便護士・厠ソソウの裏仕事

姫蛇石 レノ

第1話 お前らダンジョンで催したらどうすんだ?



「くっ……なんてタイミングだ……」


ガナル迷宮第三層、血濡れた魔物の死骸の前で、勇者ガロンは顔を歪めた。黄金の甲冑に身を包み、英雄の証である赤き剣を握る彼の姿は、いつもなら威風堂々としているはずだった。だが今、その表情は苦悶に満ちている。


「……ガロン、大丈夫?」


そう声をかけたのは、魔法使いのリリアだった。銀糸の長い髪をなびかせ、紅玉の杖を構えながら、心配そうに声をかけた。


「問題ない……ただ……」


言葉を濁すガロンの横で、白衣の僧侶ハルモニアも同様に顔を青くしていた。


「私も……なんだか……」


三人は顔を見合わせ、同時に悟った。彼らは今、最も恐ろしい敵と対峙していた。それは魔獣でも魔王でもない——単純に、生理現象だった!


「二日間もダンジョンに籠もっていたからな……エビルデーモンとの戦いで体力も使い果たした……」と、ガロンは汗を拭きながら呟いた。


「どうしましょう?ここで……その……」


リリアは周囲を見回した。魔物の血と汗の臭いが充満する石の間。床には粘液と破片が散らばり、壁には得体の知れない苔が生えている。エビルデーモンは牛と鷲が合わさったような見た目でよく知られているが、その体液は書物のインクのような独特の匂いがする。


そう——彼らはエビルデーモンの体液に含まれる便意を催す成分「ピコスル」を大量に吸引してしまっていた。


「とても衛生的とは言えません」と、リリアが残念そうに下を向く。


「しかし、耐えられん……もう限界だ……」

ガロンの声は震えていた。ハルモニアは杖を床に突きながら言った。


「回復の魔法は傷を癒せても、これは……無理です」


「どうすればいいの!?」


リリアの声が迷宮に響いた。


その時——地面が激しく揺れ始めた。


「な、何だ!?」


ガロンは剣を構えようとしたが、突然襲ってきた腹部の痛みに膝をつきそうになる。


迷宮の壁に亀裂が走り、遠くから重い足音が聞こえてきた。床の粘液が震動に合わせて波打っている。


「来るぞ……!」

リリアが杖を掲げるが、彼女の手は小刻みに震えていた。


ドゴォン!


壁が崩れ落ち、そこから現れたのは——彼らが倒したはずのエビルデーモンよりさらに大きな個体だった。その後ろには五体ほどの小型エビルデーモンが続いている。


「冗談だろ……」

ガロンの顔から血の気が引いた。「さっきのは親玉じゃなかったのか!?」


親玉エビルデーモンは鼻から黒い液体を吹き出し、荒々しい鳴き声を上げた。その声は迷宮中に響き渡り、壁の苔が振動で剥がれ落ちる。


「こ、この状況で戦えるわけがない……!」

ハルモニアは杖を構えながらも、明らかに戦意喪失していた。


「逃げるしかない!」

リリアが叫んだが、親玉エビルデーモンはすでに突進の姿勢を取っていた。


「くそっ!」

ガロンは剣を構えようとしたが、その瞬間、耐えていた便意が限界に達し、膝を折った。


「「ガロン!」」


親玉エビルデーモンの角が、今にも彼らを貫こうとしている。絶望的な状況の中、三人は死を覚悟した。


その時——


『お前ら…ダンジョンも名誉も穢すんじゃねぇぞ』


冷静な声が背後から聞こえてきた。




——三日前——


「この依頼、引き受けるよ」


ガロンは自信に満ちた声でギルドの依頼書にサインをした。ガナル迷宮第三層に出現したエビルデーモン討伐の依頼だ。報酬は金貨50枚。これは王都で一ヶ月以上贅沢に暮らせる額だった。


「今回の依頼は長引くかもしれないぞ」


ギルドのマスター、髭面のゴルドは心配そうに言った。樽のような体型の彼は、かつて自身も冒険者だった経験から、若い冒険者たちに的確なアドバイスをすることで知られていた。


「エビルデーモンは単体なら大したことねえさ」と、ガロンは鼻で笑った。


「オレたちはベクサー洞窟で最深部まで行ったパーティだぜ?」と、二の腕を曲げ筋肉を誇張するポーズをした。


ゴルドは眉をひそめた。


「ベクサー洞窟は日帰りできる場所だろう。しかし、ガナル迷宮は違う。最低でも三日はかかる。準備は万全にしておくべきだ」


リリアが心配そうに尋ねた。


「あのー・・・何か特別に必要なものはありますか?」


ゴルドは意味深な表情で、カウンターの端に立つ人物を指さした。


「便護士はつれていかなくていいのかい?」


黒と緑の制服を着た痩せた男が、壁に寄りかかっていた。整った顔立ちながら、どこか冷めた表情をしている。周囲の冒険者たちは彼から距離を取っているようだった。


「厠ソソウ。王都でも珍しい第一級便護士だ」


ゴルドは紹介した。


「長期のダンジョン探索には必須の存在さ」


「ベンゴシ?」と、ガロンは眉をひそめた。

「そんな仕事ダンジョンで役に立つのかよ?」


ソソウは無言でガロンを見つめていた。その瞳には何の感情も浮かんでいない。


「侮るなよ」とゴルドは注意した。


「便護士は魔法界の中でも珍しい排泄物処理系魔法を使える。長期探索ではトイレの問題が命取りになることもある。連れて行って損はないはずだ」


「冗談だろ?」と、ガロンは大声で笑い出した。


「オレたちに必要なのは強い魔法使いと回復魔法だけだ。排泄物?笑わせるな」


ハルモニアもクスクスと笑いながら言った。

「ベンゴシ…確かに…変わったご職業ですね」


唯一リリアだけが心配そうな表情を浮かべていた。

「でも、ゴルドさんがそう言うなら…」「必要ないぜ」

ガロンはリリアの言葉を遮った。


「オレたちに弱点なんてねえ。それに…」


彼はソソウの方を見て、声を落として続けた。


「あんな奴と同じパーティを組むなんて御免だぜ。排泄物相手の仕事なんて、最底辺じゃねえか」


ソソウは表情を変えなかったが、その目がわずかに細くなったような気がした。


「そうか、好きにしろ」とゴルドはため息をついた。


「だが後悔するなよ。ガナル迷宮では多くの冒険者が、単なる生理現象で命を落としてきた」


「大丈夫だって。そもそも1日で終わらせて帰ってくるっつのーの」


ガロンはクルッと翻しギルドの出口に向かった。


「オレたちは一流のパーティさ。そんな下らない問題で足止めされるほど弱くねえよ」


ソソウは静かに言った。


「エビルデーモンの体液には便意を催す成分『ピコスル』が含まれている…」


「おうおう、べんごしさんはお詳しいじゃねえか。でもよ、そんな知識、実際の戦いじゃ役に立たねえんだよ」とガロンは大声で遮った。


リリアが口を開こうとしたが、ガロンは彼女の腕を引いてギルドのドアに手をかけた。


「俺たちはダンジョン攻略に忙しいんだ。ほら、行くぞ」


三人が出て行った後、ソソウはゴルドに言った。


「…愚かな奴らだ」

「若さゆえさ。だが、お前も昔はそうだったじゃないか」


ゴルドは苦笑した。


ソソウは無言で壁から身を離し、ギルドの奥へと歩いていった。その背中は、これから起こることを既に予見しているかのように、静かな確信に満ちていた。





便意を催し、エビルデーモンたちに囲まれた絶対絶命の必死な三人は振り返った。


そこには黒と緑の独特な制服を着た男が立っていた。腰には様々な道具が下がり、手には特殊な杖を持っている。


「便護士……厠ソソウだ。ゴルド氏の依頼でギルドから派遣された!」


ソソウは無表情で三人を見下ろした。


親玉エビルデーモンが轟音を立てて迫ってくる。床は振動で揺れ、崩れた壁からの砂埃が舞い上がった。


「下がれ!」


ソソウは前に出ると、杖を天に掲げた。緑色の光が杖の先端から溢れ始める。


「<個室空間形成魔法> ウォールヴェール!」


魔法陣が床に現れ、三人を中心に半透明の壁が急速に伸び上がった。壁が天井で合わさり、あっという間に三つの個室空間が形成される。


「な、何だこれは!?」

ガロンは驚いて壁を叩いた。


外の様子は透けて見えるが、エビルデーモンたちは中が見えていないようだった。


「個室空間形成魔法だ」 ソソウは手を地面に向け、新たな魔法陣を描く。


「<便器連結魔法> オマール!」


床から白い便器が浮かび上がり、完全なトイレの形になった。三つの個室それぞれに一つずつ。


「こ、これは……」

リリアは信じられない表情で便器を見つめた。ハルモニアの目は涙で潤んでいた。


「5分だ!」

ソソウが三人に向かって叫んだ。


「俺がエビルデーモンたちを食い止める!その間にお前たちは万全の体制に準備しておくんだな!」


リリアとハルモニアは涙ながらに頷いた。 「「はい!」」


一方、ガロンは便器を前に顔を真っ赤にしていた。

「くっそー!紙はどうすんだよー!」


ソソウはため息をついた。しょうがない、手のかかるやつだな。


彼は指を鳴らし、小さな魔法陣を描く。


「<紙召喚魔法> トレッペー!」


空中に白いロールが三つ現れ、それぞれの個室に飛んでいった。


「これで文句ないだろう?」


ソソウは親玉エビルデーモンと小型の部下たちに向き直る。壁の外側で彼らは混乱して吠えていた。


「さぁ、エビルデーモンたちよ。ダンジョンを汚すのは良くないぜ」


ソソウはコートを脱ぎ捨て、腰のベルトから短剣を抜いた。その目は冷たく、しかし闘志に満ちていた。


「ここからは俺が相手だ」


親玉エビルデーモンが角を突き出して突進してきた。ソソウは軽やかに横に跳び、短剣でその脇腹を切り裂く。黒い体液が噴き出した。


「<水魔法> ウォーターフロウ・小!」


ソソウの指から水流が吹き出し、エビルデーモンの足元を洗い流す。水流に乗って魔物は滑り、壁に激突した。


小型のエビルデーモンが群がってきたが、ソソウの動きは流れるように滑らかだった。短剣が空気を切り、次々と敵を倒していく。


「なぜ便護士が、こんなに戦えるんだ……?」

個室から覗くガロンの目は信じられない光景に見開かれていた。


「思い出しました…」と、リリアが小声でつぶやく。

「ダンジョンで戦う冒険者たちを陰ながらサポートする…伝説の便護士一族がいたと…」


リリアの頭には、ギルドの魔法使いの老人に話が頭にかけめぐっていた。


あっという間に、ほとんどのエビルデーモンが倒された。床は水と黒い体液で溢れ、魔物の死骸が散乱している。


「ったく、ダンジョンを汚しやがって…」


しかし、最後の一匹——親玉エビルデーモンはまだ立っていた。その体は傷だらけだが、怒りに満ちた目はソソウを捉えている。


突然、エビルデーモンが猛烈な速さで飛びかかった。ソソウは避けようとしたが、足を滑らせて体勢を崩す。


「ソソウ!」


その時、個室の壁が消え、ガロンとリリアが飛び出してきた。


「「炎の剣!ファイアーソード!」」


ガロンの剣が赤熱し、リリアの放った炎の魔法が剣に纏わりつく。炎の剣が親玉エビルデーモンの首筋を貫き、巨大な魔物は最後の雄叫びを上げて倒れた。


静寂が訪れる。

ソソウは立ち上がり、服の埃を払った。


「……間に合ったか」


リリアが駆け寄ってきて深々と頭を下げた。


「ありがとうございます…ソソウ、いえ、ソソウ様!あなたがいなければ、私たち……」


ハルモニアも個室から出てきて、感謝の言葉を述べる。


「本当に申し訳ありませんでした。あなたの職業を馬鹿にして……」


ガロンだけは照れくさそうに目を逸らしていた。


「……助かった」


リリアがガロンを睨みつけ、肘で小突いた。


「…ありがとう!それとバカにしてスマン!」


黄金の鎧を重みを身に乗せ、ガロンはその場で土下座するように全身で謝罪した。


ソソウは淡々と短剣をベルトに収め、コートを拾い上げる。


「当たり前だ。ダンジョンも名誉も奇麗に保つのが俺の仕事だ」



彼の表情は相変わらず無表情だったが、その目には小さな誇りの光が宿っていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る