第20話「静寂の灯 」

夜の雨が、街の残響をすべて飲み込んでいた。

 ネオンの消えた通りに、光はなく、風の音だけが響く。


 玲司たちは、市街地の外れにある古びたオフィスビルの一室で息を潜めていた。

 崩れた天井、濡れた床、割れた窓。

 それでも、ここがいまの彼らにとって唯一の“安息の場所”だった。


「……はぁ、やっと撒けた、って感じね」

 柚月が壁に背を預け、息を吐いた。

 その肩は小刻みに震えていたが、口元にはいつもの皮肉な笑みが戻っている。


 玲司は濡れたコートを脱ぎ、腕の袖を絞る。乾ききらない血の跡が滲んでいた。

「助かった。お前の感応がなければ、あの包囲は抜けられなかった」

「便利屋だからね。鼻血サービス付きの」

 冗談めかした声の裏で、柚月の目は少しだけ曇っていた。


 隣では紗世が薄い毛布を握りしめたまま目を覚ます。

 瞳に光を宿したその瞬間、ほんの一瞬だけ紅い閃きが走った。

「……ここ、どこ……?」

「市街地の外れだ。しばらくは安全だ」

 玲司の言葉に、彼女は小さく頷く。


 だが、その頬を伝う冷たい雫は、雨のせいではなかった。

「……私、もう人間じゃないのかも」

 紗世の声はかすかに震えていた。

 玲司は静かに肩を抱き寄せる。

「そんなこと言うな。お前が誰よりも“人らしい”こと、俺が一番知ってる」


 その声に、紗世はようやく呼吸を整えた。


 少しして、柚月が廃自販機を漁って戻ってきた。

「ほら、戦利品。缶コーヒー二本と栄養バー一個。……今日のごちそう」

 玲司が笑う。「贅沢だな」

 三人で分け合ったコーヒーはぬるく、栄養バーは粉っぽかった。

 それでも――“温かさ”があった。


「逃げ出してきたのに、まるでピクニックみたいね」

「悪くないだろ。……誰かと生きてるって、こういうことだ」

 玲司の言葉に、紗世は小さく笑い、缶を胸に抱いた。

「この味、忘れたくないな。きっと、今日の夜のことも」


 雨音が静かに弱まる。

 柚月は窓辺に立ち、外を見つめた。

「ねぇ……この街、変わったね」

「変わった?」玲司が問い返す。

「うん。音がしない。車も、人の声も。

 前は、どんな夜でも誰かの生活の音がしてた。

 今は……“生きてる気配”が消えてる」


 その言葉に、紗世がわずかに顔を上げた。

「……感染が広がったから?」

「たぶんね。だけど、それだけじゃない。

 人の感情が、どこかに吸い取られてる感じ。

 笑いも怒りも悲しみも、空気に混ざって溶けていく……」


 玲司は窓の外を見た。

 灰色の空の下、遠くに黒い煙が上がっている。

「……世界が“順応”を始めてる。

 ウイルスが人を変えるだけじゃない。

 社会も、人の心も、少しずつ作り変えられていくんだ」


「そんなの、イヤだ」

 紗世が呟いた。

 その声に、柚月は静かに笑みを浮かべる。

「でもね、あなたたちはまだ“違う”」

「違う?」玲司が訊く。

「一緒にいる。誰かを信じてる。

 それって、もうこの世界では珍しいことだよ」


 玲司は破れた段ボールの上に、小さなランタンを置いた。

 オレンジ色の光が、三人の影を壁に映し出す。


「もう戻れないけど、戻る必要もない」

 玲司の声に、紗世は頷いた。

「これからは、自分の意思で生きる」

「リーダーみたいなこと言うじゃない」

 柚月が軽く笑い、静かな空気が少しだけ緩んだ。


 やがて、夜が明け始めた。

 割れた窓の隙間から差し込む光が、薄く灰色に染まっている。

 遠くで鳥の声が響いた。

 紗世はその音を聞きながら、小さく呟く。

「……やっと、本当の朝が来た気がする」


 玲司と柚月は、黙ってその言葉を聞いていた。

 外では、まだどこかで警報が鳴っている。

 それでもこの小さな部屋だけは――

 確かに“静寂の灯”に包まれていた。


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