Depth25 ガッツポーズ

「猪俣くんっ!」


 小日向は叫んだ。心海魚は相変わらず薄気味悪い笑いを出来の悪いラジオのように垂れ流している。猪俣は奴の後ろ側にいたはず。だが、先ほどの連続噛みつきは視認できなかった。もしかしたら……。


「麗さん!大丈夫です!」


 声が聞こえ、小日向はほっと胸をなでおろした。だが、では何を奴は喰った?


「少年は!?」


「無事です!ここにいます!」


 猪俣は少年を腕に抱えていた。すぐに帰還ジャンプするつもりなのだろう。バショウも近くに呼び寄せている。奴との距離は5メートルほどだ。その距離ならやはりあの結界のような能力はあまり機能しないのかもしれない。あの噛みつきさえされなければ脱出はできる。


「猪俣くん、ジャンプは待って!」


 彼女は気づいていた。奴が喰ったもの。それは推進力をなくして地面に落ちていた銃弾や角、そしてあのベルベットが放った砲弾だ。そして、それらの距離が10メートル前後になった時、奴はそれらすべてに噛みつきを行った。地面が所々えぐれ、その跡はくっきりと残っている。彼女はラブカのような嗤う魚の能力に察しがついた。だが、それは厄介なことを指し示してもいた。


「私もそっちに行く。奴と10メートル以上離れないで!」


「え?了解っす!でもどうして……」


「そいつの能力は、一度近づいたものにターゲットを定めた自動攻撃……今ジャンプすれば2人とも危険よ」


「倒すしかないってことっすか……でもどうやって!」


「考えがある!賭けだけど……やるしかない。合流するまで適度な距離を保って!」


 猪俣は強い意志を持って頷いた。小日向を信頼しているのだろう。彼は少年を抱えて奴の後ろで距離を保ちながら奴の周りを回る。近づこうとすれば反発する斥力せきりょくのような力で押し流されてしまう。それは猪俣も理解していた。


 小日向は「クーちゃん、いくよ」と言ってバディの背に飛び乗り、猪俣たちの方へと向かった。上手く奴の動きを誘導して彼ら2人との距離を保てるようにしている。能力は非常に厄介だが、幸いにも知能はあまり高くない。動きは単調で御しやすかった。コイツをここで倒さなくては、帰ろうにも帰れない。小日向は覚悟を決めていた。


 一定以上近づけないというのはとても面倒だったが、なんとか時間をかけて合流を果たした。3人に向けて深海魚は段々と近づいてくる。少年はもうほとんど昏倒状態だった。ここまで恐ろしい体験をすれば当然だろう。C-SOTの2人とてそこまで心息に余裕はない。猪俣はすでに地上と何度も往復しているのだ。小日向はまだ心息には余裕があったが、時間的な余裕はあまりなかった。それに、もうすでに全員が奴のターゲットになっていると考えられる。もう後戻りはできない。

 

「猪俣くん、バショウの能力で私の弾丸を加速して。奴をなるべく引き付けて、私も全力をぶつける。あの結界をぶち破るわよ」


「強行突破ってわけっすね……上等!僕の一番得意なやつです!」


 彼はそう言って笑顔を見せた。この状況で笑えるというのは、心が強い証だろう。並大抵の者ならば心が折れていてもいい局面だ。疲れを微塵も見せず、底抜けに明るいその姿勢は、この状況で最も重要なことかもしれなかった。頼もしい。彼女は素直にそう思った。


 彼はもともと消防士だった。高校を卒業してすぐに兄の背中を追って入隊したのだと言う。「自慢の兄でした!みんなを助けるヒーローみたいな人で……」そう語る彼は誇らしさと寂しさが入り交じった複雑な表情をしていたことを小日向は思い出す。彼の兄は、猪俣を庇って火災で命を落としたのだと後で知った。彼は自分を責めて、心海へと来てしまったのだ。そして、その心海での事故から命を助けたのが小日向だった。


「君は……最高のダイバーに成れるよ」


 小日向はしっとりとした声でまっすぐに猪俣の目を見つめながら言った。彼の表情はパッと華やぐ。そしてすぐ照れ臭そうに頭を掻くと、「も、もちろんっす!次期エースは僕ですから!」と言ってしっかりと見つめ返した。


「いくよ……次期エースくん!」


 そう言って小日向はラブカに狙いを定める。猪俣は彼女のバディに手を触れて、「加速付与!」と叫んだ。


「あはははあはあはっはははああは!」


 その狂気に満ちた嗤い声はドンドン近づいてくる。あの噛みつきが発動したらいつでも殺されるわね……でも、信頼してくれている猪俣の手前、そんな不安はかき消した。口裂け女のような口が開かれて3人を飲み込もうとする――。


 彼女はさらに心息を込めた。クーちゃんの角はドリルのように回転を始め、次第に加速する。


「「いっけええええ!」」


 2人の声が重なり、その銃弾が発射される。ラブカの能力で抵抗を受けるが、2人の叫びで弾丸も加速した。


 そして、それは奴の結界ごとその全身を貫いた。


「あはあ……」


 奴はびくびくと痙攣し、身体から真っ赤な血しぶきが舞う。そして、嗤い声は止まった。辺りを一瞬の静寂が包む。


「よっしゃあああ!」


 猪俣はガッツポーズをして小日向を見た。彼女も笑顔を向けて彼に近づくと、ハイタッチをした。息を大きく吐き、「よし!」と彼女も小さくガッツポーズをする。


「僕はこの子を連れて一度帰還します!残ってるのは……後1人っすね!」

 

「残りの1人は私に任せて。猪俣くんは戻ったら待機。心息もかなり使ったでしょ?」


「正直、もうくったくたっす!」


 だが、以前のようにガス欠まではいっていないようだ。彼も短期間ではあるが着実に成長しているということだろう。


「じゃあまた後で!よくやったわね!」


「おす!先に戻って待ってます!帰還ジャンプ!」


 猪俣はそう言って元気よく帰還した。多くの人を救えたからだろう、満足気ですっきりした顔をしていた。その笑顔は小日向の胸になぜか強く印象に残った。


 彼女は最後の一人を探して辺りを見回した。「いた、あっさりと見つかってよかった」スタジアムの隅でうずくまっている女性だ。蹲って、髪を結んだポニーテールのうなじだけが見えている。小日向はゆっくりと歩いて声をかける。


「もう大丈夫です。地上へ帰りましょう」


 しかし、その女性は黙ってうつむいたまま動かない。もうほとんど意識がないのか、あるいは、亡くなってしまったのかもしれない。小日向は走って近づいた。


「大丈夫ですか?」


 肩に手を当てて声をかけると、その女性はゆっくりと顔を起こす。「よかった、意識はあるみたい」すぐにクーちゃんを呼び寄せる。


「素晴らしい戦いでしたわ……!お2人とも、とっても勇敢ね……」


 小日向の耳に鈴の音のような美しい声が響く。だがそれは、とても怖気の走る声だった。


「オト……ヒメ!?」

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