いっそ塗り潰して(1)
なんにも起きない日だった。すべてが嫌になる放課後だった。いっそ笑えてきそうなくらいに、絶望的に、生きていけない気がしてしまった。
何故だろう。いくつも繰り返した───なんて言ったら大人たちに笑われるかもしれないけど、それでも幾度となく見た代わり映えのしない一日のはずだったのだ。今日は。空があまりにも晴れていたから? 春の始まりを告げるような、心地良い風が吹いていたから?
わからない。たぶん理由なんてない。無理やり探すことはできるかもしれないけれど、どれも絶対の理由にはならない気がした。
いつもより軽いはずの通学鞄がいやに重たく肩に伸し掛かる。退屈なくらい見慣れたはずの下校路が違う場所みたいにぐにゃりと歪む。一歩進むたびに足が地面に沈んでいく。呼吸が浅くなる。徐々に、でも確実に首が締まっていく。きっと今声を出そうとしたら、ひしゃげたアルミ缶みたいな悲鳴になる。それが嫌で口を閉じた。更に息が苦しくなる。人ひとり殺せるほどの猛毒が喉の奥まで込み上げてきていた。
家の戸を開ける。「ただいま」と口に出す程度の余力すらも残されていない。革靴が二足、玄関から消えていた。リビングにも上階にも人の気配はない。きっともう二人とも仕事で家を出た後なのだろう。その事実にどこか安堵してしまっている自分がいることに気付いて、少し怖ろしくなる。
部屋に逃げ込んで、通学鞄を放り投げて、制服を脱ぎ捨てた。私を重さで床に縛り付けるものの全てを取り払って、それで少しは楽になれると思ったのに。
ダメだった。喉の閊えが取れない。動悸が治まらない。このまま吐き戻さずにいたら窒息して死んでしまうのだと、脳髄を揺らすアラートが鳴り止まない。
姿見がこちらを覗いている。酷い顔をしている。
いつものベンチの上で、珍しくリリははっきりと目を開いて私を待っていた。
いつも着ていた白いもこもこの付いた上着は、今日の天気ではもう暑いのか薄手な暖色のカーディガンに変わっている。一度帰って置いてきたのか、リリの手元にはよく目立つ赤いランドセルが見当たらなくて、代わりに肩掛けのお洒落なポーチが提げられていた。丁寧に扱っていることは伺えるものの少々年季が入った黒い革製のポーチは、私の知るリリのイメージとは違ったけれど、ちょっと気取った感じが意外にもよく似合っていた。
「ユキ」
「リリ、」
おはよう、といつものように呼び掛けるのはちょっと違う気がして言葉が詰まる。
子供らしからぬ大きな
どうしようもなく、察してしまう。リリも私と同じなのだと。
「どっかつれていって」
「どっか出掛けよっか」
声が出たのは同時だった。すう、と喉を通り抜ける呼吸の音を強く感じた。
リリがきょとんとした顔で私を見る。「いいの?」と表情が言っている。だから、私は持っていた塾用のバッグをリリの目の前でひっくり返してみせた。
とす。ひどく軽薄な音が一つ。母のお下がりを貰った、ちょっといい財布。出てきたのはそれだけだ。
「全部、置いてきちゃった。教科書も、ノートも、筆箱も。全部置いてきた」
なんて。本当は「置いてきた」とかそんな可愛いものじゃない。自室の床にぐしゃぐしゃに放り捨ててきた。もし両親がその惨状を見てしまったら、きっと物盗りでも家に入ったと思うだろう。取り乱している二人の姿を想像したらちょっと笑えてくる。やばいな。私、いま悪い子だ。
「遊びにいこ。どこでも、リリの好きなとこ」
「ユキ、きょうはまっくろ」
「嫌い?」
「ううん」
リリは年相応に子供っぽく笑った。
「はいいろより、ずっといい」
リリが「ん」と差し出す手を掴んでベンチから立ち上がらせる。それから、どちらからともなく私たちは歩き出した。目的地なんて決まってるわけもない。
「こういうの、久しぶりかも。誰かとお出掛けなんて」
「そうなの?」
聞き返すリリの声に頷く。もしかすると付き合い程度のことは一度や二度あったかもしれないが、どうでもよくて記憶には残っていない。自分の意思で誰かと出掛けたいなんて思うのは、それこそ小学生のとき以来じゃないだろうか。
「そっか、だからか」
「なにが?」
「きょうのユキ、いつもとちがったから」
「そうかな」
「うん。いつもより、なんかたのしそう」
言われて、気付く。先ほどまでの閉塞感はもうない。膨れ上がったそれが破裂してしまったいま、むしろ不思議な高揚感のようなものが胸に満ちていた。
「うん。そうかも。ちょっと楽しみだ」
正直に口に出したら、自分でもびっくりするくらい腑に落ちた感覚があった。ずっと私は、こういうことを心のどこかで望んでいたんだ。
そしてたぶん、望まれてもいた。
「リリも」
リリが肯定してくれる。
「ユキとおでかけ、したかった」
並木道を左に曲がってしばらく歩くと、あまり見覚えのない通りに出た。小学校も中学校も塾があるのも逆方向だから、馴染みがないのも当然といえば当然だ。
隣町のショッピングモールに行こう、と言い出したのはリリだった。友達と遊びに行くなんてことからはとてもじゃないが縁遠い私たちだ。いざどこへ出掛けようかと考えても、遊び場の心当たりはそう多くない。
その点、リリはちょうどいい提案をしてくれたと思う。知らない場所と言うほどでもないけれど二人とも親に連れられて何回か行ったことがある程度で、ちょっとの特別感があって。それでいて遠すぎもしない。ショッピングモールがあるのは隣町とはいっても、せいぜい歩いて一時間程度だ。道は地図アプリに頼るから、もう少しかかるかもしれないが。
夢の無い話だけど、いくらちょっとした非日常を求めたところで、現実的にリリを連れ歩ける距離なんてたかが知れている。それこそ「海が見たい」だとかロマンチックなことを言われたら困ってしまうところだった。言いそうだし。
「そういえばリリ、今日は眠くないの?」
道を知っている訳でもないだろうに半歩先を歩くリリに声を掛ける。
「ねむい。けどへいきです。きょうはほけんしつでやすんでたので」
「え、大丈夫なの?」
「だいじょうぶ。ぶい」
ピースサインとともに答えるリリは、たしかにいつもよりも元気そうに見えた。
「ひょっとしてズル……」
「ひつようなきゅうそく、です」
私の声を遮って自信満々にそう答え、リリはちょっと悪い顔をしてみせた。
やっぱり一緒だ、私たちは。
「まあ、良いんじゃない。たまには」
いいじゃないか、こんな日があったって。
夢見とモノクローム 逢原凪色 @reruray2
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