視界はモノクロで
鏡を見る。
慣れというのはあるもので、あれほどダサいと思っていたオールドスタイルなこの制服も、イイとは微塵も思わないとしても、もうなんとも感じない。校則違反だと知りながらもスカート丈を短くしている一部女子たちの涙ぐましい努力は認めるが、生徒指導の先生に捕まっているのを見るたびバカだとしか思えなかった。なにせお洒落を気取るなら前提から崩壊しているのだから。
少し右に曲がったスカーフを几帳面に直す。お手本みたいに整った制服姿は、それはそれで良い子ぶってる気がしてなんか癪だ。
リビングに降りると、人の姿はもう無かった。昨日机に掛けてあった母の上着は既に消えていて、父の部屋からは畏まった声が聞こえている。リモートワークだろうか。そういえば「大きなプロジェクトが始まったから暫くは忙しくなる」と言っていた気もする。
もっと昔は仕事に行く二人を見送るためにと頑張って早起きしていた時期もあったけれど、塾の帰りが遅くなってからはそういう殊勝な考えも無くなってきていた。机には黄身の割れた目玉焼きが二人分と食パンが置いてあって、冷蔵庫から出して時間の経ったマーガリンは端の方がちょっと溶け始めていた。
「やっぱり公立の中学校なんて行かせるんじゃなかった」と母は折に触れて口にする。父もときどき。中学受験に失敗したことをより悔やんでいるのは、間違いなく私よりも両親のほうだ。私自身は、そりゃ何も感じてないと言ったら噓になるけれど、それでも「小学校での縁が切れずに済んだ」とか多少ポジティブに考えているのに。仲の良かった子たちは殆どが同じ中学受験組だったけれど、それはそれとして。
ひどいイジメが横行してるとか、半グレの子が沢山いるとか。入学前に散々聞いた悪い評判は、勿論全部が根も葉もない噂だった訳ではない。でも想像していたほど悪いものでもなかった。普通にしていれば普通の生活を送れる。その程度のものだ。
だから母の言う「私立のほうが良かった」は大体、想像が多分に含まれた希望でしかない。勿論、それが私のためを想うが故に発されている嘆きであることは理解しているつもりだ。けれど、決して多くはない顔を合わせて話せる時間にそんなことばかり言われては、多少煩わしく感じてしまうのも私が悪いばかりではないと信じたい。
家を出るとき、いつもより少し大きな声で「行ってきます」と言ってみた。
返事はない。父は会議に私の声が入ったことを謝っていたりするのだろうか。
放課後、リリはまたいつものベンチの上で寝息を立てていた。昨日の今日だというのに、やはりここで眠る習慣をやめる気はないらしい。詳しく尋ねる時間も勇気もなかったので事情は知らないままだが、それでも、自分の家で眠ることができないというのがただ事ではないことくらいは分かる。リリの安全のためにも良くないのは承知だが、強くダメだと言い切る気にはなれなかった。
だからリリとは「日が落ちきるまでには家に帰る」という約束をした。
正直、気休め程度のものだ。これまでも私が塾から帰る頃にはベンチから姿を消していたので、どれだけ効果があるかは分からないし、約束を守ってくれているかを確かめることもおそらく無い。
そんなことを考えながら通り過ぎようとすると、何か気配でも察知したのか、リリはぱちりと目を覚ました。
「……ユキ?」
「あ」
声を掛けるつもりがなかったことも、たぶんバレた。起こすのも可哀想だと思っただけなのだけれど、何か悪いことをした気分だ。
「なんではやくおこさない。はくじょうもの」
「ごめんって」
にしても薄情者は言い過ぎじゃないだろうか。
「なに、今日はそんなに眠くないの?」
「ねむい。とっても」
「じゃあ無理しなくても」
「や」
リリが首を振ると、まつ毛にかかりそうな前髪が一緒に強く震える。
「そう? ならいいけど」
「ん。じゃあ、ユキはこっち」
リリはランドセルを膝の上に乗せ換え、自分の隣をぽんぽん叩いて示す。「座れってこと?」と尋ねると、リリは強く頷いて「ユキのとくとうせき」と答えた。どうやら一日で随分気に入られたらしい。
「いいけど、私今日もこれから塾だよ?」
「ちょっとでいい、です。ユキがいなくなったらねむるので」
上目遣いにそう言わては仕方がない。「じゃあちょっとだけね」と言いながら傍らに腰を下ろすと、リリはにぱぁと笑顔を浮かべた。本当はこんなこともあろうかと昨日よりさらに早く家を出たのだけれど、それはリリには内緒だ。
年季が入った褪せた青色のベンチは、時期もあってか冷たくて、座り心地はお世辞にもいいとは言えない。よくこんなところで寝られるものだ、と改めて思う。
私が塾用のバッグを足元に下ろすのを見届けると、リリは頭をぽてんとこちらに倒し、そのまま凭れ掛かってきた。
「わ、ちょっと」
「むー、うごかないで」
私の動揺は「いま、だいじなところです」と一蹴された。何が大事なところなのかはさっぱりだし、こういうスキンシップは慣れていなくて困る。
リリは数秒そうしていて、それから姿勢を変えずに顎だけを上げて私を見た。
「うん。きゅうだいてん」
その顔はどこか満足げだ。
「ど、どうも?」
触り心地が、とかそういうことだろうか。尋ねてみても明確な答えは返ってこなくて、代わりにぎゅっと強く腕を掴まれた。私の肩に頬を寄せるその姿は、子供っぽいを通り越して小動物みたいだ。
「リリ、なんかくすぐったいよ」
「いや?」
「……別に、いいけど」
流されるようにそう返してしまったけれど、妙ないたたまれない感じがあるのは事実だった。思えば、こんな風に年下の子に甘えられるのは初めてかもしれない。うちは一人っ子だし、親戚の子供たちも年上ばかり。近所に住んでいる子供たちは数人思い浮かぶけれど、ちゃんと面倒を見た記憶なんてせいぜい登校班の班長をやっていたときくらいのものだ。
この慣れない感覚は、けれど不思議と嫌ではなかった。
「えへ。やっぱり、ユキはまっしろ」
またよくわからないことを言う。リリはもう瞼を閉じていた。リリの枕がいつものランドセルから私に変わっただけのような気がするけれど、本人は満足そうだ。
「それ何? 昨日も言ってたけど」
「まっしろは、まっしろ。これ、せかいのほんしつ、です」
ますます意味がわからない。
答えになってないよ、と返そうとしてやめた。リリの中ではなにか基準があるのだろうが、当分理解できる脈絡のある言葉には変換されそうもない。
リリが抱きかかえる腕の感触がちょっと緩んできた。塾の授業が始まるまでは、もう少しだけ余裕がある。それまではこのまま寝かせておいてあげようか。
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