小説未満なこの人の話

千日掛三

小説未満なこの人の話


恵まれた人生を送ってきたと思う。

大きな病気や怪我をしたことはないし、立ち直れないほどの挫折を経験したこともない。小説は愚か、文字に起こすことすら必要があるのか迷うほど、何の変哲もない普通の人生だったと思う。

でも、きっと私はそんな普通の恵まれた人生の記憶ですらすぐに忘れてしまうから。ただ生き続けていた18年間の自分をここに書き残しておこうと思う。


そう思ったのだけれど、本当に18年間のことを書いたらとんでもない長さになってしまうから、私が最近考え続けていることと、覚えておかなきゃいけないことを中心にして抽象的な文章で書いていくことにする。


私は家族の中でも親戚の中でも末っ子だった。一番年齢が近い人は兄で、それでも五歳離れていた。いとこや兄が学校の話をしているのを、私は何も分からず聞いていることしかできなかった。みんながゲームをしているから何も分からないけどコントローラーを持った。みんなが鬼ごっこをするから怖かったけど暗いところに隠れた。なんでも真似をして一緒にいたがった。それが楽しかった。だから、学生のいとこと兄が夏休みで家にいる時に、一人だけ保育園に行くのが嫌で嫌でたまらなかった。たくさんわがままを言って駄々を捏ねた。だから、誰よりも子供である私を、周りはたくさん甘やかしてくれた。父と母はそれなりに厳しかったけど、祖父母や親戚のお兄ちゃんお姉ちゃんはいつも優しかった。


そんな私も小学生になって、たくさんの同年代の子供と関わるようになった。人見知りがすごい私だけど、人数が少ない学年だったこともあってちゃんと友達ができた。一つの教室に三十と数人。他の学年は基本的に二クラスあったけど、私の学年は六年間一クラスだけだった。そんな長い間同じクラスにいたら問題も起こるわけで、私のクラスは高学年になってから荒れに荒れた。一番大きな原因はその時の担任だったと思う。小学校五、六年という多感な時期の私達は、やること全てが否定されるような気がしていつもモヤモヤした気持ちでいっぱいだった。

そんな私に追い打ちをかけるように起きた出来事が、友達の不登校だった。私には特に仲がいい友達が二人いて、時々他の子を交えながら、いつも三人で行動していた。「親友だよね」なんて言いあって笑っていた。そんなあるとき、多分小5だったと思う。二人が学校を休みがちになった。もともと緩めの家庭な二人だったし、休むこと自体はよくあったから特に気にしていなかった。でも、片方が登校したと思ったらもう片方は休む、みたいな状況が少し続いて、気づいたら一人は全く学校に来なくなった。ある日、先生に話があると呼ばれて行ったら、二人の友達の間でトラブルがあったことを知らされた。話し合いをしても解決しないから、「二人のうちどちらとこの先仲良くするか選んで欲しい」と言われたと。先生は、そんなこと選ばなくていいと言っていたから私はその問に対して答えを出すことはしなかったけど、そのときに「親友なんてつくらないようにしよう」と決めた。もしもあのとき、あの問いに答えを出さなくてはいけなかったのなら私はきっとどちらも選ばなかったと思う。選ばなければいけないくらいなら親友なんてものは辞めてしまった方がマシだった。何より、親友とまで言っていたのに何も相談が無かったことも、私が何も知らないで普通に生活していたのも嫌だった。二人の友達のうちから一人を選べる奴だと思われているのも気にくわなかった。

そんなわけで、小学校高学年はあまり良い思い出が無い。二度と戻りたくないけれど、もし1度だけやり直すのならこの時が良いと思う六年間だった。


その分、中学は心底楽しかった。ガチガチに縛られていた小学校時代から一転、中学は校則はあれど生徒の自主性が重視されるフリーダムな場所だった。相変わらず人数は少ないけど、それが良かった。朝早く起きて寒い中自転車を漕ぎ、学校に行ったら友達とバカをやって騒ぎ、ノートの落書きが見つかって先生にヤレヤレといった顔をされ、部活で暗くなるまで学校にいて、終わったらまた友達と騒ぎながら自転車を漕いで帰る。それの繰り返しが楽しくてしょうがなかった。学級委員や生徒会副会長なんてものもやったりした。人前で話すことが苦手だったくせに、毎週の集会や大きな行事の司会を任せてもらえるようになった。

その中でも一番幸運だったのは先生たちがいい人だったことで、思春期真っ只中のクソガキな私たちといい距離感で接してくれて、一緒に騒いでくれる、友達みたいな感覚の人達だった。二、三年の担任と社会科の先生が特に大好きだった。一番影響を受けた先生がその担任で、その人がいなかったら全く違う道を選んでいただろうと思う。

辛いと聞いていた受験は全く辛くなかった。というのも、中三の夏休みから通った塾がめちゃくちゃいいところだったから。私の中で革命が起きたと言っても過言ではないくらい、塾の先生は教えることが上手だった。人生で一番勉強が楽しかった。だから高校は余裕で受かった。(コロナ禍で面接が無かったのもデカイ)

「人生で一番楽しかったのはいつですか?」と聞かれたら、今の所はダントツで中学時代だと言える。そんな三年間だった。


高校生になって、スマホを手に入れて、より自由で楽しくなると信じていた高校生の像は、いとも簡単に打ち砕かれた。小中の八倍くらいの人数の同級生。知り合いは片手で足りるほどしかいない。みんなマスクで顔のほとんどが見えなくて、楽しいはずの昼食タイムは箸を動かす音しか聞こえない。何もかもが慣れなくて、怖くて、寂しかった。いつもなにかに疲れきっていてなにもしたくなかった。

高一の夏休み明け、初めてズル休みをした。必ず最終日まで残す宿題を必死に片付けていた夜中の一時、いつもなら何がなんでも終わらせて、もし終わらなかったら忘れてきたと嘘をついてでも学校に行くはずなのに、何故だか急にどうでも良くなってしまった。面倒になったとか、諦めたとかではなくて。よく分からないけど急に「スンッ」となって、書きかけのプリントを机に残したままベッドに入った。次の日起きて、ご飯を食べて歯を磨いて顔を洗った。次は制服に着替えて...と、考えながら頭に浮かんだことは「今日の私は使い物にならないな」ということ。ズル休みなんてこれまで考えたことも無かった比較的いい子ちゃんだったし、兄が大学を休学していた時期だったから「あぁ、これ言ったらお母さん悲しむんだろうな」なんて考えながら学校を休むことを伝えた。

母は意外と悲しまなかった。いや、悲しんでいたかもしれないけどそれを表には見せなかった。「まぁ、長く生きてりゃそういう日もあるでしょ」くらいのスタンスで、「なんならあなたのお兄ちゃんは学校に行くふりしてお母さんに言わないまま休んだことあるんだから」なんて話をしていた。

その日は1日中、音楽を聴いて動画を見ていた。信じられないくらいかっこいい曲を見つけて、その流れで今の私の支えになっている大好きなものに出会った。あの日、学校を休んでいなかったら、鬱々とした日々がもう少し長引いていたのだろう。

高校生活を語る中で欠かせないのはやっぱり部活動。中学から始めた吹奏楽は、高校で続けるつもりは更々なかった。上昇志向は特に無く、ただ吹くだけの部活だったから。でも、高校の体験に行った時にレベルの高さに衝撃を受けて、「もう一度楽器をやりたい」と思い、小編成の吹奏楽部があるところに志望校を変えた。今思えばかなり大きな決断だったけれど、後悔はしていない。希望していた楽器になれなくて、自分の体の半分くらいある大きな楽器の担当になったときも、全然上達しなくて泣きそうになったときも、後輩の方が上手いんじゃないかと思ったときも、後悔はなかった。私が楽天的な思考なところも関係していると思うけど、それだけじゃなくて、仲間やコーチが良い人だった。ほぼ役たたずな私にも折れずに教えてくれた。待っていてくれた。それが嬉しかった。中学の時は県大会に行こうなんて思ったことも無かったのに高校では東北大会が目標になって、見事にそれを実現した。吹部創立以来二度目の快挙だった。嬉しくて嬉しくて人目も憚らず号泣したのを今でも覚えている。学級の仲(特に男女仲)が最悪だった私にとって、部活が「青春」のカタチをしていた。

いろんな意味で自分という像が変化した時期だった。自分から声をかけて友達をつくるようになったのはいい変化で、人前に立つ機会が減ったのは悪い変化。昔はステージ上でスピーチなんて朝飯前だったのに、今では賞状を貰いにステージに上がることすらちょっと怯えるようになった。

そんなこんなで一瞬で過ぎ去った、忙しくて辛くて嬉しくてそれなりに楽しかった激動の三年間だった。


さて、私がどうしてこんな駄文を書こうと思ったのか。それは、二月と三月でいろいろと考えることがあったから。

高三生は共通テストを終えると基本的に学校でやることが無くなるから、週一登校とかになる(進路が決まっていない人は学校に行って講習を受けなければいけない)。今までは学校に行くことが深底面倒だったのに、急に来なくていいよと言われると暇で暇で仕方がない。もちろん大学の課題はやらなければいけないけど、それがあったとしても暇だ。

そうなると、急に悲しくなってくる。自分がなにも役に立たないものに思えて、鬱っぽくなる。なにかしなきゃと思うのに、なにもやることが無い。自分はなんて無力でつまらない人間なんだろうか、と思っていてもたってもいられなくなる。本を読んでも、字がただ頭の中を滑っていく。大好きな動画を見ていてもボーッとしてしまう。曲を聴いているとカラオケに行きたくなってくるけど、近くにカラオケが無い。

さぁ、どうしたものか。そんな私は料理をしてみることにした。簡単なお昼ご飯を作るだけでも、先程までの虚無感がみるみる無くなっていく。これだ!と思って毎日なにかを作ってみた。しかしここでも壁にぶつかる。食材が高い。家にあるものだけで作ろうと思うと限界があるからと、買い物に行ってみてあまりの高さに頭を抱えた。だからといって家にあるキャベツを使ってしまうのもどうなのか。悩んだ末、料理をする回数を減らすことにした。

信じられないくらい沈みに沈み、なかなか眠れない夜をひたすら耐えていた。そりゃあ考える時間も増えるわけで、その中で「なかなかどうして自分は誇れるものが無い」ということに気付いた。十八年生きてきてようやく気付いた。いや、気づいてしまったのだ。

絵を描いたり、習字を十二年続けていたり、水泳がちょっとできたり、国語がそれなりに得意だったり。何も出来ない訳では無い。でも、胸を張って「得意です!!」と言えるものは無い。周りを見れば、私よりも絵が上手い人も、字が綺麗な人も、泳ぎが速い人もいる。勉強のことなんて、めちゃめちゃ頭の良い兄を持つ手前、少しも引き合いには出せない。愛想が言い訳でも、話が上手いわけでも、天然故の面白さがあるわけでもない。

なんでこんな人間になっちまったのか、そう考えたとき、とあることを思い出した。なんの記事だったかは覚えていないけど、こんなことが書いてあった。


『 「嫌いな人がいない人」は、優しい人ではなく「そもそも人に興味が無い人」なだけである』


いやいやそんなことないだろ、と思った。

実は私も「嫌いな人は誰か」と聞かれても、思い浮かぶ人がいない。でもそれは興味が無いんじゃなくて、興味があるからで。

「あなたのこういうところは本当に嫌いだけど、もしかしてそれを超えるほどの良いところをお持ちなんですか?ほう、どれどれ見せてみろ、地の底にあるお前の好感度をどれほど上げられるかな?」

というスタンスを持っているだけなのだ。ただ、私が過去の経験上、究極の平和主義者であることから、「あまり人を嫌いたくない」と思っていることも影響しているとは思う。

でも、その記事を思い出したとき思い浮かんだことがある。

「私は私を自分事として捉えてないんじゃないか」と。

人間は基本的に一人称で物事を見るはずだ。もちろん俯瞰で物事の全体を見渡すこともあるけれど、基本的にはFPSのような視点で生きていく。もちろん私だって、視点は一人称だ。でもおそらくだけど、私は私の事に関してどこか他人事だ。受動的だと言い換えてもいい。


兄がやっていたから水泳を始めた。

本当はピアノを習いたかったけれど、祖母が孫に習字を習わせたかったなぁと言ったから習字を習った。

誰もやる人がいなくて会議が進まなかったから学級委員になった。

やって欲しいと言われたから流されるまま副会長になった。

今までどうにかなってきたから宿題は最終日まで残した。

どんなに下手でも、成果が出なくても、どうにかなるだろうと何もしてこなかった。

嫌味を言われても、そもそも嫌味だと気付かないし悲しくもならない。

卒業式や離任式は悲しくて涙が出てくるけど、何が悲しいの?と聞かれると困ってしまう。

エトセトラエトセトラ……


空気に飲まれるだけ、流されるだけで生きてきてしまった弊害が、今の何も無い自分だと思った。


高校生活最後のお弁当の中に入っていた母からの手紙。

「これまでは誰かのためにと生きてきたあなたが、これからたくさん自分の好きなことができますように」

確かに、誰もやりたがらないことをたくさん請け負ってきた学生生活だった。ここに書いていないこともたくさんやってきた。我慢することも多かった。でも、この母の手紙はあまりにも私を美化しすぎている。

きっと、私の周りにいる人達は少なからず私を評価してくれているのだろう。でも、今の私にはその評価を受けるだけの器量は無い。


だから、その評価に値する人間になろうと思う。これから私の生活は全てが一変する。何もかもが変わって、なにも分からない場所で生きていかなくてはならない。だから、ここでちゃんと区切りをつけたい。本当は18歳を迎えたタイミングで区切ることが出来ればよかったのだと思う。でもそのときは、「十八歳になれば何かが変わる」と思っていた。大人の世界に足を踏み入れれば何かが変わってくれるだろうと。違うのにね。本当は、「十八歳になったのなら何かを変えなくてはいけない」だったのに。それすら分からない私は、ただ抱える権利と義務が増えただけの子供のままだ。

大人とか子供の区別は基本的に年齢だけだと私は思っているけれど、きっとみんながそういう考えなわけじゃなくて、世間一般的には私は大人として扱われるはずだから。

だから、いつか私がこれを読み返して「そんなこともあったなぁ」と笑えるように。理不尽に直面しても明日をちょっとでも明るく思えるように。なりたい私をここに書いておこうと思う。


優しくて強い人になりたい。

私と私の大切な人たちが誇ってくれるような自分になりたい。

日々の生活の小さな小さな幸せを、いちいち「幸せだ」と感じられるような人になりたい。

私が受け取った幸せを誰かに分けられる人になりたい。

私の好きな物をいつまでも胸を張って好きだと言えるようになりたい。

私の支えになってくれているあの人達のように、私も誰かの支えになりたい。

いっぱい転んでいっぱい泣いてたくさんたくさん笑う人になりたい。

そしてなにより、理想や夢を叶えるために自分で考えて懸命に努力できる人になりたい。


学校が無い間、あれだけ考えて悩んだことだから、きっと無駄じゃないと信じたい。無駄にしないように生きていかなくてはいけない。ようやく考えられるようになったんだから、いろんなことを考えて生きていかなきゃ。


まずは自分を「この人」と捉えるのを辞めるところから。次は…どうしようかな、また料理してみようかな。野菜と米の価格下がってるといいな。ほらほら、今月と来月は私の大好きな人達の大事なお披露目もあるじゃない!めっちゃ楽しみ!


ダラダラと文章を書いてきてしまった。読み直しもしていないから、もしも私以外の誰かがこの文章を読んだら、あまりの脈略の無さに絶句するんじゃなかろうか。というかここまで読んだ人がいたらすごいよ、こんな抽象的な文章を読んでくれてありがとう。吐き出したくてもどうしようもなかった言葉を、無い語彙の中でなんとか文字に起こしてみたけどいいものだね。


恵まれた人生を送ってきたと思う。

何の変哲もない、普通のありふれた幸せな十八年。これから、たくさんの刺激的な出来事が起きるであろう私の人生。


これを読んでいる今のあなたが、どうかそんなふうに生きていけますように。



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