「灰崎！」

鋭い声が教室に響き渡った瞬間、俺の体は反射的に硬直する。ここで名前を呼ばれるということは、間違いなく「アレ」が始まるということだ。

「はい、マルコス先生」

立ち上がりながら答える声が、自分でも情けないほど小さく聞こえた。教室の視線が一斉に俺に集まる。好奇の目もあれば、嘲笑を含んだ目もある。だが大半は「またか」という諦めと軽蔑の混ざった目だ。

マルコス・グリム教授。魔法理論学の教授であり、クリスタリア学園でも指折りの厳格さで知られる人物。そして、俺――灰崎零を公開処刑するのが大好きな人でもある。

「今説明した高位律動変換の原理を説明してみなさい」

教授の細い唇が不快そうに歪む。今日も俺を苛めて楽しむ気満々だ。

「高位律動変換とは、基本律動を複合させ、より高次の魔法効果を生み出す技術で…」

精一杯答えようとするが、教授の冷笑が俺の言葉を遮った。

「理論を暗記しているだけなら猿でもできる。実践してみせなさい。この水の入った杯を凍らせなさい」

教壇の上に置かれた水杯を指さす教授。水を凍らせる――水と風の律動を組み合わせた初歩的な複合魔法だ。普通の学生なら一年生でマスターする基本中の基本。

だが、俺には不可能な魔法。

「申し訳ありません、私には…」

「そう、君にはできない」教授の声が冷たく響く。「なぜなら君は『魔力ゼロ』、我が校の歴史上最低の魔力値を持つ落第生だからだ」

教室に忍び笑いが広がる。俺は両手を強く握りしめた。

「不思議なことだ。名門灰崎家の血を引きながら、まったく魔力を持たないとは。君のような存在は魔法理論上の『例外』と言えるかもしれんな」

教授の言葉には明らかな皮肉が含まれている。俺の家系は代々強力な魔法使いを輩出してきた。父は王国魔法省の高官、母は魔法薬学の権威、三人の兄姉は全員が天才的な魔法の才能を持つ。

そんな家系で、唯一の「例外」が俺だった。

「魔力がないなら、せめて理論だけでも完璧にしておくべきだろう。次回までに高位律動変換に関するレポートを50ページ提出しなさい」

「はい…」

席に戻りながら、俺は教室の空気を感じ取っていた。嘲笑、同情、無関心。様々な感情が入り混じるが、理解はない。

「気にするなよ」

隣の席のトム・フィッシャーが小声で声をかけてくる。落第組の中でも珍しく、俺に友好的な唯一の存在だ。

「慣れてるから平気だよ」

そう答えながらも、握りしめた拳は震えていた。どれだけ理論を学んでも、どれだけ努力しても、魔力がなければ何も変わらない。それが現実だ。

「魔力ゼロ」――その烙印を押されて早二年。

本来なら俺のような「魔力ゼロ」の人間がクリスタリア学園に入学することはあり得ない。この学園は王国最高峰の魔法教育機関で、入学試験では厳格な魔力測定が行われる。通常、最低でも魔力値C以上なければ合格できない。

だが、俺には「特例」があった。灰崎家は王国魔法省に代々高官を輩出してきた名門。父は現魔法省次官であり、学園の理事会にも名を連ねている。その圧力と、「灰崎家の跡取り候補」という肩書きが、俺を例外的に入学させたのだ。

もっとも、入学後に行われた詳細な魔力測定で「魔力ゼロ」という前代未聞の結果が出た時、父は激怒し、事実上俺を勘当同然の扱いにした。今では学生寮に住み、家族との接触もほとんどない。

「どうして俺だけが…」

教授の声が遠くで続いているが、俺の思考は別の場所へと漂っていた。魔力測定で最低値を出し、家族から見放された日。父の冷ややかな目、兄の軽蔑の言葉、母の落胆の表情。全てが鮮明に蘇る。

「今日も授業後に図書館に行くのか？」トムが小声で尋ねる。

「ああ」と頷く。図書館は俺にとって唯一の安息の場所だ。魔力がなくても、知識なら得ることができる。それだけが俺の救いだった。

マルコス教授が次の生徒を指名する声が響く中、俺は静かにノートに向き合った。魔法が使えなくても、理論だけは誰にも負けないようにしよう。それが今の俺にできる唯一の抵抗だった。