第5章 鬼崎恭介

Depth22 津田沼圭介

「Depth10……こんなに息がしやすかったっけ」


 優音は1人、目標地点へと降り立った。今までに感じていた包み込むような不安感は薄らいでいる気がする。最近はもっと深いところにばかり潜っていたからかもしれない。身体が軽く、不快さもあまり感じなかった。こんな緊急事態でも、彼女に動揺の色はない。それが身体にも表れているような感覚だ。


 彼女は周りを見回して状況把握に努めた。真夜中の住宅街。そんな形容が似合う景色だった。街灯が遠くの空に浮かぶ雷雲のように不規則な明かりを灯し、いくつもの路地が人間の営みを感じさせる。もちろん、この場所に人間など住んではいない。その対比が奇妙でアンバランスな不安を呼び起こすのだろう。


「OK?」


 突如、耳に付けたデバイスに声が届く。八代の声だ。どうやら花咲の発明は機能するらしい。


「OK」


 彼女は取り決め通り返事をした。これはテストのようなもので、潜ってすぐの動作確認である。これからの定期連絡が本番だ。起きる事態に合わせて報告をしていくことになる。他の隊員も無事それぞれの持ち場に降り立ったらしく、返事が聞こえた。


 優音は銃を構えつつ、ソラを呼びだして物陰も利用しながら宙からの偵察も行った。自身も慎重に耳を澄ましながら路地を進む。誰かが事故で迷い込んだ、というわけではないだろう。奴らが仕掛けた罠の可能性も高い。あまりにも、狙いすましたかのようなタイミングだった。私たちの情報が流出している……そう想定して動いた方がいい。


「た、助けてくれえぇ!」


 突如として男の声がした。聞き覚えのない声だ。彼女は声の主を探して進むと、そこには膝を抱えてうずくまった人物がいた。電柱の影でガタガタと体を震わせている。パーカーのフードを目深にかぶっており、顔は認識できない。


適応アダプト


 彼女はソラを側に呼び寄せ、彼に向けて能力を発動する。本当に迷い込んだ、もしくは心海へと引きずり込まれた一般市民ならば、『恐怖』や『緊張』、敵であれば『殺意』などが伝わってくるはずだ。


 ドクン。だが、彼女の想定通りにはいかなかった。『認められたい』。入り組んだ感情の中で、そんな想いが彼女の胸に浮かんできた。まだ、どちらとも判別がつかない。心海に迷い込む者は概して強い外への願望と、それの叶わないことへの絶望を抱えているものだ。


「怖い……ここはどこなんだよぉ」


「大丈夫ですか!?保護しに来ました!もう安心してください!」


 彼女は明るく声をかけ、男の前に姿を現した。


「ひ、ひひ人か!?た、助かったのか?」


「ええ。もう大丈夫です。こちらへ来てください!」


 彼女は優しい笑顔をその男に向ける。佐久間から聞いたが、心海魚の中には幻覚のようなものを使って人を惑わす個体も居ると言う。だが、能力が発動している以上その可能性はないと判断した。


 男はきょろきょろとしながら立ち上がり、優音に向かって歩き出した。しかし、ふと足を止める。


「あ、あんた、本当に人間か?ここはどこなんだよ……」


「ここは心海……虚ろな世界です。あなたは誤って迷い込んでしまったんです。私たちはここの秩序を守っています。すぐに地上へ帰れますよ」


 彼女は恐怖を与えないようにゆっくりと近づく。彼も安心したのか、伏せていた顔を上げた。

 

「よ、よかった……」


 しかし、その目はギラギラと血の気を帯びていた。

 

「なあんてなぁ!こい、テトロォ!」


 その瞬間、彼のそばには赤紫に発光する毒々しいハリセンボンのような魚が現れた。それは優音をギョロリとにらみつけ、身体を膨らませる。


 しかし、彼の発した声と同時。一発の銃声が鳴り響いていた。彼は意味が分からないと言いたげな表情のまま、膝から崩れ落ちる。彼の右膝には優音の放った銃弾が命中していた。そして、彼女はすぐにブロック塀の陰に身を退ける。


「なんでだぁっ!」


 『痛み』『苛立ち』が優音の胸にも込み上げてくる。ただ、それに飲まれることはない。呼吸に意識を向け、ただその感情を観察するだけだ。


 なぜ正体がわかったのか。それは彼女が彼の前に姿を現したときに感じたのは『安心』などではなかったからだ。彼が感じていたのは『興奮』。それは本当に恐怖しているものからは感じられる可能性が低い、彼女はそう判断してすぐに撃てるよう準備をしていたのである。


「あなたは津田沼圭介つだぬまけいすけ……ですね?大人しく投降して情報を吐きなさい。そうすればきっと刑は軽く済む」


 そして、一瞬垣間見えた顔で確信した。彼は津田沼圭介24歳。オトヒメの一派に加わったと目される人物で、スマートフォンを落とした青年だ。フリーターで実家住まい。そのSNSの履歴などから、直情的で世間を憎んでいるとプロファイルされていた。


 「なんなんだよ、クソが!クソが、なんで……」津田沼と呼ばれた男は爪をめり込ませる勢いで自らの顔面を掴み、怒りに身を震わせつつぶつぶつと吐き捨てている。「殺せ……殺せぇテトロォ!」彼が叫びを上げると、テトロと呼ばれたバディは身を膨張しその毒々しい無数の針を弾丸のように優音の方へと飛ばしてきた。


 彼女はその射線を回避して退くが、当たったブロック塀は粉々に粉砕されている。手数に加え威力はある。その上、バディ名――フグの毒『テトロドトキシン』からとったのだろう――やその見た目から判断して毒などを持っている可能性が高い。なかなか厄介な能力ではあるが、タネさえ分かれば対処できない相手ではない。攻撃までの予備動作もある。

 

 優音はソラの背に乗ってその場を移動した。彼を視界に捉えられる住居の屋根へと飛び移る。「どこ行ったぁ!?」彼は膝を引きずりながら自らが壊したブロックの方に歩み寄るが、そこにはすでに彼女の姿はない。「ちくしょうっ!役立たずが!」罵声を吐いて周囲を見ているが、焦りなどで視野も狭くなっているのだろう。屋根の方などを見る素振りはなかった。


「OK?」


「OK」

 

 彼女は八代からの定期連絡に小声で返事をする。この相手ならば問題はないだろう。そう判断を下した。彼女の目から見て津田沼は完全な素人である。自分の策がハマらなかったときの取り乱し様や、その後の行動……あまりに心海での戦闘を積んでいない。


 彼女は屋根上から狙いすましたもう一発の弾丸を彼の左膝へと冷徹に撃ち込んだ。彼は「ぐわあああぁあ」と悲鳴を上げてその場に倒れこみ、「痛ぇよおおぉお」と涙ながらに悶えている。戦意も喪失したのか、心息が限界に近いのかは不明だがバディの姿も消えていた。


「地上へ戻りましょう。治療も行えます。ただし、情報を渡してもらってからになりますが……」


 彼女は彼のそばに降り立つと、落ち着いた声で話しかける。カチャリ。銃弾を込めなおす音が彼の鼓膜を震わせる。彼女自身が意識して行ったわけではないのだろうが、それは彼を諦めさせるのに十分な効果を発揮したらしく、もはや彼はただ項垂うなだれるだけだった。絶望感に染まった感情を眺め、彼女は心息を節約するために能力を解除する。


「端的に3つ、質問に答えてください。他は地上でゆっくり聞きます」


 そう言って彼女は少し間をおいてから質問事項を淡々と述べた。

 

「1、この事件の目的は?2,仲間の数は?3、どの地点に誰がいるんです?」


「殺される……殺される……くっそ、くっそ」


 全く話がかみ合わなかった。あまりに追い詰めすぎたのかもしれない。そう考え彼女は戦略を少し変える。


「私はあなたを殺しません。この質問だけ答えてくれれば大丈夫です。後は警察で保護しますから、落ち着いてください」


 だが、それも功を奏すことなく、彼はただ念仏のように「殺される」とひたすらに怯えていた。


「津田沼さん、誰に……認められたかったんですか?オトヒメ?ジョー?それとも……世間ですか?」


「…………」

 

 彼女は突っ伏している彼の背中に優しく手を当てた。すると、ぶつぶつと呟いていた独り言が止み、喉の奥からすすり泣くような声が漏れ出る。


「きっと、やり直せます。だから、教えてください。この事件を止めなくちゃ。あなたならそれが出来るんです」


「お、お、俺は……」


「俺様のを随分と甚振いたぶってくれたようじゃあねえか?クソガキがよぉ?」


 優音はその声に咄嗟に反応して防御の姿勢をとったが、直後に鋭く重たい蹴りがその身を吹き飛ばしていた。ブロック塀に叩きつけられ、一瞬息が止まる。なんて重たい一撃……彼女は血を吐いて倒れたが、よろよろと身を起こした。


「じょ、ジョーさん!?」


 津田沼が発したのは安堵の声ではなかった。驚きの後にガタガタと身体が震え始めている。彼の目線の先にいたのは、金髪の男。黒いタンクトップに金のチェーンをしている。その引き締まった腕にはサメの刺青があり、見下すように笑う口に見える歯はギザギザとまるで刃物のように鋭かった。

 

「津田沼ぁ。お前、喋ってねえだろうな?」


「し、何も、喋ってません」


「そうか、ならいい」


 直後、彼の横にいたバディ、キングジョーによって津田沼の身体は嚙み千切られていた。ボロ雑巾のようにぐちゃぐちゃになった死体が辺りに散らばる。そして、キングジョーの閉じられた口には縫い目がゆっくりと現れて血がぼたぼたと流れ出た。


「さあて、次はお前の番だなぁ?女ぁ!」


 ジョーの甲高い笑い声が響き、優音と視線が交わる。その目は、獰猛な捕食者のように血走っていた。

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