豆ははこ

いけすのさかな

 あの夢を見たのは、これで9回目だった。


 僕があの夢を見始めたのは、小学生のときだ。

 ある日、のある食事処に連れて行かれた。

 いわゆる、親族の集まり。

 まだ、魚の味がきちんと分かる年齢ではない。

 だから、そのときの僕は、今なら喜んで食べるぷりぷりとした刺身よりも、その生け簀を眺めるほうが嬉しかったのだ。

「生け簀の魚は、市場から輸送されてくる間、餌をもらえないんだよ。生け簀の中に入れられても、餌は食べられない。だから、食べられるためにきちんと処理をされて、市場から来た魚のほうが旨いんだ」

「死んだあと、一定の時間が経ったやつが、うまいらしいな」

「そうそう」

 昼間から、吞みつつ盛り上がる親戚たち。

 「小さい子もいるのに。話題は選びなさいよ。いらっしゃい」

 皆をたしなめた、祖母。

 僕を、生け簀の前に連れて行ってくれた。

 楽しかった。


 水のにおいが、印象的だった。

 もちろん、飲食を提供する場所のものだから、生け簀じたいは、きれいにされていた。

 けれども、やはり、なにかが違う。

 濁ってはいないのに、どこかどろりとした魚たちの目のせいなのか。

 不思議だった。

「ほら、魚のフライが来たよ」

 祖母に叱られてばつが悪かったのか、親戚たちは生ものよりも、と僕のためにフライの盛り合わせを頼んでくれた。

「よかったわね」

 席に戻ると、祖母は言った。

「うん。ありがとう」

 僕は、答えた。

 祖母は、にこやかだった。

 僕の礼は、生け簀に連れて行ってくれたことへのものだった。

 それを言わないくらいには、できた子どもだったのだ。


 翌週、僕は、小学校の図書室では調べられなかったことを、市の図書館に確認に行った。

 割と大きな公共施設。

 探せば探せるもので、子ども向けの『いけすのさかな』という本があった。

 『いけすのさかなはおいしくない、というのをききました。どうしてですか?』

 子どもの問いかけに、博士風のキャラクターは、こう答えていた。

 『さかながしんだあとにしごこうちょくがかいしして、じかんがたつと、うまみせいぶんがではじめるからだね。だから、ちょうりをされるちょくぜんまでいきていたいけすのさかなは、おいしくないといわれるんだよ』

 子どもと、博士とは、笑顔だった。

 うまみせいぶん。

 僕は、あの生け簀の魚のことを考えた。

 あの生け簀は、清潔だった。

 実際、面白がって、あの生け簀から魚を注文していた客もいた。

 だが、海でもなく、川でもなく。

 鑑賞のためでもなく、ましてや、一応、食べるためではあるのに。

 生きていて、あそこでその生を終えるのに、かつて生きていた魚よりも、味が落ちる魚。

 かれらは、なにを思っていたのだろう。

 さすがに、あの頃の僕に、ここまで分析ができていたわけではない。

 ただ、最初にあの生け簀と魚の夢を見たのは、食事会のあと、すぐにだった。

 生け簀を泳ぐ魚。そのなかには、僕もいた。

 色のない、模様もない、


 それからは。

 中学受験の、前に。

 受験する高校を選ぶ、前に。

 高校受験の、前に。

 志望大学と志望学科を決める、前に。

 大学受験の、前に。

 通う大学を決める、前に。

 夢を、見た。

 かれらと、僕の。


 ……数年前。

 8回目の、あの夢。 

 就職先を決める、前に。

 そして、今朝。

 9回目の夢を、見た。


 やっと、分かった。


 選びたくないものを選ばないといけないときに、僕は、あの生け簀の夢を見る。

 食べられるのか、食べられないのかを。

 選べない、魚。

 魚も、僕。

 は、ほんとうの意味で、選ぶことはできないのだ。

 ならば、いっそ。

 あの生け簀の、ほうが。

 行きたくなかった中学、高校、大学、就職先。

 それでも、仕事をしているときには。

 あの夢は、見なかったのに。

 僕がいま選ばされているのは、取引先の社長の娘と見合いをするか、しないか、だ。

 しない、を選べば。

 このご時世だ、さすがに職は失わないだろう。

 だが、いま以上の昇進はなくなる。  

 いや、それどころではない。

 どこかへ異動、くらいはあるだろう。

 それならば、いっそ。


 じわり。

 天井に、水の染みが見えた。

 僕は、ベッドから起き上がった。

 床のカーペットは、まだ、濡れていない。

 上の階の水漏れ?

 まだ早朝だけれど、住人に確認してもらうべきなのか。

 どうしようか。

 それとも、先に管理会社に連絡をするほうが?

 ……待てよ。

 先日、上の階の住人は、引っ越していった。

 ここは、五階建て。

 この部屋は、四階。

 雨も、降ってはいない。

 ぽたり。

 雫が、落ちた。

 ぽたり。が、ととととと、に代わり。

 ととととと、がどどどどど、になるまでは、すぐだった。

 ああ、あの生け簀の水のにおいだ。

 気付いたときには。

 足もとよりも上に、水たちが、いた。

 まだ、間に合う。ドアまで、行ける。

 けれど。

 僕は、部屋にいる。


 どどどどど、どどどどど、どどどどど。


 音が、聞こえる。

 僕は、腰を下ろした。

 カーペットの模様は、滲んで見えない。

 全身が、水に浸かった。

 冷たくも、温かくもない。


 あの水の、においだ。


 そして、僕は。


 もう、あの夢は、見ないのだ、と。


 嬉しくて、嬉しくて。

 

 ……たまらなく、なった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

豆ははこ @mahako

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ