第2話 誰の足跡もない床

「ソソウ!ちゃんと話を聞かんか!」


ソソウの祖父ソコツが、木の棒で幼いソソウの頭をコツンと叩く。


「ソソウよ、よいか?」


(またじいちゃんの長い話が始まったよ…)


「英雄たちが残した栄光を綴る、冒険譚や逸話があるじゃろう」


ソソウは鼻と口に鉛筆をはさんで、ぼーっとソコツの白い髭を眺める。


「書物、映像、電子遊戯、絵など様々な形で物語は語り継がれる。しかし、そこには描かれていない部分がある。ソソウ、わかるか?」


「えーっと…」

「そう、”排泄”じゃ」


ソソウがわかっているものとして、ソコツはソソウの曖昧な返事を遮る。


「トイレのシーンは一切描かれることはない。しかし、魔王を倒しに行く直前も、大事な女性に告白してハッピーエンドに終わったあとも、人は必ず用をたしておる」


「大事な用事が終わっても、これから大事な用事があるときも、必ずじゃ」


ソソウの退屈そうな顔に、ソコツが眉をひそめる。


「ここは笑うところじゃぞ!」


ソソウは相変わらずボーッとソコツの白い髭を眺める。


「…オホンッ!続けるぞ」


ソコツは魔法盤に描かれた図を木の棒でコンコンと叩き、ソソウの注目を誘った。


「わしら厠の一族はもともと2つの家系に分かれておった。一方は年老いた人間の介護や世話をすることに特化した家系、もう一方は山岳や海洋汚染などの環境美化に取り組む家系じゃ」


「人間の排泄のスペシャリストと、環境美化のスペシャリストが結ばれて生まれたのが初代の厠ソクツじゃ。当時は世界各国で、”ダンジョン攻略”や”魔物討伐”が始まったばかりじゃった」


ソソウは頭の後ろで手を組み、ソコツの話を退屈そうに聞いている。


「冒険に出た彼らを陰ながらサポートするため、初代ソクツは冒険で得た魔力を全て”排泄”と”美化”に費やし研究した」


「冒険に出ると、大便も小便も必ず出る。出てしまうものなのじゃ。ダンジョンの隅で排泄している最中に魔物にやられてしまった冒険者も多い。せっかく輝かしい功績を残したにもかかわらず、”大便中に襲われて死んだ”では、人としての尊厳も、勇者としての威厳もなくなってしまう」


「あとは、ダンジョンの中は閉ざされた空間で、ところかまわず用を足してしまうと、衛生面で様々な問題が出てくる。中には人間の糞尿に魔力が宿り、魔物化してしまう例もあるほどじゃ」


「汚いものには、負の魔力が宿りやすい。そうなりそうなことは、冒険に出たことのないお前さんでも、なんとなくわかるじゃろ?」


ソソウは小さな頭をコクンと下げて、最低限のリアクションを取った。


「”尊厳と環境を守る”…これがわしらが代々先祖から受け継いできた信念じゃ。ダンジョンも名誉も穢してはならんのじゃ」


「しかし、わしらの仕事は表に出ることはない。英雄譚にも映像にも描かれることはない。いつの時代もわしらのような裏方が英雄たちの栄光を支えておったことは間違いないが、日の光を浴びることはない。それでもわしらはこの仕事を誇りに思っておる」


「便護師たるもの…」


「「人々に便宜を与えよ」」


何度も聞いた祖父の決めゼリフを、ソソウは茶化すように重ねた。


ソコツとソソウは薄らと笑みを浮かべた。


「よし、昼食にするぞ」



・・・・・・




祖父との記憶、なぜ今思い出すのだろう。



ソソウはカミーユ迷獄の門前に立ち、同行者たちを見渡した。


入り口の上部には古代文字で「過去に囚われし者よ、ここに足を踏み入れるな」と刻まれている。


「大丈夫かぁ?便護士さんよぉ」


屈強な戦士バックスが、そのゴツゴツとした大きな手でソソウの肩をポンと叩く。


「今回はあのじいさんも一緒だぜ?」


美しく赤い髪をなびかせながら、魔法使いのパメラがチラッと横目で何かを確認した。


それは、かつて「勇者の鋼盾(ごうじゅん)」の異名をもった英雄、老戦士モルゾフだった。


「無理しないでくださいね」


鎧を纏った老戦士に、パメラはいたわるように声をかけた。


モルゾフは黙ったままだった。老戦士の目は半ば虚ろで、何かを見つめるように遠くを見ていた。


「モルゾフじいさんが、カミーユ迷獄に何かあるみたいでよお。この前は第七層まで行った途端、急に動かなくなっちまって」


「ええ。あのときは私も一緒でしたが、あれからモルゾフ様は何か悲しげで…」


バックスとパメラのダンジョン攻略には安定感があることで評判だった。どんな仕事も手堅く結果を残す。しかし、ここカミーユ迷獄での仕事は不完全燃焼で、その原因が同行した老戦士モルゾフだった。


「ギルドで”カミーユ経験者を頼む”って仲間を募集したらよ、このじいさんが来てくれたんだ。最初はすげー勢いで敵を薙ぎ倒してくれたんだけどさ。七層に入ってからおかしくてよ」


バックスは背中に背負った大斧をグッと握り直し、話を続けた。


「それからじいさんはダンマリでさ。ギルドに相談したら、マスターがお前を紹介してくれたんだ。それならこいつを連れてもう一回行ってみろってさ」


バックスは首を曲げゴキンッと音を鳴らし、「俺は準備万端だが、お前は大丈夫なのか?」とソソウに改めてプレッシャーをかけた。


「はい。お伺いしております。早速向かいましょう」


「そうこなくっちゃな」


バックスを先頭に、ソソウ、パメラが続き、老戦士モルゾフが何かを睨みつけるように迷獄の中へと足を踏み入れた。



第一層から第六層までは比較的順調に進んだ。


ソソウの便護士としての技術は、思いのほか戦闘でも役立った。浄化の魔法は小型の魔物を一掃し、彼の短剣さばきも鮮やかだった。


「便護士ってのも侮れねえな」


バックスは空っぽの宝箱に腰掛けながら、感心したように言った。


「それよりも、モルゾフ様の動きも見事ですね。老年の戦士とは思えない剣捌き」


ソソウは短剣についた魔物の血を振り払いながら、老戦士に目をやった。



「さぁて、ここからが本番だぜ」


バックスはよいしょと立ち上がると、肩に乗せた大斧を強く握り、地下へと続く暗闇を睨みつけた。



・・・・



「ここだ…ここで…エル…セレムが…」


第七層の入り口に立ったとき、モルゾフが震え始めた。


重い扉を開けると、そこは想像を絶する光景だった。


床一面に粘着質の黒い物質が広がり、壁は緑と黒の苔で覆われていた。空気は重く、胸が締め付けられるような感覚がある。


「相変わらず、ここから空気が違いますね…!」


鼻を刺すような邪悪な臭気に、パメラがウッとローブの袖で顔を覆った。


「これは…」


ソソウは静かに一歩前に出た。粘着質の黒い物質が、彼の足音に反応するように蠢いた。


「何十年もの間に蓄積された負の感情と記憶が実体化したものです。そして…排泄物と魔力が混ざり合っています!」


「排泄物だと?」


バックスは鼻をつまみながら、ソソウに説明を促した。


「過去にカミーユ迷獄の最深部で、命を落とした英雄の話を聞いたことがあります…確か…エルセレム…」


ソソウはモルゾフを横目で見て、確信した。


「モルゾフ様は、このフロアで勇者エルセレム様と何かあったようです…」


「くっ!来るぞ!」


突然、床の黒い物質が激しく動き出した。それはまるで生命を持つかのように盛り上がり、形を作り始める。


バックスは大斧を構え、パメラは魔法の詠唱を始めた。


黒い物質は徐々に人型に変形し、ついには十体ほどのスライム状の魔物となった。


「汚染スライム!気をつけて!触れると毒です!」


パメラが警告を発した。


スライムたちが一斉に襲いかかってきた。バックスは大斧を振るい、一体を真っ二つにした。


しかし、切断された部分からは黒い煙が立ち上り、新たなスライムが生まれる。


「なんだこりゃ!」


パメラの火炎魔法がスライムを直撃し、一瞬で蒸発させた。しかし、残った汚泥からは新たなスライムが形成されていく。


「普通の攻撃は通用しません!浄化しなければ…!」


老戦士モルゾフは動かない。彼は床を見つめたまま、過去の記憶に囚われているようだった。


「モルゾフさま!」


パメラが老戦士に駆け寄ろうとした瞬間、壁の隙間から新たな敵が現れた。


骸骨のような姿をした「食屍鬼」の群れだ。


「アンデッドまで!」バックスは苦しそうに言った。「なぜ二種類の敵が…!」


「この場所で起きた悲劇と、何十年も放置された汚染が生み出したものです!」


ソソウは短剣を構えながら説明した。


「食屍鬼はエルセレム様の死の記憶から、スライムは排泄物の汚染から生まれたのです!」


戦いは苛烈を極めた。バックスの斧はアンデッドには効果的だったが、増殖するスライムには無力だった。逆にパメラの魔法はスライムには効いたが、数が多すぎた。


「これじゃラチがあかない!」と、バックスが叫んだ。


二人は徐々に追い詰められていく。スライムとアンデッドの包囲網が狭まり、バックスとパメラは背中合わせで立ち尽くすしかなかった。


「どうしましょう…」


パメラの声が震えた。


その時、ソソウが前に出た。


「下がってください」


彼は杖を天に掲げ、緑色の光が杖の先端から溢れ始める。


「<聖水魔法> ウォッシュレット!」


天井から清らかな水が滝のように降り注ぎ始めた。その水は通常の水とは異なり、緑色の光を放っている。水はスライムに触れると、それを溶かして浄化していく。


アンデッドたちも水に触れると、表面から浄化されていき、やがて骨が崩れ落ちた。


水流は徐々に部屋全体に広がり、床の黒い物質、壁の苔、すべてを浄化していく。


「すごい…」


パメラは目を見開いた。


水が引いた後の第七層は、想像もできないほど美しかった。


白い大理石の床と、彫刻が施された柱。かつてはきっと荘厳な空間だったに違いない。


そして、浄化が進むにつれ、モルゾフの表情が変わっていった。彼の目は次第に焦点を取り戻し、背筋が伸びていく。


「エルセレム…」


老戦士は呟きながら、ゆっくりと前に歩み出た。


「エルセレム…お前はあの日もここで…子供のように喜んでいた…」


モルゾフの声は次第に力強さを取り戻していた。


「誰も足を踏み入れたことのない場所に来ると、嬉しくて仕方がなかった。まっさらな場所が好きでな…」


彼はまるで若返ったかのように、浄化された床に手を触れた。


「こうして、フロアの中を駆け回ったものだ。『見ろモルゾフ!誰の足跡もない床だぞ!』とな…」


「そして…あの日…」


彼は立ち上がった。その姿はもはや震える老人ではなく、かつての英雄「勇者の鋼盾」そのものだった。


「奴らは突然現れた。『食屍鬼』だ…エルセレムは最前線に立ち、我らを守った。だが…数が多すぎた」


モルゾフは拳を握りしめた。


「エルセレムは致命傷を負いながらも、我らに逃げるよう命じた。だが私は…友を見捨てることができなかった。二人で戦い続け…そして…ここで…」


彼は床の一点を見つめた。そこはもう完全に浄化され、白い大理石が輝いていた。


「ここで、彼は息を引き取った。最後の言葉は『美しいな、モルゾフ…この部屋は』だった」


三人は老戦士の言葉を見守った。


「二人で新たなフロアを見つけるたびに、子供のように喜んだ。エルセレム…お前との冒険は、本当に楽しかった…」


モルゾフの目から一筋の涙が流れた。


「ソソウ殿、感謝いたす。このフロアはエルセレムとともに戦った最後の地…それを思い出せてよかった」


モルゾフはソソウに深く礼をした。


ソソウは以前の白さを取り戻した大理石の床を眺めながら説明した。


「汚れは記憶を固着させます。負の感情と結びついた記憶は特に強く。このフロアにはモルゾフ様とエルセレム様の記憶が何十年もの間、染み付いていたのでしょう。それを浄化することで、記憶は解放されたのです」


「単なる掃除屋じゃなかったんだな…」


バックスは敬意を込めてソソウを見た。


安堵の間もなく、壁の影から複数の影魔牙 <シャドウマージ> が現れた。


影が伸びたような姿で闇に身を潜め、人々の心と体に牙を刺しこむ。シャドウマージの牙は軽傷ではあるものの、精神的なダメージを与え、人々を少しずつ死と絶望へと追い込む。


シャドウマージたちが三人の背後の影に忍び込み、邪悪な牙が三人に襲いかかる。


状況を瞬時に察知した、モルゾフが大盾を構え、盾に闘気を込める。


大きな鋼の盾は太鼓のように波打ち、モルゾフの闘気を放つ!


「<英鋼の破邪> ブレーク・シールド!」


「きゃっ!」

「うぉっ!」

「くっ…!」


三人の背後に飛ばされた闘気によって、シャドウマージたちが一刀両断され霧散した。


「す、すげぇ…これが勇者の鋼盾(ごうじゅん)の力…!」


バックスは闘気によって振動させられた大斧から、モルゾフの真の強さをビリビリと感じ取った。


モルゾフの目には決意が宿っていた。



--------


カミーユ迷獄からの帰り道、彼らは小さな丘の上に立ち寄った。そこには一つの墓石があった。


「遺体は持ち帰れなかったが、彼の想い出のために建てた」


老戦士は懐から一輪の青い花を取り出し、墓石の前に置いた。


「エルセレムの目の色のように、深海のような青さだ…」


風が丘を吹き抜け、花びらがわずかに揺れた。


「さて、行くか」


モルゾフは背筋を伸ばした。


「私も若い者には負けじと『誰の足跡もない床』を見つける旅に出るとしよう…!」


バックスが鼻を指でこすりながらニヤッと笑った。パメラは胸に手を当て、安堵した表情で花びらを眺めた。



「ソソウ殿」


モルゾフはソソウを見た。


「その時もまた、力を貸してはくれぬか?」


ソソウはわずかに笑みを浮かべた。


「もちろん。『尊厳と環境を守る』…これが俺の仕事ですから」

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便護士・厠ソソウの裏仕事 姫蛇石 レノ @nishikei-pon

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