Depth36 正義と悪

 まただ……私はいつも間に合わない。何人かの市民は地上へと連れ帰った。だけど、誰かが本当に助けを必要としているときに私はその場にいない。結果は覆らない。命は、心は戻らない。その事実が、彼女がずっと規範としてきた『正義』と、自らの存在意義を揺らした。だが、この男をここで殺すこと。それは彼女の正義と感情が初めて一致した事象だった。彼女の能力によるものなのか、本当の自分の感情なのかはわからない。でも、委ねて良い。彼女は生まれて初めて、自分にそう許可を出した。


 優音は草場が死ぬ直前に鬼崎を視認していた。すぐに能力アダプトを発動し、瞬間移動を使おうとした。しかし、発動できるまでにタイムラグがあった。その間に草場は死んだ。もう少し早く駆けつけていれば助けられたかもしれない。「だがそんなことは考えても無駄なこと」そう優音の意識は告げる。「それもそうだ」彼女の思考は次へと視線を向ける。いつもならば。


 しかし、鬼崎の持つ世界への憎しみが、込み上げる世界への怒りが、それをさせなかった。彼女は自らの弱さを憎み、理不尽を憎悪し、殺された草場を想い激怒した。あの男が瞬間移動した刹那、彼女も能力を発動した。相手への同調が適応を加速させる。それが彼女の能力だった。


櫟原優音ひらはらゆうねぇ!!」


 鬼崎はその邂逅かいこうを喜んだ。傷を負わされてから、ずっと殺したかった。待ち望んだ瞬間が遂に訪れるのだと。あんな屈辱を受けて、誰かを生かして帰ったのは初めての事だった。彼は傷の痛みなどもう頭にはない。先ほどまでの違和感も一緒に、歓喜と殺意に塗りつぶされた。


「会いたかったぜぇ?ずっと考えてた……てめぇの死に様をなぁ!」


「奇遇ですね!私もずっとあなたのことを考えていました……あなたが無様に死ぬ姿を」


 優音はその言葉とともに、以前ジョーによって付けられたあざの残る腹を見せた。


(治ってねぇ……いや、?)


 即座に彼は理解する。ああ、俺様に会いたかったってのは本当らしい……彼はゾクゾクと湧き上がる興奮が抑えられない。だが、彼女の瞳は前に会った時とはまるで違っていた。この眼。俺様を見下すような……。前とは何かが違う。それは少しだけ不気味だった。


「キングジョォ!」


「ソラ!」


 2人は一斉にバディを呼び寄せた。4つの瞳が交錯する。一瞬訪れた静寂ののち、それを切り裂くように戦いが始まった。

 

 キングジョーの鋭い刃のようなヒレと、鬼崎の握るナイフが優音に迫る。彼女は瞬間移動によって鬼崎の背後に回った。だが即座に響く銃声は空を裂く。


 バディ同士は刀による鍔迫り合いのようにそのヒレ同士をぶつけて押し合っている。ソラの姿は不完全だが肉体を得ていた。それは真っ赤な目を光らせるサメのようだった。


 鬼崎は優音の右後ろからその凶器を振りかざす。


「今日は本気なのね」


 だが、優音はその首に向けられた攻撃を最低限の動きで躱し、左足を薙ぐ。その回し蹴りは左脇腹にヒットし、その威力に彼は思わずえずいた。


(身体能力まで上がってやがる!?)


 素直な驚きが湧いてくる。何よりも思考を読まれたような言い草と反撃が不快だった。この女の能力はただの劣化コピーじゃねぇ。彼から喜びは消えていた。純粋な殺意が彼の心を覆った。それは反射的に攻撃という反応に出る。


「死ねゴラァ!」


 刹那的に振りかざした刃は彼女を捉えていた。今度はあえて首を狙わず、腹部を狙ったその攻撃は確かに命中していた。だが、優音の握るナイフもまた、鬼崎を捉えていた。相打ち狙い……いや、バレていた。読まれないと思っていたその攻撃が、彼女の命を捉えないものだということを。


 鬼崎の首にはナイフが刺さっていた。


(死……死……死?)


 迫りくる真っ黒なそれが彼の心を埋め尽くした。本来は口を通るはずの空気が、喉から抜け出ていく。あふれ出る赤い液体は自分のものらしい。だが現実離れした死と絶望をリアルなものにしたのは、耳に響く甲高い笑い声だった。それは目の前の女から発せられている。その女はまるで狂ったように嗤っていた。


「ああ、気持ちがいい」


 優音は込み上げる笑いが抑えられなかった。初めて知った。心から笑うのはこんなにも気持ちがいいのだと。これが『心』なのだと。ついに成し遂げたのだ。正義を。目の前の悪を殺すことによって。彼女は腹に刺さったナイフを引き抜いて投げ捨てた。目の前で絶望する男が面白くて仕方がない。鬼崎の無様な死……それは甘美だった。


「怖いんですね!死が!あんなに振りまいてきた死が!いや、それとも……私が怖いの?」


 彼女は嗤いながら告げた。鬼崎はクラーケンに接触したときのような根源的な恐怖を感じた。これは、人間じゃない。


「ゆう……ね?」


 後ろから聞こえた声に優音が振り向くと猪俣が息を切らして立っていた。


「私!やりました!殺したんです!」


 だが、猪俣は恐怖に満ちたように顔を引きつらせていた。なんで?彼女の胸に疑問が生じる。恐怖の根源はもう殺したのに。正義を成し遂げたというのに。なぜそんな眼差しを私に向けるの?


(なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?)


 ずっと抑え込まれていた感情の波が押し寄せるように、その疑問は瞬く間に彼女の心を覆いつくした。私は正しいことをした。悪人を殺した。だけど猪俣の向ける彼女への蔑んだような眼。それは昔、クワガタを握りつぶしたときに向けられた眼と同じだった。


「ああ、みんな殺せばよかったんだ」


 彼女は理解した。私の心はずっとそれを求めていたんだと。ずっと正しさを押し付けられてきた。だけど本当は壊してやりたかったんだ。両親も、みんなも、私を都合の良いように形作ろうとしていただけなんだ。

 

「ねえ猪俣くん、そんな目で見るなら……殺しますよ?」


 猪俣は怯え切ったように震えながら、銃口を向けた。それは、笑顔で立つ優音に向けられていた。

 

「お前……おかしいよ!」


「……おかしいのは私じゃないっ!私は正しいこと成した!ジョーを殺した!それを否定するなら……」


 優音も銃口を猪俣へと向けた。


「あなたの方が悪……でしょ?」


 黒い銃口が向き合う。一方は震え、一方は寸分のブレもない。


「櫟原ちゃん!」


「やめろ!櫟原!」


 八代と矢切が駆け寄ってくる。


(なぜ私なの?彼の方が先に銃口を向けたのに)


目に入る全てが敵に見えた。そうか、世界は狂っていたんだ。そう悟る。私が正さないといけないんだ。彼女の瞳は真っ黒に染まっていた。


「それ以上近づけば猪俣を殺します」


 優音は淡々と告げた。正しい世界を作るためだ。悪は滅ぼさなくてはならない。例えC-SOTの仲間であろうとも。

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