春の花には優しい嘘を
りつか🌟
本当にいるかもしれませんよ? 春ですからね。
早春のブナ林には柔らかな陽光が
光を浴びる彼女のその姿に一種の神々しさを感じていたのは認める。確かに少し見惚れはしたが、アッシュが息を呑んだのはそれが原因ではなかった。
「春の妖精? 何ソレ、初めて聞いた」
――しまった。
第一にそう思った。彼女の求める最適解が何か、どう答えるのが正解か。判断がつかないからこの話題は避けようと思っていたはずだ。なのについ口が滑ってしまった。
冷や汗が背中を流れていった。うまい言葉が出てこない。
両手を拳の形に握りこみ、はくはくと喘ぐように口を開け閉めしているとネリーが振り返った。その目が丸くなったのを見て、アッシュは一瞬で呼吸の仕方を思い出した。
「すみません……! 昔のことを、思い出しまして」
「……聞かない方がいい話だったら遠慮するよ?」
「そこまで重い話ではないです。その、春の妖精は、以前も聞かれたんですよ。それで姉を怒らせたというか泣かせたというか……」
「え、アディちゃんが怒ったの? アッシュのせいで?」
小首を傾げますます目を丸くするネリー。傍らに咲く小さな花を見下ろしてアッシュは自嘲気味に頬を掻く。ここまで言っておいて今さら話さないわけにもいくまい。
ネリーが歩み寄るのを待ってから、アッシュは「実は、」と口を開いた。
あの日も今日みたいな小春日和だった。暖かなお日さまに誘われてアッシュ少年はウキウキと外遊びに出かけた。同行者は姉のアデレードに親友のセイル、それから彼の兄であるウィルトールだ。ひとり歳の離れたウィルトールはアッシュたち三人の保護者役でもあった。
当時住んでいた街は湖のほとりにあり、少し行ったところに広いブナ林があった。夏になれば緑が生い茂って薄暗くなる林も冬の時期は葉が落ちて明るく見晴らしが良い。
落ち葉でできたふかふかな道を、お喋りしながら気ままに行く。あっちこっちと走り回りながらどちらがより格好いい枝を見つけられるかをセイルと競っていると、突如アデレードが叫んだ。
「ねえ! お花がさいてるわ」
姉に続いて駆け寄ってみれば小さな青い花が固まって咲いていた。丸みを帯びた花びらがなんとも可愛らしい花だ。地面から持ち上がった細い茎の頂点にちんまりとひとつの花をつけた形状はなかなか特徴的だった。だがその花の名称をアッシュ少年が脳内図鑑から見つけてくることはついぞできなかった。
とはいえそこは年の功、九歳上のウィルトールが「春の妖精だね」と口を開いた。
「春が来たことを教えてくれる花のことを『春の妖精』って呼ぶんだ。これは……ユキワリソウかな」
「ようせい!? このお花、妖精なの!? ステキ!」
「そう。――あ、アディ待って。触らずに見るだけにしようか。妖精が寝ているかもしれないからね」
「えっ、摘んじゃダメなの?」
屈みこみ、青い花に手を伸ばそうとしていた少女はびくりと後ろを振り仰いだ。背後から覗きこんでいたウィルトールが「妖精を起こしたら可哀想だろう?」と問えば渋々ながらに了承の声を返した。
「かわいいから摘んで帰りたかったのに。春の妖精ってオネボウさんなのね!」
アッシュ少年はハッとした。花の名前は知らなかったが妖精の語の方は覚えがあった。日頃から図書館に入り浸っているおかげでまさにこの間読んだばかりだ。それで「おねえちゃん、」と声をかけた。
「春の妖精を摘んじゃダメなのは、毒草だからだよ。さわったらあぶないから、だから子どもには『妖精をおこすとかわいそう』って言うんだって!」
――キョトンとした顔で「毒?」と口にしたネリーにアッシュは溜息をもって返事とした。
見下ろせば雪を雫の形に固めて釣り下げたような清楚な花が、枯れ色の絨毯に咲いている。あの日見たものとはまた違う種類だ。けれどこれもやはり毒性のある花。
「全部が全部そうとは限らないんですけどね。ですが有毒のものが多いので触らない方が無難かと思います」
「そうなんだ。可愛い名前がついてるのに毒かぁ」
「わざわざ『春の』とついているのにも理由があって、こういう林は秋になると葉が落ちるので冬から春にかけては太陽の光が地面に届くんですよ。この花たちはそれを利用して成長して、やがて新緑の頃には枯れてしまいます。根だけになって、次の春が来るのを眠って待つんです」
足元の白い花を指しながらアッシュは話を結んだ。短い間だけ花を咲かせる点が儚い印象を与えるところも、『妖精』の名をあてられている所以かもしれない。
毒草であることや花が咲く仕組みは当時の自分には大変面白く、強く印象に残っていた。それであの日は自信満々に語ったのだ。知ったばかりの雑学を披露したかったというのもある。
だが姉は話を聞くやいなや顔を真っ赤にして怒った。「どうしてそんなこと言うの!? アッシュなんて大キライ!」と。
「私の話は姉の求めるものではなかったようです。姉が言うには、春の妖精という名前なんだから『妖精が寝ているかも』『住んでるかも』で終わらせればいいと」
「あはは、アディちゃんらしいねぇ」
「なんでもありのままに答えればいいわけではないと、そのとき学びました。……それがよぎって、さっきは固まってしまったんです。すみませんでした」
口許を隠すように拳を当てつつ謝罪の語はしっかり告げた。
何やら思案げにしていたネリーはおもむろにアッシュの真正面にやってきた。あらたまってどうしたのだろうと思っていると彼女は人差し指を立てた手でピッとアッシュの顔を差した。
「それ、キミの悪いとこ」
「へ?」
「アッシュはなんでもすぐ謝るでしょ。何も悪いことなんてしてないのにさ。言っとくけど、ボクはそういう話大好きだからね。アッシュが言ってくれなかったらその花もきっと触ってたし、もしかしたら食べてたかも」
「えっ!?」
「だからさ、なんでもありのままに教えてよ。その方が嬉しいな」
驚きに固まったアッシュに微笑みを返し、ネリーはくるりと背を向けた。少し離れた場所で両手を伸ばしてうーんと背伸びをし、ゆっくり腕を下ろすと頭上を仰いだ。
「ボクはいいと思うよ、毒から遠ざけるための嘘も。初めに考えた人はきっと優しい人だったんだよ」
「そう、ですね……」
「花も賢いよね。賢いし、
「……どうでしょうか。私は花ではないのでちょっと……」
斜め上の質問が飛んできて後頭部を掻いた。花が嬉しいとか嬉しくないとか、そんなことを考えるのはネリーくらいでは。そう思ったがさすがに口には出さずにおいた。
次の瞬間、彼女はジトっと半眼を閉じた。
「アッシュ。今キミ、ボクが変なこと言ってるなーって思ったでしょ」
「え!?」
「やっぱり。アッシュはなんでもありのままに顔に出るからね。わかりやすいよ」
「はあ、すみません……」
「また謝ってる」
「あ」
思わず顔の下半分を手で覆い隠す。あははっと軽やかな笑い声が林の中に響いた。
「直接言わない優しさはアッシュのいいところかな。正直なところも」
「……そう思ってくれるネリーの方が、私より優しいと思いますよ」
「じゃあ、ボクたちは優しい者同士ってことで!」
にこーっと微笑む彼女の姿が眩しい。
再び駆けてきたネリーに「行こう」と手を取られた。瞬間、ふたりの間を白い光がゆるやかに横切った。
瞬きをひとつ、反射的に目で追いかければそれは白くて薄い
「蝶、ですかね、あれは」
「……ボク、本当に妖精が飛んできたのかと思ったよ」
「案外、いるかもしれませんよ? 春ですからね。いたらどうします?」
「ええ、早速アディちゃんのアドバイスに従ってる感じ?」
悪戯っぽく顔を覗きこんで尋ねれば、くすくすと密やかな笑い声が耳朶を撫でる。アッシュも穏やかに口角を上げ、「そろそろ行きましょうか」とその手を握り返した。
春の花には優しい嘘を りつか🌟 @ritka
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