第21話「灰の街の呼び声」

――時は流れた。


 あの夜、ナイト・ケアセンターを抜け出してから、五年。

 世界は静かに形を変え、そして壊れていた。


 地方都市アマツ

 灰色の空の下に並ぶ無機質なビル群。

 街の至るところにスローガンが掲げられている。


  《理性の進化こそ人類の未来》


 感染者の割合は七割を超え、国家の機能は感染者の手に握られていた。

 非感染者――彼らはいつしか“無血(ムケツ)”と呼ばれ、

 感染者社会の影で息を潜めるように暮らしている。


 理性を誇る者が支配し、感情を抱く者が排除される。

 そうして築かれた“平和”は、静寂そのものだった。


 灰の風が吹き抜ける街の一角。

 市立医療センターの白い看板の下に、「医師:レン・カミヤ」の名札があった。

 玲司――かつての名を捨て、彼は感染者登録済みの医師として働いていた。


 診察室には、無表情の患者たちが並ぶ。

 彼らの多くは「共鳴症候群」と呼ばれる症状を訴えていた。

 X-0ネットワーク――感染者社会を統括するAIへの過剰な精神同調。

 理性の制御が進むほど、感情の残滓に苦しむ者が増えていた。


「……また、夜になると“声”が聞こえるんです。『考えるな』って」


 男の手が震えていた。

 玲司は静かにカルテを閉じ、処方箋に短く記す。


「……理性抑制剤を減らしてみましょう。

 感情は病じゃない。抑えすぎれば、精神が“反発”する」


 患者は一瞬、目を見開いた。

 だが次の瞬間、苦笑しながら首を振った。


「先生……そんなこと言ったら、あなたが“再教育”されますよ」


 その言葉を残し、患者は去っていった。

 玲司はカーテン越しの光を見つめる。

 灰色の外気が、どこまでも冷たかった。


 夜。

 医療センターの屋上に、玲司は立っていた。

 風の音と、遠くの街灯。

 その中央に、都市の心臓――X-0タワーが青白く光を放っている。


 「……五年か。」


 背後から足音がした。

 ゆっくり振り返ると、そこに立っていたのは紗世だった。


 彼女は以前よりも静かで、どこか“造られた”ような微笑を浮かべていた。

 白衣の袖に埋め込まれた識別コード――“特級安定個体・α-Prime”。

 その瞳の奥には、かつての紅の光が、わずかに瞬いていた。


「久しぶりね、玲司さん。……いえ、レン先生、かな?」


「やめてくれ。今でも、お前には“玲司”でいい」


 紗世は小さく笑い、街を見下ろした。


「静かね。この街、眠ってるみたい」


「理性が街を支配した結果だ。……感情があると、ノイズになるらしい」


 沈黙。

 風が二人の間を通り抜けていく。


「ねえ、あの頃の夜を覚えてる? あの逃亡の夜。

 雨に打たれて、息を殺して……でも、自由だった」


「覚えてる。……でも、あれは夢だったのかもな。

 今は“静かすぎる”。人の声が、街から消えた。」


 紗世の横顔に、わずかな寂寞が浮かんだ。

 それは、理性では抑えられない“人間の痛み”の色だった。


 同じ頃。

 街の地下――廃駅を改造した隠れ家。


 柚月は端末の光を睨んでいた。

 彼女の肩には、“LUCIFER”の紋章を刻んだ黒い外套。

 感染者の中でも、支配構造に抗う少数派――地下組織の兵士だ。


「……始まるのね、“拡張”。」


 端末のスクリーンには、都市中枢AI《X-0》のシステム更新情報が流れていた。

  《共鳴領域:拡張開始予定 00:00》

  《対象:全国感染者ネットワーク》


 柚月の指先が震える。

 かつて施設で見た“紅い瞳の少女”――紗世の記憶がよみがえる。


「まさか……X-0の中枢が、彼女の“脳”を――」


 通信機から声が響く。

 『柚月、作戦区域を移動しろ。感染防壁が下りる』

 柚月はフードを被り、短く答えた。


「了解。……これで本当に、全部変わるかもしれないね。」


 深夜零時。


 街のスピーカーが一斉に点灯し、

 青白い光が通りを照らした。

 X-0タワーが低い唸りを発し、空を裂くように閃光が走る。


  《X-0ネットワーク:共鳴領域、拡張開始。

  理性の統合プロセス、第二段階へ――》


 街の人々が一斉に立ち止まり、無言で空を仰ぐ。

 その瞳の奥が、淡く光り始めていた。


 屋上の玲司と紗世。

 廃駅の柚月。

 それぞれが同時に、同じ方向――タワーの光を見上げる。


 風が止まり、世界が一瞬、息を潜めた。


 “進化の先にあったのは、再び分断された人類だった。”


 灰の街に、再び“呼び声”が響く。

 それは理性の声か、それとも――かつて失われた、人の心の声だったのか。

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