第2話
三面鏡はここに引っ越してきた時に、和室に残されていた物だ。
前の所有者が残していった荷物を私たちが自分で片付けることを条件に、相場よりも安い値段でこの家を購入している。
内見の時に家の中を確認したが、ゴミなどはあまり散乱しておらず、箪笥などの大きいものが幾つか残されているだけだった。
使えそうな物は残し、要らない物は処分すると決め、引越し当日は掃除と整理に時間を費やした。
私の担当する箇所が粗方片付いた頃、和室の方からママに呼ばれた。
「さっちゃん、こっちに来て。すごいのがあるよ。」
向かうとママは押入れを開けて、見てごらんと中を指差している。
一体何があるのかと私も興味津々に中を覗くと、年季の入った木製の三面鏡が置いてあった。
頭頂部がアーチ型で縦長の鏡部分と、収納棚のある土台がセットになったものだ。
観音開きの扉を開けると、正面と左右に計三枚の鏡が現れる。
「こんな立派な化粧台、買うとすごく高いよね。どう?さっちゃん?」
たしかに、このサイズのものを買うと結構な出費になる。
だが、誰が使っていたかもわからないアンティークの鏡はどこか薄気味悪い。
「私はいいかな。こんな大きいのを二階まで運ぶのは大変だし。それに、ちょっと怖いかも。」
「そう、本当にいいの?ならママが使おうかな。」
私とは反対に、ママは化粧台を気に入っているようだった。
移動させるのは手間だということで、その日からママは和室でお化粧をするようになった。
…夜中に暗闇であの鏡を見ていた理由がわからない。
おかしくなった原因はあの三面鏡にあるのだろうか。
曰く付きの物だったとか。
だとしても引っ越してからずっと使っていたのに、何故急に。
心配だが、とりあえず今夜パパが話してくれるのを待つしかない。
時間はもう五時を過ぎて、外は空が白んできている。
私は結局眠りにつけぬまま学校へ向かった。
居眠りで教師に注意され、友人たちからは顔色が悪いとしきりに心配された。
時間だけが足早に過ぎ下校時間を迎えたが、正直家に帰りたくない。
ママを避けるために久しぶりに寄り道をしてから帰ることにした。
スマホの振動で私は目を覚ました。
どうやらいつ間にか眠ってしまったらしい。
画面を見ると圭ちゃんからの着信だった。
「もしもし。」
「あ、姉ちゃん。今どこ?」
「駅前の喫茶店。ちょっと、うとうとしちゃってた。」
「そっか。ママがしきりに咲希はどこだって聞いてくるから電話した。無事ならいいけど、もうすぐご飯だから早めに帰ってきなよ。」
適当に返事をして電話を切る。
店を出ると辺りはすでに暗くなっており、塾帰りの学生や飲み屋に入っていく会社員などで賑わっていた。
いくら寄り道をしたところで、結局はあの家に帰るしかない。
帰るとパパもすでに家に居て、庭で煙草をふかしていた。
「おかえり。お店で寝ちゃったんだって?」
「うん、寝不足だったから。」
「…そうだよな。咲希には迷惑かけちゃったね。」
「ちゃんと今日恵子と話すからね。だから心配しないで。」
「わかった。ママのことお願いね。」
部屋で着替えを済ませてから食事の席についた。
今日は私だけでなく、いつもと違ってパパの口数も少ない。
その様子を感じ取ったのか、圭ちゃんが尋ねてきた。
「今日いつもより静かじゃない?何かあったの?」
余計なこと言わなくていいのに。
一瞬そう思ったが、圭ちゃんに罪はない。
昨晩、圭ちゃんは熟睡していたようで一人だけ何があったのかを知らない。
話すべきか考えたが、話したところで心配を与えるだけだと判断し黙っておいた。
「金曜だからみんな一週間の疲れが溜まってるのかもな。」
パパが何とか空気を変えようとしているがその試みも虚しく、重い空気は拭えない。
会話が少なかったためか、いつもは私が一番先に食べ終えて部屋を出ていくのに、珍しく圭ちゃんの方が早かった。
早く二人だけの状態にしてあげねばと、私も急いで残りのご飯を片付け、ダイニングから立ち去ろうとする。
席を立つ際にパパを見ると目が合った。
後は任せろと言いたげな顔をしている。
私もそれに応じるように一度頷き自室へと戻った。
懐かしい夢を見た。
昔家族で旅行に行った時の記憶。
まだ私も圭ちゃんも今よりうんと幼かった頃に、沖縄に連れて行ってもらった。
住んでいる県が陸に囲まれているため、海を見ること自体その時が初めてだった。
写真のような景色に私は心を奪われ、その時の情景は今でもはっきりと覚えている。
私と圭ちゃんは初めての海に興奮し、我を忘れて一日中はしゃぎ回った。
そして遊び疲れて動けなくなった私たちを、パパとママがそれぞれおんぶしてくれた。
パパの背中ですやすやと眠る圭ちゃんを横目に、私もママの体温を感じながらゆっくりと瞼を閉じた。
温かくて、懐かしい夢だった。
夢の中で眠りについた自分と入れ替わるように、現実の私は目を覚ました。
二人の話し合いが終わる頃までは起きていよう、そう思っていたのに。
そうだ、二人はちゃんと話せただろうか。
たった一度の話し合いでどうにかなるとは思っていないが、せめて解決の糸口となる何かを掴んでいてほしい。
顔を洗いに洗面所へ行くと、髭でも剃っているのか丁度パパが立っていた。
「おはよう。」
「おはよう、咲希。」
「昨日どうだった?」
「…。」
「ほら、ママのことだよ。何かわかった?」
「いや、何も。」
この人は何を言っているのだろう。
「いや、何もって…。ちゃんと話したの?」
返事をしないパパに腹が立ち、私は捲し立てた。
「ちょっと。黙ってないで答えてよ。」
「昨日パパ言ってたよね?ちゃんとママと話すって。」
「本当にちゃんと話してくれたの?」
こちらを見向きもせずに一言だけ返してきた。
「咲希は心配性だからな。」
怒りを通り越して呆れ果てた。
「…もういい。」
何とかすると言っていたのに、信じられない。
ここまで来るとあれは楽観的ではなく、ただの考えなしだ。
真剣に向き合ってくれたと思っていたが、私がうるさいから一旦そういう態度で誤魔化したのか?
私のことを神経質で口うるさい女だとでも思っているのだろうか。
とりあえずあの人が当てにならないことはよくわかった。
なら私が直接本人に聞く。
私はその足で母の所へと向かった。
「ママ、ちょっと話があるんだけどいいかな?」
「あら、咲希。どうしたの?」
「率直に言うとね、最近私たち気まずい関係が続いてるなって思ってて。」
「私は前みたいにママと仲良くしたいの。だから、もしママに悩みとか隠し事があるのなら教えてくれないかな?」
途端に母が無表情になる。
こうなるだろうと予想はしていた。
母のことを詮索したら無表情になって黙り込む、それはわかっている。
でももう逃げている場合じゃない。
「黙っているのは、それが言い辛いことだから?それとも何か言えない理由があるの?私たち家族なんだから、少しは私を頼ってよ。」
反応はない。
「ねえ、お願い。何か言ってよ。」
「ママおかしいよ。なんで突然変わっちゃったの?私いつまでこんな思いをしなきゃならないの?」
話しているうちに無意識に涙が出てくる。
「ただ私は理由を知りたいの。前のママに戻ってほしいだけなの。」
「教えて、ママが急におかしくなったのには何か理由があるの?それは精神的なもの?」
「…それとも夜中に見てたあの鏡が関係してるの?」
これだけ言っても相変わらず反応はないように見えた。
けれど私は見逃さなかった。
鏡という単語を出した時、ほんの一瞬だが母は顔を強張らせた。
やはりあの化粧台に何かある。
これだけでは根拠に乏しいが、鏡に反応したのは事実だ。
「…わかったよ、お母さん。」
「何も答えてくれないんだね。ならもういいよ。」
そう私が言い終えると、母は笑っていた。
翌日、私がリビングにいると隣の台所で母が夕飯の支度を始めた。
一定のリズムで野菜を切る音が響く。
具材を切り終えたのか、続けてコンロのスイッチをつける音が聞こえてきた。
しかし一向に火がつく気配はない。
母は繰り返し試しているようだが、何度やっても結果は同じだ。
細工をしたのだから。
コンロの電池を中身が切れたものと交換しておいた。
だから火がつくことはない。
電池切れであることに気がついたのか、予備がしまってある棚を母が探している。
そこに入っていたものは事前に他へ移しておいたため、見つからないだろう。
替えがないことを知った母は台所を出て行き、しばらくすると戻ってきて私に言った。
「少しお買い物に行ってきます。」
目論見通り、母を外へ誘導することに成功した。
わざわざこんな事をするのも、勿論あの鏡を調べるためだ。
今日はまだ圭ちゃんも帰っておらず、これで家にいるのは私だけになった。
スーパーもコンビニも片道十分くらいはかかる。
往復の時間があれば問題なく調べられる。
母が家を出たのを確認し、私は和室へと向かった。
もうかなり陽が傾いてきており、直に日没になる。
部屋の灯りが必要なほど暗くなってきているが、暗がりのまま探すことにした。
しばらくは戻らないはずだが、臆病な性格が故にもし不意に母が現れたら、と考えてしまう。
幸いなことにまだ辛うじて夕日が部屋を照らしてくれている。
見えない所はスマホの明かりで照らせばいい。
この化粧台に近付くのは久しぶりだ。
改めて三面鏡を目の前にすると、相当年季が入っていることがわかる。
木目の部分は赤みがかった茶色に変色し、取手などに使用されている金具類は錆びがこびり付いて黒々としている。
しかしどこにも目立った傷はなく、余程大切に使われていたことが伺える。
扉を開いて鏡部分を隈なく確認したが、おかしな箇所は見受けられない。
となると調べるべきは下の収納だ。
一段目の引き出しを開け、照らしながら中を覗く。
何が出てくるのかと内心冷や冷やしていたが、いざ開けてみると中には化粧品類しか見当たらない。
悟られない程度に漁ってみたが、変わったものはなさそうだ。
二段目にはティッシュや香水などの小物があり、三段目に関しては何も入っておらず空のままであった。
しかし、最後の棚にだけ底の右下に名前が刻印されているのを見つけた。
“清子”、私の知らない名前だ。
「きよこ?…せいこ?」
私からすると、せいこの方がしっくりくる。
この三面鏡の前の持ち主の名前か、そうでなくとも、これまでにこの化粧台を使用していた誰かのものであることは間違いない。
嫁入り道具として持ってきた物なのだろうか。
いざ鏡台を調べてみたものの、見つかったのは名前だけだ。
これに何か手掛かりがあるのではと期待していただけに落胆も大きい。
気落ちしながら棚を戻そうとした時、奥に何かがあるのを見つけた。
危うく見落とす所だった。
何だろうか、小さい箱のような。
手を伸ばしてそれに触れた途端、後ろで小さな物音が鳴った。
即座に私はスマホを足に押し当て光を隠す。
棚から手を戻し、下を向いていた顔を正面に戻した。
目に入ったのは鏡に映る自分と、僅かに開いた襖だった。
部屋に入った時に私はしっかりと閉めたはずだ。
頭は動かさずに目だけでそちらを注視する。
誰かがそこにいる。
廊下が暗くて見辛いが、かろうじてシルエットだけが視認できた。
体を隠しながら頭を傾けて部屋の中を覗き込んでいるように見える。
母だ。
物色している姿を見られた。
何故家にいるのか、どうしてこの部屋に来たのか、疑問と共に焦りが湧いてくる。
鏡の扉を汗ばんだ手で閉じ、立ち上がって後ろを振り向いた。
襖が閉まっている。
つい今さっきまで開いていたのに。
母が私の立ち上がる様を見て、音を立てぬように閉めたのだろうか。
「お母さん…?」
呼びかけても返事は返ってこない。
少しずつ、私は襖を動かした。
顔を出して廊下の左右を確認しても母の姿は見当たらない。
それどころか、何処にも電気がついておらず人の気配がまるでない。
訳がわからず廊下に立ち尽くしていると、今度は玄関から物音がした。
鍵を開けて誰かが入ってくる。
「咲希。そんな所で何をしているの?」
玄関から入ってきたのは母だった。
さっきまで家の中にいたはずなのに。
何故外から来たのか、どういう意図でその質問をしているのか、理解が追いつかない。
私が今何をしていたのかを知っていながら、敢えて尋ねているのか?
「ちょっと…コンビニに行こうかなって。」
「そう。もうすぐお夕飯だから早く帰ってきなさい。」
そのまま母と入れ替わるようにして私は外に出た。
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