Depth28 老化の煙
「オト……ヒメ?」
小日向の頭は一瞬、驚愕と困惑の色に染まった。だが、すぐに思考を切り替え、事態に対応すべく身体はすでに行動を開始していた。
「クーちゃんっ!!」
「無駄ですわ。おいでなさいアイオーン」
時を同じくしてオトヒメの横に現れたバディは煙を放出した。その白い煙は小日向を巻き込むように展開されていく。
(この距離ならワタクシの煙の方が速い)
オトヒメこと清華雅は自らの周囲を守る煙を厚くした。放ってくるであろう角もその身に届く前に無力化できる。なにより、この間合いなら小日向がどう動こうと関係ない。命を奪うには充分な量の煙を浴びせることができる。
オトヒメの視界を煙が覆うと同時に、小日向のバディから角が射出される音が響いた。だがやはりその攻撃はオトヒメを捉えることはない。オトヒメの口角がわずかに上がる。しかし、手ごたえの軽さに違和感を覚えた。
(あまり吸っていないようね?どういうカラクリかしら?)
厚い煙が晴れ視界が明瞭になる。
あるはずの小日向の姿は目の前になかった。彼女の能力は角を弾丸のように発射するだけのはずだ。オトヒメは即座に辺りを見回そうと首を大きく動かすが前方にやはり姿はない。後ろ?振り向こうとした矢先、乾いた銃声が響く。すぐさま自動防壁の煙に切り替えるが、間に合わなかった。
しかし、弾丸の軌道はわずかに逸れ、オトヒメをかすめただけだった。彼女は冷や汗をぬぐい、音の出処に目を向ける。小日向は距離にして約7メートルの地点に拳銃を構え立っていた。
あの数秒で何故あそこまで移動できたのか。オトヒメは小日向の様子を観察し瞬時に考えを巡らす。自分に向けたと思われたイッカクの角は、小日向の後方の壁に突き刺さっていた。
「なるほど。その角はワタクシに向けたものではなかったのね」
オトヒメの視線は小日向の血だらけの手に向けられていた。
(やっぱり、外れちゃったか……)
掌に走る激痛に耐えながら小日向は回想した。オトヒメが煙を出すのとほぼ同時、小日向は斜め後方に控えていたバディに角を発射させた。角の軌道はオトヒメから大きく離れた斜め前方。角の回転とスピードを抑え、掴めるようにした。これは数回しか試したことのない緊急の回避手段である。まさに弾丸を掴むような離れ業だ。もちろん心の分身ともいえる自分のバディだから行えたことであり、数多の戦いを経てきた彼女だから成しえたことである。
ただし、それでも代償は大きかった。摩擦によって小日向の手はズタズタになり、血が床に滴っている。利き腕を扱えなくなったことも大きい。小日向は移動した後にすぐさま発砲を試みたが、本来なら百発百中に近い射撃を外してしまった。それに……彼女は咳き込んだ。少なからず煙を吸ったらしい。だが、想定されていたように一瞬で老いて死ぬという訳ではないようだ。
(まずいわね……)
今のを外したとなると、もはや戦闘継続は不可能に近い。連戦の影響もあり、心息も残りわずかだった。
(撃ててあと2回、ってところかしら)
小日向の頭に撤退の二文字が浮かび上がる。本来の彼女であれば間違いなくリスクをおかさず撤退しただろう。
しかし、彼女の頭の中には先ほどの後輩とのやり取りが思い出されていた。力量を超えた強大な心海魚に臆することなく、人命を優先し、命をかけて立ち向かった猪俣の姿。それに小日向は感化されていた。なにより、ここでオトヒメを足止めすることができれば誰かが駆けつけるだろう。彼女を逮捕、もしくは倒すことができれば敵の戦力を大きく削ぐことができる。
オトヒメを野放しにはできない。
(猪俣くんなら逃げない、よね!)
小日向は自らの信条を抑え込み、敵と向き合った。
「手を上げて、床に伏せなさい」
小日向は銃を向けオトヒメに言い放つ。彼女の心にはもう撤退という考えはない。
「TO:八代隊長。NO,NO」
オトヒメの鈴の音のような笑い声が響く中、彼女は小声で囁く。2回のNOのシグナル。これはオトヒメとの接触を意味する。返事はないが届いていると信じるしかない。
(頼るのは得意じゃないけど……八代隊長の能力ならオトヒメとも渡り合える)
それは予め想定していたことでもあった。
「素晴らしいですわね。まさかあの距離からワタクシの煙を避けるなんて……。流石はUCN直属の精鋭部隊グスタフの元隊員……と言ったところかしら」
「よく知ってるわね。そこまで調べてくれたの?」
「ええ、勿論。貴方たちの情報は、とある方からたっぷりと教えていただきましたわ」
「とある方……ね」
それは薄々わかっていたことだ。情報が漏れているとなれば、この事件が発生したタイミングにも説明がつく。だが今はそれよりも、どう彼女を足止めするかだ。情報漏洩については、後で考えればいい。
「あなたの煙、生き物には効き目が薄いみたいね」
小日向はカマをかけつつ思考する。遠距離からの攻撃はあの煙によって防がれる。かといって至近距離に近づくのはあまりにもリスクが高い。消耗戦に持ち込めば、消耗しきっているこちらが不利。適度な距離を保ちながら動揺を誘い、心息をなるべく削る。それくらいしかできそうなことはなかった。
「遅効性、とは考えなくって?」
いや、その兆候はない……。そう思った刹那、オトヒメはおもむろに懐から扇を取り出して走り寄った。
(……想定より動けるわね)
初動が遅れた分、距離を詰められた。だが射程外であることに変わりはない。多少の疲れはあるが追い付かれることはない、はずだった。
オトヒメはアイオーンを置き去りに、自分に纏わせた煙とともに近づいてくる。脚力にそこまでの差はない。何かを狙っている?自らのバディから離れるのは煙の補充ができない分、リスクも高まるはずだ。小日向はこの挙動を警戒しながら策を練る。
最初に小日向が放った弾丸は、外れはしたものの煙によって防がれなかった。先ほどの発砲で怪我を負った状態時の銃の制御も慣れた。どうにか隙を作れれば……。
しかし、その思考を終えて軽く後ろを見た時、オトヒメは彼女の真後ろ、至近距離にいた。その顔には不敵な笑みを浮かべている。
(ありえない!)
小日向を煙が覆った。
「クーちゃんっ!!」
バディを近くに呼び寄せ、咄嗟に息を止める。そして、イッカクの尻尾で自分を後方に吹き飛ばさせた。
「ぐっうぅ……」
小日向は後方に勢いよく吹き飛んだ。だが、彼女自身はギリギリで躱すことができたものの、バディは煙に触れてしまったらしく、心息は大きく削られた。いや、またほんの少しだが煙を吸ってしまったらしい。彼女は咳き込みつつも、すぐに立ち上がり距離を取るべく走る。そんな中でも冷静に小日向は思考を行った。
何故、急にオトヒメは至近距離に現れたのか。直前まで確かに距離はあった。急激にスピードを上げた様な素振りもなかった。だが、突如として目の前に現れた。浮かんでくる1つの仮説。
オトヒメの能力は単なる老化ではない。
佐久間の情報や、被害者の状態からみてオトヒメの能力は老化であるという結論は真っ当だ。しかし、今も訪れない自分への老化の兆候。それに……オトヒメが動画で言い張った言葉。それが仮説の出発点だった。
『この養分たちも、ワタクシのために死ねたのだから喜んでいるでしょうね……ウフフ。ワタクシまた少し若返ってしまったわ』
ただの老化なら被害者を養分とは言わないだろう。そして捜査資料に会った事件以前の写真。今の姿は、彼女の言う通り明らかに若返っていた。あの煙……生き物以外は朽ち果て、生命からは寿命を奪うのではないか。もし奪うタイミングが任意に選べるとすれば、さっきのまるで瞬間移動のような能力も……。
それは明確な真実へと辿り着く思考であり、オトヒメの能力の本質を露呈させるものであった。時を止められた。違う止めたんじゃない。
「時を……奪った……のね?」
ゆっくりと歩み寄るオトヒメは口元を扇で隠すと、鈴の音のような声で言い放つ。
「御名答」
だが、その奥に隠れる顔は、嘲りを含む冷たい笑みを湛えていた。
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