第9話

黒い靄がじわじわと広がっていく。

オレはすぐにローブの裾を払って、距離を取った。

このまま悪霊化しちまったら、めんどくせぇことになる。

「……おい、お前」

女の魂はゆらりと揺れながら、ゆっくりオレの方を向いた。

長い髪の隙間から覗く顔は、ぼんやりとしていて表情がわからない。

けど――目だけは、異様なほどはっきりしていた。

まるで、生きている人間のような目。

……ヤバいな。

魂ってのは、死んだ瞬間に"人間らしさ"を少しずつ失っていくもんなんだ。

未練を残してる奴でも、魂の輪郭がぼやけたり、目に生気がなくなったりする。

でも、こいつは違う。

多分…まだ、こっち側に完全に来てない。

「お前……もしかして、自分が死んだことに気づいてねぇのか?」

そう聞くと、女の魂は少しだけ首を傾けた。

そして、かすれた声で――。

「――ここ、は……?」

やっぱりか。

自分が死んだことを理解してない魂ってのは、めんどくせぇ。

普通のやつなら「お前は死んだぞ」って認識させれば大体は成仏し始めるんだけど……こいつの場合は、そう簡単にはいかなさそうだ。

なにせ、もう半分悪霊になりかけてる。

さっさと連れてった方がいいけど…なんか引っかかる。

「……お前の名前は?」

オレがそう聞くと、女の魂はしばらく黙った後、小さく唇を動かした。

「……わかんない」

「は?」

「……なにも……」

自分が死んだことに気づいてない、気づきたくないって魂は時々いるけど、自分が誰か思い出せねぇってのは珍しい。

しかも、こいつの様子は普通の魂とちょっと違う。

まるで、死んだことに気づかないままスルッと抜け落ちたみたいに。

「……お前が死んだこと、確認させてやるよ」

そう言って、オレは境内を見渡す。


――まずは遺体を探す。

自分の死体を見れば、大抵の魂は諦めがつく。

「もう生きてねぇんだな」って理解させればいいからな。

問題は、この女がどこで死んだのかってことだけど……。

――ん?

……おかしい。

どこにも、本体がねぇ。

オレはもう一度、周囲をぐるっと見渡す。

古びた神社、崩れかけた拝殿、苔むした石畳。

でも、どこにも遺体が転がってねぇ。

血の跡すらない。

……いや、そもそも、ここで死んだのか?

「お前、本当にここで死んだのか?」

女の魂は、ぼんやりとオレを見つめる。

「……マジかよ」

こんなの、めったにねぇぞ。

普通、魂は死んだ場所に留まるか、執着のある場所に引っ張られる。

だけど、この女はどっちでもねぇ。

まるで、"ここに置かれた"みてぇに。

――本体がない魂。

――自分が死んだことを覚えてない魂。

……なんか、やばい気がしてきた。

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