オーガスタ

 怨、憎、嫌、忌、恨……


 うるさい喋り声が寝不足の耳にキンキン鳴って怨めしい、自分たちの席があるくせに私の席を軽々しく雑談場所に選ぶ奴が憎たらしい、自分の考えを持っているのか疑わしい馬鹿面に嫌悪する、生産性の無い会話が私の脳内リソースを奪って忌まわしい、私はこの世界が恨めしい。

 

 いつ、あふれるとも分からないストレスと、私は日々闘っている。病気と認定されなくて、この世で一番つらい疾患――人より耳が良い。このクラス内なら何処にいても誰の声でも聞こえてくる。


 だから、馬鹿な話、あくどい話、性格の悪い話、聞くに堪えないおぞましい話が、私の耳に飛び込んでくる。

 耳を潰したいと考える、けれど、あんなやつらのために自分の耳を潰すのは採算が合わないと、いつもいつも考えていた。思考力の1%でも奪われるのが、我慢ならなかった。





 溜まったストレスを、私は発散するために、机に向かう。

 ストレスの全てを文章として出力する。


 試すようにやってくる挨拶も、知らぬ間に決められる性格を、眼鏡を掛けているだけで決められる委員会も、たとえそれら全てが正しかったとしても。

 愚鈍で愚劣な馬鹿どもの相手をしていたら、自分までも馬鹿になると言わんばかりに私は言葉を吐いて捨てて、一つの文章にする。



 そんなこんなを繰り返していたら一冊の本が作れるぐらいになっていて、それをネット上の小説投稿サイトに投稿したら思いの外高評価で、出版してみるとベストセラーになって。

 その時ちょうど呼んでいた漫画の登場人物から取っただけのど安直な名前の作家『菊冠キッカ』が誕生したのだった。







 もはや九月は夏に含めるべきだろう。もう日も落ちるというのに、気温は30℃を超えていた。こんな中冷房も付けず、私は蒸し暑い図書室に軟禁されている。

 空冷を自然風に頼る昭和根性はいつになったら廃れるのか。気持ち悪い秋風を肌で触れながらペンを走らせる。

 一番楽そうだからという理由で、図書委員を選んだが、こんなに環境が悪いなんて聞いてない。

 図書室の整理も早々に片付け、あとは時間が来るまで一人図書室に残っていた。こんな手狭な図書室に人が来るわけもなく。駅前に新設された図書館もあるわけで、放課後の図書室には駅前に全く用事が無いような人間しかやってこない。


 つまり、今日も図書利用者数は0。という事で、片付けして帰ろう。ペンを置いて、私は準備室へ入る。

 窓も開けてなかった準備室は一層蒸し暑く、一刻も早く仕事を終わらせようと思った。汗が滲み出て、半袖から伸びる腕が汗でベタつく。気分が悪い、一刻も早くここから出よう。

 図書室に戻ると、謎に涼しく感じる。ここだって30℃近いというに。だが、そんな暑さを物ともしないぐらいに背筋が凍る思いをしたのは、いつの間にか図書室に現れていた女子生徒が、私の書きかけの小説に目を通していたから。


「ちょっ……!」


 慌てて原稿用紙を奪い取る。最悪破いてしまおうというぐらいの勢いで引っ張ったが、抵抗なくするりと抜けた。

 無傷の原稿用紙が帰ってきたことより、大いなる不安が私の心を押しつぶしそうになっていた。

 形式が違うだけで、悪口、批評、アンチテーゼ以外の何物でもない文章を、受動的に他人に与えてしまった不安。

 それに伴い巻き起こる、 私への言われのない批判。それが怖い。


 鍵も鞄も放り出して、逃げ出してしまいたかった。

 だが、一歩踏み出そうとした私の腕をを、女子生徒は強く握りしめ、上擦った、緊張しているような声色で、私を呼んだ。


「菊冠さん……?!」

 

 その呼び名に、一瞬ドキッとして。すぐさま、凍りかけていた背筋から、熱が戻ってくる。


「……今、なんて」


 恥ずかしい。のか、それとも身近に読者がいて興奮しているのか。どちらかわからない感情が私を支配しだす。


「――人違いじゃあない?」

 

 だが、背中に熱を帯びていても、まだ事態に追いつけていない私の頭はとてもクールで、同じ学校の同じ年の女子にバレるのはマズイのではないかと思い出していた。私の年頃の女子なんて少しでも人の秘密を見つけたらすぐさま言いふらす習性を持っているのだから。それこそ私の小説なんて馬鹿にされるに決まっている。

 人違い、もしくは二次創作的なものだと言い訳を考えていると、彼女は原稿用紙を手に持ち再読して言った。


「いいえ、文でわかります」

「陰気な、鬱屈とした世界観、振りかける程度の儚げな乙女心」

「それでいて第四の壁が存在していないかのようなリアル。」

「この文章は間違いなくひな菊さんの、文ですよ」


 早口が、私の言い訳を挟む余地もなく高速で通り過ぎていった。


 絵で分かる、なら分かるが。文章でわかるなんて、頭おかしいのか?

 事実、正解してしまっているのが彼女の異常性を際立たさせていた。


「……ずっとファンだったのに」


 唇を噛む――少しずつ小さくなっていく声に、私は、如何ともし難い。


 好ましく思っている人間が、こんな教室の隅で誰にも認識されないような陰気な女子高生でがっかりしたのだろうか。

 勝手に想像して、勝手に失望して、本当に私のことを見ていたのか。個人の作り上げた偶像に。どうして私が殴られなければならないのだ。


 とにかく。この場は何も言わず黙って立ち去るのが一番良い〆方のように思えた。

 だが、振り返ろうとする私の手を彼女は握って、自分の胸元まで持っていく。


「こんな近くに居てくれたなんて全然わからなかった! それも同い年の女の子だったなんて、こんなことある!?」


 その声と表情は誰が見ても明らかな喜色だった。

 普段はなかなか人と目を合わせるなんてできないのだが、そのときは呆気にとられすぎて彼女の瞳をまっすぐ見つめていた。嘘一つ無い、曇りなき眼だった。


 私の現実逃避の、自己陶酔の文で、涙を流し、感激し、これほどまでに強い力で手を握ってくれるものなのか。

 なんだか、文字から文字へ伝っていた感想が生身の熱を帯びて伝わってきて、私はなぜか身震いをした。

 いきなり目の前の人間が絶頂した光景に、彼女は驚いていたが、癖とごまかした。無理のあるごまかし方だったが、彼女はすんなり信じていた。どことなく盲信的な感情を私に向けているように思えた。


 敬服、敬愛、ありとあらゆる悦に浸りながら、私はその悦を永遠のものとしたくて精一杯の大人びた声を発する。顎まで伸びるほどの髪を掻き上げて耳に掛けながら、


「ありがとう、これからも応援よろしくね」


 ガッチガチのペルソナを被ったが、その日の帰りに犬に吠えられ溝に落ちて鳥の糞が肩に落ちてきて私の威厳は地の底に落ちた。


 次の日から『美登里ちゃん』とよばれなんだか距離が縮まり過ぎた気がしないでもないが、これはこれで心地よかった。


 

 ある日、仁香が目尻を腫らしながら学校にやってきた時は、驚いた。俗っぽい私は喧嘩でもしたのかと思ったが、仁香は私の小説を読み直して、また泣いたのだという。

 同じ話でそう何度も泣けることはすごいと素直に思うが、それが私の小説でとなると少々むず痒い感傷だった。


「『雨と覺め』」


 私の、代表作にしてデビュー作だった。

 一人の少女が、雨の中自分の心の中に生まれる殺人衝動と向き合いながら己に問いかける、本当に殺人は悪いことなのか……そんなストーリー、だった気がする。

 私は自分の書いた文を推敲することも無ければ、書き上げたあとに読み直すこともない。文章を書くというのは、私にとって溜め込んだ膿の放出であり、そこには神秘的なものも高尚なものもなにもない。故に、二度も読むようなものではないと思っていたのだが。


 私から見れば、排泄物と同じく唾棄すべきような物なのに、彼女は胸に大事に抱きかかえ、それを何度も目を通し、感情を動かし、あまつさえ目を腫らし涙していた。


 ただ、走り疲れたら息を大きくするように、トイレを我慢していたらトイレまで走るように、少し大きくなったかさぶたを、ゆっくり剥がすように、私にとってはそれほど当たり前の事。生きるのに、必要不可欠なことと変わりないだけ。


 だから、違和感があった。こんなことで絶賛されることや、私の人格を肯定されることが。みんなは、私の何処を見て、何を感じているのか、分からなかった。


 それは、私が相手を知らないからなのだと、そう思う。

 仁香は、私を肯定する。私も、仁香を肯定する。

 それは文字間で伝わるものではなく、肌と肌で、空気と空気で感じるものだった。


「……ねえ、仁香ってさ、こういうの読んでる割には、色恋の話あんましないよね」


 年頃の女子なんて、誰々がかっこいいだの、誰々と付き合いたいだの誰と誰が付き合って、別れて。そんなくだらないことを永遠に喋っているイメージだったが、仁香はそうでもないらしい。


「え? 私? うーんそうだなぁ、まだ現実の恋愛ってピンとこないんだよね」


 長いスカートを翻し、こちらに顔を向けて微笑む。


「美登里ちゃんといるほうが楽しいからさ」


 不覚にも、その笑顔に同性ながらどきりとしてしまった。

 仁香に魅力を感じていたのは事実であったが、しかしそれでも彼女と私は、ずっと山も無ければ谷もない、ずっと同じ目線で同じ平均台の上を――歩いていくのだと思っていた。

 だからこそ、私は文字の世界を愛していた。もっと深くへ行きたいと思っていた。その私の行先へ、仁香にも付いてきて欲しかった。



「美登里ちゃん! あのね、私、彼氏が出来たの」



 しかし私を待っていたのは、頬を染めて、私の方を見ること無く、愛を語る、仁香の姿だった。

 私が底なし沼に足を踏み入れた時、既に彼女はこちらを見てすらいなかった?

 いや違う、最初から同じ方向など見ていなかったのだ。

 決して交わらないねじれの関係こそ、私たちの関係だった。


 交わらない、しかし隣を通る事はある。そんな偶然が奇しくも私の最も多感な時期に訪れた。ただそれだけの事だった。


「えっ、そ、そうなんだ。おめでとう」


 仁香は、同じクラスのさして目立たぬ、そこまで賢いわけでもない、言うなれば平凡な男と付き合った。いや、別にそれが悪い訳では無い。ただ私は、今の今まで勘違いしていたのだ。この世に劇的な恋愛や悲劇的な恋物語が、生まれ生きる全ての人々一人一人に用意されている訳では無いのだと。





 私の著は、妄想だ。それぐらいわかってる。悲劇も喜劇も、人生には存在せず、運命なんて体の良い言い訳だ。でも、私にはそれだけしか無かったから。

 創作とは、愛想もよくない、面白い話もできない、誰かに愛されようとしない。私に残されたたった1つの他人と関わる方法だったんだ。

 




 閑静な朝の住宅街も、どことなく光って見える。いままで嫌悪していたはずの空気が懐かしさからか心地良く感じる。

 数年前までは考えられなかった、感覚だった。郷愁――ノスタルジックに浸る。

 私は高校卒業を目前に、仁香に呼ばれていた。何を言われるか想像に難くない。彼氏ができた仁香とはあまり会話しなくなって、ついにはすれ違いざまに挨拶を交わすことすらなくなってしまって、かなりの時間が過ぎ去っていた。

 

 なので、今もなお仁香と彼氏の関係が続いているのかすら、知らなかった。

 けれど、喫茶店に入るとそこには大人びた仁香がいて、ああまだ仁香は変わり続けているのだと悟った。


 良く見れば髪も伸びているし、スカートも短くなっている。時折目配せしては、スマホに注目していた。


「久しぶりだね、美登里ちゃん」

「ああ、久しぶり」


「ねえ、今度さ、皆で卒業旅行に行く計画立ててるんだけど、美登里ちゃんも一緒にいかない?」


 私に世間話が無いことを知っていてか、間髪を入れずに本題らしきものに入る。


「卒業旅行?」


 それは彼氏と、その他友人と行くのか、聞こうとしたが舌が回らなかった。なぜ仁香が私のことを突然誘ったのか、その理由が判明するまでは何も言えなかった。


「最後の最後ぐらいさ、青春みたいなことしてみようよ、一緒に……」


「馬鹿にしないで」


 青春――私の一番キライな言葉だった。世の未成年のほとんどはその言葉を免罪符に何をしてもいいと思っている。

 青春が一番素晴らしいことだと、勝手な理想を押し付けてくる。

 仁香から見て、私は満ち足りない高校生活だと思われているのか。

 私は、生きているフリをしているだけ。観葉植物のような人生だと、そう言われているのだ。

 私は、その言葉を否定せざるを得なかった。ここまでの人生が、私の拒絶を生み出した。


「……美登里ちゃんも、恋愛してみようよ」


 苛立たない、涙も出ない、目の前の人物が分からない――それは私が人じゃないから。植物が人と会話できないことと同じように、私は、彼女の言っていることがわからない。理解しようとも、思えなかった。



 怨、――私はいつもの掃き溜めの如き感情が生まれるのを感じた。文字だ。文字を吐き出さなければ……

 憎、――何かに苛立っていた。それは目の前の仁香に対してか、仁香を奪った彼氏に対してか、わかるようで、全くわからない。ただそこには暗澹とした滑稽な感情だけがあった。

 嫌、――こんな感情を仁香に抱くようになるとは、思ってもいなかった。私はただ、理解し合える相手が欲しかっただけだと思っていたが、違ったのだ。本当はもっと、もっと深く、理解を越えた相手を欲していたのだ。

 忌、――仁香にとって、その相手が私ではないということは、それだけはわかりきった事実だった。 

 恨、――それは無い。


 眼の前が、真っ暗になる。彼女に悪意などなく純然たる善意が長い付き合いから分かる。わかってしまう。だからこそ、痛い。痛い。心の大事な部分に埋まっていた物質が突然凹凸に変化し私の心を内側から破裂させられそうだった。


「……そう、だね。考えてみる」


 嫌いだった嘘が、これほどすんなり出るようになるなんて、中学の頃の私は想像だにしていなかっただろう。


 なぜ、私は嘘をつく?

 なぜ、私は、人を愛せない?

 なぜ、私は。生きたフリをしているんだ。


 


 花も咲かせられない人生なら。この息、止めてしまえば。



「美登里ちゃん?」



 彼女の言葉に、ハッと意識を戻す。今、私何考えてた? 人に言うにははばかられるようなことを考えていなかったか?


 ……だめだ、このままじゃ、とりあえず一旦家に帰ろう。


「わ、私このあたりで帰るね。また今度」


「う、うん」


 私は伝票を取って、レジへ向かった。


 それから、私と仁香は、二度と会うことはなかった。


 仁香は、私のことを覚えているだろうか――私は彼女の声顔体温笑った顔、肌の、髪の、色。血液の色さえも全て――全て忘れてしまった。

 あの日、ペンを握ったときから私は、それまでの全てを忘れてしまった。

 だから、この著は薄れゆく私の記憶を繋ぎ止めておくためのものだ。

 構成も、物語も、感動も、成功も、何もない不完全な小説をここまで読んでくれてありがとう。




◆→◇




 ネクタイの結びを直し、襟を正す。

 過去の、大物との対談。あの人は今何をしているのか……今日は数十年前にある小説をネット上にアップし、そのまま表舞台からも姿を消した大物作家『菊冠』先生。

 『雨と覺め』でデビューした後、三年間の間に二十五冊という驚異的な冊数を刊行し、その中の一つが芥川賞を、三つが直木賞を受賞して、まさしく今の時代を支える一人の文豪になるはずだった。

 しかし彼女は、突如として菊冠名義でネット上へ『フェイクグリーン』という小説を投稿し、以来文芸界へ帰ってくることはなかった。


 そんな行方不明の伝説が、現在暮らしているという郊外の一軒家。そこに私は足を運んだ


 外見は落ち着いたブルーに白が映えるデザイン。南国の崖上に建てていても違和感のないような爽やかさがある。

 玄関横のインターホンを押すと、数秒経ってからはーいというはつらつとした声が聞こえて、扉が開かれると、そこには少しふくよかな、そう、それはまるで肝っ玉母さんというような女性が立っていた。


「あ、取材の方ですか。どうぞどうぞ」


 満面の笑みで私を家へ招き入れる姿は、大きなパイを焼いて食べきれないから一緒に食べてくれないと言われたのかと錯覚を起こすほど。ここに来た本来の目的を忘れさせるほどには朗らかで、家庭的だった。


「え? 過去の作品。あら、みられちゃいました? 恥ずかしいわぁ」


 殆どの要素が、丸っこく――決して外見を揶揄する意図はない――当たりの柔らかい人だった。

 そんな人が、あんな感情的で刺々しい、それでいて感傷的なあんな小説を書いたとは考えられなかった。


「失礼ですけど……本当にあなたは『縁』を書いた人なんですか?」


 全てを口にしてから、自分の失言に気づいた。

 慌てて平謝りすると、菊冠先生は大口を開けて笑って、お腹を抱えていた。


「それ、会う人会う人みんなに言われるわ!」


 ひとしきり笑ったあと、菊冠先生は少し恥ずかしそうに頬に手を当てて語り出した。


「私の著はね、全部反芻だったの」


 その表情は悲しみも喜びも内包しているような不思議な表情に見えた。ただ単に私が若輩者なだけかもしれないが、菊冠先生には酸いも甘いも噛み分ける大人びた雰囲気があった。

 先生は自身の著を、反芻だと言った。反芻するの意味は繰り返し考え、よく味わうこと。


「思春期の私は消化しきれない感情を吐き出して……一度忘れた」


 それと牛などの動物が行う反芻は、一度胃に送った食べ物を再度口まで戻し、また噛んで飲み込むということをする。そういった行動にも近いようだった。

 

「そして保管した。もう一度飲み込んで、消化するために」


 先生にとっては出版こそが、保管と同義になるのかと、身震いした。

 それほどまでの才能があったのに、なぜ小説を書くことを辞めてしまったのか。それこそを聞いてみたかったが、先生が息継ぎも無しに言葉を続けているので、私は自分のターンが来るのを刻一刻と待っていた。


「それを消化したのが、私ってわけ」


 菊冠先生はそこまで一息で話すと、カラッとした笑顔を見せた。

 そこには――失礼だが――やはりあの雨と覺めや緑を創り上げた菊冠の顔は無かった。

 しかしまた、別の魅力があるようあ、そんな気がした。


「えっと、現在は何をなさっているのでしょう?」


 そして私は、ついに今回の確信に迫る。


「もう、本を書くことはないんでしょうか!?」


 菊冠先生は喉を鳴らして笑うと、椅子から立ち上がり一言。


「読んでみる? 私の新作」


 その言葉を聞いた時、私は第一志望校に合格した時以上に声を上げた。


「ええぇっ!? あるんですか!?」


「数ページだけだけどね」


「ぜ、是非……!!」


 私は原稿を受け取ると、一文字一文字を熟読する。あの頃のような切れ味と、爆発するような感情の雪崩がいつ来るのかと期待して文字を、一行を、一ページを読み……ついには読む手が止まってしまった。


「……どう? つまらないでしょ」


 私の心を読み取ったかのように、菊冠先生はハッと笑って言った。


「そっ、そんなことは……!?」

「アハハハ、あなた表情に出過ぎよ!」


 言い訳をする間も必要もなく、私はそれ以上読み進めることも出来なかった。文章力自体は雨と覺めとは比べ物にならないほど上達しているのに、なんでだろう……訴えかけてくる『感情』が無いようなイメージ


「そう、才能はあの時枯れた。特別なものって言うわけじゃないけれど。あの環境にいたからこそ芽生えた感情だったのは確かね」


 菊冠先生は静かに自らの才能が枯れたことを語っていた。憧れの作家が、そんなことを言うのが悲しくて、私は頭を垂れていた。


「もう私には、それ以上の言葉は紡げない……だから、この話はここでおしまい。聞きたいことはそれだけ?」


 私は、ただただ、先生の原稿を握りしめていた。

 憧れの先生が自分で才能が無いと言っているのが苦しくて、でもそれをどうすることも出来ない自分が歯痒くて、しかしそれを飲み込むしか無かった。

 どうにかしたいと心の底からそう思っていても、どうしようもない出来事は人生にはままあるのだ。それを私は菊冠先生の著書から学んでいたはずだったが、実際に遭遇して初めて先生の重みを知ったことで、私は最後にどうしても聞きたいことが生まれた。


「先生は、覚えていますか? 今までの本を書いた日のことを」


 それを聞いた私に、先生はニッコリと微笑んで扉を閉めた。


「昨日の事のように、思い出せるわ」

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