第4話

ホームルームが終わると、私は教壇で片付けをする担任の元へ駆け寄った。

「先生ちょっとお話が。」

「どうした、香山。」

「あの、できれば他の人に聞かれたくなくて。」

「大事な話か?」

「はい。」

「なら少し待ってなさい。面談室の鍵を持ってくるから。先に行って部屋の前で待っててくれるか?」

「わかりました。」

私は言われた通り、一階の面談室前で担任が来るのを待った。

ここは職員室から少し離れた所にあり、奥まった位置関係から普段はあまり近寄らない場所だ。

まだ下校時間になってさほど経っていないのに、人通りは少ない。

遠くに生徒たちの喧騒だけが聞こえる。

下校中の談笑する声、部活動に勤しむ声など、向こうではいつもと変わらぬ放課後の時間が流れていた。

その中で私だけが取り残されているような感覚に陥る。

すぐそこに活気が溢れているのに、ここだけは音がなく静かだ。

もちろん静寂のせいだけでなく、私の家が平穏ではなくなったことに起因したものだろう。

周りは幸せな日常を楽しんでいる。

私だって少し前まではその一人だった。

私もその一員に戻れる日は来るのだろうか。

そんなことを考えていると、向こうから先生が近づいてくるのが見えた。

「遅くなって悪かったね。入りなさい。」

鍵を開け面談室に入る担任の後に続いて私も入室した。

「それで、大事な話というのは?」

「あの、少し言い難いというか、説明が難しいのですが、私の家庭の話です。」

「何か問題が?」

「はい。なんと言うか、私の親が少し前から変なんです。」

「母も父も急に性格が変わってしまった感じで、理由とかを尋ねても一切答えてくれません。別に喧嘩もしてませんし、思い当たる節は…ないんですけど。」

「冷たくされたり、無視されたりなどは?」

「冷たいというよりかは、本当に別人のようなんです。母も父も。その事を聞くと、無視というか、真顔で黙り込んでしまいます。」

「ストレートに聞くけど、虐待や暴力は?」

「いえ、殴られたことはありません。」

「なるほど。」

私の話を聞いて、先生はしばらく考え込んでいる様子だった。

「正直に言うと、今香山から聞いた話ではあまり状況が掴めないし、虐待を受けている訳ではないとなると先生はあまり家庭の中のことに首を突っ込めない。」

その一言を聞いて、私はあからさまに落胆した。

話を聞いてくれるかどうかすらわからなかったし、そこまでの期待はしていないつもりだったが、他に拠り所がなく本心では先生を当てにしていたのだろう。

「ただ。」

「ここ最近、香山が授業中に居眠りしたり、顔色が良くないことは気にしていた。多感な歳だから色々あるのだろうと思って、しばらく様子を見てから声をかけようと考えていたが。」

「でも、家庭の事情によるものだったとは。」

「香山の具合から察するに、かなり深刻なんだな?」

「…はい。」

「わかった。後で香山の家に電話をするから、お母さんに予定を聞いた上で、早ければ明日にでも家に伺うよ。」

「そこで一先ず三人で話をしてみる、それでどうだろう?」

「それでお願いします。」

「他に言いたいこととか、話しておきたいことは?」

「とりあえず大丈夫です。」

「早速連絡を入れてみるから今日は帰りなさい。何かあったらいつでも相談してくれて構わないから。」

「ありがとうございます。」

よかった。

話を聞いてもらえた。

先生に少しでも親の異常さが伝われば、もしかしたらあの家を離れられるきっかけになるかもしれない。

あの唐突の真顔、無言を見たらきっと私の言っていたことを多少は理解してくれる。

学校を出ると、私はすぐさま圭ちゃんに連絡を入れた。

“先生に話したよ。そしたら明日にでも家に来て、お母さんと話してくれるって。今学校を出たから、しばらくしたら帰るからね。”

間を置かず、すぐに返信が来る。

“よかった。姉ちゃん帰ってくるまであそこのコンビニで時間潰してるから。”

あの子もきっと、私と同じかそれ以上に不安と恐怖を感じている。

幼い頃は泣き虫でよく私を頼っていた。

今は気丈に振る舞っているが、私にはいまだにあの頃の圭ちゃんの印象が残っている。

俺が守ると言ってくれて嬉しかったけど、無理をして強がっているのではと思うと辛くなる。

人の心配をする余裕なんて私にもない。

それでもあの子は私が守らないと。

今となってはたった一人の私の家族なのだから。


家の近くのコンビニへ入ると、雑誌を読んで時間を潰す圭ちゃんを見つけた。

「ごめんね、結構待った?」

「ううん、大丈夫。」

待たせてしまったお詫びにホットスナックを買ってあげて、一緒に食べながら帰路につく。

こんな風に二人で帰るのは久しぶりだ。

私も弟も、ある程度の歳を境に一緒にいる時間が減っていった。

仲が悪い訳ではなく、単に二人がそういう時期を迎えただけだ。

姉弟でベタベタするのが妙に小っ恥ずかしく感じ、自然と距離ができる。

でもこうして二人で過ごす時間も案外悪いものではない。

家があのような状況でなければ、より純粋に幸せを感じられたことだろう。

「ねえ。背、高くなったね。」

「なんだよ、急に。」

「なんとなく。そう思っただけ。」

不貞腐れたような顔をしながら、圭ちゃんは適当に相槌を打った。

「そんなことより、担任の人と話したこと教えてよ。」

話した内容をかい摘んで伝えた頃にはもう私たちは家に着いていた。

「おかえりなさい、咲希、圭介。」

扉を開けると、玄関で母が待っていた。

朝は顔を合わさずに家を出たため、体に緊張が走る。

「さっき学校から電話があって、面談をしたいと言われたの。」

「…それで?」

「明日先生が家にいらっしゃるから、咲希も真っ直ぐ帰ってきなさいね。」

「…わかった。」

早速先生が連絡を入れてくれたようだ。

母も申し出を受け入れた。

とりあえずは順調に事が進んでいる。

二人で母の横を通り過ぎ、二階へ行こうとした。

「なんで急に面談なんて」

声が聞こえて後ろを振り返ると、母もこちらを振り向きながら言った。

「するのかしらね、咲希。」

頭が真っ白になる。

表情のない顔でこちらを見ていた。

「え…あ、私…。」

言葉が出てこない。

勘繰られている。

「いや、その、なんでって…。」

「面談くらい普通にするでしょ。」

「あなたには聞いてないの!」

圭ちゃんが助け舟を出してくれたが、間髪入れずに母が大声でそれを制した。

声を荒げる母の姿は見慣れず、私の動揺に拍車をかける。

声と表情の不一致が不気味さを際立たせていた。

「なんだよ、それ。俺は喋っちゃいけないのかよ。」

「圭介、あなた悪い子なのね。」

「は?」

「悪い子ね、あなた。」

「圭ちゃんもう行こ!」

私は圭ちゃんの手を掴んで、二階へと足早に上がって行った。

「なんなんだよ。」

部屋に入り、圭ちゃんがそう呟く。

「大声出されたのは初めてだけど、ずっとああいう感じなの。あの人。」

「面談のこと怪しんでたな。」

「まさかあんな事言われるなんて思ってなくて何も言えなかった。」

「でも、担任の人が来てくれる事に変わりはないんだから大丈夫だよ。きっと。」

「そうね…。」

着替えのため一度自室に戻り、それからはまた弟の部屋で時間を過ごすことにした。

この家の中で一人きりになることを私たちは避けていた。

母と父の存在だけでも不安なのに、あいつがまたいつ現れるかと思うと、とても一人でなんて居られない。

今はまだ外も明るいが、直に夜が訪れる。

あいつが暗がりの時にしか現れないのかどうかはわからない。

だが日がある内は幾分か安心感がある。

「圭ちゃん。」

「ん?」

「今夜も私、この部屋で寝ていいかな?自分の布団持ってきて床で寝るからさ。」

「うん。…今日だけじゃなくて、姉ちゃんが安心できるまでここで寝ていいから。」

圭ちゃんに感謝を告げ、自室へ戻る頻度を極力減らすために必要なものを移動させる。

「お母さんってもうご飯の支度始めてるかな?」

「どうだろう。あんな感じだったから今日はご飯作らないんじゃない?」

「ううん、あの人はきっと用意すると思う。様子がおかしくなってからしばらく経つけど、ルーティンは崩さないみたいなの。決められた行動を取り続けるみたいな。」

「なんか気味悪いな。いつも通りならこの時間はご飯作り始めてる頃だよね。でも、なんで?」

「暗くなる前にお風呂入らないとなって。入りに行く時にあの人と鉢合わせたくないからさ。」

「風呂なんて入らなくていいよ。」

「あんたは男の子だからいいかもしれないけど、私は無理なの。」

「でも危なくない?ついて行こうか?」

「ついてきてもらいたいけど、脱衣所の中にずっと居られても困るし。それにまだ明るいから大丈夫だと思う。」

「なら一階まで一緒に行くよ。帰りは一人になるだろうけど。」

「ありがとう。」

「なんかあったら叫びなよ。すぐ行くから。」

圭ちゃんについて来てもらいながら、風呂場へ向かう。

途中、案の定ご飯を準備する音が聞こえた。

今のうちにさっさと済ませてしまおう。

ここまでで大丈夫だという合図を送り、そこからは一人で脱衣所へ向かい風呂に入る。

こんな時でも一日に一度はシャワーを浴びないと気が済まない。

男の子はあまり気にならないのだろうか。

体や髪のべたつきは耐えがたいものだと思うが。

そんなことを考えながら体を洗い、次に髪を洗う。

高校生になってからは髪を長めに維持しているので、洗うのに時間がかかる。

一度伸ばすと踏ん切りがつかず、なかなか短くできない。

腰に届くか届くないかくらいまでの長さに伸びており、手入れも手間がかかるが、それでも黒くて艶のある自分の髪が好きだ。

ようやく全体を洗い終え、シャワーで流す。

浴室全体に水の跳ねる音が響く。

その音に混ざり、後ろの脱衣所で物音が聞こえた気がした。

すぐさま流れ出るお湯を止める。

目を閉じたまま耳に神経を集中させた。

水の滴る音が一定間隔で聞こえてくる。

「圭ちゃん…?」

呼びかけてみたが返事はない。

濡れて垂れ下がった自分の前髪を左右に分け、私は目を開いた。

湯気で曇った鏡に手を伸ばし、指で擦る。

誰もいない。

背後にある扉がすりガラスであるためはっきりとは見えないが、脱衣所にも人影はないように見える。

念のため後ろを直接振り返るが、やはり向こうから気配は感じられなかった。

急いで残りを洗い落とし、浴室を出る。

疑心暗鬼から来る私の思い込みだったのかもしれない。

でも、急ぐに越したことはない。

少しもたもたし過ぎた。

タオルで体を拭き、用意していた着替えに手を伸ばす。

その時、浴室から声が聞こえた気がした。

人のものではなく、前に聞いた猫のようなそれだ。

脈拍が上がって、息遣いが荒くなる。

私は何も気付いていない素振りでタオルを体に巻きつけ、後ろを決して見ないように脱衣所を出た。

足早に階段を昇り、圭ちゃんの部屋に駆け込む。

「ちょ、その格好…。」

「どうしたんだよ。」

「あいつが。」

「今、近くにいたかもしれない。」

「なんで俺のこと呼ばなかったんだよ!」

「…怖くて、声が出なかったの。」

「それに、姿を見たとかじゃなくて音が聞こえた気がして…。」

「だから風呂なんてやめとけって言ったんだ。」

「…とりあえず無事でよかった。後ろ向いてるから、服着なよ。」

あれは思い込みや気のせいだったのだろうか。

でも確信は持てないが、あの時浴室にはあいつがいたんじゃないかと私は思う。

話を聞いた圭ちゃんもそう言っている。

今日は二人ともご飯を抜く事にした。

部屋から出るのは危険という判断だ。

少なくとも夜間は特に。

まだ明るい時間だったから姿を見なくて済んだ、という可能性もある。

朝まで私たちは部屋から出られない。

ここで大人しくしているのが賢明だ。


夕食時になり下から母の呼ぶ声が聞こえてくる。

私の代わりに圭ちゃんが大きな声で、二人とも今日はご飯が不要である旨を伝えてくれた。

「明日から俺たちご飯どうしたらいいんだろ。」

「しばらくの間は私が帰りに買っておくよ。意外と貯金あるし。」

「いや、自分の分は自分で出すから。貯金があるって言ってもすぐなくなっちゃうだろ。」

「そしたら、夕方の間に冷蔵庫から食べられそうなもの拝借するしかないね。」

そんな話をしていると、階段を昇る音が聞こえてきてドアをノックされた。

「なに?」

室内から圭ちゃんが返答をする。

「ご飯だから降りてらっしゃい。」

「だから今日は俺も姉ちゃんもいらないって。」

「ご飯だから降りてらっしゃい。」

同じ言葉とノックを繰り返される。

「いらないって言ってんじゃん!」

圭ちゃんが怒り気味にそう言った途端、急に静かになった。

様子を伺っていると、少し間が空いてから母が喋った。

「圭介は本当に悪い子ね。後で言い聞かせてもらわないと。」

「部屋から出てきなさい。咲希もいるんだろう?二人とも出てきなさい。」

父もいたことに私は驚いた。

階段から聞こえた足音は一人分に思えたが。

私たちが応じないことに痺れを切らしたのか、ドアを開けようとし始めた。

だが鍵は閉めてある。

何度か試みた後、その内諦めて降りていったようだ。

私がふと圭ちゃんの事を見ると、怒りとも悲しみとも取れる複雑な表情を浮かべていた。

そんな顔になるのも当然だ。

私の前で弱音は吐かないが、慕っていた母が豹変し別人のようになるなんて事は到底受け入れ難い。

私も同じ心情であるため気持ちがよくわかる。

こんな事を言ったら弟には酷だが、私はあの二人が元に戻ることはないと思っている。

何の根拠もない、あくまでも私の直感に過ぎないが。

人格が変わってしまう要因にあの箱が関係していることは間違いないだろう。

しかし今となっては箱に近づくことも、ましてや触れて調べることなんて出来そうにない。

私たちに残されたのは、両親を救うことではなく、早急にこの家から抜け出す道だけだ。

先生に異常性が伝わりさえすれば、保護を受けられる可能性が高まると私は考えている。

明日に賭けるしかない。

「姉ちゃんお腹空いたでしょ?」

考え事をしていると気にならなかったが、そう言われた途端空腹感に襲われた。

こんな時でもお腹は空くものなのかと自分で呆れてしまう。

女の私が減っているのだから、食べ盛りの弟は私以上にお腹を空かしているはずだ。

「お腹空いたね。明日の朝早めに家を出て、コンビニで何か買ってあげるから我慢してね。」

「こんなので良かったら一緒に食べる?俺、結構買いだめしてあってさ。」

そう言いながら数袋のスナック菓子を圭ちゃんが出してきた。

お菓子を隠し持っていることに、思わず笑みが溢れる。

「あんた、自分の部屋なのにわざわざそんな所にお菓子隠してるの?」

「だって昔からママが俺のお菓子見つけると、またこんなに買ったの?って愚痴愚痴言うからさ。」

やっぱり、幾つになっても圭ちゃんは圭ちゃんだ。

「じゃあお言葉に甘えてもらっちゃおうかな。」

「今度倍にして返してね。」

馬鹿げたやり取りをしながら、二人でお菓子を食べた。

こんな物だけど、私にとっては最近の中で何よりも美味しく感じる。

食事は何を食べるかよりも、誰と食べるかの方が重要であると染み染み思う。

変わった夕食を済ませ、電気を消して私たちは眠りにつくことにした。

歯磨きをしたいが、もうそんなことは言ってられない。

「床に布団敷いただけじゃ体痛いでしょ?」

「ううん、大丈夫。」

「やっぱり俺が床で寝るから、姉ちゃんがベッド使いなよ。」

「いいの、私どうせ眠れないから。」

「そう?…じゃあ、いいけど。」

互いにおやすみを言い、私がいつものようにイヤホンをつけようとすると、圭ちゃんがまた声をかけてきた。

「あのさ。」

「なに?」

「嫌じゃなかったらなんだけどさ、こっちで一緒に寝る?」

「あんた、自分が怖いからでしょ。」

「そんなんじゃないって。もういいよ。」

「ごめん、ごめん。じゃあ久しぶりに二人で寝よっか。」

思わず茶化してしまい圭ちゃんもムキになって否定したけど、怖いのはきっと事実だろう。

私だって怖い。

私は随分前から、ずっと。

「流石に二人だと狭いね。」

互いに背中を向け合って横になる。

二人で一緒に寝るなんていつ振りだろうか。

背中越しに人の温もりが伝わってくる。

「今度こそ、おやすみ。」

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