暗い浴槽

雲居晝馬

第1話

 佑香が何か特別だった訳ではない。それに、それは誰にでも起こる可能性はあったのだ。しかし、だからこそ、この結末は彼女が望んだことなのだ。


 佑香は22歳で、親の世代から東京に越してきたごく普通の家庭の長女だ。一年前まで同じゼミの男と付き合っていたが、ある事件のあとで別れた。


 佑香は、友達は質より量だというのをモットーとしていたが、実際友達付き合いを面倒に思う時も多々あった。毎日のようにLINEで通話してくる友達を若干鬱陶しく思いながらも、適当にあしらって、趣味のミステリー小説を読みながらソファでゴロゴロする。


 その日も何か変わったことがあったとは到底思えない。いつも通りの道、いつも通りの大学、いつも通りの102号室。佑香が異変を感じるような点はひとつもなかった筈である。


「ゆうかー?そろそろパパ帰ってくるから早く風呂入っちゃいなー」

 キッチンからママが叫ぶ。佑香はイヤホンを外して、スピッツのプレイリストを止める。

「わかった、いま入るー!」


 洗面所に行き、パジャマを脱いでバスケットに入れる。佑香は部屋着とパジャマは区別しない主義である。


 浴室の風呂椅子に座ると、眼前の鏡に全裸になった自分が映った。胸は可もなく不可もない大きさである。腹の周りに肉が付き始めてしまったのが最近の悩みだ。顔には特にコンプレックスはない。というか、もはや気にするのも馬鹿らしくなってしまった。立ち耳なのは少し気になるが、その程度だ。


 お湯でさっと頭と体を流した後、全身をくまなく洗った。髪は特に丁寧にケアする。


 最後にもう一度全身をお湯で流すと、佑香は風呂蓋を退けて、お湯に浸かった。そう云えばついこの間までうちに風呂蓋は無かったのだが、今年の春頃にママが見つけてきてから、うちにも導入された。


 佑香は少時から風呂が好きだった。


 暗闇と狭いところが好き。


 最初は小学生の頃だった。パパと一緒に風呂に入った時に、突然、停電が発生して、風呂場が真っ暗になった。

 灯りという灯りが消えた時に、佑香はこっそりお湯の中に頭を沈めた。それは音も光も無い、静かで暖かい暗闇の世界。ただパパの腕の温もりがわたしを包んで、「あぁ、わたしはいまここで死ぬんだ」と思った。それは何とも云えぬ多幸感と安心感に満ち充ちていた。


 それが佑香の原体験だった。


 頭のてっぺんまで湯船に浸かる。暖かい。五感が鈍ることで、ひたすらに純粋な、或いは原始的な感覚だけが佑香を包む。


 佑香は湯船に浸かっている時、いつも赤ちゃんのことを想像する。いや、想像してしまう。母親の羊水に浮かぶ胎児。羊水は常に母親の体温より少し高いらしい。熱が篭った環境で、赤ちゃんは初めての生きるに出逢う。子宮は楽園で、外は少し怖い。


 お腹の中の赤ちゃんの眼には何が見えているのだろうか?白黒の胎内カメラの画像なら以前見たことがあるが、実際には色付いて見えるのだろうか?緋色?橙色?それとも真っ暗?スマホで検索すれば多分解るんだろうけれど、佑香は心の中のイメージを大切にしたかった。


 佑香は突如思い付いて、浴槽の中に入った状態で風呂蓋を閉める。風呂蓋は二枚の板で構成されており、その隙間からクリーム色の灯りの線が差し込む。風呂場の照明が水面に反射してゆらゆら揺れる。暗いけど、暗くない。


 水面と風呂蓋の間の5cmほどの隙間に顔を出して息を吸う。息苦しい。佑香は魚みたいにぱくぱく口を動かして息を吸いつつも、お湯が口の中に入ってこないよう努力する。


 小学生みたいだ。自分でも少し苦笑いする。


 暗さに少し眼が慣れて、佑香は風呂蓋の隙間を完全に閉める。ガコンと音が響いて、そしたら何も見えなくなった。暗闇だ。驚くことに光は一切侵入してこなかった。動く物も音を鳴らす物もない。ややもすれば本当に時間が流れているのかさえ疑ってしまいそうだ。バシャバシャと水面を打って確かに自分がここにいることを確認する。


 佑香は方位も時間もないその深淵の縁で必死に息継ぎをする。


「ゆうかー、ママちょっと出掛けてくるからねー」


「はーい」


 佑香が返事をする前にガチャリと玄関の扉が外側から施錠される音が聞こえる。


 ほんとに誘拐でもされたみたいだ。


 佑香はママに急かされないのをいい事に、そのまま暫く浸かる。


 暖かい。


 それから数分経って、だんだんのぼせてくる。そろそろ出ようか、と佑香は風呂蓋に手を掛ける。


 ……。


 無反応。少し力を入れる。


 ……。


 動かない。


「え?」


 事態を理解し、一気に血の気が引く。心臓がざわつく。


 いや、落ち着け、そんな筈はない。


 佑香は身体全体を押し付けるようにして風呂蓋を持ち上げる。しかし動く気配はない。押せばどうにかなる、という類いの感触ではなかった。むしろ、元々その形で溶接されたみたいだ。


 棺桶。


 佑香に残されたのは幅5cmの暗闇だけ。暗く、狭く、静か。


 鼓動が激しくなる。息が荒い。思わずお湯を飲み込み、激しく咳き込む。


 口に水が入る。水面が上がっているのだ。


 飲み込まれる。


 佑香は混乱し、窮屈な浴槽の海を踠く。どんどん水面は上がる。もはや正常な判断はできなかった。身体を捩り、ある筈もない抜け道を探る。浴槽の壁に肘をぶつける。鼻に水が入る。もうどっちが風呂蓋で、どっちが底かも解らない。


 佑香は意識を失う直前、生暖かいお湯で満たされた棺桶の中に小さな胎児を発見した。暗闇の中に、なぜかその胎児の周りだけぼんやりとモノクロに灯って見える。


──綺麗。


 それは声にはならない。佑香はそれに触ろうと手を伸ばす。


 あと少しで触れる、というその時、胎児は突然佑香の方に顔を向けた。


 そこには、眼が、無かった。


 佑香は哀しい気分になる。


 去年の秋、亡くなった状態で生まれた我が子。


 暗く、狭く、静かな。


 そして、暖かい……子宮の棺桶で。






「ただいまー」


 佑香の母は30分ほどして帰った。


「ごめんねー、自治会の資料郵送するだけだったんだけど、結構時間かかっちゃった」


 靴下を脱ぎながら洗面所に向かう。


「あれ?佑香まだ風呂入ってんの?」


 彼女はバスケットに入ったままの部屋着を見て声を掛ける。しかし返事はない。


「ゆうかー?あんた、のぼせてんじゃないでしょうね?」


 ……。


 俄かに背中が粟立つ。


「ゆうか!!」


 彼女はやおら浴室の扉を開け、閉じ切った風呂蓋を見て頭が真っ白になる。彼女は恐る恐るその蓋を持ち上げる。


「えっ」


 浴槽の中には、小さな、臍の尾がぷかぷかと浮かんでいた。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

暗い浴槽 雲居晝馬 @314159265359

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

同じコレクションの次の小説