第14話 カップル予備軍の行方
爛々と輝く星々が、夜露に濡れた緑を優しく照らしている。
夜の風に乗って運ばれる甘美な花の香りが、じんわりと心を解きほぐしていく。
眼前に広がる静かな湖面は、まるで磨かれた鏡のように月明かりを映し出し、息をのむほどに美しい。
その幻想的な景色を横で、褐色の肌をした青年が静かに見つめている。
頭部から生える、夜空の色を閉じ込めたような角と、吸い込まれそうなほど深い黒色の結膜を持つ瞳が印象的だった。
「でぃ〜あ」
耳に届いたのは、聞き慣れた愛らしい少女の声。その声には弾けるような笑みがたっぷりと乗っている。
でぃーあ。それは、親しみを込めた呼びかけだろうか。
少女の小さな手に握られているのは、鮮やかな色彩を放つ花々で丁寧に編まれた花冠。
彼女はそれを、背の高い青年の頭に、そっと被せた。
青年は、その無邪気な贈り物に、隠しきれない喜びを滲ませ、穏やかな笑みを零した。
突如、何かが途切れるように、ぷつん、と視界が真っ黒に染まる。
そして、次に見た世界は、先ほどの穏やかな光景とは全く異なる、悪夢のような光景だった。
豊かに息づいていた緑は、跡形もなく破壊され、大地は抉られ、黒煙が立ち昇っている。
かつてそこに存在したであろう木々や建物は、無残な破片となって吹き飛び、阿鼻叫喚が響き渡る、目を覆いたくなるような残酷な光景が広がっていた。
「──どうして⋯⋯?」
震える少女の声には、信じられないという疑念、理解を超えた困惑、そして凍てつくような恐怖が深く宿っていた。
体は、まるで操り人形のように無理やり引き摺られる。
激しい痛みが走るはずなのに、まるで感覚を麻痺させられたかのように、何も感じない。
ただ、無力なまま、恐ろしい光景が目に焼き付いていく。
最後に見たのは、可憐な少女によく似た、しかし表情の抜け落ちた女性が言葉では形容しがたい、悪魔としか言いようのないおぞましい存在に──
「──っお母さん!」
途端に、意識が濁流から引き上げられるように鮮明になった。乾ききった喉が、まるで裂けるかと思うほどに声をあげた。
嫌な夢だった。呼吸が荒れる。小さな体に滲む寝汗が、じっとりと不快感を伝える。見た夢はきっと、リンの記憶の断片だったのかもしれない。それは忘れてはいけない。大事な記憶のようだった。
─わたし、殺したい人がいるの。
リンと初めて会った時のあの言葉が頭を過った。
夢に出たあの悪魔のような者がリンの宿敵なのかもしれない。
深い息を吐いて、吸ってを繰り返す。すると、
「──リンたん?」
澄んだ声と、コトリ、と控えめな陶器の触れる音が同時に聞こえた。
爽やかな香りと、鼻腔をくすぐる甘い匂いが、眠りの淵からユウキを引き上げる。
声のした方へ意識を向けると、見慣れた宿の部屋が目に映る。部屋の真ん中に置かれた小さな木製の机の上には、所狭しとお菓子の山と本の山が積み上げられていた。
椅子に腰掛けていたのは、淡い水色のツインテールが可愛らしい、小さな少女──ピコだった。
お互いの視線が絡むと、ピコは手にしていた本をパタン、と音を立てて閉じた。
そして、勢いよく立ち上がる。
大きな瞳をみるみる潤ませ、頬を歪ませ、喉の奥から
「うっ、うっ⋯」と抑えきれない嗚咽が漏れ出す。
「ああああ!リィィィンたぁあああん!」
涙と鼻水で顔面をぐしょぐしょにして美少女を台無しにしてしまう彼女は安定の顔面クラッシャーぶりを発揮する。
迫ってくる顔面凶器にユウキは、危機を感じ、そっとリンの体から距離を取った。
「─きゃぁっ」
寝台の上でもつれ合う少女二人。
「リンたん!リンたん!リンたぁん!」
「わかっ、わかった!わかったから!」
ピコに激しい頬ずりに摩擦されるリンはユウキに視線を向けて言う。
「ちゃんと服着て⋯」
ピコはシャツパンツの姿だった。
リンに宥められたピコは落ち着きを取り戻し、いつもの探検隊の服に手早く着替えながら
「起きてくれて本当によかった。もー、二日もずっと寝たきりだったんだから、心配したんだよ」
と、ピコは安堵の息を漏らした。
「⋯⋯二日も寝てたの?」
確かに、妙に長い眠りだった感覚はある。
あの巨狼との激闘で、心身ともに限界まで消耗したのは間違いなかった。
最後に意識が途絶えたのは、抗えない眠りに落ちる直前、何かに憑依されていた時だったか。
『リンちゃんは無理しすぎたからね⋯』
ユウキの言葉に、リンはどこかとぼけたような表情を返した。その時、何かを思い出したように「あ」と小さく呟いた。
『ユウキくん。わたし、気を失ってたの?』
『そうだよ』
『ねぇ、あの狼はちゃんと倒せたの?』
『うん。皆の協力があって⋯なんとかね』
『その後は?どうやって、ここまで?』
『それは⋯』
そこで、ユウキは首を傾げる。
あの巨狼との戦いは無茶苦茶なリンの捨て身のおかげで何とか勝利に繋がった。
その後は、五人の冒険者(?)が現れて、気を失ったリン憑依した為にどうなったのか分からない。
「そうそう」と、ジャケットに袖を通したピコが明るい声で言った。
「リンたんが目を覚ましたら、受付のタレッタさんのところに来てって言ってたよ。それとね、リンたんをここまで運んでくれた人が、ずっと心配してたんだって」
ピコの言う「その人」というのは、きっとドドン山岳で突然現れた、あの五人組のことだろうか。
「──っ、そうなの?その人に、ちゃんと会って礼を言わなきゃ」
ピコの話を聞いたリンは、勢いよく起き上がろうとして、「うっ」と小さく呻き、よろめいた。
『リンちゃん!』「リンたん!」
ユウキとピコは、慌ててリンに駆け寄った。しかし、先にリンの小さな体を支えたのは、意外にもピコだった。
「だめだよ、リンたん!まだ無理しちゃ!病み上がりなんだから、ゆっくりしてないと!」
ピコは、労わるようにリンを寝台に座らせ、優しく諭した。
「ちゃんと、その人にはお礼はしたから!」
「⋯そういうの、自分からちゃんと言わなきゃだめでじゃん」
「じゃあ、それは今度にするのはどう?ね?」
ピコは、必死にリンに言い聞かせようとしている。
その友を思う気持ちを察したリンは、渋々「⋯⋯うん」と小さく頷いた。
「⋯ちなみに、その人ってどんな感じの人だった?」
「どーいぅー人か〜。黒い服を着てて、ちょっとボケ〜っとしてる、そんな感じの人だったよ」
「黒くて、ボケー⋯」
リンの問いに、特徴の掴みどころのないピコの説明に、ユウキは「ああ」と曖昧に相槌を打つ。
『ユウキくん。何か心当たりあるの?』
『⋯いや、ちょっと目にしたくらいだよ』
『そっか。じゃあ、今度その人を見たら教えてね』
『分かった』
ピコの返事にリンは
「教えてくれてありがとう」
と返し、続けて
「あと、ごめんね?心配かけちゃったみたいで」と小さく謝った。
「リンたんが無事で本当によかったんだから。もう、ピコの知らないところで無理なんてしないでよね!」
ピコは、心配と少しの怒りを込めたジト目でリンを射抜いた。
その視線に、リンは「うう」と小さく身を縮こまらせる。
いたたまれなくなったのか、リンは話を逸らしたいらしく、落ち着かない様子で視線をあちこちに彷徨わせ、やがて机の一点に固定した。
リンの意図を察したピコは、わざとらしく伸びた声で「あ〜、これね〜」と言った。
「リンたんの体が良くなるまで、ゆっくりしてもらお〜と思ってね。そのために、退屈しないようにって思って、色々用意しておいたんだ〜」
そう言って、ピコは先ほどまで読んでいたらしい本を手に取り、リンに見せた。
飾られた表紙には、冒険者の格好をした少女が、こちらにお尻を突き出し、そこから黄色い吹き出しを出しているイラストが描かれていた。
⋯⋯え?
「読んでみて、この漫画。主人公の女の子がオナラで無双していくお話なんだけど、結構面白いんだよ?」
ピコの説明に、リンは「そうなんだー」と軽く興味を示したが、その横でユウキは「何ちゅう本を勧めてんだよ⋯」と盛大に苦笑した。
そんな他愛ないやり取りをしていると、部屋のドアをノックする音が控えめに響いた。
ピコは「は〜い」と、いつもの軽快な足取りでドアの方へと向かう。
扉が開くと、心配そうな表情を浮かべたクリンドの姿が覗いた。
部屋に入り、ベッドに上半身を起こしているリンを見ると、クリンドは全身をわなわなと震わせ始めた。そして、
「ああああ!リィィィン!!」
ドタドタと慌ただしい足音を立てて、リンに向かって抱きつこうと─
その瞬間「ペシーン!」と乾いた容赦のない音が部屋に響き渡る。
「ダ〜メだよ!クリたん!リンたんはまだ病み上がりなんだから!いきなり飛びつこうとしちゃ!」
ピコに有無を言わさず制止され、「うう⋯」と頬を擦るクリンドを見て、
ユウキは「いや、君が言うか」と小さく笑いを漏らした。
「クリンドも、ごめんね?心配かけちゃったみたいで」
リンが申し訳なさそうに言うと、クリンドは訴える。
「ああ!本当に心配したんだよ!俺の知らないところで、また無茶しやがって!」
ピコと全く同じことを言われ、リンは再び小さく首を竦めた。
それからも二人の怒涛の説教が豪雨のように降り注ぎ、ついにリンはぐったりと萎れてしまった。
その様子に満足したように二人が頷き、クリンドが「じゃあ、行こうぜ」と声を上げる。
ピコは「お〜」と元気よく相槌を打った。
そんな二人を見て、リンは不思議そうに首を傾げる。
「どこか行くの?」
クリンドはピコに目配せをし、「まぁな」と含みのある返事をする。
それ以上は何も語らない、そんな雰囲気だった。
「⋯⋯デート?」
「違うわい!」
「そう!!!」
二人の声が綺麗に重なる。
クリンドは鼻に皺を寄せピコの頬を抓ってムニムニと弄んだ。「痛いよ〜クリた〜ん」と、ピコはどこか嬉しそうに顔を歪めた。
はぐらかされた。そんな顔をするリンに、二人は苦笑いを浮かべる。
「じゃあな、ゆっくり体を休めろよ」
そう言ってクリンドが部屋から出て行く。
ピコも続いて「またね〜」とドアに手をかけた。
部屋を出る寸前、ピコはふと足を止め、振り返ると、何かを思い出したように明るい声で告げた。
「あ、リンたんが完全復活した暁には!とっておきのプレゼントがあるから!早く元気になってね〜!」
最後にその言葉を残し、ピタンとドアが閉められた。
騒がしさが消え静寂が戻った部屋で、先の一連のやり取りを見ていたユウキは、小さく「怪しいね」と呟いた。
「⋯⋯うん。すごく、あやしい」
リンもユウキの言葉に同意するように呟き、そして「んんんん〜」と可愛らしい声で唸り始めた。
「気になる?」
「気になる!プレゼントも!それに、二人が何か企んでることも、全部気になる!」
リンは寝台の上で、子供のように手をパタパタと叩きつけながら声を張り上げた。その様子に、ユウキは苦笑する。
「じゃあ、ちょっと様子を見に行ってきてあげようか?プレゼントの方は、きっと二人とも直接リンに見せたいだろうから、それはお楽しみってことで」
「うん。お願い。もし、あの二人が何か危ないことをしてたら、ちゃんと助けてあげてね」
「任されたよ。じゃあ、リンちゃんはオナラ無双女子でも読んで、ちゃんと体を休めるんだよ」
ユウキの言葉に、リンは「はーい」と素直に頷き、早速漫画を手に取り始めた。
その様子を見届け、ユウキは念のため、リンに自身の分裂体をそっと憑依させた。
そして、あのどこか間の抜けたカップル予備軍の後を追った。
転生の出来損ない。霊になった僕は復讐を誓う少女を見守る事にした。 谷 翼 @tani-tubasa
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