どうもこの世は濁ってて
ずっと、天井を見ていた。
寝るときにつけるオレンジ色のライトも、ときどき人の顔みたいに見える染みも、もうずっと前に見飽きてしまっていた。
眠いのに眠れなくて。そのうち自分がいま眠いのかどうかもわからなくなって。
……目を瞑るのがちょっとだけ怖くて、長いことそうしていた。
隣の部屋ではおとうさんが眠っている。
お酒をのんでいる日は、いつも寝つきが最悪だ。いびきがうるさいし、明け方かそれよりもっと前か、変な時間に目を覚ましてリビングと自分の部屋を何度も往復したり、トイレで吐き戻していることがあるのも知っている。子どもだからそんな時間は眠っていると、そんな姿は知られていないと、たぶんおとうさんは思っているんだろうけれど。
「───莉々葉!」
突然、怒鳴り声で名前を呼ばれた.
咄嗟に身体がびくっと動いて、それから動けなくなった。身構えながら恐る恐るドアの方を見るけれど、それ以上声は聞こえてこないし、おとうさんが起きてくる気配もなかった。寝言だったらしい。この頃、たぶんおとうさんはちょっとお疲れなんだ。そう、思うことにしている。
ああ、こんなことなら早く眠っておけばよかったのに。何度思ったかわからない。けれど、重くて仕方がないはずの瞼はやっぱり、どうしたって下りてきてはくれなかった。
昼間、あんな話をしたからだろうか。家族三人、揃ってリビングで寝ていた頃のことを急に思い出した。ずっとむかし。まだ小学生になる前のことだ。かわのじ、っていうんだっけ。リリが真ん中で、右におかあさん、左におとうさん。まだ一人で寝るのは怖くて、おかあさんのパジャマの裾をきゅっと掴んでいた。
リリが眠るまでおとうさんが頭を撫でてくれていたのも、ちゃんと覚えている。たまにそのままおとうさんのほうが先に眠ってしまうこともあって、そんな日は伸ばしたままのおとうさんの腕を、こっそり枕の代わりにするのが好きだった。
なのに。いつからかこの家はリリの眠る場所ではなくなっていた。理由ならなんとなくわかっている。
だって、安全じゃない場所では眠れない。誰だって、どんな生き物だってそう。辺りを警戒して、外敵がいないことを確認して、それでようやく落ち着いて眠りに就くことができる。だから、リリはここでは眠れない。それはライオンのいる檻の中で眠れないのと同じ。荒れた海に浮かんだ小舟の上で眠れないのと同じことだ。
天井を見つめる。
こうしていると涙がこぼれなくていい。ていさい、というやつを保つのは大事だ。リリはもう、子どもじゃないので。
世界というのはどうも簡単じゃなくて、白か黒かで全部ができているわけじゃない。リリは子どもじゃないから、そんなことはわかっている。
おとうさんも、おかあさんも、ユキも……リリも、たぶんそうだ。誰だって良いところと悪いところがあって、あたりまえ。
じゃあ、それを許せないのはリリの悪いところ?
わからない。そうは思いたくないし、思えない。どろどろに濁った『はいいろ』を許せる日は、みらいえいごう、きっとこない。
でも。それを許してしまえるひとは、少なくともリリよりずっと生きやすそうにしていると、そうも思ってしまうのだ。
音をたてないようにひっそりと立ち上がって、カーテンを開ける。窓ガラスは冷えきっていて、ぶるっと身震いがする。
ああ、まだまっくら。あさまでがとてもとおい。
***
目が覚めると同時にケータイの画面を見る。時刻は朝六時をすこし回ったころ。メッセージアプリに通知が溜まっているのが見えて、ちょっとげんなりする。半ば強制的に参加させられたクラスのグループでは、夜中までどうでもいい会話が続いていたみたいだ。仲がいいのは良いことだ、と言うことはできるけど言いたくはない。
画面を閉じてベッドの上に放り投げる。
まだ二度寝も許される時間だけれど、珍しく目が冴えているので身支度を済ませてしまおう。早めに登校して読みかけの小説を消化するのもいい……そんなことを考えながら部屋を出て階段を降りると、ちょうど家を出るところだったらしい母がこちらに気付いた。
「あらおはよう。早いのね、もう学校?」
「おはよ。ううん、たまたま目が覚めただけ」
思えば平日の朝にこうして顔を見るのは久しぶりだ。
出掛ける時間は合わないし、夜は大抵日付を跨ぐ前には眠ってしまうから、一緒に過ごせる時間は一日にせいぜい一時間程度だ。もう慣れてしまって寂しいともさほど思わないけれど。もう家を出るには遅いくらいの時間なのだろう、慌ただしく準備をする母とは目も合わない。
「そう。悪いけどお母さんもう行くね。朝ご飯はテーブルにあるから。あと、冷蔵庫にゼリーあるから好きに食べて」
「うん、ありがと。いってらっしゃい」
「いってきます。あ、それと」
母は玄関で振り向くと、神妙な顔つきで言った。
「勉強、頑張ってね。お母さんもできる限り協力するから。高校はいいとこ行こうね」
「……うん」
違和感のない返事になっただろうか。自信はない。
それは、たぶん本気で親心のつもりなんだ。私だってわかっている。
それが必要なことだと。私の将来も、もっと近い未来の学校生活も、より良いものになるはずだと。何より、私自身もそれを望んでいるのだろうと、信じて疑っていないのだ。
でも。
今の学校への不満なんて、そりゃあるけど、母には一度だって話したこともないはずだ。母にだけじゃなくて、父にも、担任の先生にも、もちろんクラスの誰かにも。リリにも……あの子はそういうのに敏感だから何か察しているかもしれないけれど、それでも私の口から明確な言葉にしたことは、たぶんない。
当然だ。だって、私自身が理解できてないんだから。
なんだ、これは。この漠然とした窒息感は。夜眠れなくなるほどの不安も食事が喉を通らないほどの痛みも私にはないというのに、それでもずっと胸に痞えている鉛玉みたいなこの感覚はなんだ。なんでこんなに、生きられない感じがしてしまうんだ。
わからない。でも決して好意的に受け取れるものではないことだけは、考えようとするだけでぐるぐるになる頭の中でも自明だった。
はいいろ。
リリがたまに口にするその表現が頭に浮かんだ。そうだと、思った。そうと以外に自分の知る程度の言葉では形容のしようがない感情だった。
そして同時に知る。リリはきっとこの不信感と、あるいはもっと重苦しくて掴みどころの無いものと戦い、恐れ、そして何よりそれを嫌悪しているのだと。
私は。
反芻してみる。私は、まだ眠れている。
でも、この先は分からない。私はどうなってしまうのだろう。この『はいいろ』が動けないほどに積もり積もったら、その時、私はまだ退屈な顔で生きていられるのだろうか。自信はない。
であれば。きっとこの胸の『はいいろ』は毒だ。致死性の、吐き出さねばならない感情だ。
教室の扉を開ける。やはり早く着き過ぎたようで、誰もいない。持ち主は部活の朝練にでも出ているのだろうか、大きく膨らんだ通学鞄が一つ、二つと机の上に乱雑に置かれているだけだ。
最低限必要な教科書だけが入った自分の鞄をロッカーに放り投げる。そこで初めて、読もうと思っていた小説を家に置いてきたことに気付く。
窓の外からはこんな朝っぱらだというのに元気な運動部員たちの声が聴こえてきていた。
ああ、今日もまた、今日という日は投げ捨てたくなるほどに長い。
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