」
訳がわからない。
確かなのは、この機会を逃すべきじゃないということ。
私はローファーの踵を踏んだまま、飛び出す様に外へ出た。
家から出ると私はすぐに走った。
後ろは振り返らない。
しばらく無我夢中で走り続けると、人通りの多い道まで来ることができた。
そこまで来て私はようやく立ち止まり、息を整える。
周りの通勤中の人らが私を横目に見ながら通り過ぎて行く。
呼吸が落ち着き、私も道行く通行人の一部に混じって無心で駅へと向かう。
だが私は電車には乗らなかった。
駅前の喫茶店に入り、まずは学校に連絡を入れる。
体調不良で遅刻し、場合によっては欠席する旨を伝えた。
それが済んでから、私は考え事に集中した。
私には頭の中を整理する時間が必要だった。
この先私はどうすべきなのだろう。
荷物は部屋に置いてきてしまった。
昨夜のうちに必要なものをまとめたリュックの中には、通帳や着替え、充電器などの必需品が入っている。
私が選んだあの写真もそこにある。
手持ちの財布には三千円ほど入っているが、これでは余りにも心許ない。
お金もそうだが、着替えがないのも相当な問題だ。
早くも計画が破綻した。
怪しまれないようにと荷物を持ってこなかったことが裏目に出た。
家に取りに戻ることは自殺行為に等しい。
それはわかっている。
しかし、荷物なしでこのまま家を去ることもまた、同じく向かう先は破滅だろう。
そして、それとは別に私にはもう一つあの家に用があった。
母のことだ。
さっきの出来事、あれは私を助けたようにしか思えなかった。
そうでなければ辻褄が合わない。
背後から今にも襲われそうになっている私を、救ってくれたのではないだろうか。
玄関まで私を引っ張り、私が振り向こうとするのを止め、そして外へと逃がしてくれた。
これが私の希望的推測である可能性は否定できない。
でも私は確かめたい。
あれが、母なのか、ママなのかを。
三人の意識は完全に消え去り、元に戻ることはないとばかり考えていた。
ほんの少し、僅かでも、まだママの心が残っている見込みがあるのなら。
この前の弟の件も、ひょっとしたらあれは圭ちゃんの言葉だったのかもしれない。
…家に戻ろう。
私は当初の予定通り、家に立ち寄ってから姿をくらますことを決めた。
今すぐにじゃない。
念のため学校に行ってから。
あれが母だった場合に、学校に早く行けというのが言葉通りの意味だとするなら、それは破るべきではない。
グラスに残っていた紅茶を一気に飲み干した。
店を出るとまばらに雨が降り出している。
厚い雲が空を覆い、まるで夕方のような暗さを作り出していた。
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