翅のありか

benzene

翅のありか



 「最近、なんだか背中がむずむずするの」


 教室で千夏は窓の外を見ながらそう言った。春樹はノートを閉じ、彼女の背中を見つめた。


 「背中?」

 「うん。痛くはないんだけど、くすぐったいような、痒いような…。」


 千夏は首を傾げながら、自分の肩甲骨あたりを押さえる。その仕草が、どこか儚げに見えて、春樹は小さく笑った。


 「羽でも生えるんじゃない?」

 「まさか。そんなことあるわけ――」


 千夏は笑いかけたが、すぐに言葉を飲み込んだ。彼女の指先が背中を撫でたとき、まるでそこに何かがあるかのように、ふわりと風が舞ったのだ。


 ***


 次の日、千夏は学校を休んだ。


 心配になった春樹は放課後に彼女の家を訪れた。


 「千夏?」


 ドアの前で声をかけると、やがて中から静かな足音が聞こえた。そして扉がわずかに開く。


 「……春樹?」


 そこに立っていた千夏の姿を見て、春樹は息をのんだ。

 彼女の背中から、透き通るような緑の翅が生えていたのだ。

 羽では無く、翅。人体には絶対に存在しない器官であるそれが彼女の背から生えていた。


 千夏は苦笑した。


 「昨日の夜、背中が熱くなって、それで……気がついたら、これが。」


 彼女はゆっくりと翅を動かした。それに合わせて部屋の中の空気がわずかに揺れる。


 春樹は言葉を失ったまま、ただ千夏を見つめた。


 「私、虫になっちゃったのかな。」


 千夏の言葉は、不安で揺れていた。

 春樹はゆっくりと息を吐き、そして笑った。


 「……だったら、飛んでみる?」


 千夏は目を丸くし、それからふっと笑った。


 ***


 「初めて来たかも。夜の学校なんて」


 午後7時の教室は誰もいない。

 彼女は窓のそばへと歩み寄る。翅がふわりと揺れたかと思うと、千夏の体が軽やかに浮かび上がった。


 春樹は夢を見ているような気がした。でも、これは現実なのだ。


 「春樹」


 宙に浮かんだまま、千夏は春樹を見下ろした。その瞳は、まるで新しい世界を見つめているように輝いていた。


 「ありがとう。あなたがいたから、怖くない」


 春樹は微笑んだ。


 「千夏が飛びたいなら、俺はそのことを応援するよ。」


 千夏は嬉しそうに夜の空へと舞い上がった。彼女は夜風に乗って高く昇っていった。


 夜空には虫はおらず、ただ一人の妖精が星と共に空を駆けた。

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