いきぐるしくて

 学校なんてのは退屈だ。

 思い始めたのはいつからだろう。少なくとも中学に入るまではこんなに息苦しくはなかったはずなのに、いつの間にか授業は内申点を確保するためだけの作業に成り下がっていた。

 既に習ったことを塾のそれより遥かに遅いペースで垂れ流すだけの授業に、興味なんてものは湧いてこない。実技科目は嫌いじゃないけれど、運動神経はからっきしだし、音楽や家庭科の授業は得てしてバカな男子たちが喧しくって仕方がない。彼らには内申点なんかどうでもいいんだろうな、と思ったら羨ましさすら感じてくる。

 期末テストの結果が返ってきた。一番自信のあった数学で95点。満点には、いつもちょっとだけ届かない。簡単な計算問題での見落としと、記述式の証明問題での減点。しめて二問ミスの答案用紙は、マルの数よりバツが目立った。

 たぶん、クラスで二位。学年全部合わせたらもっと下だ。せいぜい一桁に収まっていたらいい方だろう。他のクラスにまで目を向ければ、県内トップ校を目指している子だっている。今からなら私だって十分狙える圏内だと塾の先生は言っていたけれど、自分には不相応な目標に思えてならなかった。

「おおー! マリちゃんすげぇ! 97点だって!」

 教室の右後方が騒がしい。大きな声を上げたのはお世辞にも成績が良いとはいえないクラスのムードメーカー的な男子で、手元からひったくられた答案用紙を気恥しそうにしながら取り返すのは保健委員長の相沢さん。注目の的にされつつも上手にあしらう彼女は、なんというか流石だ。ずるい、とすら思う。

 別に、いい。一位じゃなきゃ気が済まないってわけじゃない。そんなことで注目を浴びるなんて私だったら恥ずかしさで死ねる。半ば自分に言い聞かせるようにそう心の中で呟きながら、答案用紙を机の奥に仕舞う。

 テスト問題の解説をする声を聞き流しながらそれっぽくユウトウセイを演じていたら、気付けばもう帰りのホームルームが終わるところだった。

 時間が飛ぶように過ぎる、というのは楽しい時の表現だろうから、この場合はたぶん私の記憶のほうが飛んでいる。授業の合間にあったはずの友達との他愛無い会話の内容も、覚えているような、いないような。

「ね。ユキナちゃん、この後って空いてる?」

 帰り支度をしていると、声が掛かった。視線をやれば、右隣の席に屯していた女子グループの数名がこちらを見ていた。代表して、ということなのだろうか、話し掛けてきたのはその席の持ち主の高崎さんだ。彼女とは一年の時から同じクラスで今も隣の席だけれど、下の名前で呼ばれるほど仲が良かった記憶はない……なんて、流石にこれは口には出さないが。

「ウチらこのあとカラオケ行くんだけど、一緒に来ない?」

「えっと、ごめん。私これから予定あるんだ」

「あー、そっか。塾あるんだっけ。じゃあ仕方ないね」

 どこまで本気で思っているのかはわからないが、高崎さんは落胆の声を出した。「えー残念」と周りの子たちが続く。少しだけ、胸がちくりとした。本当は一緒に遊びに行きたかったとかそういうことではなくて、妙にいたたまれない感じ。例えるなら、そう、嘘を吐いたときみたいな罪悪感。

「今度また誘うね」

 そう言って、高崎さんは周りの数名とともに席を立った。「うん。また今度」と応える私の顔はたぶん引き攣っている。邪推されたくなくて足早に教室を去ったのはむしろ逆効果だったかもしれないと、気付いたのは既に校門をくぐった後だった。


「ねぇリリ。学校は楽しい?」

 ほっぺたを触りながら尋ねると、リリは『ん』と『にゅ』のちょうど中間くらいの鳴き声を出した。「ユキ、手つめたい」と抗議が入ったので、大人しくリリの頭の上に乗せ換える。

「それなり」

「まあそうだよね」

 何かを期待して訊いたつもりはないのだけれど、ちょっとだけがっかりした。そんなものなのかもしれない。思えば昔の自分に同じ質問をしたとしても、同じかもっと可愛げのない返事を寄越しそうだ。

「そういえばリリって授業中どうしてるの?」

「どうしてる、とは」

「やっぱり寝てるのかなって」

「むー、ユキ、しつれい」

 リリが私の胸の辺りを指でつつく。

「ねてない。がっこうはべんきょうするばしょ、です」

「……あんた変なとこ真面目だよね」

「リリはゆうとうせいなので」

 えへん、と小さな胸を張る姿はとてもそうは見えないが、まあ黙っておこう。

「成績いいの?」

「うん」

 当然の疑問として尋ねるとリリは反射の速度で頷いた。が、しばらく何も言わずに覗き込んでいると、観念したように顔をくしゃっとした。

「……さんすういがい」

「はい、誤魔化さなくて偉い」

「むー」

 自白したくせにリリは不服そうだ。

「ユキ、いじわる」

「ごめんって。なんなら今度教えてあげよっか?」

「ユキ、べんきょうできるの?」

「それこそ失礼じゃない? これでも私けっこう成績いいんだけど」

 それ以前に、中学生だし。リリが「ふうん」と気の無い返事を寄越したので、こちらも抗議としてもう一度ほっぺたをむにむにする。人に教える、という意味ではたしかにあまり経験がないけれど、それでも小学生レベルの勉強も教えられない程度では何のために塾まで通っているんだという話だ。

「ちなみにさ、何が分かんない、とか困ってる、とかある?」

「えっとね」

 尋ねると、リリはランドセルをごそごそと漁り始めた。どうやら教科書を探しているらしい。少し覗いただけでも何かのプリントが一、二枚ランドセルの中でくしゃくしゃになっているのが見えて、もうなんとなく察しがついた気になる。

 取り出された教科書は私にも見覚えのあるデザインで、『あたらしい算数 5』と大きく書かれていた。

「ちょっと待って。リリあんた何年生?」

 咄嗟に声が出た。

「ご」

 手をパーの形にして、当たり前みたいにリリは言う。

「へ、へー」

「……ユキ、またしつれいなことかんがえてたでしょ」

 誤魔化そうとした相槌は見透かされた。リリはその眠たそうな瞳でよく人のことを見ている、というのはこの数日でよくわかったことだ。それは当人の性格とか気質というよりは自然動物が生きるために身につけた習性のようなものなのだと、そんな気がしている。

「だってぇ」

「リリをこどもあつかいする、よくない、です」

 言い訳をしようとした声も、つれなく突き返されてしまった。だってそうは見えないんだもの、仕方ないじゃないか。その背丈にしても、顔つきにしても、声も、もう見慣れたそのむくれ顔も。

 まあ、五年生だったとしても「子ども扱いするな」はちょっと無理があると思うけれど。







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